釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

津軽十三湊の興国の大津波

2016-09-08 19:13:23 | 歴史
東北の貴重な古文書の一つである『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』は江戸時代後期に現在の福島県にあった三春藩の藩主の義理の息子である秋田孝季らによって編纂されたものだ。その複製が秋田孝季とともに編纂に関わった和田長三郎吉次の家に代々残されて来た。戦後間もなくの1947年、太宰治の郷里である青森県五所川原市で、当時の和田家の当主である和田喜八郎氏が天井の改修中に天井裏からこの『東日流外三郡誌』を発見された。1975年から1977年にかけて和田家のある当時の市浦村から『市浦村史 資料編』として、『東日流外三郡誌』の一部が出され、初めて世に『東日流外三郡誌』の存在が知られた。しかし、内容のあまりのそれまで知られる日本の歴史との違いに「偽書」と断じる多くの人が現れ、裁判となる。裁判所は「偽書」であるとは判断しなかった。青森県五所川原市には十三湖があるが、そこにはかって十三湊(とさみなと)が存在し、中世の安東氏の支配下で繁栄した大都市があった。しかし、その十三湊は1340年(興国元年)の大津波で壊滅状態となったことが『東日流外三郡誌』に書かれている。『東日流外三郡誌』が「偽書」であるとする人たちはこの大津波は史実性がないとして、その根拠に1991年~1993年に行われた国立歴史民俗博物館と富山大学による十三湊の発掘調査結果を上げる。この調査では十三湊に条坊的な街並みの整備された大規模な都市が存在した事実を見出したが、津波の明らかな痕跡は見出せなかった。「偽書」とする人たちはこの調査結果だけをいまだに上げて、頑なに「偽書」と言い続けている。2014年の「日本地震工学会誌第23号」に東北大学首藤伸夫名誉教授の「日本海の津波と被害」と題する論文が載る。その第2節で同名誉教授は「掘り出された津波」と題して、「2.1 1341年興国2年津波」を上げ、「昭和22年(1947年)8月、青森県五所川原市の旧家和田家の天井裏で『東日流外三郡誌』が発見された。これに興国2年の津波に関する記述が幾つかあり、多く は江戸時代のものであるが、一番古い天文元年12月 (1533年1月)付けの磯崎嘉衛門のものは次のようで ある。「興国二年之大津浪 辰の刻北海沖に風波なきに、 三丈余の大高浪起こる。路歩む人の地震感覚し、家路を急ぐより十三浦沖に近く襲いける高浪の潮涛速く、 見るがうさに浜明神人浪に呑消し、百石船の木の葉の如く浪涛に漂砕す。十三湊十三の軒並は一涛に消滅し、大浪は福島城上濠迄に達し・・・」 これは偽書ではないかとの疑いをもたれた事もあるが、この津波の存在を柱状試料の分析など地質学的調査から確認したのが箕浦・中谷(1990)である。」と書かれた。また続いて「鉛同位体法により、西暦1340年±20年、及び1748年±20年に津波の影響があったとした。前者が興国津波、後者が寛保元年(1741年)の津波に対応する。」と。「箕浦・中谷(1990)」論文は1990年の「地質学論集第36号」に同じく東北大学の箕浦幸治・中谷周氏により「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」として出されたものだ。東北大学の二氏により津波の存在がすでに証明されていた。他地域同様に東北にも多くの古文書や伝承が残されているが、それらを無視したり、安易に偽書扱いするには貴重な資料である。
鶏頭