goo blog サービス終了のお知らせ 

諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

108 幸福の種 #7 響きあい

2020年11月14日 | 幸福の種
富士山! 冬 箱根 金時山から

少し単調ですがしばらく続けます。
今回は62~77/288頁を見ていくことにします。

どうやら幸福(≒生きがい)は、食べて命を維持するだけでは満たされない実に多様な要素があることに気づいてきました。
それは同時に、どんな条件下でも個々が努力と工夫しだいで幸福は得られうることのようでもあります。
幸福には、大きさもや重さはないなく、計りにくいようです。
つづけます。

テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房


2 生きがいを求めるこころ
「未来性への欲求」、「反響への欲求」


【未来性と今日】
未来がひろびろとひらけ、前途希望の光があかるくかがやいているとき、その光に目を吸いつけられて歩くひとは、過去にどのようなことがあったにしても、現在がどんなに苦しいものであっても、「すべてはこれからだ」という期待と意気ごみで心にはりをみって生きて行くことができる。

多くのひとは子孫とか民族国家とか文化社会、人類の進歩や発展に夢を託し、それらの大きな流れのなかに、その一部として自己の未来性を感じ、それを支えに生きて行く。人類絶滅の危機にさらされたいる現在では、そうした未来性への欲求がどれほどまでに、はばまれていることであろうか。
そこに現在における生きがいの問題の大きな困難の一つがある。


【「基質」の中で響きあうこと】
子供は最初からひとびとのなかにうまれてきて、その人格はひとびとの相互関係のなかでかたちづくられる。まず他人の存在というものがあって、自我は最初それと渾然一体になっているが、次第に他人との交渉という経験を通して少しずつ自我の輪郭がはっきりと意識されて行く。
彼(テイヤール・ド・シャルダン)によれば、この共同世界は思想という「基質」であって、人間たちはその「基質」のなかに浸って生存し、分業と協力を通して互いに影響し合い、支え合い、人類という大きな有機体を作っているのだという。ゆえに自己の生存に対する反響を求めるということは、人間の最も内在的な欲求と考えられるのである。


今回は、「未来性への欲求」と「反響への欲求」からの抜粋である。
未来性が星を眺めることなら、「基質」へ反響は地上の人間(じんかん)のことであろうか。

未来性については、テキストの書かれた50年前より一層「人類の進歩や発展に夢を託」すことが行き詰まっていると感じる人が多いのではないか。
しかし、実際に「子孫とか民族国家とか文化社会、人類の進歩や発展に夢を託し」ていたのは人類の永い歴史のほんの一瞬なのではないかとも思う。
大味な言いようで気がひけるが、未来性ってもっと近しい実感をともなったものではないだろうか。近いところの質のいい未来性をみんなで探すべきなのではないか。

2つ目の引用の見出しを「「基質」の中で響きあうこと」とした。「基質」を共通文化のようにもったグループに属しそれに浸り、そこで互いが響きあうこと、そこに幸福を感じている人は実際多いことだろう。
このグループ(すなわち「共同世界」)がより良質な「基質」とともにあることが、個々の幸福とつながっていることは別の言い方でも繰り返してきた気がする。
それにしても、短文にしてなんと端的に人間の存在の実態を上手に表した文なのだろう。

質のいい未来性と、良質な「基質」の共同体ということは、幸福論のキーワドになりうると感じる。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

107 幸福の種 #6 変化を求める

2020年11月11日 | 幸福の種
富士山! 冬 丹沢 塔ノ岳から

幸福の種をテキストから拾う作業をしています。
少し単調ですがしばらく続けます。
今回は55~60/288頁を見ていくことにします。

テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房


2 生きがいを求めるこころ
「生存充実感への欲求」、「変化への欲求」

【共通性と個人差】
 生命を前進させるもの、つまり、よころび、勇気。希望などのようなもので自分の生体験がみたせれているという感じを人間はすべて求めていると考えられる。
その欲求の強さには個人差があり、生に対してもともとどん底にできているひとと、つつましやか、またはのんきにできているひとがある。

【精神生活の上の失業】
 ふつうの健康の持主が朝おきて、その日、自分のなすべき仕事は何なのかわからない、という状況にあるとすれば、それだけでも生存の空虚さに圧倒されるにちがいない。
社会生活の上での失業はもちろんのこと、精神生活の上での失業はこの点でなお一層大きな不幸である。

【冒険の原動力】
 幼児がおもちゃでも時計でも、なかに何がはいっているかをしらべようとして、容赦なくこわしてしまう姿を思い浮かべれば、これが人間に備わっている基本的な欲求のひとつであることがわかる。
これが人間を内外の冒険と探究にかりたてる原動力であろう。

