諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

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2021年03月14日 | エッセイ
道 秋の南アルプス北沢峠 仙丈岳と甲斐駒ケ岳の基地としてにぎわいます

おかげさまで、本ブログも2年間つづきました。
修養のつもりとは思いながらも、読んで下さる方があっての連載と実感しています。
お読みいただき有難うございます。

「学び続けること」は教師にとって大切なことですが、何をどう学び続けるのかは少しむずかしい。

学校で行わる研究は直接教育実践にその成果を出しうるし、学び合う雰囲気を作ることにもつながりますから、これが学びのベースかもしれません。

ただ、少し長く教師をやっていると、いろいろ学んだことが蓄積され、片々だったことが時間を超えてまとまることがあります。「学生の時、講義で聞いた“あれ”が“これ”なんだ」と思う時のような。

すると、片々は一つにまとまり、すとんと心の中で結実します。
それがたぶん「身になる」瞬間なのではないかと。

ところが、個人として「身になった」内容は、ほぼ発表する機会を持ちません。
ごく親しい同僚に話す程度でしょう。

かつては、教師の勉強会(サークル)があちこちで自主的に行われていたように聞きます。たぶんそんな場が、中堅以上の教師を育てる場だったように思います。
サロン的な雰囲気の中、議論を交わし認識を確認しあったのでしょう。
ところが、最近はめきっりそんな対話の場がない。

だからと言って、帰りがけのロッカールームで、
「ねぇ、先生。僕「幸福の種」について考えたんだけどォ…」
なんて話かけたら、
「ちょっと!、急ぐんで!!」
と恐ろしい末路をたどります。

それは極端ですが、学びの結実したものをもっと出す場があるといいです。
意見を出すことでさらに理解が深まるし、関心がある人があればなおさらいい。

「だったら、本にでも書いて出版したら」
ということがありますが、実際、本を書くのも、出版するのも大変な労力がかかります。
そして、出しても、500部も売れないようです。

そこで、ブログというわけなのです。
2年間の実験の結果は、修養として大変有効だったといえます。
ただし、感じることもあります。

                   (つづく)

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