釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

東北への仏教伝来

2011-02-28 12:50:05 | 歴史
夕方すぐそばまで迫っている釜石の山を眺めているとふと子供の頃四国愛媛で過ごした頃のことを思い出した。近くに釜石と同じような小高い山があり、夕暮れ時までよく友だちとその山で遊んでいた。シダの茂みに作られた「住処」やそこに通じるシダのトンネルがあちこちに張り巡らされていた。知らない者が来ると迷路のように思えただろう。銅鉱石の製錬所跡などもいい遊び場だった。山は暗くなるのが早く足下の石につまずきながら急いで山を下ったこともある。釜石と異なり熊などいなかったから出来た事だろうが。『北斗抄 七』の「東陸日迎之海記」に東北への仏教伝来について書かれている。「吾が国は倭国より早く山靼より仏法渡来す。古来、荒覇吐神一統信仰の故に、仏法の意趣、民心に染まざれば、閉伊の東海に西法寺を建立して安置せる、月氏渡来の仏陀像あり。地民知らずして、是を荒覇吐神とて祀りて拝す。その西法寺ぞ、今は邑名に耳遺りき。浄法寺の建立はその後にして、今は天台寺と改号しけるなり。西法寺の山田潟に移るは永保元年(注:1081年)にして、安倍正任の起願に叶ふも、是を仏法に非らず、アラハバキとて宮居に建立しければ、今にして地名をもアラハバキと遺りけり。 正平六年(注:1351年)に豊間根太郎睦任と称す者、此の像アラハバキ神にぞ非らずとて、瀧澤の報恩寺に移しけると曰ふも、そ寺跡ぞなし。 文久二年(注:1862年)五月三日 高橋導念」とある。現在も西法寺の地名は「岩手県二戸郡一戸町西法寺」として残っている。永保元年(1081年)に山田町へ移したのが安倍頼時の五男である安倍正任であればその嫡男が豊間根に逃れたこともあり、この閉伊の統治者であったのではないだろうか。現在山田町には西法寺に関係したものが遺されているのかよく分からない。地名が「アラハバキ」として遺っているとされているが、これが山田町の荒神社にあたるのだろうか。豊間根太郎睦任が仏陀像を正平六年(1351年)に「瀧澤の報恩寺」に移したとあり、この報恩寺は現在の盛岡市にある五百羅漢で有名な報恩寺のことのように思われる。ただ盛岡の報恩寺は応永元年(1394年)に青森県三戸の位置に南部守行により創建され、1601年に南部氏の本拠が盛岡に移されたことに伴い報恩寺も盛岡へ移ったとされている。各地の寺社はその由来を常にその時代の覇者と繋げるため事実が消されて行くことがある。浄法寺は確かに天台寺の名とともに岩手県二戸市に寺そのものが遺されていて前住職が作家でもある瀬戸内寂聴で名が知られている。月氏渡来とあり、月氏は紀元前3世紀から1世紀にかけての大陸の国家であるからこのころに東北に仏教が入ったことになる。年代的には矛盾はないと思われる。
カルガモの雄 甲子川でも1年を通して見かけるカモ類だ

