昨日は低気圧のため夜半まで強い風が吹いたが、内陸のような雪は降らなかった。朝も3度あり日中は10度まで上がり、やはり2月も終わりになると気温が上がって来た。今日は気持ちがいいので、日中に犬と散歩した後、庭で少しボール投げをして犬と遊んだ。白い毛の混じるようになった12才だが、とても元気で、若い頃と運動能力はほとんど変わらず、おそらくこれまで見て来たどんな犬よりも走るのが早い。羊たちを狼から守った犬だけあるようだ。蝋梅も蕾が次々に開いて来ており、山茱萸(さんしゅゆ)の蕾も膨らんで来た。 源義経は兄の頼朝の伊豆での挙兵を聞き、平泉から藤原秀衡の部下数十騎を伴って、駆けつけ、以後平氏追討までほぼ一人で戦いに勝ち進んだ。手勢はわずかで、機知に富んだ戦略で、見事な戦果を上げていった。そのことが後に頼朝に敬遠されることにもなった。通説では平泉の藤原氏最後の頭領となった藤原泰衡は父藤原秀衡が信頼していた義経を頼朝の命で衣川館を取り囲んで、ほとんど義経の抵抗を受けないまま討ち取ったとされている。しかもその義経の首級は43日もかけて鎌倉に運ばれている。この通説の経過がいかに不自然であるか。平家との戦いで少ない手勢でも見事な戦略で勝ち続けた義経が衣川館で戦う姿勢すら見せていない。さらには討ち取られた義経の首は43日もかければ顔の識別すら出来ない。何故に43日もかけられたのか。和田家資料2の「日之本史探証」に「曽我氏之事」がある。ここでは通説と異なり、義経が藤原氏の指揮をとれば、頼朝の野望が崩れるとみて、頼朝が天下分けめをかけて挙兵したとある。しかし、藤原泰衡は父藤原秀衡の「義経を主君とせよ」と言う遺言に従わず、義経には指揮権を預けなかったために自らは津軽の藤原秀直の援軍を期待し、さらには、自分の重臣である大川兼任が義経と謀って高館を動かなかったために、自分の手で平泉に火を放ち、羽後に遁走したとある。そして義経主従は津軽の藤原秀直の手引きで北海道に渡り、「後志の余市に遁行せり」と書かれている。享和壬申年 舘田加門正頼 の名で書かれている。江戸期の享和年号には壬申年はなく、壬戌年がある。1802年だ。津軽の藤原秀直は藤原秀衡の異母弟津軽(藤原)秀滎の孫にあたる。また藤原秀衡の母は奥州安部氏の安部貞任の弟安倍宗任の娘であった。したがって、奥州安部氏の血は奥州藤原氏へも受け継がれていた。東北には義経北行伝説が各地に残る。義経は平泉から現在の奥州市江刺区を経て、住田町の赤羽根峠を越えて遠野へ入り、そこから笛吹峠を越えて釜石市の橋野、栗林、鵜住居を通り、大槌町、山田町、宮古市、久慈市へと沿岸部を北上し、青森県の八戸市、青森市、弘前市へと青森県を横断し、津軽半島の最北端竜飛岬から北海道へ渡る。北海道の積丹半島の付け根に余市があり、積丹半島の先端が神威岬で、義経はここからさらに船で北へ向かったとされる伝説が残されている。この義経が通ったとされるルートには各地でたくさんの伝説や遺物が残されている。釜石だけでも中村判官堂、法冠神社、亀井大明神、大杉神社などがる。とてもこれだけのものが単なる創作とは思えない。まして、通説の不自然さを考えれば、十分に義経が北へ逃れた可能性があるものと思われる。
我が家の犬(ベルジアン・タービュレン、通称ベルギーシェパード)