なだれ込み研究所の一日

物語作家を目指すもの書きが、ふとしたことから変な事務所で働くことに!
日々なだれ込んでくる人や仕事、モノやコト観察記。

野望と日常のはざまで

2006-11-05 19:48:04 | 読書日記

書店に行ったら、高楼方子(たかどの ほうこ)の『十一月の扉』が文庫化されていた。ああ、ついに高楼方子もか、と何ともいえない感慨に浸った。

『十一月の扉』(新潮文庫)は14才の少女の物語である。1999年にリブリオ出版から児童文学として出版され、夢中で読んだ。親元を離れ「十一月荘」に下宿する少女の二ヶ月間の日常と心の動きが、自分の心の奥の、いちばん純粋な部分にまで届くような、そんな物語だった。

本を手にとってまず解説を読んだ。解説を書いているのは齋藤惇夫。元福音館書店編集者で、『冒険者たち』『ガンバとカワウソの冒険』(テレビアニメになった「ガンバの冒険の原作)の作者である。

齋藤惇夫の高楼方子論がなかなか素晴らしい。心に感じて、でもうまく言えないことを「そのまま」且つ「より的確な表現で」取り出してくれた。

「起承転結、見事に整った物語の中に軽やかに展開する、大人も思わず笑みをもらしたくなる、嬉しくて楽しい世界。しかも、決して子どもたちに媚びることのない、抑揚のきいた表現は、今まで私たちの国の子どもの本には、ほとんど見ることのできなかったものです」

「『ココの詩』『時計坂の家』には、幼い子どもたちのための物語にある軽みと笑いは消え、そのかわりに一途に、ひたむきに物語の核心に向かって、ひたひたと迫っていこうとする精神の激しさがありました。何よりも、僕は、日本にも、言葉の力を信じて、まず文章の確かさそのもので、ファンタジーを描こうとしている人がいることをに驚かされました」

私にとって高楼方子は、児童文学の書き手の中で、「一番好きな作家たち」の一人である。そんな好きな作家たちの児童書が、最近次々と文庫化されている。

私が思うに、大人になっても、どんなにすれっからしになっても、普段ものすごく図太くたって、人間としての純粋な部分は、誰も心の奥にしぶとく持ち続けている。児童文学は、そんな心の奥の、普段あることさえ忘れている「最も柔らかな感受性の部分」にまで届く、そんな文学なのだと思う。だから子どものみならず、大人にも読まれ、文庫化されるのだと。

齋藤惇夫は、高楼方子に初めて出会ったとき、
「随所にほとばしり出てくる言葉のきらめきに、私はこの人は物語を書かずには生きていけない類の人なのだ、という歓びに捉えられました」
と感じたという。そして、この出会いを作ったのは、清水真砂子さんなのだというのは知る人ぞ知る話である。

高楼方子と自分を比べるのはあまりに意味のないことだが、「多読と孤独」であった子ども時代ということだけは共通しているように思う。
孤独は、幸せであろうと恵まれた環境に育とうと、明るい子どもであろうと周囲に誰かいつも居てくれようと、そうしたことに関係なく、「背中合わせ」であったり「隣り合わせ」であったりするものだ。

物語が書きたくて書きたくて、でもどう書けばいいのか、何を書けばいいのか、誰を書けばいいのか全くつかめず、でも、いつかは書けるかもしれないと心の中に野望を抱きつつ、今はなだれ込み研究所の豊かな日々を綴っている。