『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ④
4.物語の渦中で、「わたし」の多重性
わたしが、この作品中のの「わたし」の多重性に気づいたのは、以下に引用するA.では、「わたし」は、医務局で「定期検診」を受けたのに、C.では、「わたしだって病気一つしないから、医務局にすら行ったことがない。定期検診のことも聞いたことがない。」という言葉に出会った時だ。あれ、なんかおかしいぞと思った。もうひとつ挙げてみる。「わたしは崩壊そのものととなって、こちらに向かってくるガルを眺めていた。感情も何もないのだから、記憶できるわけがない。わたしは崩壊そのものとなって当然のように崩れ落ちていった。」(P123)とあるのに、後の方では、「定期検診後、時間は停止しているように感じられる。わたしはまったく別の思考回路で地面の上を歩いていた。わたしはまだ崩壊していない。崩壊は別のところで起きていた。」(P174)とあって、矛盾した表現に見える。しかし、よく読みたどってみると、B.に引用しているように、その間に「もう一人のわたし」についてすでに描写されていた。
「わたし」の多重性に関わる文章を抜き出してみる。
A.
「わたし」は、医務局で「定期検診」を受ける。(P75-P82)
ワエイは一体どこを設計していたのだろうか。詳しいことは何もわからないままだった。医務局へ行けば戻れるかもしれない。しかし、あれ以来医務局からは一切連絡はなかった。連絡を取るための方法も知らない。(P197)
わたしは医務局から抜け出してきた。君もそうなんじゃないのか。違うのか。そういうふうにしか見えない。着ているのは患者服じゃないか。じゃあ、君は患者のふりをしているってことか。なんのために。ここじゃ誰もが患者にだけはなりたがらない。それよりも労働者のほうがいいと言う。(P223)
B.
子どもたちは目が見えないのかもしれない。地中の動物のように目が退化しているのだろうか。しかし、目はぱっちり開いていた。明らかに何かを見ていた。焦点が合っているのは、わたしではなく、もう一人のわたしだった。今起きていることは、わたしの内側ではなく、外側で起きていた。いや、内側と外側がねじれていた。F域にいるからか。確かめようにも子どもたちとはまったく何も話せない。
わたしは、目を覚ましたもう一人のわたしのことを以前にも書いていた。しかしそれは、もう一人のわたしが書いたのではないか。わたしはそう感じている。ここではわたしが「場所」になっていた。F域とは関係なかった。
わたしは彼らにとっての「言葉」にもなっていた。彼らが何を話しているのか聞こえないのも、それはわたしが言葉だからだ。言葉には聞くという機能はない。わたしは淡々と書いている。手が勝手に動いていた。わたしに見えている風景ではなかった。(P118-P119)
わたしは今、この場所にいることが奇跡のように感じていた。わたしはここで起きている現象に見とれていた。しかし、何も見えていなかった。見えていないのに見とれていた。つまり、わかっていたことだが、わたしが見ているのではなかった。
前方に一台のガルが止まっていた。アームを動かしながら瓦礫を積み込んでいる。そのガルの荷台の上に男が立っているのが見えた。目をこらすと、その男はもう一人のわたしだった。男はわたしの頭の中にいたわけではなかった。わたしから発生しているわけでもなかった。自分の足で立って遠くを見ていた。(P122)
森の奥に広場があった。わたしは腹が減っていたので、迷うことなく中に入っていった。地下に設計部があった。・・・中略・・・働けと言われたら、そのまま受け入れるだけだった。いつだってわたしはには決定権がなかった。わたしが働いていたのかすらわからなくなるときだってあった。それは設計部にきても変わらなかった。なぜわたしは設計をやる羽目になったのか、振り返るよりもずっと昔に、これが決まっていたってことなのかもしれない。これはわたしとは別の体で起きていた。ところが別の世界ってわけじゃない。世界はいつだって一つだった。要はわたしが、一つじゃなかったということなんだろう。(P150-P151)
C.
