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諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

125 「余白(スペース)」をもって接すること

2021年03月07日 | エッセイ
道 夏の大雪渓 白馬岳に続きます

NHKに視点・論点という番組があり、伊藤亜紗さん(東京工業大学 准教授)が障害をもった人とのかかわりについて語っていた。
タイトルは、
「多様性と利他」

要点は次のとおり、

多様性という言葉をよく聞くようになった。それは、かねこみすずさんの「みんなちがって、みんないい」という言葉に表されるようにだいぶ一般に浸透してきている。

ところが、障害当事者はこの言葉をあまり使わない。障害者と呼ばれる人達は、障害者である部分の他にもたくさんの面をもち、健常者と違う部分だけを特に意識はしていないことが多い。
だから、多様性という言葉は、それぞれの差異を認めようとする一方で、「ひとはひと、自分は自分」といった、両者の共通点を飛び越えて、お互いを干渉しないようにしようという意識につながるのではないか。
実際の障害のある人も(ない人も)、父親だったり、会社の上司だったり、ある専門分野だったら先輩だったりする。
人は、「ひとりひとりの中に多様性」があると言える。

そして、お互いのかかわりあいとして大切なことは、
障害者の障害部分だけを意識して、利他的に「してあげる」のでなく、障害者の中の多様性に信頼をよせながら付き合うこと。
つまり、ひと(この場合障害者)は自分には知らない部分をもっている、という敬意をもって接すること。
そうすればもっと多様に「その人」のことが見えてくる。
別の言い方をすれば、
Be your whole self を実現できるよう「余白(スペース)」をもって接する
ことであり、そのことは、
双方にとっても真の利他的な行為につながる
ことなのではないか。


と続く。
以上は、わずか10分の番組の中での講話であるが、興味深い発想であると思いこのブログに記録したいと考えました。

当たり前の感想として、学校では、子ども達を、教育の対象と見るから、一方的な「利他」を教師は働きがちなのかもしれず、子ども達との関係の間にもっと余白(スペース)をもつべきなのではないか、ということだろうか。
だが、投げかけている「ひとりひとりの中に多様性」の尊重というのは、他者意識の根源としてもっと大きなことを意味しているようにも感じる。

ちなみに、伊藤亜紗さんは、生物学者をめざして文転し、美学、現代アートの先生だという。
こういう視点から障害をもっている人とのかかわりを考える発想は興味深い。

著書、『記憶する体』(春秋社)はその視点でのケーススタディー。
(この本を紹介して下さった読書会諸氏に感謝します!)


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124 感想の表裏 B面

2021年02月28日 | エッセイ
道 雲取山 有名な防火帯にそって

つづけます。

感想のB面。
元気で楽しい授業」について考えたコメントは以下の通り。ま、ボツ原稿なのですが。


教育がまだ人の営みの中で未分化だったころから人々は共同体の中で助け合いながら生きてきました。暮らしを維持するためには昔も今も頑張る必要もあったでしょう。
狩猟・採集の時代は、村の誰かが
「いくぞー」
といって森へ獲物を求めて仲間を誘っただろうし、
「はい、これもって」
と言って採取した植物を入れる籠を配った誰かがいたでしょう。
その中に赤ちゃんがいて、籠を渡されたお母さんに代わって、
「ほら、行ってきて、赤ちゃんみてるから」
と言った年寄りもあったでしょう。

共同体の実際をよく見ると、力を合わせるというが、自然発生に行われるのではなく、それを支える推進者がいたと思われます。
つまり、
一緒にやろうよ!
と声を掛ける人です。
そして、それを理解したり、気持ちを共有したものが、
「わかった、やろう」
と呼応して、穏やかだが、規律性のある共同体は維持されてきたと思われます。
そこで、老若男女がそれなりにくらしてきた。

「一緒にやろうよ!」
という提案によって、人が動き、それによって心身共に人は変わっていったことでしょう。
それが、自然な形での“教育”といってもいいかもしれません。
そして、そんな光景を目にしながら、肌で感じながら子ども達は、共同体の一員としての自覚と技能を身に着けていったことでしょう。
「一緒にやろうよ!」と声を掛けられるのを待ちながら。

このことは、もちろん近代以前だけの話ではありません。
世の中にあるすべての組織そのものの成り立ちが、誰かによる「一緒にやろうよ」が起点になっています。この学校だって誰かかが「ここに学校をつくろうよ」と周囲に言ったにちがいありません。
身近なところでも、家族・友人で楽しく過ごすためには誰かが「一緒にやろうよ」の声を掛けなきゃはじまりません。
そして、気持ちが一致して、あるいは理解が進んで、
「じゃ、やろうか!」
となった時、身近な共同体も、生気を帯びてくるものです。

「一緒にやろうよ!」
という小さな掛け声が社会や人々の暮らしを発展させ、豊かにしていくもともとの原理だと思います。
コロナの中で現在、「一緒にやろうよ!」が言いにくく、したがって違和感を抱える人が多いといわれています。

幸い学校は開かれています。
授業の中で、学校生活の中で、子ども達には、明るく、楽しくしく「一緒にやろうよ」と誘ってあげるといいです。
もちろん「一緒にやろうよ!」はインクルーシブ社会の根本でもあります。

明るく、楽しい授業の中には、先生の「一緒にやろうよ!」というメッセージが詰まっています。


という原稿ですが、早々に断念した。
「一緒にやろうよ!」も、(あまり大風呂敷で)相手がもてあましては「じゃ、やろうか!」にはならない。そこが難しいところである。(了)


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123 感想の表裏 A面

2021年02月27日 | エッセイ
道 南アルプス 夜叉神峠から鳳凰三山へ 5月

若手の先生の研究授業が行われ、生徒下校後にその授業についての話し合いが行われた。

授業は、細部に指摘はあったものの、元気で楽しい授業で、見ている全員が自然に好印象をもった。

元気で楽しい授業

話し合いの席上、このことに触れて話したかったが、他の先生のコメントとのバランスあってややフォーマル?なコメントを述べた。


「特別支援学校は、子ども達の発達や障害の状況に個人差があるから、大きな原則はあるが何をどんな活動を通して教えるか、ということから考えて授業をつくるのが特徴です。そこが、小中高等学校のいわゆる“定型発達”と言われる子ども達の教育課程と異なる点です。」

「したがって、授業を作るには、日々子ども達と係る中で感性を働かせて、今の彼らに何こそ必要なのかを発見することがとても大切です。いわば子ども達の中に教育課程を見出すことでもあります。」

「この子には、今これが必要だと感じて単元を構成し、授業の準備ができた時、話し方、教材の提示の仕方、子どもからの発信を待つこともにも確信がもて、子どもの心の動きとともに展開する授業ができると思います。」


このコメントがこの若い先生の授業づくりに今後生きてくるのかどうか分からない。
でも、協議会の席上、言っておく必要はあろう。
毎回、授業へのコメントは、行き先を案じてしまう。

ところで、案じてしまって?(もちろんそれだけではないが)結局触れなっかったのは「元気で楽しい授業」についてである。
なんで、みんなそのことに好感をもっちゃうんだろう、ということだ。

「元気で楽しそうでいいですね」という感想で十分であるとも思うのだが。
感想のB面に続く。
               
                      (つづく)




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122 主人公

2021年02月21日 | エッセイ
道! 信濃川上村。 左右は高原野菜の畑です。

小説家の遠藤周作さんのことだからずいぶんと前の話になる。

遠藤さんは熱心に劇団を主宰していた。
「樹座(きざ)」といった。
オペレッタを上演するこの劇団は、全員舞台の経験のないアマチィアがキャストを務めた。

オーディションには毎回大勢の人が集まった。
こんなにもステージに上がりたかった人が多いことに遠藤さんも驚いたという。

それもそのはずで、キャスト以外のバックのメンバーはプロできちんとオペレッタを成功させるべき準備されていた。しかも会場は帝国劇場なのである。

「みんな、舞台にあがりたいんですよ」
と遠藤さんはいうが、気兼ねなくアマチィアが集まったのにはユニークな工夫がある。
合格基準を、
「音痴であること」
としたのである。

審査員の前で歌を披露した参加者には、合否が発表されるのだが、そういう基準だから、不合格者は結果に納得し、逆に合格者は苦笑いしていた。

果たして、稽古で磨かれた「樹座」の公演は好評だったらしい。
素人(で音痴)であってもステージにあがり主人公となったとき、何らかの魅力を発し、見るものにもそれが伝わった。

その後、公演は遠藤さんが亡くなった後の追悼公演を含めて22回も行われた。

当時、ラジオ番組に出演した遠藤さんは、劇団のことに触れ、少し小さな声で、
「でも、なんですなー、音痴はいつまでも音痴ならず、ですなー」
音痴を惜しむかのように言っていた。




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114 山登りについて2 テント泊の夜明け 前半

2020年12月26日 | エッセイ
「幸福の種」は、少しお休みです。

八ケ岳、渋の湯温泉から黒百合ヒュッテを経て、白駒池に向かうルートも11月末には登山者が少ない。
萌える若葉も、賑わいの夏も、紅葉の彩もない。

それでもこういう時期の山をあえて歩きたいと思うのは、登山好き嗜好である。かっこよく言うと飾っていない時期の山も知りたい。
八ケ岳は想像どおりの表情だった。

テント泊のための18キロのザックとともに凛と引き締まった冬の空気の中を出発する。
山道は葉の落ち切ったオブジェのような落葉樹と越冬に備える常緑針葉樹とが混在している。その間を風が通る。
足元も枯葉と霜が混ざって注意がいる。
寂寞として山は人の進入に対して歓迎ムードではない。

黒百合ヒュッテ①に着くと、寒暖計は氷点下5度。急登後の汗が、休憩した途端に冷えて急激に体温を奪っていく。
ヒュッテにザックを置いて、阿弥陀岳と硫黄岳②を眺めるべく、小丘に登るが、激しい風は吹きつけ、低い太陽の下に黒光りした山が見えるが、とにかく容赦ない風が冷たい。
「そうだよね」
と独り言。

テント場である白駒池までのルートも、特徴のない樹林帯の中、入り組んだ根っこをよけながら下り基調の薄暗い道が長い。
重いザックの左右の揺れるのを感じる。午後になってから逆方向から登ってくる登山者と会わなくなった。
「これがこの時期の八ケ岳か」

中央高速道路から見る「眺めた八ケ岳」とは違う現実がある。
この山は太古富士山のような大きな活火山であったという。それがながい歳月を経て風化浸食され今の形がある。
広大な山麓は火山性の地質で覆われおり、位置関係でも内陸部に単独であるため、雪がすくなく、風が強い。
こうした条件でも適応した動植物がそこに生息して、美しいといわれる現状が平衡されている。
「行楽シーズン」というのは、そういう自然の事情と人間とが折り合いやすい時ことなのだろう。

11月末はあまり折り合っていない。

白駒池③についた。
夏は観光客がボートを浮かべるこの池まで息をひそめて自然に返っている。
水面は薄氷が張っており、湖畔の枯れ枝を映すこともない。寒さにか細い夕日がさしている。

ここで小さなテント④と氷点下10度まで耐える(はずの)シュラフで明日の朝まで過ごすのである。
なんとも心もとない気がしてくる。
「こういう山の表情を実感するために来たんだ!」
という思いと、
「だからといって敢てここまでこなくても…?」
という心の天秤が揺れはじめる。

夜半、テントが揺れる。テントの生地がはためき、木々がざわめき始める。
「風が出てきた、それにしても冷えてきたな」
と独り言。なにしろ薄いテント生地の外は八ケ岳の11月下旬の事情ですべてがまわっている。
八ケ岳の事情がこちらの事情とは折り合わないことがこの寂しさと不安ということだろう。
そのギャップをテントとシュラフという道具が埋めてくれていることが実感として分かる。
動物として人間はなんと無力なのだろう。
そんなこと日常考えたことがなかった。

                   (つづく)

※ テントは管理テント場に設営、緊急時は通年営業の管理小屋に避難できるようにしています。念のため。
 また、今年はテント場の感染防止の観点で閉鎖だったり予約制になっており、山小屋自体も休業中のところが多数です。

黒百合ヒュッテ① 有名な通年営業の小屋です。


阿弥陀岳と硫黄岳② 寒くて退却




白駒池③ ”にゅう”からの展望




テント④ 広いテン場ですが、私のほか1張だけでした


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