奥州安倍氏の大祖

2011-02-27 12:45:27 | 歴史
今朝はまた何日かぶりに土が凍っていた。夜は時々鹿や狐の鳴き声を聴くことがあるが、今朝は珍しく朝鹿の鳴き声を聴いた。ちょうど庭の杏の花の蕾を見ている時だった。釜石へ来た当初はそれが鹿の鳴き声だとは思いもしなかった。鹿の声が聴こえるということ自体が頭になかった。北海道では街中を狐が歩くことはあったがさすがに大きな蝦夷鹿が街に接近することはなかった。釜石は南北の山に挟まれた街だから鹿も近くに来るのだろう。花巻市にある胡四王神社や出雲のいわゆる「国引き神話」に登場する越の国の「越」が東北と同じく北部九州以外では気になっていた。荒覇吐王国である日本(ひのもと)国を興した安日彦を祖として後の奥州安倍氏に繋がる福島の三春藩第八代藩主秋田倩季(千季)の縁者秋田孝季(たかすえ)は青森県津軽の和田家に残された資料で何度か越の国のことに触れている。『北斗抄 七』の「みちのく夜話」で「さて、安倍一族の大祖の事は、越の犀川の三輪山、そして白山に祖因ありけるを知るべし。越とは倭王の出自ありきも、三輪山、白山、を一族の神として、加賀に勢をなしたる九首龍一族なり。祖は支那長安の西大白山の人なりと曰ふも、定かなる明細ぞ不詳にして、その一族が黄河を降り、天津にいでて、朝鮮に渡り、大白山に駐まること久しく、越えて加賀に渡り、白山、三輪山に子孫を遺し、その宗家にては、立山にありて、耶靡堆に移り蘇我郷に三輪山を祖神と祀りぬ。大物主神と曰ふ神を鎮座せしめ、山を御神体と仰ぎぬ。茲に君臨し、耶靡堆彦王とて土人、民族を併せ攝州なる膽駒山に至る国造りをなせり。 代々降りて三輪山安日彦王、膽駒山長髄彦王のとき、筑紫より佐奴王、東征に難波を攻むる。三年に渡る攻防の後、敗退、やむなく一族挙げて東日流に落着せり。 時、同じゅうして、支那より君公子一族、落漂し来たり。併せて国造り日本国と号けたり。その子孫こそ安倍氏なり。始め阿毎氏とせしも、安倍日本将軍国安、または安国とも称したるより、正姓安倍氏と曰ひり。」と語っている。安倍氏の祖はたどれば支那大白山に出て、朝鮮を経由して加賀に至り、加賀の白山、三輪山に子孫を残したが宗家は近畿の蘇我郷に移り、そこの三輪山を御神体とした。神武の東征に敗れた宗家の安日彦・長髄彦兄弟はやむなく津軽に逃れ、日の本国を建国した。ここで記されたことから考えると花巻や秋田に胡四王神社があることも理解できてくる。このことを実証できる史跡がさらに発掘されれば尚確かになるのだが。いずれにしろ非常に重要な資料だと言える。(尚、「越とは倭王の出自ありきも」は継体天皇を指すものと思われる)
杏の花の蕾がまだ小さいが見え始めた

オールドレンズ

2011-02-26 12:53:21 | 文化
今朝は庭に出ると風が昨日までと違って少し冷たい。空は晴れているが西の遠野方向を見ると愛染山に雪雲がかかっている。それでも以前よりずっと気温が上がって来ているため外にいる大型犬たちは日の光を受けて足を伸ばし切って横になっている。気持ちのいい日射しなのだろう。小学校の頃地方の画家に絵を習ったことがある。自分が想像する絵をそのまま表現できればどんなにすばらしいだろう。そのためには感性と技法を磨かねばならない。平凡な才能しか持ち合わせていない悲しさで習えば習うほど自分の才能の平凡さを知らされる。中学では教師に指名されてある曲を歌ってチョコレートのような声だと言われてほめられたこともあるがそれだけだった。絵も歌も好きだし、楽器も弾きたい気持ちは常にあったが基本的に音痴だ。長い間その残念な気持ちの中で暮らして来た。しかしネットで人が撮った写真を見ているうちに手持ちのカメラでとりあえず風景を撮っているとまんざらでもない気がして来た。特にデジタルカメラが出てくるとフィルムカメラのようにフィルムの枚数を気にかける必要がないだけ様々な角度から撮ってみることができる。その場ですぐに、あるいは帰宅後すぐに撮った写真を確認できる。撮ることが次第に楽しくなる。しかしこれもやはり本人の感性と技法が磨かれていないと限界がある。そんな時にオークションでオールドレンズの存在を知った。下手は下手なりにまた違った味が出せる。現代のレンズは余りにも高価であるばかりでなく整い過ぎている。優等生なのだ。個性がない。きれいだがオールドレンズを知ると味が薄いことに気付く。オールドレンズは個性が強過ぎるとも言えるがそこに味が出る。最近知ったがカール・ツァイスやライカと言った世界的なカメラをコピーしたロシアのレンズが完璧なコピーを作れなかった分より個性的になっている。すべてのロシアレンズがそうだとは無論言えないのだが。まあロシアレンズの中のある種のレンズという限定付きではあるが。しかも値段が安い。いま現代の日本のカメラメーカーが同じような味を出すレンズを作ることは逆に困難だろうと思う。日本でも個性を主張したカメラ会社はあったが皆潰れてしまったようだ。企業としては生き残れないのだ。そしてその潰れた会社のレンズが今オークションで生き返っている。才能がなくともこうしたレンズのおかげで少しは味のある写真が撮れるのだ。
目に幼さが残る子白鳥

