坂口くんのひみつ
註.
以下の文章は、2022年の12月に書き始めて、1から3までだいたい書き上げてそのままにしていたものである。少し手を入れて、そろそろ公表することにした。(2024.8.17)
1.はじめに
坂口恭平という存在を知ったのは、今年(2023年)の1月の始め頃に亡くなった、熊本に住んでいた表現者、森崎茂の文章によってだった。森崎茂はものごとを初源から深く思索を続けてきた人ではあるが、その文章に対しては、人間的な本質や人類の可能態としてそんな考えや生存のあり方は可能だろうかと、絶えず疑問符を付してネット上に公表される言葉に付き合ってきた。彼の思想の核の部分は、わたしの想像では全共闘的な過剰なパトス(熱情)の名残のような気がしていた。そんな彼が坂口恭平という表現者を取り上げていた。興味関心さえあれば、この世界では思わぬつながりや出会いがあるなと思う。
わたし(たち)が他者を想起する時、誰もがひみつを持っているなと思う。そのひみつとは、ひとりひとりの生き方のスタイルみたいなもので、この世界に生まれ育って形成されたものである。この列島の精神の遺伝子のような共通性として抽出できる面もありながら、個々の家族や地域で育まれた固有の生き方のスタイルを具体的に持ってしまっている。他者を意識の俎上に乗せて理解しようとする時、そのような他者が一種の「ひみつ」を持っているように感じられる。しかし、本人にとっては、そのことはひみつでも何でもなくて、意識的あるいは無意識的な行動を割と自然に日々くり返しているというふうになっている。
わたしが坂口くんの表現に向かう時、坂口くんにもひみつがあるように感じられる。もちろんわたしたちは、誰にもひみつはあるように感じてしまう。この場合、わたしに映る「ひみつ」とは、わたしたちの前に公然と現れてはいても、公然とわたしたちに気づかれていないことを意味している。わたしたちが人付き合いをくり返していけば、そのひみつは少しずつ薄らいでいくだろう。しかし、そのひみつが霧消することはないような気がする。他者を家族や親友などで考えても、あるいは自分自身を他者と考えても、他者を理解し尽くすことはできないと思われるからだ。
したがって、「坂口くんのひみつ」と題したからといってその「ひみつ」を公然とあきらかにできるとは思っていない。坂口くん自身には「ひみつ」でも何でもない割と自然なことかもしれないが、わたし(たち)には「坂口くんのひみつ」に見えたり感じられたりする。だから、坂口くんの表現や言葉に驚いたり感心したりもする。
坂口くんは、いろんなものに手を出す。多才である。そのひみつの周辺や性格を主に彼の言葉の表現(残念ながら例えば絵画や音楽や服飾や料理などはまだ触れることはできない)から少しでもはっきりできればいいなと思っている。付け加えると、言葉の表現は、彼の全表現の一部だが、その一部や細部にも彼の生き方の固有のスタイルが貫かれているはずだと思うから、この言葉の道を進むことにしよう。
この文章の題名を思いついたのは、本文の中にある言葉に出会う前である。2022年12月5日にネットで公開された文章を読んだ部分に「秘密」という言葉があった。
僕の中で今、一番熱いこと、燃えていること、湧いていること、思いついていること、閃いていること、心の奥の奥のそのまた奥の秘密の言葉、それを人々に伝えるのが、教育なんです。
(「お金の学校(8)文藝春秋にとっての王とは何か?」)
自分の思いついたことや考えたことや自分の戦略などが語られているこの文章は、坂口くんの意識的・自覚的な面と同時に本人も無自覚な・無意識的な面も織り合わさっているように見える。そして、そのことは誰の文章についても言えることである。だから、「秘密の言葉」の含みはそのような二重の意味を持っているとわたしには感じられる。
坂口君が表現した言葉から、そのひみつに触れる方法はいくつもあると思う。例えば、坂口くんが時々触れる西欧哲学のドゥルーズやフーコーやソクラテスなどの言葉の通路を通ってそのひみつにたどり着こうとする道もあるかもしれない。ぼくがここで坂口くんのひみつに触れる方法は、親鸞の「橫超」(おうちょう)という言葉の道を通ることだ。それが最善かどうかはわからないが、大事な、反復された未知の道だと思っている。
2.「堅超」と「横超」
坂口くんは、現状の政策や政治などにクソッタレ!という気持ちを内心に持っているように見える。一、二度彼のそんなツイートに出会ったことがあると記憶しているが、ほとんどそんな言葉は表出しない。すなわち一般的になされているように、現実を対象として取り上げ格闘して批評の言葉を積み重ねて自力を磨いていくというふうではなくて、彼の口からふわっとあるやり方が示されるという印象を受ける。