【退屈】
 生活に変化がなくなると人間は退屈する。
それは精神が健康である証拠なのであって、心がやむと退屈は感じられなくなることが多い。

【大ていは、】
「何かが起こらなくてならない、―これが人間のおっぱじめの大ていのことの説明さ。何かがおこらなくてはならない、愛なき奴れい状態でさえも、戦争でさえも、死でさえも」
(文中引用 カミユ『転落』)

【「退屈病」がはびこる】
 生活を陳腐なものにする一つの強大な力はいわゆる習俗である。
生活のしかた、ことばの使い方、発想のしかたまでマスコミの力で画一化されつつある現代の文明社会では、皆が習俗に埋没し、流されて行くおそれが多分にある。
かりに平和がつづき、オートメーションが発達し、休日がふえるならば、よほど工夫しないかぎり、「退屈病」が人類のなかにはびこるのではなかろうか。

【「生存の窓口」】
 愛生園の患者の大きな悩みの一つは退屈ということであったが、…窓外の風物のたたずまいや周囲の人々の動きに耳をすまし、自己の内面にむかって心の眼をこらし、そこからくみとる歌や俳句の形で表現し、光を失った目をつぶり、顔をややなな上むきにして、じっと考えながら、ポツリポツリと療友に詩を口授する人の姿。
…肉体的機能が制限されたひとは、かえってエネルギーを注意が許されたせまい「生存の窓口」に集中して、密度の高い精神的な産物をつくり出しうるのであろう。

今回の引用からも学ぶ点が多い。

「精神生活の上での失業」対策が、習俗によって画一的にすすでいくということを1966年に言っている。
生きている間の膨大な時間を「生存充実感」にかえようと様々「おっぱじめる」企画をするのが人なのだが、その質を問うている。

 現在は習俗によって、生活のしかた、ことばの使い方…が画一化されながら、「おっぱじめる」企画さえも商品化されているようにも感じる。
商品化された「おっぱじめ」はすぐに陳腐化するのなら、健全にベクトルを自分の内面にむけることなのだろうか。
それにしても、そのテーマを探すことや、それに向かわせるエネルギーがいるわけだから、幸福(生存充実感)は自家発電機で回す頑張りは不可欠なのだろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

106 幸福の種 #5 生存充実感

2020年11月07日 | 幸福の種
富士山! 晩秋 とても遠いです(看板の左上)。日光の奥白根山から

幸福の種をテキストから拾う作業をしています。
少し単調ですがしばらく続けます。
今回は50~60/288頁を見ていくことにします。

テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房

2 生きがいを求めるこころ 前文から

【食糧<護符】
 南方で敗戦に会い、密林に逃げこんで、草や木の実や魚など辛うじて食いつないで来たという二人の元日本兵の手記をよんでみても、その長い年月の間、彼らの存在を支えて来たものはただ生物学的な「生きる意志」だけでなく、やはり二人の間の共同意識や過去の記憶、未来への希望などであったことがうかがえる。
肌身はなさず大切につけていた護符や心に抱いていた信心も、食糧や物理的な身の安全に劣らず大切な要素であったという。
結局食糧の大切さはただそれだけではあくまでも生理的なもので、身体と精神に低い次元の安定をもたらすだけではないであろうか。

【安定<生きがい】
 もし生きがいへの欲求が単なる社会的適応と安定を指向するものならば、ある集団の枠のなかでこその習俗や道徳にかなった生活様式をいとなみ、対人関係もうまく行けば、それだけで生きがい感がうまれるはずである。
ところが事実はかならずしもそうではなく、生きがいをもとめてわざわざ社会的な安定をやぶることさえある。

【「成功」<経験の「高揚」】
「あなたの行為が他のだれかにとって、いかに「成功」であるかのようにみえようとも、もしあなた自身が経験の「高揚」を感じなければ、それはあなたにとって成功ではないだろう。それゆえに時折われわれからみると成功したようにみえる人が自殺をし、世間が「偉大」であると考えている芸術家なり作曲家なり政治家なりが、人生はむなしい、といってわれわれを驚かせるのである。」
(本文中の引用 アメリカの心理学者キャントリル)


 生きがいは、食糧があることや、社会適応といった条件だけでは満たされない、内面的なファクターが大きいのだという。
神谷さんはその内面の充足感をここで「生存充実感」と名付けている。

 人は自分を生きがい感を単純な生存条件の中だけでなく、自己のこころに自問自答するように探すものであると。
「生存充実感」のために、悩んだり、迷ったりするのは当たり前だということでもあるだろう。

 よく人生を旅の例えたりする。実際に人生に迷いが生じた時に実際に旅に出たりする。
実際の幸福は「幸福駅」のような決まった目的地があるわけでものない。
だから、探すべきものとして幸福(この場合生きがい)は定義されざる得ない。
そのつもりで望むべきなのだろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

105 幸福の種 #4 使命感

2020年11月01日 | 幸福の種
富士山! 冬 富士吉田市街から 大きい!