和田家文書にも矛盾はある

2011-02-25 12:57:46 | 歴史
ここのところ日射しだけではなく気温も上がって来て夜も寒さが和らいでいる。今朝は雪ではなく小雨も降って気温が以前とは違って来ていることが分かる。出勤時にはその小雨も止んで青空が広がり、いつもの甲子川の白鳥たちも変わらず緩やかな流れの中に姿を見せていた。『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』に代表される和田家文書を読んでいると、内容的にいくつか矛盾するものもある。東北の稲作は北部九州には遅れるが以前考えられた北部九州より稲作が次第に東へ伝わって行ったという説は青森県の弥生時代前期のものとされている砂沢遺跡や弥生時代中期とされる垂柳遺跡の発掘により覆された。では何故そうした早い時期に関東を飛び越えて本州最北の地に稲作が伝わったのかの明らかな説明は現在の学会からは出ていない。日本海沿いに北に向かって伝わり、青森で太平洋側沿岸部を南下した形で伝わったのだという説もあるが。和田家文書では稲作が支那から直接伝わったと記述されたり、卑弥呼から伝えられたと記述されたりしている。また『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』では安日彦・長髄彦兄弟が稲作を東日流へ伝えたとも記されている。これはいずれがほんとうなのか一見矛盾している。ただいずれも事実であった可能性もある。秋田孝季はたびたび安日彦(あびひこ)・長髄彦(ながすねひこ)兄弟が「日向の賊」に追われて会津で合流した後東日流(つがる)の地へ至ったことを書いているが、この「日向の賊」を神武と考えているようだ。しかし古田武彦氏は神武ではなくアマテラスの命で「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」に天降った瓊瓊杵(ににぎ)だとされる。神武が近畿に侵入する以前は近畿は銅鐸文明の地であったが、神武の侵入後は銅鐸の中心地が奈良盆地から離れれて行った。安日彦・長髄彦兄弟が神武に追われたのなら東北に近畿の銅鐸文化が伝わっていなければおかしい。また二人の兄弟は中国晋の亡命郡公子の姉妹をそれぞれ娶ったとされることを考えても、時代的には中国春秋時代であり、やはり古田武彦氏が考えておられるように「日向の賊」は神武ではなく瓊瓊杵であると考えることが出来るように思われる。
寒さで萎れていた山茶花の花がまた咲き始めた

たまには星空を見上げて

2011-02-24 12:50:32 | 文化
大都会と異なり釜石の晴れた夜の星空はとてもきれいだ。北海道にいた時も満天に輝く星空に感激した。東北や北海道は周囲に人工的な光が少ないために夜空は暗く、そのため星の輝きが引き立つ。天体の観測は約6千年前のシュメールに始まると言うが何万年も前から人類は同じ星を見て来ている。宇宙は日々膨張を続けているらしいが、人の目には不変の星空でしかない。その星も月もみんな古代から同じものを見ていたとのだと思うと不思議な感慨が浮かんでくる。卑弥呼も倭の五王も安日彦も、また安倍貞任、源頼朝など歴史上に登場する人々は無論、無名の各時代を生きた人々すべてが同じ星や月を見て来たのだ。釜石は東西に流れる甲子川の南北に山が迫っているせいで残念ながら北海道ほど広い範囲の星空を街中では見ることが出来ない。それでも夜、庭に出て見上げた空の星のきらめきは十分感動させてくれる。その夜空を見上げながら太古から同じ星や月を皆見ていたのだと考えていると地上の出来事が何だかちっぽけなことのように思えてくる。家庭も職場も世の中すべての出来事に振り回されることがないようにたまにはじっと夜空を見つめていることもいいことのように思える。少し前にイギリスの理論物理学者スティーヴン・ホーキングの近著『ホーキング、宇宙と人間を語る』 を買って読み始めた。「宇宙の創造主は神ではない」と主張して昨年世界に物議をかもし出した本だ。宇宙創造の「無境界仮説」などという意味不明の専門用語も出て来るため手こずる部分もあってなかなか読みが進んで行かないが、理論物理学者ホーキングの最も哲学的な著作だという話なので何とか読了したいと思っている。科学は仮説が土台になっており抽象化が究極に押し進められれば神というやはり抽象的な概念と対峙せざるを得ないのかも知れない。夜空の星は日常の枠を解放し、太古から生きて来た人々や広大な宇宙やそれらすべての創造主とされる神の概念まで思い至らせてくれる。
羽ばたく白鳥