仏教で、心身を痛めつけて自力の修行をしながら少しずつ悟りへ上り詰めていくのが「堅超」(しゅちょう)と言われ、現在でもその考え方は、この社会での人の生き方として当たり前の普通の考え方として根強く社会の主流を占めている。きびしい修行を上り詰めると仏が実感されたり見えるようになるのだろう。もちろん、外からの現在的な視線によれば、それらの仏教の自力修行は幻覚の一種を見ているに過ぎないと言えよう。それを現代風に言えば、人は、日々自己研鑽をし一歩ずつ成果を出して自己実現をしていく、そうして社会に貢献する。現代では仏をほのかに見るのではなく、そうした自己完成が目的となっている。これは、学校教育から企業社会に渡って貫かれている。ひとりひとりは、いわば学校や企業に収奪された生き方のスタイルを強いられている。そういう息苦しく見える生き方のスタイルから脱け出て、割と自由な生き方のスタイルを選択する人々もいる。
坂口くんも、そんな「脱」の、割と自由な生き方のスタイルを取っている。
親鸞は、比叡山の堅超世界を二〇年ほど潜り抜けて、比叡山という世界から下りてきた。比叡山で修行する日々で親鸞はいろんな疑問や疑念を抱き、考え抜いてきたのだろう。念仏はただの一遍唱えただけでも極楽に往生できるという「一念義」を称えるようになった。これはひとたび念仏を称えれば、一挙に悟りに入るという考え方であり、これは親鸞の言う横様に超える、あるいは一気にある状態に至るという「横超」(おうちょう)に相当する。坂口くんからは、どうもこんな印象を受けるのだ。
宗派によっては現在でも残っているのだろうが、仏教の「堅超」という考え方は、仏教を超えた普遍的なものとして現在でも自然な考え方と見なされている。例えば、お菓子作りの修行でも、他に学びながら自力の修行をしなくては一人前にはならないという「堅超」は自然な道筋や考え方として成り立っている。このことは、学校の勉強でも会社の仕事でも、お稽古ことでも、・・・あらゆる分野について当てはまる全社会的なものであるように感じられている。そのこと自体は、避けられないことかもしれない。問題は、修行や努力のくり返しが、一種ヘーゲル的な上り詰める自己完成やそこから下りてくる強制をともなっていることである。一般に、そうしたことは人に不安や圧迫感などの苦をもたらしている。坂口くんの場合も、例えばパステル画をものにするにも、先人の方法などに学んだり、「堅超」的な日々の努力は必要だった。ただし、少し違うのは、好きだ、楽しいということを欠かせない大事な要素として持っていたことである。
ところで、それぞれの小世界内で、日々修行努力していかなくてはならないという「堅超」という考え方や生き方が肌感覚としてなじめない者たち、いわゆる社会の壮年期的な常識や規範からの「落ちこぼれ」者はどうすればいいのだろうか。あるいはまた、社会の壮年期の人々に主流の考え方にしか見えないそういう考え方から外れている世代、幼少年期や老年期の人々はどうすればいいのだろうか。
3.横超するということ
「堅超」と「横超」は、それぞれの内にある者から見れば特に相互に対立して見えるだろう。現に、ある事件をきっかけに、「1207年、後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然及び親鸞ら門弟7人が流罪とされ」(wiki)ている。これは、具体的な事件があって断罪されたとはいえ、「堅超」の考え方の旧来の仏教が国家の庇護の下にあったということ、旧来の仏教が政治や権力と結びついていたということ、そして彼らが法然や親鸞らの新しい仏教の動向に批判的であったことによっている。現在では、この「堅超」という考え方は社会内に分布していて、誰もがその考え方の虜(とりこ)になっている。したがって、組織で上位に立つ者がそこから発する権力を行使できるようになっている。「堅超」という考え方やそれにもとづく行動をしない者は、学校内に限らず周囲からは「落ちこぼれ」と見なされるだろう。そんな者が度が過ぎていると見なされたら、組織で上位に立つ者から排除されることもある。
こうして、日々修行努力してある境地に至るという「堅超」の世界内からは、「堅超」という考え方は現在にまでも生きている絶対性のようなものである。「横超」という感覚や概念は、「堅超」の世界内にあっての息苦しさや疑念に発祥したものであるように見える。そして、「堅超」の世界内を司る視線からすれば、それは怠惰や怠けと映り、許されないもの、対立するものと見なされる。
