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諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

103 幸福の種 #2 続 はじめに

2020年10月17日 | 幸福の種
富士山! 秋 奥秩父 甲武信岳からの朝焼け

「はじめに」の2回目となります。繰り返しで恐縮ですが意図をわすれないために書いておきます。

ー本文ー
前回のケンちゃんのクラスの先月の歌は『アイスクリームの歌』である。

「おとぎ話の王子でも、むかしはとても食べられないアイスクリーム、…僕は王子ではないけれどアイスクリームを召し上がる…」

むかしは王侯貴族でも得られないおいしいものを僕でも食べられるわけである。

「舌にのせると……、喉を音楽隊が通ります」

というのだから僕はこの現代が開発してたお菓子を文字通り謳歌している。
アイスクリームとの出合いは僕にとってエキサイティングなできごとだったのだろうと想像したりする。

調べるとこの歌が出来たのは1960年ごろ、60年前の少年だったのだ。
その後はというと、コンビニができ、グローバル化が進んで、深夜でも「ハーゲンダッツ」をいくらでも買えるのだからエキサイティングな現代のギフトはまだ成長し続けているのである。

同じように、自家用車だって、エアコンだって、スーパーマリオだって、Amazonだって、オンラインミーティングだって、「むかしはとても食べられない」ものの仲間である。


60年前の少年の興奮のあと、さらに技術開発があり、グローバル化して、エネルギー開発と供給手段も飛躍的に進んですごい勢いで「アイスクリーム」は増え続けている。
それはコマーシャリズムの明るいノリで浸透していき、私たちは「むかしはとても…」どころではない絶えまないエキサイティングで便利な世界に生きている。

そして、これらの新規なことごとは次第に日常化していき、それ自体は刺激的なものではなくなっていきながら、さらに開発は進む。
後には開発して当たり前のものとしてマインドセットされ、仕組み化されたものにコストだけは支払わねばならない。

このことについては、GDPの総額とエネルギー消費量とは比例するとか、産業構造、二酸化炭素…、そんな問題が社会的に言われるが、見えにくい問題として、大きなコスト(代償)の割には効率よく個々の幸福感にはつながっていないのではないか、ということである。
世界の幸福度ランキングはかなり低いし、あるアンケートには「未来は今より悪くなる」と感じている人が80%以上あった。自死者もまだ少ないとはいえない。

それは、生活自体の実質が変化した影響か、人間にある“業”や“欲”の問題なのか定かではない。
ただ、物質や変化による高揚は、自他の幸福に対する想像力や創造性を弱める傾向があるように思う。
こうした豊かさは、どこか刹那的であるということかもしれない。

このシリーズは、生きることへの地道な努力とそこから生じるであろう幸福について改めて考える。
もちろん、そのことはすべての子の教育にあてはまる「長期目標」(前世代の願い)にかかわることでもある。


もっとも、ユートピアの語源はウ・トポスというラテン語で、「どこにもないところ」という意味だそうで、一方、メーテルリンクの青い鳥は近くにいるという。いずれにしても目を凝らす程度では見えそうにない。
ま、ブログで考えるいいテーマかもしれません。


さて、テキスト、

神谷美恵子「生きがいについて」みすず書房

を柳田邦男さんが次のように解説している。

「いったい私たちの毎日の生活を生きるかいあるように感じされているものは何であろうか。ひとたび生きがいをうしなったら、どんなふうにしてまた新しい生きがいを見出すのだろうか」
神谷美恵子はつねに苦しむひと、悲しむひとのそばにあとうとした。本書は、ひとが生きていくことへの深いいとおしみと、たゆみない思索にささえられた、まさに生き思想である。


神谷さんは精神科医である。
らい(ハンセン氏病)の国立療養所に滞在した時の経験と調査とが本のベースになっている。
その時の調査アンケートには「将来になんの希望や目標を持てない」という記述が多い一方で、
「ここの生活…かえって生きる味に尊厳があり、人間の本質に近づき得る。将来…人を愛し、己が生命を大切に、ますますなりたい。これは人間の望みだ、目的だ、と思う。」
という入所者もあったという。
「同じ条件のなかにいてあるひとは生きがいが感じられなくて悩み、あるひとは生きるよろこびにあふれている。この違いはどこからくるのであろうか。」
と、本書の冒頭にある。

1966年の著作から、得たいことは多い。


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101 幸福の種 #1はじめに

2020年10月03日 | 幸福の種
富士山! 秋 南ア 仙丈ケ岳から北岳、間ノ岳と

「32 「坊ちゃん」のその後」というページがあり、おかげ様でアクセス数が多い。
テーマは時代の変化である。
明治生まれの坊ちゃんの世代が、その後、激しい変化の時代を生きることになることを誰も予想できなかったであろう、という内容である。

文化人類学では一世代を30年のスパンで考えるという。
これに沿って4世代をさかのぼる。2020年生まれ、1990年、1960年、1930年。世代間の環境の変化は大きくて、前世代が努力によって得た「生き方」は30年を経て異なる状況なっている次世代には生かされにくいことは誰でも具体例で考えられるだろう。
こんな状況が何世代も長く続いているのだから現代の教育が難しいことは巨視的には当然であるとも考えられる。
だから、忙しく10年おきに学習指導要領が更新される必要もある。
変化は必ずしも進歩ではない。
そればかりか変化の激しさの中、実際はいろいろな困難なことが起きていることは「そこら」で感じる。
それも含めて家庭も学校もつぎつぎにくる変化への対応に追われる。

もちろん、教育(家庭も学校も)は、変化だけを追ってるわけではない。
一方で普遍的なものを保っている。
子どもの側にたった営みと言ったらいいのか。それは変わらない。
学校で言えば学校文化といってもいいようなものかもしれない。

そしてその普遍性の根底にあるものは、
「どんな条件下であっても子どもたちは、幸福であってほしい」
と願う前世代の保護者や先生達の自然な感情である。

そんな、両面を教育はもっている。

さて、前回のシリーズ?で「第4の教育課程」というものを考えてみた。
学校は機能としての目的があることと、そこにいる生(なま)の子を相対してみたつもりだ。

そして「予測が困難な時代」(学習指導要領)にあって、この子たちはどう生きるのか、そういう観点から考える枠組みとして「第4の教育課程」が必要ではないかと。
そこで今回、子ども達と「幸福」について考え、「第4の教育課程」の内実としていきたい。
変化への対応に対してと幸福論を軸とした教育の普遍性について。
幸福は単なる客観的な物質条件との相関性とは。

テキストを設ける。

神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房

名著ながら、こんな機会でないと読みにくい本でもあり、ゆっくりと進めたい。

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