釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

この春初めてウグイスの声

2012-04-11 19:20:24 | 文化
今朝は雲が多いが暖かい春らしい日で、この春初めてウグイスの声を聞いた。ウグイスに競うようにイソヒヨドリの可愛い声も聞こえて来た。家の近辺を歩くととても気持ちがいい。近所には大きな農家が2軒ある。農家で広く土地を今でも持っていて、山が迫った狭い釜石の地形では、とても珍しいほどの広さを有している。現在はほとんど農業としては収入を得ていないように思える。持っていたさらに広い土地を処分して生計を立てているのだろうか。遠野の郊外にある農家と同じく、立派な構えの家で、まるで城の一角かと思うほどの趣がある。広い敷地には個人用の野菜を植え、梅や桜などの木が配されている。住宅が密集する中でとても広い。江戸時代のちょっとした遺跡も敷地内にあるようだ。釜石の歴史を少し調べると、明治三陸大津波のあった1896年(明治29年)の人口は釜石地区だけでは5,687人となっている。平田地区が1,299人だ。合併を含んだ現在の釜石市の地域には当時12,665人が住んでいる。釜石地区の人口も官営製鉄所の建設が始まった1874年(明治7年)頃から増えて来たものだと思われる。江戸時代は仙台藩の大船渡とともに東廻り海運の中心の一つであった。江戸時代までは大部分が海岸に近いところに住んでいたはずで、海岸から距離のある現在の我が家のある辺りは人はまばらにか住んでいなかっただろう。現在の釜石地区の市街地は少し掘れば川床の石や砂が出ると言われるが、かっては甲子川も増水のたびに流れを変えていた。内陸部の家はおそらくそのたびに何らかの被害を被っていただろう。江戸時代の釜石地区は、海岸近くに集落が寄り合い、内陸部に農家点在するといった小さな村の集まりだった。海岸は砂浜が続き、松が並び、遠野へ続く道の両側には農家が所々に垣間見えるのんびりとした田園が広がっていた。自然だけはこの時も変わらず、海と山の幸をもたらしてくれていただろう。息子が今参加しているキリスト教系のボランティア組織にはクリスチャンとなった気仙大工の方がおられる。京都や奈良の寺社の伽藍や建物を作った伝統的な気仙大工。木造船をも手がけている。その気仙大工がかってはこの三陸の民家も手がけていた。立派な農家の建物が見られるわけである。ボランティア活動をされておられる気仙大工の方が息子に、「何十年ももつ家は日本建築でなければ」と言って、気仙沼に残る立派な日本建築の建物の修復を続けられている。核家族が進み、大家族が消えて行くとともに、新建材を使った何十年もはもたない家が次々に建てられて来た。日本の建物の文化が新建材によって駆逐されて来た。娘が岩手に来て古民家を見るたびに「私はこんな家に住みたい」といつもため息を付く。そこには本来の人間の生活があることを本能的に嗅ぎ付けているように思う。敗戦後日本は伝統の薄い米国を模範として急速に米国に近づき、ある意味では米国を追い越しさえした。しかし、その間、日本が固有に持っていたものを捨て去って来た。物への愛着を失い、経済優先に乗って、使い捨ての「文化」が押し進められて来た。これからの日本は人口が減って行き、経済も頂点を超えてしまって、下り坂に入って行くだろう。その中で新しい世代は新しい日本の文化をしっかりと築くことが出来るだろうか。
広い敷地を持つ農家の庭先で開き始めた梅の花

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