回覧板

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参考資料―吉本さんの政治に対するイメージ②

2014年11月29日 | 回覧板

(吉本)
江藤さんの言った、秘儀をあばけば全部終っちゃうんじゃないか、ということですね。それがたいへん重要なことじゃないかと思うのです。レーニンというのは、それに対しては、わりあいによく洞察できていたと思うのです。だからレーニンが究極的に考えたことは、少くとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり、それは過渡的な形であって、ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。それはあまり政治なんかに関心のない、自分が日常生活をしていくというか、そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に、移行すればいいんじゃないか、というところまでは考えていると思います。そうしますと、そんなことはできるか、ということになるわけで、これはユートピアかもしれないけれども、レーニンは明らかにそういうことを言い切っているわけです。なんらかの意味でイデオロギーをもっていたり、政治的関心をもっていたり、政治的に動いたり、そういう人たちじゃなくて、まったくそういうことには関心のない、ただ日常自分が生きて家族を養い、生活していくという、そういうことにしか関心をもたないというような、そういう人に権力が移行すればいいじゃないか。では、権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは政治なんていうのには関心がないわけですから、お前、なんかやれ、と言われたって、おれは面倒くさいからいやだ、と言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう。町会のゴミ当番みたいなもので、お前何ヶ月やれ、というと、しようがない、当番ならやるか、ということで、きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら、次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで、秘儀をあばけば全部終るじゃないかということに対しても、思想的なといいますか、理論的なといいますか、対症療法として考えたわけですよ。

(吉本)
 レーニンが究極的に、ポリバケツをもった、ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に、究極に描いたユートピアというものは、ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは、江藤さんの言い方で言えば、そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか、ということを、ほんとうは求めたということです。つまり、すべてが終わったのちに、人間はどうなるんだとか、人間はどうやって生きていくんだということについては、明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また、そういうビジョンは不可能だと思います。だけれどもすべてが終わったということは、そういう言葉づかいをしているんですけれども、人間の歴史は、前史を完全に終わったということだと言っているわけです。これは、ある意味では江藤さんの言葉で、人間は滅びる、というふうに言ってもいいと思います。なぜならば、それからあとのビジョンは作り得ないし、また描き得ないわけですから。だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを、前史が終わる、というふうな言い方で言っています。前史が終わって、こんどは本史がはじまるというように、楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども、そうすれば前史は終わるんだということです。まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは、ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると、全体でなくなるまでは、いつも過渡期です。だから、どこかに権力が集まったり、どこかにまやかしが集まったり、どこかに対立が集まったりすることは止むを得ないけれども、それに対しては最大限の防衛措置というものはできる、そうしておけばいい。しかし、そうしながらも究極に描き得るのは、人類の前史が終わるということです。あるいは江藤さん的に言えば、いま僕らが考えている人間は終わる、ということです。それから先は、描いたら空想ですから、描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは、超一流のイデオローグは、やっぱり言い切っていると思います。なぜそうなるかという理由についても、そう言えるかという理由についても、僕は言い切っていると思うんですよ。だから僕はそのことはわりあいに信じているんです。

(対談「文学と思想の原点」 江藤淳/吉本隆明「文藝」1970年8月号)
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(わたしの註)

 

 宗教や政治が生まれ、秘儀が生み出され、わたしたち住民とは異質な世界を人類は生み出してしまいました。そしてこの秘儀は、宗教や政治の世界にかかわらず、芸能人や有名人と呼ばれる人々に対しても、それを受け入れる人々の視線の中には、彼らも自分たちと同じ人間であり同じような生活があるだろうという認識があったとしても、何かしら優れている、何かしらすごいというような感受の中に「秘儀」が匂い立っているものと思います。現在ではマレビトの秘儀の威力はずいぶん低下していますが、それは遠い果ての秘儀の始まりから受け継がれてきた遺伝的なものの現在の有り様だと思います。

 わたしはレーニンの述べている箇所は知らないのですが、吉本さんは、ロシア革命の指導者レーニンの描いた理想の政治のイメージをたどりながら、それに自分のイメージを重ねています。「町会のゴミ当番」のような政治担当のイメージです。現状のような党派というものがあり、それぞれがなんらかの層を代表して対立的に活動している状況では、このような政治のイメージは正(まさ)しくイメージに過ぎません。しかし、政治というものの内省点が、その発祥の地であるわたしたち住民の生活世界であることを考えれば、十分にイメージの現実性を持っています。そして、政治家が自分の活動は政治の発祥の地である住民の生活世界のためであり、ほんとうはそこに帰還して普通に暮らしたいという願望を持っているとすれば、自分たちの政治や政党を開くイメージは必須のものだと考えます。

 近年、起源というものを意識するわたしなりに「町会のゴミ当番」のような政治担当のイメージを受けとめれば、秘儀を生み出し受け継いできた果てしない人類史の、再び初めからのやり直し、生まれ変わりのようなイメージとして受けとめています。


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