諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

127 続 閲覧御礼!

2021年03月21日 | エッセイ
道 上高地から横尾に向かう平坦な道 ここを歩くだけで十分いいです。

お礼のつづきです。

学校の教育活動で経験すること、研修や、本、講演会で学ぶことは多様です。
その都度、これは大切なことだと思うことを頭の中に付箋のメモとして残していくと、日々の実践面での実感や疑問がどんどん付箋になって貼られます。そして、研修や読書でも知識や疑問が投げかけられ、それも付箋として心に貼りついていきます。

この付箋がたまっていく状況が私(達)にとって学びなのか?

付箋が飽和して、貼る隙間がなく、本当は二重丸つけて貼っておくべきことも、「あれと同じだな」とスル―してしまうことも出てきます。

経験や知識の付箋に覆われて心がかえって酸欠になってしまうもあり得ます。
付箋がふえることが学びではないとしたらどうするか。

そこで文章化するとどうなのかと以前から予感はあったのですが、毎週、ブログを書いていて、やっぱりそうかと思いました。これら片々の付箋がまとまりを作り剥がれていくような快感?です。

ちょうど、研究会でよくやる付箋のグループ化の作業のように、片々の付箋は大きな価値のグループのディテールとして位置づく感じです。

もちろん、その作業はいつも手際よくできる訳ではありません。付箋が多いなりに、そのグループ構成に異議を唱える付箋も現れます。そうするとまたグループの組み直しが必要です。
そこを何度か練り直しつつ、グループ化することで、少しは普遍性のある価値ができる気がします。

それは価値がある?と言ってすぐに役立つ類のものではありません。しかし、様々な場面での判断や教育活動の振る舞いの根拠になっていくようには思います。第一、懸案が書かれた貼りっぱなし付箋がとれていって楽になります。
(それがすなわち“諦めない教育原理”だ!など言う力はありませんが)

こんなことなので、作業は個人的なもので、あくまでブログ界の片隅を一教師がお借りしている感じです。しかし、個人的と言っても読んでくださる皆さんがあって、難航するグループ化の作業も進むのですから個人的と言い切れない気もします。おかげ様で、ブログ商店街の小さなショップに商品?もならべられるわけです。
せめて拙文が皆さんのお役にたっていればいいのですが…。

前回の最後に、感じることもあると書きました。

それは、SNSの一角であるブログのモラルのことです。
本ブログは、抽象的な教育論が中心ですが、イメージが膨らむように若干事例を扱うこともあり、そこは特に注意が必要です。
言葉は言葉として無所属なうちはいいのですが、特定のどなたかの心に個人の問題として、(誤解も含めて)つながってしまっては大きな問題です。
匿名で言論を発することにもいささか抵抗がありますが、言葉のリスクを抑制する意味でも無所属の透明度があった方がいいようです。
このことは特に要注意!と思っています。

読んでくださり有難うございます。

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