今では誰もそんなことを想像できないだろう。ここは町なんかじゃなかった。ここはただの雑草が生えた草原だった。ただの砂漠だったかもしれない。わたしの記憶がおかしくなっているのだろう。労働者たちは誰も気が狂ったりしていない。暴動一つ起こらない。わたしだって病気一つしないから、医務局にすら行ったことがない。定期検診のことも聞いたことがない。何か体の調子でも悪いのか?(P187)
前々回、この作品は、昔風にいえば「私小説」的な作品で、「わたし」≒「作者」と見なせると考えた。「わたし」の他に「もう一人のわたし」の存在が「わたし」によって認められるということは、「わたし」の多重性ということであり、「わたし」≒「作者」から言えば、「わたし」の多重性≒「作者」の多重性ということになる。
この物語世界では、「わたし」は主要な登場人物であるとともに、「わたし」=「語り手」だから、「わたし」が多重化しているということは、「語り手」も多重化している可能性もあり得る。B.で「わたしは、目を覚ましたもう一人のわたしのことを以前にも書いていた。しかしそれは、もう一人のわたしが書いたのではないか。わたしはそう感じている。」と「わたし」はその可能性を考え、語っている。しかし、これは「わたし」の疑念であり、「わたし」の不安の表現と見るほかないと思う。
なぜならば、「わたし」の多重化に対応して「語り手」も多重化していると考えると、物語世界で、「わたし①」=「語り手①」、「わたし②」=「語り手②」・・・となって、作品世界を統合する主体が不在になってしまう。したがって、あくまでもう一人のわたしを感知する多重化した意識を持つ「わたし」が、物語世界の主体になっていると考えるべきだと思う。そうしてそうした状況は、「わたし」の見聞きしたり、感じたりするもので物語世界を統合する「わたし」≒「作者」の揺れ動く不安定な状況を象徴していることになる。もちろん、そうした事態は〈鬱的世界〉がもたらしているものである。
作中では、「わたし」がメモを取っているというか文章を書いていることになっている。その「わたし」の書くことに触れている部分がある。
確かにわたしが書いている。しかし、わたしは複数に分裂していた。別の言語で考えているのではないか。そんな気もした。書いている内容を完全に把握している自分もいた。体の力を抜くと、誰かが乗っ取ったように自動的に手が動き始めた。手は何かを書いている。これはわたしではない者によるメモだ。医務局に提出できるような代物ではなかった。しかし本来、提出すべきはこういった類のメモではないのか。わたしではない者が侵入している証拠になっているはずだ。わたしの体は侵入経路がわかる生きる資料になっていた。(P174)
作中の「わたし」≒「作者」と見なすわたしの考えからは、これは作中の「わたし」の有り様であるとともに作者の有り様でもあると思われる。多重化している状況が語られている。
わたしは、〈鬱的世界〉の外側から〈鬱的世界〉の渦中の「わたし」≒「作者」の振る舞い、すなわち、表現されたイメージ流の世界を見ていることになる。ということは、わたしの言葉はそのイメージ流の内側での「わたし」≒「作者」の苦や快などの実感からは遠いということになるのかもしれない。物語作品を読むことも、一般化すれば、語られたり書かれたりする表現された世界を介しての他者理解の範疇に当たる。この場合でも、表現された世界の内側に入り込むことは難しい。くり返し読んだりていねいに読みたどったりして、表現された世界のイメージ群が収束していくところの作者のモチーフに近づこうとする。この場合、同時代的な感受やイメージの有り様の一般性が前提とされている。しかし、この作品の場合には、その前提が稀薄である。つまり、作品世界の「わたし」≒「作者」が浸かっている〈鬱的世界〉の感受やイメージの有り様の特異さが、この作品の理解を難しくしているように感じられる。
しかし、一方で、その世界は、わたしたち読者には豊饒のイメージ世界とも映る面がある。後で取り上げるが、この作品には古代の神話的な記述と同じではないかと思える個所もある。〈鬱的世界〉の渦中の「わたし」≒「作者」にとっては、それらの動的なイメージの飛び交う世界は〈苦〉をも伴うのかもしれないが、ある種のイメージについては変奏されながらもくり返し目にしてきた見慣れた感じや親和感もあるのかもしれない。
4.物語の渦中で、「わたし」の多重性
わたしが、この作品中のの「わたし」の多重性に気づいたのは、以下に引用するA.では、「わたし」は、医務局で「定期検診」を受けたのに、C.では、「わたしだって病気一つしないから、医務局にすら行ったことがない。定期検診のことも聞いたことがない。」という言葉に出会った時だ。あれ、なんかおかしいぞと思った。もうひとつ挙げてみる。「わたしは崩壊そのものととなって、こちらに向かってくるガルを眺めていた。感情も何もないのだから、記憶できるわけがない。わたしは崩壊そのものとなって当然のように崩れ落ちていった。」(P123)とあるのに、後の方では、「定期検診後、時間は停止しているように感じられる。わたしはまったく別の思考回路で地面の上を歩いていた。わたしはまだ崩壊していない。崩壊は別のところで起きていた。」(P174)とあって、矛盾した表現に見える。しかし、よく読みたどってみると、B.に引用しているように、その間に「もう一人のわたし」についてすでに描写されていた。
「わたし」の多重性に関わる文章を抜き出してみる。
A.
