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諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

116 幸福の種 #12 まとめ①

2021年01月11日 | 幸福の種
前回の続きで、2泊目のテント 高見岩のテント場。

ここまで11回に渡って、
神谷恵美子『生きがいについて』みすず書房
をテキストとして、幸福について考えてきました。

深みのある内容で、1文ごとに啓発されるようで、
「どこでも、一寸切れば私の生血がほとばしり出すような文字、そんな文字で書きたい」
と著者がいうのが実感されました。
もちろん、まだまだ消化不良のですが、一旦ここででまとめをし、機を見て再出発したい思います。
元来、幸福論は空気のようなところがありますが、まとめは思い切り圧縮して手元におけるようなものするつもりでやってみます。
圧縮の途中で抜けちゃう空気もあることを恐れず。

幸福の種①
遊びや趣味を歓迎する

昆虫採集の世界を知った少年が、その喜びのまま数学者になっていく過程が紹介されていく。
そこには、未知の世界を知っていく冒険心やワクワクした感覚がつきまとい、強く数学者を後押してることがわかる。
このことを神谷さんは「雑じりけのない喜び」と言っている。

ちなみに虫捕りに特化すると、多くの学者が虫捕り少年だったようだ。
その方々の少年時代の話を読み聞きすると、夢中で蝶を追い、枯葉の下を観察する自由な時間があったことがわかる。
また、あるタイミングで顕微鏡を買ってもらったり、特定の植物のあるお宅に入れるよう母親がはなしてくれたなど、こうした冒険心を静かに歓迎するムードがあったこともわかる。すくなくとも周囲は「遊んでばかりで…」という態度ではない。

「夢中で~をする」型のようなものを子ども時代に身に着けることは、見えない線で長い人生のところどころとこの時のワクワクした感覚をとを結びつけるのではないか。

養老孟司さんの虫好きは有名で、現在も採取した虫を観察したり標本にされている。
あるとき、子ども達が寄ってきて、
「なんでお爺さんなのに、虫捕りしてるの?」
と聞かれると、
「そうじゃないよ。虫撮りしているあいだにお爺さんになっちゃんたんだよ」
と答えたという。

幸福の種②
いきいきとした表情をめざす

このことを神谷さんは「生存充実感」と表現し、必ずしもその中には順境な場面にのみ訪れるものではないことをいう。
「生きるのに努力を要する時間、生きるのが苦しい時間の方がかえって生存充足感を強めることは少なくない。」

目標や超えざるを得ない課題を自分のものと受け止め、それに向かって歩む時、強くなるし、自分の新しい面を知ることもあるし、一緒に歩んだ誰かと気持ちを交わすチャンスもあろう。
考えてみると、目標や課題を捉え、それに向かう覚悟を持ち、躊躇しながらも歩みを止めない努力をし、いくつかのミニゴールを経ながら次に進んでいく、そういう過程は人生の実態だろう。
覚悟をもって進んでいく中で、人生のこうした実態に対していきいきした表情(≒生存充実感)で対応できるということかもしれない。
元来、「ひとはべつに生活上の必要にせまられなくても、わざわざ努力をようする仕事に就き、ある目標にむかって歩もうとする。」のであるから、いかに主体的に目標や課題を受け止め得るのかが大きな分かれ道なのだろう。

アサガオはアサガオとして支柱に蔓を這わせ、光合成が最も効率よくできるよう葉をのばす。そういうポテンシャルをアサガオははじまからもっている。
ひとも、ひととして生きるポテンシャルを元来もっていて、それを引き出しうる支柱(目標なり課題)があれば自力で”いきいきとした表情”で登るはず(登るべき)なのだろう。
教師としては、個々のポテンシャルに応じて支柱をタイミグよく、適切な場所に立てることなのだろう。しれが子どもたちの”いきいきとした表情”につながる。もちろん関心をもって見守るという「水」をあげながら。






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113 幸福の種 #11 昇華の過程

2020年12月19日 | 幸福の種
富士山!🈡 春 御坂峠(太宰治が泊まったお茶屋さんがあるところです。)

幸福の種をテキストから拾う作業をしています。
少し単調ですがしばらく続けます。
今回は158~/288頁を見ていくことにします。

今回も7章「新しい生きがいをもとめて」からです。
しばらく、この読書の正念場といえるシリアスな部分続きます。
コロナ禍の中でもあり、ハードな内容ですが続けていきます。
お読みいただいてありがとうございます。


テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房

7 新しい生きがいをもとめて

肉体との融和 

【意識と肉体の相対化】
長い進化の歴史のなかで人間の意識は次第に肉体から分離して来た。そのため、ひとりの人間のなかで精神が肉体を眺め、これに対して隷属、陶酔、受容、反抗、排斥、無視、蔑視などさまざまの態度をとりうるようになって来ている。この分離はいろいろな機会に意識にのぼりうるが、難病にかかったときほど強烈に意識されることはないだろう。たとえばらいのひとならば、彼がこの病気にかかっているとわかったときに他人は彼のそばからあとずさりしただろうし、彼みずからも自分の肉体に対して恐怖と嫌悪を感じたにちがいない。

