大倉草紙

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【京都】 鳥羽伏見戦跡

2009年01月03日 20時00分00秒 | 旅 - 京都府
7月26日(土)
当日の行程:(京阪電車・伏見稲荷駅) → 【伏見稲荷大社】 … (自転車) → 【鳥羽伏見戦跡石碑】【城南宮】【鳥羽離宮跡公園】 → 【戊辰戦争東軍戦死者之墓(悲願寺墓地)】【寺田屋】【月桂冠大蔵記念館】【鳥羽伏見戦の弾痕】 → 【伏見奉行所跡】【伏見桃山城】【桓武天皇柏原陵】 → 【明治天皇伏見桃山陵】 → 【昭憲皇太后伏見桃山東陵】


【鳥羽伏見戦跡石碑】

鳥羽伏見戦跡の碑は、城南宮の西、国道1号線を渡ってすぐのところに建っている。

          
              鳥羽伏見戦跡の碑

   

「此付近(このふきん)鳥羽伏見戦跡
明治元年(1868)正月三日(太陽暦一月二十七日)夕方、この付近での戦が、鳥羽伏見戦の発端となった。王政復古ののち、将軍の領地返納をきめた朝廷、薩摩、長州藩らの処置を不満とした幕臣、会津、桑名軍は、正月一日挙兵、大阪から京都へ攻め入ろうとし、薩摩、長州軍はこれを迎えうった。城南宮には、薩摩の野津鎮雄らが大砲を備えて布陣し、竹田街道を北上してきた桑名軍、幕府大目付滝川具挙が、小枝橋を渡ろうとすつのを阻止して談判の後、ついに薩摩軍から発砲した。この一弾があたかも合図となって、戦端はひらかれ、鳥羽伏見両方面で激戦がつづき、正月六日幕府軍は敗退した。この一戦をきっかけに、戊辰(ぼしん)戦争が始まった。   京都市」


   
鳥羽伏見戦跡の碑の右手は、住宅となっていて、敷地内に秋ノ山治療院がある。
鳥羽伏見戦跡の碑の案内板を読んでいると、その住宅にお住まいの方が帰っていらした。
門の脇に鳥羽伏見戦の弾痕があると、案内して下さった。
弾痕があるのは、秋ノ山治療院の門と垣根の間の柱。

          
                  弾痕


鳥羽伏見戦跡の碑の左脇の道を登ると、小枝橋がある。
鳥羽伏見戦の戦端が開かれた場所である。

   
   
                  小枝橋


   
「小枝橋について
橋長 123.0m
全幅員 5.3m
撤去年月 2002年3月
 その昔京都(平安京)への渡り口である小枝橋はいい伝えによりますと杭を打った上に板を渡した木の橋であり、その後昭和のコンクリートの橋が出来る迄は土を固めた土橋であったと伝えられています。この橋は京都が都と云われた時代には重要であり、当時大阪(浪速)に渡来した大陸からの文化はすべてこの橋を渡って渡来して来たものと思われます。当時庶民にとっては何かにつけて都は憧れであり、西方からの旅人はこの橋迄たどりつく事により安堵したとの事です。そして以前は時により鴨川が氾濫して橋が流された様です。又、明治維新や日本赤十字社の創設の原因を作った戊申戦争の戦端が開かれた場所でもあります。
昭和に入って交通機関の発達する迄は小枝橋を荷車や歩行の人々が利用していました。現在は地元民や伏見地域の人々は元より東西南北の通過橋としてかけがえのないふれあいとコミュニケーションが保たれる橋として役立っています。」



【鳥羽離宮跡公園】

鳥羽伏見戦跡の碑の南に、鳥羽離宮跡公園がある。

   
                鳥羽離宮跡公園



        公園内にある鳥羽・伏見方面戦闘図


          
              鳥羽伏見戦の碑

鳥羽離宮跡公園は、南殿跡にある。
南殿は、鳥羽離宮の南殿は、最初に作られた御所。
公園の北側には、離宮の築山跡の遺構といわれる「秋の山」が残る。
鳥羽伏見戦の碑は、この秋の山に建っている。



【戊辰戦争東軍戦死者之墓(悲願寺墓地)】

鳥羽離宮跡公園から1.5kmほど南へ行ったところに、悲願寺墓地がある。


   
                悲願寺墓地


   
  戊辰戦争東軍戦死者之墓

「戊辰戦争東軍戦死者之墓
 この墓地には、鳥羽・伏見の戦い(一八六八)で戦没した東軍戦死者二三三名が埋葬されています。当時この附近で戦死した東軍兵士の遺骸が散乱しているのを見かねた下鳥羽の人びとが、この墓地の一隅に埋葬したと言われています。埋葬地の中央に『戊辰役東軍戦死者埋骨地』の碑を建て、冥福を祈りました。   悲願寺墓地管理委員会」



【鳥羽伏見戦の弾痕】

   
                  魚三楼

鳥羽伏見戦の弾痕は、京阪本線伏見桃山駅と近鉄京都線桃山御陵前駅の間にある京料理の「魚三楼」(京都府京都市伏見区京町3丁目187番地)にある。


   
              鳥羽伏見戦の弾痕

          

「鳥羽伏見戦の弾痕
 右側、格子に数條ある弾痕は鳥羽伏見戦(1868年)の弾痕です。幕末の慶應4年1月3日,4日に此処伏見で薩長土連合の新政府軍と幕府軍とが大激戦をくりひろげました。世に言う鳥羽伏見の戦いです。(明治維新の最初の戦)
 幕府の大政奉還の奏上、朝廷の“王政復古の令”の直後朝廷側が決定した第15代将軍慶喜の辞官、納地(一切の官職と幕府領の返上)は、幕府を怒らせ、京へ攻め上って参りました。新政府軍は、これを鳥羽伏見で迎え撃ち、伏見では一大市街戦が展開され、幕府軍は敗れ、淀、大阪方面へ退却しました。
 この戦乱で伏見の街の南半分が戦災消失、街は焼野原となりましたが、幸いにして、この建物は弾痕のみの被害で消失を免れました。   店主謹白」



【伏見奉行所跡】


御香宮神社の南、桃陵団地内に伏見奉行所跡の石碑がある。

          
              伏見奉行所跡の碑

慶應3年12月9日、王政復古の大号令が発せられ、幕府は、朝廷方との摩擦を危惧し、新撰組を伏見奉行所へ移動させる。
翌慶応4年1月3日に始まった鳥羽伏見戦では、御香宮に陣取った薩摩軍との争いとなるが、新選組は惨敗し、伏見奉行所は炎上する。


   
            伏見工兵第十六大隊跡の碑


   

「桃稜(とうりょう)団地の歴史
 伏見は平安時代には鳥羽と並ぶ貴族の別荘地帯であったが、都市として繁栄したのは、豊臣秀吉がこの地に伏見城を築き、城下町と伏見港を整備してからである。
 江戸時代には三代将軍徳川家光の時に豊臣ゆかりの伏見城を完全に壊し、寛永元年(1624)に富田信濃守の屋敷のあった場所に伏見奉行所を建設した。その場所は現在の桃稜団地の敷地で伏見城の跡地への入口と港を監視する位置にある。
 明治維新の時(1868)幕軍のたてこもる伏見奉行所は、官軍の攻撃により焼け落ちた。明治時代以降、陸軍の土地となり、工兵隊の基地になっていた。第二次世界大戦終了後、米軍に接収されていたが日本に返還された後、市営住宅が建設され、今日にいたっている。(以下略)  
 平成2年10月   京都市」

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