「わたし」は、医務局で「定期検診」を受ける。(P75-P82)
ワエイは一体どこを設計していたのだろうか。詳しいことは何もわからないままだった。医務局へ行けば戻れるかもしれない。しかし、あれ以来医務局からは一切連絡はなかった。連絡を取るための方法も知らない。(P197)
わたしは医務局から抜け出してきた。君もそうなんじゃないのか。違うのか。そういうふうにしか見えない。着ているのは患者服じゃないか。じゃあ、君は患者のふりをしているってことか。なんのために。ここじゃ誰もが患者にだけはなりたがらない。それよりも労働者のほうがいいと言う。(P223)
B.
子どもたちは目が見えないのかもしれない。地中の動物のように目が退化しているのだろうか。しかし、目はぱっちり開いていた。明らかに何かを見ていた。焦点が合っているのは、わたしではなく、もう一人のわたしだった。今起きていることは、わたしの内側ではなく、外側で起きていた。いや、内側と外側がねじれていた。F域にいるからか。確かめようにも子どもたちとはまったく何も話せない。
わたしは、目を覚ましたもう一人のわたしのことを以前にも書いていた。しかしそれは、もう一人のわたしが書いたのではないか。わたしはそう感じている。ここではわたしが「場所」になっていた。F域とは関係なかった。
わたしは彼らにとっての「言葉」にもなっていた。彼らが何を話しているのか聞こえないのも、それはわたしが言葉だからだ。言葉には聞くという機能はない。わたしは淡々と書いている。手が勝手に動いていた。わたしに見えている風景ではなかった。(P118-P119)
わたしは今、この場所にいることが奇跡のように感じていた。わたしはここで起きている現象に見とれていた。しかし、何も見えていなかった。見えていないのに見とれていた。つまり、わかっていたことだが、わたしが見ているのではなかった。
前方に一台のガルが止まっていた。アームを動かしながら瓦礫を積み込んでいる。そのガルの荷台の上に男が立っているのが見えた。目をこらすと、その男はもう一人のわたしだった。男はわたしの頭の中にいたわけではなかった。わたしから発生しているわけでもなかった。自分の足で立って遠くを見ていた。(P122)
森の奥に広場があった。わたしは腹が減っていたので、迷うことなく中に入っていった。地下に設計部があった。・・・中略・・・働けと言われたら、そのまま受け入れるだけだった。いつだってわたしはには決定権がなかった。わたしが働いていたのかすらわからなくなるときだってあった。それは設計部にきても変わらなかった。なぜわたしは設計をやる羽目になったのか、振り返るよりもずっと昔に、これが決まっていたってことなのかもしれない。これはわたしとは別の体で起きていた。ところが別の世界ってわけじゃない。世界はいつだって一つだった。要はわたしが、一つじゃなかったということなんだろう。(P150-P151)
C.
