大倉草紙

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【東京・港区】 日本近代初等教育発祥の地

2010年02月18日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
12月13日(日)


(東京都港区芝公園1-1)
「東京都港区指定文化財
 旧跡 日本近代初等教育発祥の地
 (小学第一校・源流院跡)
 わが国の近代初等教育は、明治五年(一八七二)年の学制発布に先立ち、同三年に東京府が府内の寺院を仮校舎として、六つの小学校を設立したことに始まり、その第一校は、六月十二日に開校した。第一校のおかれた源流院は、江戸時代初期からの増上寺子院で、当時、境内北辺の御成門東側のこの地にあった。大訓導(校長)村上珍休、教師、助教と生徒中の秀才が生徒を教えた。授業は主として句読(音読)・習字・算術で、生徒は八歳から十五歳までとし、机・硯・箱・弁当は各自持参した。
 この小学第一校は、明治四年に、西久保巴町(虎ノ門三丁目)は移り、その後、校名も、第一大学区第二中学区第一番小学、鞆絵国民学校、鞆絵小学校などと変わった。
 平成二年十月二十四日  東京都港区教育委員会」(案内板より)

【東京・千代田区】 新聞創刊の地

2010年02月17日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
12月13日(日)


(東京都千代田区霞が関1-12)
「洋学者子安峻(こやすたかし)らが 当時虎の門外琴平町一番地の旧武家長屋に わが国初の本格的な大衆啓発紙読売新聞を創刊したのは 明治七年(一八七四年)十一月二日である
 江戸時代の情報伝達形式であった『読売瓦版』から名をとって題号とし 漢字にふりがなを施した平易な新聞として出発した 創刊のころ漢字教育を与えられていなかった市民から 町名番地にちなんで『千里を走る虎の門 ‘こと’に‘ひら’がなは‘一番’なり』と歓迎された
 維新後の東京に発祥した開明的な大衆紙から 今日に至るまで題号を変えず全国紙に発展したのは わが国新聞紙上類例のないことである
 昭和四十九年十一月  東京都港区教育委員会」(碑文より)

碑が建っているのは千代田区だが、碑文によれば、創刊の地は港区だったようだ。
創刊当初は隔日刊で、部数は約200部ほどであったという。

【東京・千代田区】 江藤新平遭難遺址碑

2010年02月16日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
12月13日(日)


(東京都千代田区霞が関3-8)

佐賀の乱が起こる4年2カ月前の明治2年(1869)12月20日、江藤新平は、佐賀藩邸にいた旧藩主・鍋島直大のところからの帰り道、この地で襲われ、負傷した。
襲ったのは同じ佐賀藩の6名の下級武士たちで、彼らは江藤新平が断行した藩政改革に不満を抱いていたのだそうだ。

【東京・港区】 溜池発祥の碑

2010年02月15日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
2009年11月15日(日)


(東京都港区赤坂1-1)
「溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ水道の発祥地ともなり、徳川秀忠時代には鯉、鮒を放し蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ、江戸後期には日枝神社より赤坂四丁目に通じる料金を取った銭取橋が架設され『麦とろ家』数軒と出店で、にぎわったと云われる。(以下略)
 平成九年八月吉日 東京都 港区」

明治8年から埋め立てが始まり、明治44年に完成したという。


江戸名所図会の「溜池」


現在の溜池交差点

【東京・渋谷区】 徳富蘆花住居跡

2010年02月14日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
1月30日(土)


(東京都渋谷区神宮前3-8-4)


「徳富蘆花は、明治三十三年(一九〇〇)十月に、逗子からここに移ってきました。明治三十八年(一九〇五)十二月再び逗子に移るまでの間に、「思出の記」を完成させ、また「黒潮」「慈悲心鳥」、「霜枯日記」などの作品を次々に発表しました。」(現地案内より)

【東京・台東区】 正岡子規記念球場

2010年02月13日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都

正岡子規記念球場は、、東京都台東区の上野恩賜公園内にある。


句碑
「春風や まりを投げたき 草の原」

「正岡子規(1867~1902)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市に生まれた。名は常規(つねのり)。式は、明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいた。
 子規の随筆『筆まかせ』には、明治23年3月21日午後に上野公園博物館横空地で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手であったことがわかる。子規の雅号のひとつに、幼名の升(のぼる)にちなみ『野球(の・ぼーる)という号がある。子規は野球を俳句や短歌、また随筆、小説に描いてその普及に貢献した。ベースボールを『奔球』と訳したほか『打者』『走者』『直球』などの訳語は現在も使われている。これらの功績から平成14年に野球殿堂入りをした。
 子規が明治27年から同35年に亡くなるまで住んでいた住居は、戦後再建され『子規庵』(台東区根岸2-5-11)の名で公開されている。
 上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、ここに子規の句碑を建立し、野球場に『正岡子規記念球場』の愛称が付いた。
  平成18年7月 台東区・台東区教育委員会」(案内板より)

