表現の現在―ささいに見える問題から 29
―『吹上奇譚 第二話どんぶり』(吉本ばなな 2019年1月)を読み始めて
※ これは、2019年3月の文章です。
末尾に、追記あり。
ケーブルテレビの番組で、アメリカのテレビドラマを観ている。今は「HAWAII FIVE-0」(ハワイ・ファイブ・オー )のシーズン8と割と荒唐無稽なストーリーの「ARROW」(アロー)シーズン6の二つを観ている。他に「Mr Robot」のシーズン3と「THE BLACKLIST」(ブラックリスト)のシーズン6が始まるのを待っている。
「シーズン8」というのは、八年目ということになる。一時期観た韓国ドラマも長かったが、アメリカのTVドラマは長い。何年も観ていて物語世界になじんでもいるが、もうこれは、いつ終わっても文句ないなあと思う時がある。一方、制作側は、経済性などいろんな作品制作の動機と作品自体のモチーフがあり、次から次にいろんな展開をくり広げている。わたしの「もうこれは、いつ終わっても文句ないなあと思う」のは、もう物語の起伏(筋)のおもしろさはわかったよ、もうそれはいいよ、そうして、それとは別の、物語を底流する登場人物たちの心のやりとりや親和の形が自分には見えてきたし感じ取れたから、もういつ物語が終わっても構わないな、という思いである。
今観ている二作ともだいたい一話完結で、一年に一シーズンの放送だが、各シーズンゆるやかに話がつながっている構成になっている。また、それらの娯楽映画でも、よく起こり得る人間関係のトラブルや親和や機微はきちんと描き込まれている。
読者であるわたしたちが、登場人物たちの過去をよく覚えていないとしても、脚本の作者やドラマ化の監督たちは、当然のこととして、登場人物たちの性格や彼らの様々な過去に通じているはずである。
吉本ばななの『吹上奇譚 第二話どんぶり』(2019年1月)を読み始めて、ふとそんなことを思った。前作『吹上奇譚 第一話ミミとこだち』(2017年10月)との間に、1年ちょっとの時間が流れている。わたしたち読者は、前作第一話の話の流れや登場人物のことなど薄れてきている。普通は、何度もくり返して読むということはしないし、この1年位の間作品の物語の森から遠離っていたからである。一方、作者は、この作品にかかりっきりではないはずだ。それでも、その1年位の間に少しずつ準備や書き込みをしていただろう。そういうわけで、作者には物語の森や街、そこに登場する人物たちによく慣れ親しんでいたということになる。
割と長い時間のかかる絵画や美術作品の場合も、この小説を作り上げていく事情と同じようなものではないかと思う。毎日か飛び飛びかは分からないが、ひとたび制作中の作品と向かい合えば、前回の作品創作の流れに接続できるのだろうと思われる。
このことは、誰もが日々の生活の中でおこなっていることと同じことではないだろうか。毎日、自宅と職場や学校などを行き来しながら、昨日の仕事や勉強と同じように、一般にはそれらにスムーズに接続していく。
そういうことを作品製作の日々でくり返していて、今日は前回とは違うイメージや道が見えてくるということがあるかもしれない。吉本ばななの『吹上奇譚 第二話どんぶり』の次のような、登場人物の語る言葉が文字として見える人には見えるという着想は、そうやって日々掘り進んでいて、ふうっと湧いてきたイメージのように思える。それは、童話あるいはファンタジーのようではある。つまり、荒唐無稽ではある。
墓守くんのテントの中からは、前髪が顔の前でぼさぼさで幽霊のようになっている、異様に白くて少女のように細い女性が這い出してきた。
「あなたとは会ってもよいと、さっきから話を聞いていて思った。」
とその人は言った。
しかし、それは厳密に表現するなら「言った」のではなかった。
私は目の錯覚かと思って、ベタな動きとして目をごしごしこすってみた。人間って信じられないものを見るとほんとうに目をこするんだなと思いながら。
でも目の錯覚ではなかった。
彼女の言葉は、ちょうどこんぺいとうくらいの大きさの小さな丸っこい文字として、口からぽろぽろこぼれてくるのだ。そして雪の結晶のようにふわっと消える。実際に声は出ていない。そしてなんの音もしない。アニメだったらきっとチョロン、ポロロン、みたいな音が出るのだろうに。
ライターのバイトを長年していた私は、
「良いは漢字ではなくてひらがなに開くのか」と彼女の胸元に消えていく字を見ながら思った。
