大倉草紙

旅の記録 食の記録 日々の記録

【福岡】 小倉城

2009年04月03日 20時00分00秒 | 旅 - 福岡県
12月1日(月)
当日の行程:(伊丹空港~福岡空港…福岡市地下鉄・福岡空港駅~博多駅…JR・博多駅~小倉駅) → 【森鴎外京町住居跡碑】 → 【森鴎外旧居】【常盤橋】【鴎外橋】 → 【森鴎外の碑】【八坂神社】【小倉城庭園】【小倉城】【松本清張記念館】 


小倉城は、慶長7年(1602)、細川忠興によって築城された。
細川氏熊本転封の後は、寛永9年(1632)に小笠原忠真が入国。
明治10年(1877)の西南戦争の際には、乃木将軍率いる歩兵十四連隊が小倉城内から出征。
その後は、歩兵第十二旅団や第十二師団の司令部が城内に置かれていた。


旧第十二師団司令部の正門
「明治八年に歩兵第十四連隊が小倉に設置された。十八年には小倉城松の丸跡に既設の第十四連隊と福岡の歩兵第二十四連隊を管轄する歩兵第十二旅団本部が解説された。ついで二十九年、西部都督部が歩兵第十二旅団本部跡に開庁した。三十一年、これらの隊と下関要塞砲兵連隊ならびに北方創設された各隊をもって第十二師団が生まれ、その司令部庁舎が本丸跡に建てられた。
 この煉瓦造の正門は当時のもので、同三十二年六月から約三年間、第十二師団の軍医部長を努(ママ)めた森鴎外もこの門を通って登庁した。
 なお、司令部は軍縮により大正十四年久留米に移転することになる。  北九州市教育委員会」


鉄門跡
「藩主及び家老などごく限られた者は槻門(けやきもん)を通り、鉄門はそれ以外の武士などの搭城口であった。
 一部復元しているが、中央部目地の左側が幕末時の石垣と階段であり、落城時の様相を示すように石垣が火熱を受けて赤変化している。当時の階段の幅は約二.一メートルであったが、夜間の通行を考慮して幅を二倍に広げた。ここからは、鉄製鎧片、中国製磁器、三階菱文様丸瓦などが出土した。  北九州市教育委員会」


歩兵第十二師団司令部跡

小倉城の中では、展示物、映像などで小倉の歴史や文化を知ることができる。
 
場内には、「迎え虎」(左側)と「送り虎」(右側)が飾られている。
小倉城が焼失した慶応2年(1866)が寅年に当たることから描かれたらしい。
「迎え虎」は、どの角度から見ても、こちらを睨んでいるように見える。


2階は、城内体験ゾーンになっている。
子どもだけではなく、大人にとっても楽しい。
飛脚と競走するコーナーがあり、周りに人がいないのを幸いに思いっきり走る(といってもその場足踏みだけれど)。
汗をかくほどに頑張ってみたものの、飛脚の脚力には遠く及ばず。
飛脚って、驚くほどに速いんだなあ。
なかなか楽しい体験だった。

最新の画像もっと見る