幸福の種をテキストから拾う作業をしています。
少し単調ですがしばらく続けます。
今回は25~47/288頁を見ていくことにします。

テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房

2 生きがいを感じるこころ

 「使命感」という項から

 もし生きがい感というものが以上ののようなものであるとすれば、どういうひとが一ばん生きがい感を感じる人種であろうか。自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きていいる必要を確信し、その目標に向けって全力をそそいで歩いているひと ― いいかえれば使命感に生きているひとではないか。

 このような使命感の持主は、世のなかのあちこちに、むしろ人目につかないところに多くひそんでいる。肩書や地位のゆえに大きくうかびあがるひとよりも、そういう無名のひとびとの存在こそ世のなかのもろもろの事業や活動に生きた内容を与え、ひとを支える力となっていると思われる。例えば小・中学校の先生、僻地の看護婦、特殊教育に貢献するひとなど。
 しかし、つきつめていうと、人間はみな多かれ少なかれ漠然とした使命感に支えれて生きているのだといえる。
それは自分が生きていることに対する責任感であり、人生においてのほかならぬ自分が果たすべき役割があるのだという自覚である。

 ひとはどういうふうに、あることを自分の使命と感じるようになるのであろうか。性格や生活史のなかからうめれた必然性のようなものから、いわばひとりでに目がある方向え吸いつけられてしまうこともあるだろうし、意識的によく考えて選択することもあるだろう。そこにはまた外側から働く「偶然」との出会いも考えられよう。仏教的な「縁」ということばを使ってみてもよい。

 社会的のどんなに立派にやっているひとでも、自己の対してあわせる顔のないひとは次第に自己と対面を避けるようになる。心の日記もつけなくなる。ひとりで静かにしていることも耐えられなくなる。たとえ心の深いところでうめき声がしても、それに耳をかすのは苦しいから、生活をますます忙しくして、これを聞かぬふりをする。


 「使命感」は、生きがいを感じるキーワードである。
使命感のよって背筋をのばして、障害を乗り越えるファイトも沸いてくる。

 神谷さんは、実は小さな目立たないとこにこそ「使命感」はたくさんあるといっている。
自覚できている場合もあれば、取り組んでいる前提がそれでもうその域をを超えている場合もあるだろう。
もうそれをもってやっているひとは幸福論は無縁なのかもしれない。

 ただ、使命感は「感」なのであって、働きの中でより確かなものとなって現れるのであろう。
歩みをとめるとうすらぐ性質のもののようでもある。
ひたむきにやることその中に美しさを伴った生きがいがあるのではないか。
「そういう無名のひとびとの存在こそ世のなかのもろもろの事業や活動に生きた内容を与え、ひとを支える力となっている」
という。
学校の教育活動も(たぶんどんな仕事も事業も)結局は目立たない小さな働きかけや活動の集積である。改めてチームワークよくひたむきさを励ましあうことである。

 また、一方で、使命感との出合いというのもひとつのテーマである。
書の中では長い模索の時代から何らかの出合を通して、生涯の使命を得た例が文学者の記述を通じて書かれている。

逆にいえば、それだけ決まったプロセスがないのである。

 若いひとたちに日頃接している者ならば、だれでもおぼえがあろう。いったいどうして勉強などしなくてはならないのか、どんな目標を自分の前においたらよいのか、不安と疑惑にみちたまなざしで問いつめられたことを。このような問いに対してどのような態度をとり、どのような答えをなしうるか、ということが親たる者、教師たる者の試金石である。

という。
 つまり、明確な答えを出せないほどに「生きがいを求めるこころ」は多様だし、自分の孤独をかんじつつそれぞれが解を求める性質のものなのだろう。たぶんそれは原理的なものだ。

だから、それが決まった答えが出しにくい実態として、「社会的のどんな立派にやっているひとでも…」という一文になる。

 しかも、仕事感も生活感も変化の激しい時代にあって、若いひとたちの使命感へのアクセスはますますわかりにくくなっている。
「どのような態度をとり、どのような答えをなしうる」かが大人の試金石と言われても難しいのは全シリーズからのテーマそのものに通じる。
 そして、それを得るための無数のプロセスについて次回「生きがいを求めるこころ」に学びたい。 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