それどころではないのはわかっていたのだが、私の心臓が逃避したかったのだろう。
「様子を見て驚いているんだけど、君には見えるの?彼女の言葉が。ほんとうに?」
墓守くんは目と口を大きく開けて私を見た。
(『吹上奇譚 第二話どんぶり』P33-P34)
〈私〉(引用者註.語り手でもあるコダマミミ)と墓守くんには、墓守くんの恋人の言う言葉が文字になって見えるという。そして、彼女の言葉は、また言葉というものは本来、次のようなものだと語り手の〈私〉は思うのであるが、これはこの作品に込めた作者の大切だと見なしている考えでもあるはずである。
彼女も黙って春の華やかな景色を眺めていた。そして言った。
「しょうちゃん、お茶ある?」
そういえば、墓守くんの本名は正一というのだった。新鮮な感じがしたしこそばゆかった。ミーハーな気持ちでこの面白いカップルのことをずっと見ていたかった。ここのうちの子どもに産まれたら一生退屈しないだろうとうらやましく思った。
しょうちゃんという言葉も、お茶という言葉も、そうして文字になるととてもきれいなものに思えた。そして淡く光って消えていく。全てがほんとうはそうなのだ。私たちが言葉をただたれ流すようになってしまっただけで、ほんとうはみんなきっとこんなふうなんだ。
言葉って、歌だし、すぐ消えていく夢なんだ。
なんていいことを知ったんだろうと私はうっとりした。
「ああ、常温のならそこにあるよ。」
墓守くんは水の中で冷ましていたガラスポットを指差した。
(『同上』P39)
初めに観ているテレビドラマについて「もうこれは、いつ終わっても文句ないなあと思う時がある」と書いた。この『吹上奇譚』にも荒唐無稽さを装ってはいるが、物語の起伏(筋)がある。しかし作者は、物語の起伏(筋)のおもしろさよりも、別のことに力こぶを入れているようなのだ。先に述べた「物語を底流する登場人物たちの心のやりとりや親和の形」のようなものに作者は力を注いでいるらしいのである。そして、それを読者の方にそっと差し出している。
地上を生きること、肉体を持っていること、どれも厳しく苦しい要素の大きなことばかり。だから人はそれぞれの夢を見る。そしてことさらに夢が必要な不器用な人たちがいる。その夢が人生を片すみに追いやるのではなく、人生にとっての魔法の杖となるような。
そんな夢を見るための力を、このおかしな人たちがみなさんに与えてくれますように、つらい夜にそっと寄り添ってくれますように。
そんな人に「いいから寝ろよ」とミミちゃん(引用者註.作品中の主人公とおぼしき〈私〉)が男らしく言ってくれますように。
(『同上』「あとがき」P185-P186)
物語の起伏(筋)は、物語世界内の語り手の働きにより作者の作品に込めるモチーフに仕えながらも、語り手の導きによって登場人物たちに〈心〉を消費させる。そのことが、読者にわくわく感などの心の緊張を与え、読者がその物語の流れをたどっていく過程で、読者に心の充実した消費を提供することになる。一方、物語の底流には作者のモチーフが潜在していて、物語の起伏(筋)とともに流れて行く。この両者は、深く関わり合っているが、分離して取り出してみることができそうである。読者を楽しませる物語の起伏(筋)と潜在する作者のモチーフである。
ここで、吉本ばななはこの作品に潜在する作者のモチーフこそがとっても大切で微妙なものだと語っている。それは、引用部の微妙な描写、藪をかき分けて小さな道筋をたどっていくような描写として実現されようとしている。
「登場人物の語る言葉が文字として見える人には見えるという着想は」、荒唐無稽である、と述べたことは訂正しなくてはならない。『カエルの声はなぜ青いのか?―共感覚が教えてくれること』を読んでいたら、以下のような記述に出会ったからである。これは一度出会ったことがあるぞと思って、すぐに吉本ばななの『吹上奇譚』の登場人物を思い浮かべた。しかも、一度触れていた。
際立った共感覚者で知人のスザンヌの場合、誰かが話しているのを見ると、それが文字になって文字通り、口から出てくるらしい!ちょうど、(海外)漫画の吹き出しのように、口から吐き出された言葉はまさに、左から右へ、そして下へ向かって零れ落ちていくのだ。
(ジェイミー・ウォード『カエルの声はなぜ青いのか?―共感覚が教えてくれること』P174 青土社 2012年1月)
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