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諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

179 石垣と楠木

2022年08月07日 | エッセイ
テーマ設定の山 甲武信岳山頂! 何度か立った山頂ですが、いつも新たな感慨があるものです。テント、重かった分?。

司馬遼太郎さんが『街道を行く』の中で山口市を訪れ、ある老舗の旅館に逗留しているくだりで、こんなエピソードを紹介している。

(旅館で供された)その菓子(ういろう)を1口食ってから、
「おかしいところがありませんね。」
といった。風間さん(旅の同行者の挿絵の作家)は、
「宿というのはね‥。」
と言う。
「一代や二代の宿屋の主人がえらくたって、こうはいきませんよ。何代もかかっておかしいところを直していかなきゃこうはいきません。それも雑な土地じゃぁだめですね。雑じゃない土地でなきゃこういう宿は出来上がりませんね。」
とも言った。
「これで長州の気分が少しわかりましたよ。」
と言った。

いかにも司馬さんの紀行記らしい引用だか、NHKによって映像になったものを見ると、たしかにきちんと時を経てきた旅館の居住まいがいい。


こういう感性で、訪問する小中学校を見ると、これと似た感慨をもつことがしばしばある。

その時を経てきた感じから、60年以上も前、小学生だったおじいちゃんやおばあちゃんもが毎朝通ってくる姿をこの校門横の楠木は見ていただろうし、お父さんやお母さんも登ったりしたであろう石垣は、今も小学生の元気に応えていて、教室は、時々の地域の子ども達をうけ入れ、壁には子ども達の歓声がしみ込んでいる、なぜかそれが実感されたりする。
「雑な時間を経ていたら、こうはいきませんねぇ」
現在も安心で安全な学校づくりのため地域の方が交差点に立ち、ICT教育によってさまざまな機材が、特別講師とともに加わわたり、PTAには新しい委員会ができたりしている。

そして、その雰囲気は、一種の文化財のように各地域、各学校に蓄えられている。

全国の沢山の学校でこういう伝統をもっているように思う。

ところで、今、VUCA(予測困難で不確実、複雑曖昧)な時代にあって、OECD(経済開発協力機構)は「ニュー・ノーマル(新常態)の教育」という概念を提唱してきている。
教育のグローバル化の流れである。
そして、その主たる理念として、「開かれた意思決定を行う」という方向性が示されている。教育の責任の所在の変更を促している。

伝統的に、教育政策に関する意思決定や学校での判断等は、例えば政治家や行政官、教育学者、あるいは校長や各授業を担当する教師など、限られた人によって行われる傾向があった。例えば、カリキュラムの大枠は国が定めて、具体的なカリキュラム内容を学校が決めることが多く見られるが、そうなると、例えば、政府や学校などの個別の意思決定の妥当性について、決定を行った国や学校の責任ばかりがクローズアップされるようになってしまう。しかしながら、意思決定に対する責任を追及しても、それが次への改善につながらない場合も多く必ずしも生産的ではない。ニュー・ノーマルの教育では、限られた人だけが意思決定を行うのではなく、雇用者や保護者、生産や生徒や地域の人々など多様な関係者が意思決定に関わり、責任を共有していくことがより重要になってくると考えられる。
(白井 俊『OECD Edudation2030プロジェクトが描く教育の未来』ミネルヴァ書房)

筋の通った考え方だが、“おらが街の学校”はもともとそういう立派な伝統をもっているように思う。
「このことは、世界に誇れることと言っていい。」
と、司馬さんは言うように思う。




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152 手作りの価値証明

2021年09月05日 | エッセイ
絵地図 三島宿から箱根峠までの箱根旧街道図です。この奥に平行して、推定鎌倉古道という街道もあります。

今回、「廃仏毀釈」について触れようと思っている。
もちろん、そんな専門性はないから、少し取り上げる程度だが、ある程度「廃仏毀釈」について調べ直す必要がある。

そして、当然のようにネットの虫めがねの四角の中に「廃仏毀釈」と打ち込むと、わずか0.31 秒で約 442,000 件が検索され、関連文書、画像、動画までもが、手数料も待ち時間もなく、目の前に出現する。
「でも、それは玉石混交で…」と考えて、Google Scholar で論文検索すると、ここでも、1060件が検索される。

同じことを国会図書館までいって、図書リストから調べてというと気が遠くなるほどの時間がかかるから、ネットを利用しない人がいたとしたら相当なアマノジャクである。

こんな例からも分かる通り、キーワードなどの短い言葉にできうるすべての対象に対して加速度的に情報収集が進んでいる。
そして、そのワードと同じように、全世界の個人個人についても同様に、多様な情報がデータとして蓄積されつつあるという。
現に「あなたにおすすめする商品」のリストは、これでの買い物履歴のが反映されて少し気持ちが悪い。検索キーワードも個人と結び付けられて蓄積されていると聞いたことがある。そんなことがあるのかもしれない。