【肉体への不信】
肉体をうけ入れたといっても、みにくくなり、不自由になった肉体は、肉体としての価値が下落している。その下落した価値がそのまま自己の存在全体の価値を下げているものとしてうけとられれば、どうしても劣等感の生じることはまぬがれない。事実らい患者の間ではこの価値観はなかなかぬきがたいものらしい。これは病気の軽重ということにたくさんの社会的、経済的利害がむずびついているからでもあろう。

【昇華すること?】
人間の存在の価値というものは、人格にあり、精神にある、ともしひとがはっきりと考えるならば、自己の肉体の状況がどうあろうと、これにかかわりなく自己の精神の独立の価値をみとめていいはずである。病者が自己の存在に正しい誇りをもち、自尊心を維持し、積極的な生きがいを感じようとするならば、この道しかないであろう。
しかし、あたまで思想として、考えるのは簡単だが、生存感自体にまでしみこませるのは容易ではないらしく、そこに至るまでには、さまざまな迷路にまよいこむ


※下線は傍点を表す

星野富弘さんは中学校の先生でクラブの指導中の事故で頸髄を損傷、手足の自由を失い、入院中、口に筆をくわえて文や絵を書き始めた。描写する身近な花の絵には背景はなく、花そのものの生と対話するようにを直視しし続ける。

筋ジストロフィーの〇〇さんは、中学部の2年生だった。ステージも進んできて、ますます優しく、明るくなった。ずっとその子といた先生が「神様にちかづいちゃっていく」と言っていた。

病弱特別支援学校の若い先生から、「先日、亡くなった生徒があって、立ち会ったけど何も言えなくて……、どうしたらよかったのかと」と相談された。
「その子の先生として一生懸命そこにいたことに意味があったと思う」といった。それでよかったかわからない。

「生存感自体にまでしみこませるのは容易ではない」という中にある人は強い葛藤の背後にある種の崇高な精神がやどる。
その無垢な輝きはとてもせつなく感じるが、その青い輝きは皆の生を照らしつつこちらに伝わってくる。

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112 幸福の種 #10 悲嘆の行く先

2020年12月12日 | 幸福の種
富士山! 初夏 河口湖から

幸福の種をテキストから拾う作業をしています。
少し単調ですがしばらく続けます。
今回は148~/288頁を見ていくことにします。

今回から7章「新しい生きがいをもとめて」に入ります。
しばらく、この読書の正念場といえるシリアスな部分続きます。だんだん幸福論は範囲が広いだけでなく、深みもあること分かってきました。
この名著の筆者は、
「どこを一寸切れば私の生血がほとばしり出すような文字、そんな文字で書きたい、私の本は。」
いいます。そのことが実感できるものになってきました。

テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房

7 新しい生きがいをもとめて

運命への反抗から受容へ 悲しみとの融和 

【みかぎらない】
 生きがいをうしなったひとが、もし新しい生きがいをみいだしたいとねがうならば、その探求はまずいっさいをみかぎってしまいたいこの心、このはやる心を抑えることからはじめねばならない。すでにプラトンも『国家論』のなかで言っている。
「不幸な時にはできるだけしずかにしているがいい。そして不満の感情はすべて抑えるほうがいい。というのは、こうした出来事のかなにどれだけの善いものと悪いものがふくまれているか、われわれには評価できないからである。また同時に、短気をおこしても何のたすけにもならないからである。」

【悲しみとの融和】
(文中の引用部分 パール・S・バック)
「とにかく、悲しみとの融合の道程がはじまったのでした。第一段階はあるがままのものをそのままうけ入れることでした。…おそらくこの問題は決して変えることのないものであり、決して私から離れ去るものはないし、また誰も私を助けてくれることはできない以上、私はこれを認める外はないと、はっきり自分に言い聞かせた瞬間があったでしょう。(中略)しかし実際問題としてはそこへたどり着くことはできませんでした。私は何回となく泥沼の中におちこみました。」
「しかし、私はその絶望のどん底から這い上がることを学びました。…「これが自分の生活なのだ、私はそれを生き抜かなくてはならないのだ」ということを自分に言い聞かせるることをおぼえたのであります。
「…私が自分を中心にものごとを考えたり、したりしているかぎり、人生は私にとって耐えられないものでありました。そして私がほんの少しでも自分自身から外せることができるようになった時、悲しみはたとえ容易にたえられるものでないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解できるようになったのでありました。」



