1月9日(土)
歩いていたら、「天然鴎外温泉」の文字が目に入ってきた。
水月ホテル鴎外荘
こちらは、森鴎外の旧居跡。
「森鴎外旧居跡
台東区池之端三丁目三番二十一号
森鴎外は文久二年(一八六二)正月十九日、石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。本名を林太郎という。
明治二十二年(一八八九)三月九日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町十一番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
同年八月に『国民之友』夏季附録として、『於母影』を発表。十月二十五日に文学評論『しがらみ草子』を創刊し、翌二十三年一月には処女作『舞姫』を『国民之友』に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍医学校教官としても活躍した。
しかし、家庭的には恵まれず、長男於菟(おと)が生まれた二十三年九月に登志子と離婚し、翌十月、本郷区駒込千駄木町五十七番地に転居していった。
平成十五年三月 台東区教育委員会」(案内板より)
福岡県小倉市の森鴎外ゆかりの地に関してはこちら。
歩いていたら、「天然鴎外温泉」の文字が目に入ってきた。
水月ホテル鴎外荘
こちらは、森鴎外の旧居跡。
「森鴎外旧居跡
台東区池之端三丁目三番二十一号
森鴎外は文久二年(一八六二)正月十九日、石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。本名を林太郎という。
明治二十二年(一八八九)三月九日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町十一番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
同年八月に『国民之友』夏季附録として、『於母影』を発表。十月二十五日に文学評論『しがらみ草子』を創刊し、翌二十三年一月には処女作『舞姫』を『国民之友』に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍医学校教官としても活躍した。
しかし、家庭的には恵まれず、長男於菟(おと)が生まれた二十三年九月に登志子と離婚し、翌十月、本郷区駒込千駄木町五十七番地に転居していった。
平成十五年三月 台東区教育委員会」(案内板より)
福岡県小倉市の森鴎外ゆかりの地に関してはこちら。