104 幸福の種 #3 遊戯、目標設定

2020年10月25日 | 幸福の種
富士山! 秋 国師ヶ岳から あられの後の晴れ間

今回から「生きがいについて」を読み進めます。
なお、「生きがい」=「幸福」か、という議論は少しおいておきます。
印象深いところを引用して、それなりにですが毎回まとめを作ろうかとおもいます。
「…」は省略、( )内は私の補足、引用部分はカラーにします。


2 生きがいを感じるこころ(P.14-25)
  
パスカルのいうとおり心情には理性とはまたべつな道理がある…。なんといっても生きがいについて一番正直なものは感情であろう。

その感情の形成について、

子供にとっては「あそび」こそ全人格的な活動であり、真の仕事、すなわち天職なのであるから、そこで味わうよろこびこそ子供の最大の生きがい感であろう。
…無償の遊戯的活動こそ文化的活動の芽ばえる母胎と考えられる…。たとえば数学的思考といった最も抽象的な知的活動を通して氏(数学者)の歓びが経験されるとしても。これを支える情緒的基盤は少年時代と少しも変わらないと考えてよいだろう。

感情の形成それが生きがいの土壌になる。それは文化的活動、さらには数学者の探求心にまで及ぶという。

人間の活動の中で、真のよろこびをもたらすものは目的、効用、必要、理由などと関係のない「それ自らのための活動」であるという。たしかに何か利益や効果を目標とした活動よりも、ただ「やりたいからやる」ことの方がいきいきとしてよろこびを生む。

でも、「それ自らのための活動」というのわかりやすいが、だれでもそれがもてるものなのだろうか、それを許さない外的内的な葛藤があるはずだ。ま、それは次回以降へ。

このあたりで論旨は方向を変わる。

しかし、希望や信頼の念は必ずしも建設的方向にのみ働くとはかぎらない。

のであり、

深い認識や観照や思索のためには、よろこびよりむしろ苦しみや悲しみのほうが寄与するところが大きいと思われる。

ほんとうに生きている、という感じをもつためには、生のながれはあまりになめらかであるよりはそこに多少の抵抗感が必要であった。
したがって生きるのに努力を要する時間、生きるのが苦しい時間の方がかえって生存充足感を強めることは少なくない。

したがって、ひとはべつに生活上の必要にせまられなくても、わざわざ努力をようする仕事に就き、ある目標にむかって歩もうとする。


人間はべつに誰からたのまれなくても、いわば自分のの好きで、いろいろな目標をたてるが、ほんとうをいうと、その目標が到達されるかどうかは真の問題ではないのではないか。…結局、ひとは無限のかなたにある目標を追っているのだとも言えよう。
(逆に)苦労して得たものほど大きな生きがい感をもたらす、というのは一つの公理ともいえる。

以上、はじめの10頁分からの引用である。

はじめに、少年性のことに触れている。
このことは、現代の生物学者の福岡伸一さんも次のよう表現し子ども達に語っている。

私はたまたま虫好きが嵩じて生物学者になったけれど、今、君が好きなことが職業に通じる必要はまったくないんだ。大切なのは、何かひとつ好きなことがあること、そして、好きなことをずっと好きであり続けることの旅程が、驚くほど豊かで、君を一瞬たりともあきさせることがなないこと。そしてそれは君を静かに励ましつづける。最後の最後まで励まし続ける。
                    (福岡伸一『ルリボシカミキリの青』文春文庫)

子どものころ、それは圧倒的に純粋な好奇心と感受性があって、生きることの軸を自ら会得することがありうるのだろう。
このことは当ブログでも触れてみた(「子ども時代の意味#1~10」)。それは永遠に伴っていく質感のようなものとなって、必ずしも建設的方向に役立つものか分からないけど、彼自身をつくることになる。

しかし、それほど「それ自らのための活動」任せでは生きられない。
次は、苦しみや悲しみを伴う「生存充足感」をあげている。その過程で「深い認識や観照や思索」つまり人間的成熟を得るというだろうか。
そして、それが強いられた苦しみや悲しみでなくとも、人はわざわざ努力する目標をたて、「苦労して得たものほど大きな生きがい感をもたらす」道を選択するという。
さらに「ひとは無限のかなたにある目標を追っているのだ」という構造が公理だとも。
目標に向かえるこころがあることが幸福ともいえるのだろう。その過程で成熟していく?。

強いられたものか否かは別にして、生きがいは苦労を伴う性質のものなら、覚悟しだいで苦労は生きがい(幸福?)に転嫁すると図式的には言えることになるが、どうなのだろう。

次回は「価値」と生きがいについてである。








  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする