大倉草紙

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【岡山】 備中高松城跡

2009年04月24日 20時00分00秒 | 旅 - 岡山県
12月27日(土)
当日の行程:(車) → 【備中高松城跡】【最上稲荷】【鯉喰神社】【大原美術館】【星野仙一記念館】 → (広島泊) 

【国指定史跡 高松城跡 附水攻築堤跡】
高松城跡は、史跡0.5ヘクタールに周辺を含めた3.5ヘクタールが高松城址公園になっている。
天正10年(1582)の羽柴秀吉による水攻めで有名な備中高松城。
平城で、水面との比高はわずかに4メートルしかなかったという。
周りを見渡しても、ほんとうに平らだ。
秀吉の本陣があった石井山だって、それほど高い山ではない。
秀吉は3,000メートルに及ぶ堤をたった12日間で完成させ、そこへ梅雨時で増水していた足守川の水を流し込んで188ヘクタールの大湖水を作り、城を孤立させた。
6月2日の未明、本能寺で信長が討たれた。
秀吉が信長の死を知ったのは、それからわずか40時間後。
秀吉は、「今日中に和を結べば毛利から領土は取らない、宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件を出し、6月4日に城主・清水宗治は自刃する。
秀吉はすぐさま明智光秀と対決すべく近畿に引き返した。
いわゆる「中国の大返し」である。


高松城址公園資料館


宗治蓮
昭和57年(1982)、岡山市は歴史公園造成のため沼の復元をした。
高松城の本丸と二の丸の間あたりであったこの場所は古くから「蓮池」と呼ばれていたのだが、沼の復元によって、自然と蓮が生えてきたのだという。


本丸跡


清水宗治辞世の句碑
「浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」


従四位清水長左衛門尉宗治公首塚(本丸跡)
首塚は石井山にあったが、明治42年(1909)、本丸跡に移された。


高松城址公園資料館の後方に聳える山が石井山。
ここに秀吉の本陣が置かれていた。


史蹟舟橋
「高松城は平城で三方を堀にかこまれていたが、この南手口には、具足の武士がようやくすれちがう程の細い道があったが、開戦直前に八反堀を堀り外濠とした。そこへ舟を並べて舟橋(長さ約六十四米)となし、城内より進攻の際はこれを利用し、又退(ひ)く時は舟を撤去出来る仕組で城の西北の押出式の橋と共に大きく防備の役を果していた。   
 高松城跡保興会
 高松観光協会」


ごうやぶ遺跡
高松城の三の丸総門の脇にあたる。
羽柴秀吉の高松城水攻めにより切腹した高松城主・清水宗治を追って、家臣らが互いに刺し違えて殉死した場所とされる。
後ろに見えるのは、最上稲荷の大鳥居。


清水宗治公自刃之阯(三の丸跡)


胴塚
「時に天正十年(一五八二年)六月四日、自決した高松城主、清水長左エ門宗治公の首級なき胴体遺体は舟上のまヽ本丸に帰って来た。
迎える家臣、身内の者共、押え切れぬ涙に感極って、一同の嗚咽がおこった。
やがて回向の声に包まれ、池の下丸、この地に手厚く葬られた。その墓穴に臨んだ公の介錯人国府市佑は己が刀で己が首を切り、そのまヽ落ちこんで自刃し亡き公の後を追った。
この主にしてこの臣あり、主を思う真情躍如たるものがある。
昭和四十九年九月 高松上址保興会」


【高松城水攻築堤跡(蛙ケ鼻築堤跡)】

杭列・土俵の痕跡の複製
高松城水攻築堤跡(蛙ケ鼻築堤跡)は、高松城水攻め史跡公園になっている。
平成10年(1998)、発掘調査が行われ、現在の水田の下約1メートルの地点で基底部が確認された。
盛土の最下層では、杭列や土俵(つちだわら)の痕跡が確認され、公園内にはその複製も置かれている。


蛙ケ鼻築堤跡

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