そんな対立的に現象したり、見なされたりする「堅超」と「横超」の関係は、それ以外に取りようのない絶対的なものだろうか。ここで、両者が言葉の普遍の有り様に照らされるなら、それぞれの言葉が人間の総体的な表現の中でどこにどのように位置するかという内省が起こりうる。別の言い方をすれば、「堅超」と「横超」の関係が人間の本質性から照らされた言葉となっているかということである。この社会内には、赤ちゃんも幼少年も青年も壮年も老年も存在している。この社会内の壮年期の層、特に政治経済の支配的な層や学校教育に関わる層からそれこそが大切な中心や主流だという顔をして繰り出される、「堅超」的な頑張りや努力や自己研鑽などは、赤ちゃんや幼少年や老年の層には無縁ではないとしても薄い関係しか持たない。むしろ、赤ちゃんや幼少年期や老年期の本質は、生きること自体を楽しむ「横超」的な生き方のスタイルが主流となっている時期である。人の生涯の真ん中の一部の時期にしか通用しそうにない論理や考えや生き方(「堅超」)を、人の生涯に渡って適用しようとするからいびつなものに感じられてしまうのである。
したがって、この社会内で常識だ自然だと見なされ社会を制圧している「堅超」の固い鎧を解(ほど)いて、気ままにゆったり気分よくの「横超」と対立的・制圧的ではなくうまい出会い方をすることが必要なんだろうと思う。わたしは、「堅超」的なものの考え方や生き方は全否定されるべきだとは思えない。それにもそれなりの居場所はありそうに思う。問題は、「堅超」的なものの考え方や生き方を人間の生涯に押し広げて適用したり強要したりすることにある。
そのことをもう少し考えてみる。
現在の社会は、全体として「堅超」世界的だといっても、その社会の基層(家族などの生活世界)や局所(趣味、サークルなどの小社会)には例えば「のんびりゆっくり」や「気まま」などに象徴される「横超」の世界が存在する。「堅超」世界の権力線に公然と突っかかったり反抗したりしない限り鳴子(なるこ)はならないし排除までにそう簡単には至らない。
大枠としては、現在の社会も全体として「堅超」世界的である。その大枠内にわたしたちは存在せざるを得ない。そこで、普通の生活でも文学の表現でもいいが、人間の本質性から照らされて、もっと自由に気楽にのびのびと生きていたいという思いからの実践には二通りくらいの形がありそうだ。
ひとつは、濃度が濃くなっている「堅超」世界内に存在していたとしても、精神の肩こりに耐えながら魂までは売り渡さないという存在の仕方である。二重生活というべきか。誰もが会社勤めなどしながらそういう生活をしている。
もうひとつは、法然や親鸞が濃度が濃い「堅超」世界の比叡山を飛び出して、新たな宗派や宗教を起こしたように、「堅超」世界を抜け出して「横超」的に地方に移住して小規模の起業をしたり、フリーランスのように仕事や文学表現などをするやり方である。
濃度が濃い「堅超」世界の内にいるかぎり、「堅超」と「横超」との二重生活は苦しい。しかし、大多数の普通の人々はそういう生活をしている。そんな中にも「堅超」世界の仕事の重圧に耐え忍んでいる人々もおれば、うつ病を強いられている人々もいるのだろう。誰もが濃い「堅超」世界からぱっと抜け出てわりと自由に振る舞えるわけではない。わたしたちは、二通りの存在の仕方があっても、いずれにおいても日々「横超する」ということを実践しているのである。それは見かけとしては気晴らしや趣味の活動とかに見えても、人の内心の本質としては「横超」しているのである。
わたしたちは、経済や精神の「選択的消費」をして日々「横超」している。わかりやすく言えば、堅く凝り固まったからだをほぐすように、時に好きなことや気晴らしに自分を解放している。それは、中心の大事な仕事から外れた、周辺の単なる気晴らしとかではなく、人間の本質の根っこから湧き出る気ままな自由や平等の振る舞いであり、価値の火花とも言えるように思う。
付け加えれば、1960年代辺りの高度経済成長期と言われた時代は、まさしく「堅超」の考え方や生き方が蔓延し人々はそれに追いまくられる社会だった。それに比べると、現在の消費資本主義の社会では、「堅超」的な考え方やシステムが緩(ゆる)み、「横超」的な考えや行動に対する許容度も増してきたように感じている。
高度経済成長期辺りまでの社会を象徴する文体を窮乏の社会の文体である「竪超」とすれば、窮乏を一応脱した現在の消費資本主義の社会を象徴する文体はこの横超であると思う。それは、まだまだ十分に花開いてはいないけど。
4.坂口くんの横超する姿
ここで、坂口くんの場合の横超する姿を見てみたい。長い生活や表現の経験と実感から生み出された言葉や生き方の方法である。よく考え抜かれていると感心する。それは、わたしたちのずいぶん凝り固まった重たい生き方に、浮力を与え、解きほぐすものを放ってくれるような気がする。
坂口くんの『継続するコツ 』という単行本の目次は次のようになっている。
はじめに 僕について
第1章 人からの評価はいらない
第2章 作りたいのに、作れない
第3章 とにかく定量を死ぬまで継続。これこそが人生……?