【東京・台東区】 森鴎外旧居跡

2010年02月12日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
1月9日(土)


歩いていたら、「天然鴎外温泉」の文字が目に入ってきた。


水月ホテル鴎外荘
こちらは、森鴎外の旧居跡。


「森鴎外旧居跡
   台東区池之端三丁目三番二十一号
 森鴎外は文久二年(一八六二)正月十九日、石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。本名を林太郎という。
 明治二十二年(一八八九)三月九日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町十一番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
 同年八月に『国民之友』夏季附録として、『於母影』を発表。十月二十五日に文学評論『しがらみ草子』を創刊し、翌二十三年一月には処女作『舞姫』を『国民之友』に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍医学校教官としても活躍した。
 しかし、家庭的には恵まれず、長男於菟(おと)が生まれた二十三年九月に登志子と離婚し、翌十月、本郷区駒込千駄木町五十七番地に転居していった。
 平成十五年三月  台東区教育委員会」(案内板より)

福岡県小倉市の森鴎外ゆかりの地に関してはこちら

【東京・文京区】 弥生式土器発掘ゆかりの地

2010年02月11日 23時46分36秒 | 旅 - 東京都
1月9日(土)


(東京都文京区弥生2丁目11)
「弥生式土器は、ここ向ヶ岡弥生町(現在弥生二丁目)内の数ヵ所から初めて出土発見され、町名を冠して『弥生式』と名づけられました。
 遠いむかし、人々はこのあたりに住みつき、日本文化の曙を告げたのです。弥生式土器、向ヶ丘遺跡の発見によって、弥生時代という重要な文化期の存在が知られました。私たちは、こうした歴史の壮大で匂やかなロマンを憶いふるさとわが町の誇りを語りつぎ出土と命名の史実を末永く顕彰するため、この記念碑を建てました。
  向ヶ岡弥生町会有志」(建碑のことばより)

弥生式土器の名前の由来がその地名にあるのは、よく知られたこと。
このあたりは、かつて水戸藩中屋敷があったそうだ。
そして「弥生」という地名は、屋敷に建っていた徳川斉昭の歌碑「名にしおふ 春に向ふが 岡なれば 世にたぐひなき はなの影かな」の前段詞書に弥生を詠んだからだと言われている。
弥生時代の名称が、江戸時代に生まれたものからきているというのは、なんだか面白い。


【青森】 いちご煮 (味の加久の屋)

2010年02月10日 21時00分00秒 | 


JR八戸駅で、イタコの口寄せをやっている、というニュースを見た。
八戸の新たな観光資源として注目されているようである。
イタコって、観光資源だったんだ……。

八戸といえば、「いちご煮」の缶があったことを思い出した。
これは、だいぶ前にいただいたもの。
缶詰とはいえ、そろそろ賞味期限も迫っているので、今週あたり使ってみよう。
思い出してよかった。

「いちご煮」といっても、苺は入っていない。
ウニとアワビで仕立てた潮汁のこと。
「器にわけたウニの姿が、“朝もやの中に霞む野いちご”を思わせることから、この名称がついたといわれています」と、その名の由来が缶に書いてある。
潮汁にしてもよし、炊き込みご飯にしてもよし。
今回は、炊き込みご飯にしようかな。

そういえば、美人すぎるということで有名な八戸市議会議員のブログは「いちご煮日記」だったような。
いまページを開いたら、美味しそうな潮汁の写真があった。
やっぱり、潮汁にしようかなあ。

【北海道】 石狩ラーメン (佐藤水産)

2010年02月09日 21時00分00秒 | 

ラーメンの話が続くけれど、これまた美味しい北海道のラーメン。
スープを煮立てれば、これは旨いに違いない!と期待させる程よい香りがする。

鮭醤油を使用した醤油味のスープ。
昆布だしがベース。
動物性の肉や脂、防腐剤などを一切使用していないというのもウリらしい。

こんなに美味しい醤油ラーメンがあるなんて!と未開の地に足を踏み入れた気分。