大倉草紙

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【三重】 鳥羽城

2009年10月03日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月18日(土)
当日の行程:(車) → 【大台ケ原】【鳥羽城】 → 【常安寺(九鬼嘉隆の墓)】【賢島周辺】【天の岩戸】 → (伊勢泊)

【鳥羽城】
鳥羽城は、文禄3年(1594)に九鬼嘉隆は、義父・橘宗忠の居館を大修築して三層の天守を築いた。
嘉隆は、関ヶ原の戦いで西軍に加わり、切腹。
その子・守隆が東軍であったため、九鬼氏は存続するが、寛永10年(1633)、世継ぎをめぐるお家騒動により、九鬼氏は二家に分かれて、摂津三田と丹波綾部へ移された。
その後、鳥羽城には内藤氏3代、土井氏1代、大給(松平)氏1代、板倉氏1代、戸田(松平)氏1代と城主が目まぐるしく変わる。
享保10年(1725)、稲垣昭賢が下野烏山から3万石で入封。
以後、稲垣氏が8代続いて明治に至る。


本丸の石垣


本丸跡は、かつては小学校の校庭として使われていたようだ。


本丸跡からの風景
海が目の前だ。
九鬼嘉隆の胴塚がある答志島は、あの島だろうか?


二の丸跡
二の丸跡は、城山児童公園になっている。


これは、案内板にあった絵だが、この絵のように、鳥羽城は海に向かって大手水門を構えていたそうだ。


近鉄の線路の向こうに、国道が走っている。
線路や道路のあたりには、二の丸、三の丸の建物があった。
大手水門は国道を越えたあたりにあったとのこと。


鳥羽水族館が目の前にあるが、大手水門があったのは、このあたりか?

残念だったのは、鳥羽城の周辺が荒れ果てていたこと。
使われなくなった自転車の捨て場所のようになっているところもあった。


【常安寺】

常安寺は、慶長12年(1607)、九鬼守隆が、父・嘉隆の菩提を弔うために建立した。


本堂
屋根瓦には、嘉隆の家紋の三ツ巴と守隆の家紋の七曜が使われている。


本堂の裏手に、このような門がある。
写真の手前にあるのが九鬼家廟所の門、奥が稲垣家廟所の門。


九鬼家の廟所
中央が嘉隆の墓、向かってその左が守隆の墓。


稲垣家歴代廟所


常安寺の御朱印

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