 河合隼雄さん
「灯りを灯さない方が見えるものがある」
という。
ネガティブな状況でもそれは何かを含んでいるはずだ。
なぜなら「どれだけの善いものと悪いものがふくまれているか、われわれには評価できない」からである。
もともと闇の中では視覚は発揮しにくい。もともとそういうものだと知るといいのだろう。
古代ギリシャの人が「短気をおこしても何のたすけにもならない」という。
どうやらこのことはこんな時の真理にちがいない。時間を感じていたい。

2つ目の引用のパール・S・バックはアメリカの作家である。
「悲しみとの融合の道程」はうけ入れ難きをうけ入れる道程である。
その先に見えたのは「生き抜かなくてならない」覚悟であり、それが何らかの行動につながっていき、「少しでも自分自身から外せることができるようになった時」道程の景色は変わってくる。

その変化は「何よりもまず時間の経過と生命力であろう」と神谷さんは言っている。
ある禅僧は、「あきらめる」とは「あきらかにみる」ということだという。

ちなみにその後のパール・S・バックは、
「最初の夫との間に知的障害を持つ一人娘キャロルがいるほか、その後は子どもの産めない身体になったために、6人の孤児を養子として自らの手で育て、(中略)国際的な人種を問わない養子仲介機関であるウェルカム・ハウス(Welcome House)も設立している。」という。(ウィキペディアから抜粋)



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111 幸福の種 #9 幸福の対極から

2020年12月05日 | 幸福の種
富士山! 春 鳳凰三山 薬師岳 から

幸福の種をテキストから拾う作業をしています。
少し単調ですがしばらく続けます。
今回は142~/288頁を見ていくことにします。

今回から7章「新しい生きがいをもとめて」に入ります。
変化の激しい状況にあって、子どもたち(私たち)は現在、未来とも必ずしも順風な時ばかりではなく、思いもつかないことに遭遇するでしょう。
「32 「坊ちゃん」のその後」にあるように、時代に翻弄される個人がどう未知の状況に対峙し幸福の種を見出すのか、そうした観点で読みたいと思います。


テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房

7 新しい生きがいをもとめて

自殺をふみとどままらせるもの

【時間と再生】
生きがいをうしない、絶望と虚無の暗い谷底へおちこんでしまったひとの多くは自殺を考える。…
生きがいをうしなった人間が死にたいと思うとき、一番邪魔に感じるのは自己の肉体であった。しかし、実際はこの肉体こそ本人の知らぬ間にはたらいて、彼を支えてくれるものなのである。さらにいうならば、その生命力の展開を可能ならしめている時間こそ恩人というべきだろう。自殺未遂者の大多数(80%)はあとで「死ななくてよかった」といい、大部分(75%)がその理由として「心がまえが変わった」と述べた調べがある。


【好奇心、反骨?、生命観】
ウイリアム・ジェイムズは「人生は生くるに値するか」という文章のなかで、たとえ宗教や哲学をもってないあいひとでも、自殺一歩手前というところで、次の三つのものによってふみととまることができるはずだといっている。
第一は動物ですら持っている単純な好奇心で、人生にまったく生きる意欲を失った人間でも明日の新聞に何が載るのだろうかと、次の郵便でなにが来るかを知るためでも(自殺を)あと24時間のばすことができる。
第二は憎しみや攻撃心であって、たとえ心のなかで愛や尊厳のような感情が死んでいても、自分をこんなひどい目にあわせるものに対して戦おうという感情に支えられつこともできる。
第三は名誉心で、自分というものの存在を可能ならしめるためには、どれほどの犠牲が払われたか、たとえばどれほどの動物が自分を養うために虐殺されて来たかを考えれば、自分もまた自分の分を果たし、これくらいの悩みは耐え忍ぼうという気をおこすのがふつうである、といっている。


【仕事に向かうこと】
「人間の苦しみには際限がない。「もうこれで海の底へとどいたーこれ以上の深みに落ちることはない。」と考えていると、また更に深みに落ちて行く。こうして永遠に続くのだ。…
苦しみも克服できるものだという私の信条の記録を残さないで私は死にたくない。私はそれを確信しているのだから。…
生は一つの神秘だ。恐ろしい苦痛もやがて衰える。私は仕事に向かわねばならない。私は自分の苦悶を何ものかになげこまねばならぬ。それを変化せしめねばならぬ。「悲しみも喜びに変えられるべし」。」
(キャサリン・マンスフィールド)


今回の内容からこの本は深みが増す。
生きていることの一筋縄ではいかない部分に立ち入っていく。
核心部でもあるがブログの紙幅にあまるので、最小限の引用になる。

自殺を思う時は、もっとも幸福とは遠いところにあるだろう。
止まった時間の中では、氷ついた自分しか感じられない。皮膚の冷たさがすべてである。時間軸が思い出せない。
氷がとかせなくとも、「君は動かなくても氷はとけてくるよ」と囁くのは、第2者ができる最善のことかもしれない。
また、氷をとかす熱源は意外に近いところにあるとことをジェイムズは示唆している。具体的だ。