「遠野」と「貞任山」の名の由来

2011-02-23 12:56:59 | 歴史
今日は朝は少し雲が出ていたが午前中からよく晴れて小春日和と言っていいくらいの暖かい日になった。テラスにいる小型犬たちも口を開けて舌を長く垂らしている。いつもになく水もよく飲む。ただ北海道もそうだが東北も3月には1度は湿った雪がたくさん降る。近所を歩いていると回りにとこどころまだ雪が残っているのに日当りがいい場所に春の近いことを告げてくれる福寿草が咲いていた。黄色くまぶしいくらいに見える。北国の福寿草は南のものとは違って見えてくる。『和田家資料 3』「北斗抄 七」に「閉伊物語」がある。「文化元年七月三日 由利友久」の名が記されている文書だ。「六郡の得宗は陸羽の不正鑑視に台なせる適当地たり。なかんずく閉伊の地は、馬飼十戸とて、糠部より遠野に渉り、戸の牧を置いたる十戸の将を配したり。飽田にては糧庫、郷蔵、犬飼を置き、最上にては織部、酒造り、鞍造り、糧庫、郷蔵を置きたり。」「閉伊は陸牛の産を馬に次ぎて多し。これ兵糧となるべくホルツを造る故にして、不断にして侵敵に備えたり。」「常にして、生々の間、言語一舌にも敵意趣を造る勿れと不断の行いとせしは、安倍一族の掟たり。閉伊の十戸に、北貞任山、南貞任山あり、馬飼の隠里なり。前九年役の落人、是の地に居住し、今に子孫を遺しけるは、貞任が、老人、女人、童、らを忍ばせたる故に、代々にして貞任山と名付けたりと曰ふなり。古歌に曰く。 
北天の 神にまつらん 荒吐の 南にまつる 吾が君の山     貞任と 号けし二山 猿石の 流れ戴き 末ぞ栄えむ   誰ぞ詠み遺したるかは知らねども、遠野邑に遺れる古歌なり。 安倍一族の史を語る陸奥物語ぞ、源氏賛美の造語なり。依て、彼書を読みて、真を失ふること勿れ。」とある。この記述からすればやはり遠野の地名の由来は「馬飼十戸」から来ているようだ。一戸から順に十戸まであったのだ。さらに現在も北貞任山、南貞任山は地名として残されており、前者は標高886m、後者は854mのほぼ同じくらいの規模の山であり、それらの山の名付けられた由来も記されていた。
花がほとんど咲いていない中でやっと福寿草が咲き始めた

渡来した紅毛人

2011-02-22 12:51:00 | 歴史
日射しが強くなり日も長くなって来てようやく北国の春が近づいて来た。北海道にいる時によく北海道の人が「北海道は季節が本州よりはっきりしている」と言っているのを聞いたが、その時はむしろ首を傾げていた。北海道は四季がはっきりしない、と思っていたからだ。春と夏、秋の花が一斉に咲くような印象を受けていた。しかし、確かに長く厳しい冬が去って春が訪れる時の北国は何とも感慨深い喜びのようなものを感じさせてくれる。和田家文書には「紅毛人」についても随所で記されているが、『北斗抄 七』「陸奥郡誌 一」にシュメイルのカルデア民の信仰の法典が「ギルガメシュ王の叙事詩」となり、キリスト教のアブラハム、エホバ、洪水伝説もシュメイルの神話に起源をもち、ギリシア神話、天竺のラマヤアナ、モンゴルのブルハン神にも及んでいると述べた後、「古来、丑寅日本に渡来せる山靼人に、人の種族多かりし、紅毛人ありきも、その居住をして、衣食住の異にせるさま、道具にては鋸を鍛冶して造り、鉄を川砂に集むるなどとの技法に、地民これに習ふ。紅毛人をして鬼と言ふは、鉄をただらせるを言ふ。依て、紅毛人とて居住を嫌はざるなり、彼等の信仰もまた授け入れて、丑寅日本に荒覇吐神の流布せる故縁たり。 紅毛人に依りて知るは、彼の国なる諸々の故事及びそのくらしにて、野草のなかに集植せるより農耕を知りける。更に薬となるもの、毒たるものの覚得、漁網、舟造りを習ふる数々に、地民の暮らしぞ、大いに改む豊けきを得たり。 語部の語印とは、彼等より習得せしものなり。丑寅日本の先民は、山靼より祖血を継ぎて今日ありぬを、知るべし。 文久三年八月十五日 物部康裕」とある。やはり「鬼」はただらで製鉄を行い、その熱で顔面が焼けた紅毛人が異様に見えたことから出ているようだ。製鉄には砂鉄が使われたことも分かる。東北にこうした伝承が古くから残されて来たのは語り部たちに伝わって来た「語印」と呼ばれる一種の楔形文字による記録があったためであり、「語印」はまさにシュメイルの楔形文字に由来するものだったようだ。
職場の伝統の匠の方による「おひなさま」の切り絵