そして、個々人の膨大なデータからアルゴリズムと言われる解析を通じて、いろいろなステージの「状況」や「未来」が想定される。
この中に個々人の教育のあり方も含まれてくることを研究者も指摘し始めている。
遠くない将来、個性や能力に応じた教育方法が、カーナビが直線的に、経済的に合理的な道順を教えるように「あなたにおすすめの教育」として示されるようになるかもしれない。少なくとも、ある教科に絞れば実用は可能な段階が近いのではないか。

そして、そのビッグデータと「人間味」を利かせた演算をおぼえたアルゴリズムが、瞬時に「個別教育計画」をはじき出し、教員の水準を疑問視しはじめていた自治体は、保護者の了解をえつつ、これと契約し、導入する運びになるかもしれない。

以上の空想は、加速度的にAI化が進む状況について述べた書物、論調を参考にしたものだ。実際、どこまで現実があるのかは分からない。

しかし、少し空想が過ぎたかもしれないが、もしこんな時代がくるとすれば、子ども達に寄り添いながら、カーナビのルートから外れて、寄り道したり、遠回りしたり、戻ったり、場合によってはスピードを上げたりする日々の手作りの教育実践が、演算的に処理できない価値に満ちていることを表現できる方法が必要になってくる気がする。そうでなけらば、データ主義の説得力のあるITによって教育の大枠が定まってしまうのではないか。

文明開化の明治時代の変わり目で「廃仏毀釈」が運動化して各地で石仏が打ち捨てられた。他にも西洋文化崇拝の風潮の中で見捨てられていた古来の美術作品がたくさんあった。価値のあるものをしつかり
確認しないと、変化の中であさっり無価値のように扱われかねない。




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145 カスタマイズのちから

2021年07月18日 | エッセイ
絵地図! 八ケ岳 県界尾根ルートへのマップ。マイナールートで、さすがにこれだけだとわかりませんでした。

 「カスタマイズ」という言葉をはじめて聞いたのは、中古車ディーラーだったようの思う。
「割安な中古車にして、カスタマイズして乗るのも車の楽しみですよ」
という。
好きなように部品を足したり、付け替えたりして自分好みの車に仕上げていくことが楽しいというのである。
その後、パソコンやスマホも壁紙を変えたり、アプリを入れたりしてカスタマイズしていたりする。

山登りでもそんな感じでカスタマイズしている人がいる。

 一番多いと思われるのが、写真好きである。
一眼レフに望遠レンズをつけて雄大な山岳写真をねらう人、逆に足もとの草花を接写するために身をかがめている人も見かける。写真といってもさまざまだ。
 展望のいいベンチでリュックザックからコーヒーセット一式をだして、本格的なドリップコーヒーを入れている人もある。水は途中の沢で汲んだ天然水のようだ。
 ハードな山登りを望む人はトレールランニングの軽装で稜線を駆け、はたまた一般ルートでないところを好んで登る人もあり、泥だらけになって山小屋にたどり着いたところを見たことがある。
 反対に、「あの人、2週間前、この先の湿原の花を見るために来たんだけど、少し早かったんで、今週また休みとって登ってきたんですよ」と親爺さんが教えてくれたその山小屋は麓から5時間の高所なのだから、タフな“詩人”がいるのである。
 そして、私のように気分転換と運動不足解消という人もある。

 山登りというと、頂上に到達することが目標のような印象を受けるが、カスタマイズの仕様によって山から受けるものは多様である。
 そう考えると、ひたすら高い山に挑戦することなど多様性の中の一部のように感じる。
 個々人がどうカスタマイズするか、である。

 学校に時々阪神ファンの卒業生がくる。母校の施設を利用してサークル活動をしている。
「先生は巨人ファンか。やっぱり坂本はいいよねぇ」
「岡本も育ってきたしねぇ」
「でも、やっぱり読売は地力があるね。もう追いついてきちゃった。」
といって、タイガースのキャップの下でニコニコしている。
そんな他愛のない話に愛嬌がある。
進路担当に聞いてみると、順調に仕事も頑張っているという。

それぞれの生活を上手にカスタマイズしてくれるといい。

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127 続 閲覧御礼!

