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感動ということ②―二首の歌から

2014年11月15日 | おもてな詩

 例えば次のような歌があります。

「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの

バレンタイン君に会えない一日を斎(いつき)の宮のごとく過ごせり
                            (『サラダ記念日』俵万智)

 人間の表現というものは、言葉や絵画や音楽やダンスなどの、その表現形式の違いにもかかわらず、表現というものによって、その微細な機構は未だよくわからないとしても、あるまぼろしの時空を生み出し築き上げていくものだと言えそうです。そして、文学の表現が、誰にでも通じるという一般性の上に、作者の固有な経験からやって来るものが作者によって織り合わされたものと見なせば、表現された言葉には流行などの一般的な時代性とともに作者固有の言葉の選択や彩りが込められています。

 この二首の歌の時空を流れる主流の時間は、現在の普通の若者たちの生活する時間です。一首目の「カンチューハイ二本で言(う)」は、「カンチューハイ」+「二本」という具体的な言葉の選択は作者固有のものですが、流行の飲み物ということで現在という時代性を象徴してもいます。二首目では、「斎の宮」という性から遠ざけられ、神に仕える忌み籠もる女性という古代的な言葉の時間性を選択していますが、ここでは恋人に会えないでつまんない状態で居るという軽い意味で使われています。作者にふと呼び寄せられた知識やイメージが、使ってみたら面白そうだということで選択されたのではないか思います。別の言い方をすれば、作者も従来の短歌の修練を十分に積んできているはずですから、従来の短歌の表現を意識しながら、そこから抜け出た新しさや気楽さと従来性との折衷作と言えるかもしれません。しかし、前登志夫の引用の歌と違って、それらの選択された言葉は歌の主流の時間を揺さぶるものにはなっていません。あくまで歌の主流の時間は、普通の(若い)人々の生活感覚の中を流れる時間になっています。

 一首目は、すべて語られた言葉と見なせるような口語ですが、二首目は、「斎の宮のごとく過ごせり」と後半が文語になっています。いずれにしても、現在という主流の時間の中に、作者によってどこかでしっかりと意識されている5・7・5・7・7の音数律によって、普通の生活する人の感覚をつなぎとめようとしています。

 学校で習う短歌のように、どこか裃(かみしも)を身に着けて表現されたような、いわば「純文学」的な短歌に慣れてきた人々や、あるいは短歌に無縁であった人々にとっても、『サラダ記念日』という作品群は、ああ、そんなにカジュアルでいいんだ、そんな風に歌えるんだという衝撃や感動をもたらしました。

 遠い昔おそらく専門の人々によって担われ始めて芸術と呼ばれ今日に至っていると思われますが、芸術として専門化していく遙か以前は、人々は日々の生活の中で「つらいよ」とか「いいなあ」とか「ほんとにうれしいよ」のような誰にも当てはまる(普遍的な)感動を身体の表情と共に語り出す言葉に表現していたものと想像します。『サラダ記念日』という作品群は、現在を生きる大多数の人々の心から湧き上がる普遍性に触れて表現されています。そういう意味でも、芸術の起源性を保存しています。そしてこの芸術の起源性は、時代を鋭く突き抜けようとする作者たちによって、意識的に繰り返し表現されてきたし、表現されていくものだと思われます。


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