「私は仕事に向かわねばならない」というマンスフィールドは肺病の療養中の言葉であるという。
そういえば、ベトナム戦争を従軍するように取材した開高健はよく色紙に
「明日、世界が滅びるとしても 今日、あなたはリンゴの木を植える」
と書いた。
そういう覚悟によって「心がまえが変わ」るのであろう。

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109 幸福の種 #8 忠誠と宿命

2020年11月21日 | 幸福の種
富士山! 冬 三つ峠山 ここも有名な富士山展望地です。 

幸福の種をテキストから拾う作業をしています。
少し単調ですがしばらく続けます。
今回は72~77/288頁を見ていくことにします。

今回も欲求というものと幸福(≒生きがい)とを考えます。

テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房

2 生きがいを求めるこころ
自己実現への欲求 自由への欲求 意味と価値への欲求


【その場で生きる決意】
たとえ宿命的と形容されるような境遇にあっても、いっさいを放り出してしまおうか。放り出そうと思えば放り出すこともできるのだ。放り出して自殺やその他の逃げ道をえらぶこともできるのだ。そういう可能性を真剣に考えた上てその「宿命的」な状況をうけ入れることに決めたのならば、それはすでに宿命でもなく、あきらめでもない。一つの選択なのである。そこにはもうぐちの余地はない。そしてぐちこそ生きがい感の最大の敵である。

【自己への忠誠】
本質的な自己を実現して行くには多くの努力と根気が必要とされる。その結果、この目標が少しでも達せらるならば、そこにはすべてを圧倒するようなよろこびが湧きあがるであろう。…
「業績への欲求」とか「自尊心を維持する欲求」などを人間の基本的欲求のうちに数え上げてる学者もあるが、これも根本的に似たところがある。いずれの場合にも、他人の眼に対しての業績をあげることや自尊心を保つことが第一の問題ではなく、何よりも自己に対して、自己を正しく実現しているかどうか、に関係して欲求であると思われる。
もしこの意味で自己にもとっているならば、外面的、対人的にどんな立派にみえようとも、心の底にはやましさの意識がひそんでいて、心の眼はーそしてしばしば肉体の眼までも、自己をも人生をも正視することができなくなり、横眼づかいや上眼づかいをするようになる。いきいきと、堂々と歩いて行くためには、どうしてもひとは自己に忠実に「そのあるところのものになる」必要がある。

【性格の要素】
ひとは自分でもそうと意識しないで、たえず自己の生の意味をあらゆる体験のなかで自問自答し、たしかめているのではなかろうか。そしてその問に対して求める答えは、どんなものでもよいから自己の生を正当化するするもの、「生肯定的」なものではなくては生きがいは感じられないのであろう。
この肯定の答が簡単にえられるひとは生きて行くことがらくであり、たのしみにちがいない。…ところが、ひとによっては性格の出来が複雑で、劣等感を抱きやすく、他者からの肯定もうけ入れられず、自分で自分の生意味をみとめることもできず、一生をこの意味への探求に苦闘してくらすひともある。


わずか数ページの中に一見矛盾した部分を引用した。
「自己に忠実」であろうとすると「宿命」は受け入れがたいということになるだろう。

しかし、実際はこの2つはリアルな問題である。
前回のキーワード(質のいい未来性と、良質な「基質」の共同体)に続いてこれも幸福論の対抗軸なのかもしれない。

多くの仕事や日常の諸事は意思や希望に関係なく「せざるを得ない」ものと感じるものである。
現実の中に縛りつけられて、それでもそれらを生きるために気持ちに鞭を打って頑張っている時も少なくないだろう。
「宿命」をうけ入れることはそれに対する積極的な答えである。
「多くの努力と根気が必要とされる」本質的な自己を保留しながらも、「宿命」をうけ入れることに路線変更するのである。
そして、その時のこころの変化を成熟と言ったりするのだろう。

しかし、一方で現実に即しているとふと、自分を見失っている感覚も出てくる。
「何よりも自己に対して、自己を正しく実現しているかどうか」という問いである。
そんなうねりがある。

ただ、もともとの「自己への忠誠」の内容が粗略だとずっと自己肯定感は得られにくい。現実に即して生きていくことの代償が「(「自己への忠誠」への)諦め」となることは避けたい。大事にしている「自己への忠誠」が自己肯定感につながらないのは幸福ではない。これは教育の問題でもあろう。

「ひとは自分でもそうと意識しないで、たえず自己の生の意味をあらゆる体験のなかで自問自答し、たしかめている」という。私達は小さく一喜一憂して暮らしている。そういう起伏が絶えずあるのだろう。

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