2021年03月21日 | エッセイ
道 上高地から横尾に向かう平坦な道 ここを歩くだけで十分いいです。

お礼のつづきです。

学校の教育活動で経験すること、研修や、本、講演会で学ぶことは多様です。
その都度、これは大切なことだと思うことを頭の中に付箋のメモとして残していくと、日々の実践面での実感や疑問がどんどん付箋になって貼られます。そして、研修や読書でも知識や疑問が投げかけられ、それも付箋として心に貼りついていきます。

この付箋がたまっていく状況が私(達)にとって学びなのか?

付箋が飽和して、貼る隙間がなく、本当は二重丸つけて貼っておくべきことも、「あれと同じだな」とスル―してしまうことも出てきます。

経験や知識の付箋に覆われて心がかえって酸欠になってしまうもあり得ます。
付箋がふえることが学びではないとしたらどうするか。

そこで文章化するとどうなのかと以前から予感はあったのですが、毎週、ブログを書いていて、やっぱりそうかと思いました。これら片々の付箋がまとまりを作り剥がれていくような快感?です。

ちょうど、研究会でよくやる付箋のグループ化の作業のように、片々の付箋は大きな価値のグループのディテールとして位置づく感じです。

もちろん、その作業はいつも手際よくできる訳ではありません。付箋が多いなりに、そのグループ構成に異議を唱える付箋も現れます。そうするとまたグループの組み直しが必要です。
そこを何度か練り直しつつ、グループ化することで、少しは普遍性のある価値ができる気がします。

それは価値がある?と言ってすぐに役立つ類のものではありません。しかし、様々な場面での判断や教育活動の振る舞いの根拠になっていくようには思います。第一、懸案が書かれた貼りっぱなし付箋がとれていって楽になります。
(それがすなわち“諦めない教育原理”だ!など言う力はありませんが)

こんなことなので、作業は個人的なもので、あくまでブログ界の片隅を一教師がお借りしている感じです。しかし、個人的と言っても読んでくださる皆さんがあって、難航するグループ化の作業も進むのですから個人的と言い切れない気もします。おかげ様で、ブログ商店街の小さなショップに商品?もならべられるわけです。
せめて拙文が皆さんのお役にたっていればいいのですが…。

前回の最後に、感じることもあると書きました。

それは、SNSの一角であるブログのモラルのことです。
本ブログは、抽象的な教育論が中心ですが、イメージが膨らむように若干事例を扱うこともあり、そこは特に注意が必要です。
言葉は言葉として無所属なうちはいいのですが、特定のどなたかの心に個人の問題として、(誤解も含めて)つながってしまっては大きな問題です。
匿名で言論を発することにもいささか抵抗がありますが、言葉のリスクを抑制する意味でも無所属の透明度があった方がいいようです。
このことは特に要注意!と思っています。

読んでくださり有難うございます。

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126 閲覧御礼!

2021年03月14日 | エッセイ
道 秋の南アルプス北沢峠 仙丈岳と甲斐駒ケ岳の基地としてにぎわいます

おかげさまで、本ブログも2年間つづきました。
修養のつもりとは思いながらも、読んで下さる方があっての連載と実感しています。
お読みいただき有難うございます。

「学び続けること」は教師にとって大切なことですが、何をどう学び続けるのかは少しむずかしい。

学校で行わる研究は直接教育実践にその成果を出しうるし、学び合う雰囲気を作ることにもつながりますから、これが学びのベースかもしれません。

ただ、少し長く教師をやっていると、いろいろ学んだことが蓄積され、片々だったことが時間を超えてまとまることがあります。「学生の時、講義で聞いた“あれ”が“これ”なんだ」と思う時のような。

すると、片々は一つにまとまり、すとんと心の中で結実します。
それがたぶん「身になる」瞬間なのではないかと。

ところが、個人として「身になった」内容は、ほぼ発表する機会を持ちません。
ごく親しい同僚に話す程度でしょう。

かつては、教師の勉強会(サークル)があちこちで自主的に行われていたように聞きます。たぶんそんな場が、中堅以上の教師を育てる場だったように思います。
サロン的な雰囲気の中、議論を交わし認識を確認しあったのでしょう。
ところが、最近はめきっりそんな対話の場がない。

だからと言って、帰りがけのロッカールームで、
「ねぇ、先生。僕「幸福の種」について考えたんだけどォ…」
なんて話かけたら、
「ちょっと!、急ぐんで!!」
と恐ろしい末路をたどります。

それは極端ですが、学びの結実したものをもっと出す場があるといいです。
意見を出すことでさらに理解が深まるし、関心がある人があればなおさらいい。

「だったら、本にでも書いて出版したら」
ということがありますが、実際、本を書くのも、出版するのも大変な労力がかかります。
そして、出しても、500部も売れないようです。

そこで、ブログというわけなのです。
2年間の実験の結果は、修養として大変有効だったといえます。
ただし、感じることもあります。

                   (つづく)

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