今では誰もそんなことを想像できないだろう。ここは町なんかじゃなかった。ここはただの雑草が生えた草原だった。ただの砂漠だったかもしれない。わたしの記憶がおかしくなっているのだろう。労働者たちは誰も気が狂ったりしていない。暴動一つ起こらない。わたしだって病気一つしないから、医務局にすら行ったことがない。定期検診のことも聞いたことがない。何か体の調子でも悪いのか?(P187)
前々回、この作品は、昔風にいえば「私小説」的な作品で、「わたし」≒「作者」と見なせると考えた。「わたし」の他に「もう一人のわたし」の存在が「わたし」によって認められるということは、「わたし」の多重性ということであり、「わたし」≒「作者」から言えば、「わたし」の多重性≒「作者」の多重性ということになる。
この物語世界では、「わたし」は主要な登場人物であるとともに、「わたし」=「語り手」だから、「わたし」が多重化しているということは、「語り手」も多重化している可能性もあり得る。B.で「わたしは、目を覚ましたもう一人のわたしのことを以前にも書いていた。しかしそれは、もう一人のわたしが書いたのではないか。わたしはそう感じている。」と「わたし」はその可能性を考え、語っている。しかし、これは「わたし」の疑念であり、「わたし」の不安の表現と見るほかないと思う。
なぜならば、「わたし」の多重化に対応して「語り手」も多重化していると考えると、物語世界で、「わたし①」=「語り手①」、「わたし②」=「語り手②」・・・となって、作品世界を統合する主体が不在になってしまう。したがって、あくまでもう一人のわたしを感知する多重化した意識を持つ「わたし」が、物語世界の主体になっていると考えるべきだと思う。そうしてそうした状況は、「わたし」の見聞きしたり、感じたりするもので物語世界を統合する「わたし」≒「作者」の揺れ動く不安定な状況を象徴していることになる。もちろん、そうした事態は〈鬱的世界〉がもたらしているものである。
作中では、「わたし」がメモを取っているというか文章を書いていることになっている。その「わたし」の書くことに触れている部分がある。
確かにわたしが書いている。しかし、わたしは複数に分裂していた。別の言語で考えているのではないか。そんな気もした。書いている内容を完全に把握している自分もいた。体の力を抜くと、誰かが乗っ取ったように自動的に手が動き始めた。手は何かを書いている。これはわたしではない者によるメモだ。医務局に提出できるような代物ではなかった。しかし本来、提出すべきはこういった類のメモではないのか。わたしではない者が侵入している証拠になっているはずだ。わたしの体は侵入経路がわかる生きる資料になっていた。(P174)
作中の「わたし」≒「作者」と見なすわたしの考えからは、これは作中の「わたし」の有り様であるとともに作者の有り様でもあると思われる。多重化している状況が語られている。
わたしは、〈鬱的世界〉の外側から〈鬱的世界〉の渦中の「わたし」≒「作者」の振る舞い、すなわち、表現されたイメージ流の世界を見ていることになる。ということは、わたしの言葉はそのイメージ流の内側での「わたし」≒「作者」の苦や快などの実感からは遠いということになるのかもしれない。物語作品を読むことも、一般化すれば、語られたり書かれたりする表現された世界を介しての他者理解の範疇に当たる。この場合でも、表現された世界の内側に入り込むことは難しい。くり返し読んだりていねいに読みたどったりして、表現された世界のイメージ群が収束していくところの作者のモチーフに近づこうとする。この場合、同時代的な感受やイメージの有り様の一般性が前提とされている。しかし、この作品の場合には、その前提が稀薄である。つまり、作品世界の「わたし」≒「作者」が浸かっている〈鬱的世界〉の感受やイメージの有り様の特異さが、この作品の理解を難しくしているように感じられる。
しかし、一方で、その世界は、わたしたち読者には豊饒のイメージ世界とも映る面がある。後で取り上げるが、この作品には古代の神話的な記述と同じではないかと思える個所もある。〈鬱的世界〉の渦中の「わたし」≒「作者」にとっては、それらの動的なイメージの飛び交う世界は〈苦〉をも伴うのかもしれないが、ある種のイメージについては変奏されながらもくり返し目にしてきた見慣れた感じや親和感もあるのかもしれない。
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