マルコ・ポーロ『東方見聞録』

2011-02-21 12:55:30 | 歴史
風がなく晴れていると春がそこまで来ていることが強く感じられるようになった。昨日午前中に甲子川の白鳥たちがいるところへ少しの時間行ってみた。人がぽつぽつやって来ては白鳥たちにパンをやっていた。白鳥やカモ類だけでなくたくさんのウミネコまで飛来してすばやく投げ込まれたパンを盗み取って行く。カモたちも流れて来るパンを必死になって奪い合う。パンが無くなっても子白鳥はおねだりの鳴き声を発していた。甲子川にこれだけ多くの白鳥やカモが集まっているのは釜石へ来て初めてだ。毎年このくらいは集まってくれといいのだが。校倉書房というところから出されている青木一夫訳の『全訳 マルコ・ポーロ東方見聞録』を読んでみた。日本のことは「一五五 チパング島の話」と題して書かれている。「住民は色白で、慇懃、優雅な偶像教徒である。」として仏像を拝する仏教徒のことを言っているようだ。「一五七 さまざまな偶像教徒の話」では「この偶像教徒の生活はまったく不合理と神がかりのカクテルで、この本に書き留めておくにふさわしからぬほどである。あまりに罪深いことで、キリスト教徒には話することもできない。」とある。そして「チパング諸島に住む偶像教徒は、自分たちの仲間以外の人間を捕らえてくると、その男が身代金を払えない場合には、友人や親戚を残らず招待して、「うちでいっしょに食事をしましょう。」という。そうして捕らえた男を殺して、みんな寄り合って食べるーもちろん料理をしてであるが。彼らときたら、いろいろな食べられる肉のなかで、人間の肉ほどうまいものはないと心得ている。」と語っている。例の「黄金の国」については「莫大な量の黄金があるが、この島では非常に豊かに産するのである。それに大陸からは、商人さえもこの島へこないので、黄金を国外に持ち出す者もいない。いま話したように大量の黄金のあるのもそのためである。 またこの島にある君主の宮殿の、その偉観について話をしよう。この君主は、すべて純金で覆われた、非常に大きな宮殿を持っている。われわれが家や教会の屋根を鉛板でふくように、この国では宮殿の屋根を全部純金でふいている。その価値は、とても数量では計り得ない。さらに、たくさんある部屋は、これまた床を指二本の厚みのある純金で敷きつめている。このほか広間や窓も、同じようにことごとく金で飾りたてられている。実際、この宮殿の計り知れぬ豪華さは、いかに説明しても想像の域を脱したものである。」と語った後、真珠や宝石も豊富で、この莫大な財宝の話を耳にした大汗クビライがこの島を征服することを二人の将軍に命じたとある。結局嵐で不成功に終わるが、このとき二人の将軍を含め上級者のみが三万の兵士を日本の島に残して帰ってしまい、二人の将軍はクビライにより死刑に処せられたが、残った三万の兵士は一旦日本の都を征服するが日本側に取り囲まれて、日本に永住することを条件に降伏させられたとある。黄金の宮殿とは平泉中尊寺の金色堂をいうと解釈されているようだ。
パンをもらうために野鳥たちが次々に集まってくる

野鳥撮影用のレンズ

2011-02-20 12:51:04 | 文化
この冬は寒さが厳しかったせいで山茶花さえが寒さで色褪せたり萎んでしまっている。職場のとなりにあったロウバイの立派な木も駐車場にするために無造作に切り倒されてしまい、昨年の今頃はとっくにいい香りを漂わせていてくれたが、今年はそれも見られなくなった。梅や椿が蕾を見せてくれているのでそれらがこの冬の寒さでどう影響されているか花が咲く前から心配している。冬場は写真を撮るにしても被写体が限られて来る。特に花は東北では比較的暖かい釜石ですら僅かしか咲かない。景色や冬の渡り鳥が中心になるが、それもこの冬のように寒さが厳しいとつい外に出るのが億劫になってほとんど休日も出かけることがない。ただ最近野鳥撮影用に新しいレンズを仕入れた。デジタルカメラの規格にもいくつかあって以前の35mmフィルム時代のサイズをフルサイズとして基準としたものから、それが1.5倍や1.6倍に拡大されたサイズのものがデジタルでは一般的だ。カメラのレンズは一応50mmという焦点距離のものが標準なのだが普及型のデジタルカメラだとその1.5倍や1.6倍になる。数字が大きくなるほど言ってみれば望遠になる。数字が小さくなると広角という表現がされて広い範囲が捉えられる。広大な景色を撮ろうとすれば数字のできるだけ小さいmm数のレンズを使えばいい訳だ。遠くのものを大きく写し出そうとすれば逆に数字の大きなレンズほどよく写し出されることになる。花などは100mm前後がよく使われる。景色には24mmや28mmが多い。野鳥の撮影では欲を言えば切りがなくレンズだけで1,000万近くする1200mmレンズなどというのもある。とても手で持って写すと言うわけにはいかない。支えになる三脚も並のもではとても支え切れない。そこまで行かなくとも一般的に野鳥撮影で憧れるのが600mmのレンズだ。これでもレンズだけで100万を超える。それでも野鳥撮影の現場ではかなりの数の人がこれを持っている。やはりレンズが重くてとても手持ちで写す訳にはいかない。三脚が必要だ。ところが写す相手はじっとしていることが少ない。特に小鳥は動きが速い。三脚は機動性に欠ける。そこで35mmフルサイズの2倍になる規格のカメラを使うことが考えられた。オリンパスのデジタルカメラがそうだ。このオリンパスのレンズは50mmのレンズであっても倍の100mmのレンズに相当する写真になる。従ってオリンパスの300mmのレンズは600mmのレンズになる訳だ。価格は他社の600mmの約半分で重さは5分の3くらいだ。さらに安く上げればオリンパスの150mmレンズに2倍に拡大できるテレコンバーターと言う部品を付ける。これで600mmになる。他社の600mmと数字の上では同等になる。重さは約5分の1で手持ちも楽にこなせる。値段もさることながらやはりこの軽さが一番だ。ここしばらくはこのレンズを使って試してみたいと考えている。
家の近くの甲子川の川原にいつもやって来るホオジロ

匠の技

2011-02-19 12:37:21 | 文化
昨日は日中は小雨模様が続き夜になって雪に変わった。小雨が雪に変わったので積もった雪の量は大したことはなかった。今朝も土は凍っていた。今冬のー5度からー10度の例年にない寒さに慣れた身体にはー2~ー3度は暖かく感じてしまう。日射しは確実に強くなって来ており、早くも春を告げてくれている。子供の遊びにも世代間で大きな違いがある。特に現代のように子供の遊びに必要な商品が豊富にあるとその選択にも迷いが出るほどだろう。身近な日常品を工夫して遊び道具にする時代とは大いに異なる。釜石というか東北と言ってもいいのだろうが、これほど匠が多くいることもこの子供の遊びと似たところがあるのではないだろうか。釜石や東北は大都会に比べると都会的な便利さは見られない。特に若い世代から見れば「何もない」地域なのかも知れない。そしてそのことがそこに住む人たちに自ずから工夫することを学ばせるのかも知れない。それも人間の特性の一つのように思える。従ってもっとよく見れば当然大都会にもまた地方とは違った匠がいるに違いないのだろう。最近はオークションも旧東独のものから旧ソ連のもの、ロシアものにシフトしてきている。ロシアのレンズやカメラのことをネットや本で調べていると大都会に住む匠がいることにも気付かされる。古いレンズやカメラは安いが、問題のあるジャンク品となるとさらに安くなる。カメラなど表面はきれいでも機械として動かなければジャンク品となる。そうしたジャンク品を安く手に入れて分解掃除をするとまるで新品のように甦るものがある。そこに注がれる技はまさに匠そのものと言える。それでも釜石で知った匠たちを見ているとやはり感心しないではいられない。一人一人の持つ匠の技は既にプロの域に達している。にもかかわらずその技を生業とはしない。しかもそこには大都会の匠とは違った自然の要素があり、伝統の要素があるように思える。現代人が忘れていたものを思い出させてくれる何かがあるように思う。
ちょっと寂しげなホワイトテリア

ミニチュアシュナウザーとツーショット

ドイツとベルギーのシェパード

彼らと彼女を撮ったロシアレンズ INDUSTAR 50-2 3,5/50 (ロシア製パンケーキレンズ)