第4章 生きている時間を、ただひたすら自分がやりたいことだけで埋めていく
第5章 続けていると、予測ができる
第6章 どうやって生活を作り上げるか
終章 いつまでビビっとるんじゃい!
おわりに 幸福とは何か
この目次の流れを見れば、この社会を生きてくる中で培われた、あるいは囚われている「堅超」的な固定観念を「脱」して、「横超」的な柔軟な生活や生き方を実践する、そのことを坂口くんの今まで生きてきた経験と実感や勘などを総動員した指南書であることが感じられる。
『継続するコツ 』という単行本になる前の、ネットに公表された「継続するコツ」は次のような目次になっている。比較検証はしないが、たぶん単行本では手が入って元の文章が少し整序されているのかもしれない。
第0回 はじめに 2022年4月4日
第1回 継続に才能は全く関係がありません 2022年4月4日
第2回 継続できない理由 2022年4月4日
第3回 作りたいのに作れないというスランプについて 2022年4月5日
第4回 無能の術 2022年4月6日
第5回 何を書きたいとかはなく、ただ書きたいだけなんです 2022年4月12日
第6回 継続仙人と出会う 2022年4月17日
第7回 作るとは自分が得意な方法が何を知ること 2022年4月18日
第8回 どうやって自分の生活を作り上げるのか 2022年4月25日
第9回 継続したくなる環境 2022年4月27日
坂口くんの「横超」する姿をその表現された言葉から少し取り出してみよう。『継続するコツ 』の単行本は持っているが、書き写す必要がなく都合がいいのと割と生の現場感が出ていると思われるので、ネットに公表された文章から引用する。表現された言葉の濃度が濃いと思われる個所、言いかえれば「横超」的な言葉の姿が強く感じられるところを抜き出してみた。長い引用のため、同時に『継続するコツ 』の本の紹介にもなっているだろう。
1.
つまり、何かを継続している時の方が、楽しいんです。
この馬鹿みたいな単純なことに、僕は気づいたんです。発見したというほど大袈裟なことではないのかもしれませんが、僕にとってそれはとても大きな発見でした。
継続することが幸福ということなのではないか。
このことに気づいたんです。確かに、僕は今、じんわりとですが、幸福を感じてます。しかも、継続してますから、その幸福がじんわりとですがジーンと長く続いているんですね。
幸せとは何か?
これは生きている人間が全て気にしている命題だと思うのですが、僕なら「幸せとは、自分が興味があることを今も継続できていることである」と言うでしょう。
継続は人との比較を無効化します。継続は自分が好きなことをまたもう少しだけ好きになること、興味があることをまたもう少しだけ興味を広げることにつながります。
なんか気持ちよさそうじゃないですか? 実際、継続はとても気持ちがいいです。
でも継続こそが一番難しいと思っている方も多いようなんです。電話で聞く限り僕はそう感じました。
でも嫌なことをずっとやるより、少しでも興味があることを継続する方が楽しくないですか? これは当たり前にわかりますよね。
人生は1日1日が継続していくわけですから、やっぱり、毎日の生活は自分が興味を持っていることを継続していく方が楽しいに決まってます。
でもなぜか難しいと思われている。僕はこれは誤解されていると思ってます。そこでこの本でその誤解を解きたいんです。
*******************************
もっというと、売れることよりもはるかに継続していくことの方が重要です。そうすれば、人生は切り開かれていきます。
しかし、多くの人が、売れないことを理由にして、お金にならないことを理由にして、継続を諦めていきます。
そうすると、人生が止まってしまいます。楽しくなくなります。幸福じゃなくなります。
それは辛いことです。そして、興味がないけど、お金になることに向かっていきます。
でも結局それも継続しなくてはいけないのです。生活ですから、人生ですから。生きるためには全て継続が関わってきます。
継続は実はお金とは関係がありません。だからお金のために継続を諦めるのはおそらく勘違いです。
人生はお金ではありません。僕が感じているのは人生は継続です。それのみです。だって継続とは毎日の生活ってことですから。
この本では、何かを作っている人に向けて書いてみようと思います。その人たちにとっては、僕も同様ですが、死ぬまで作り続けられたらそれは幸福だと思うからです。
(『継続するコツ 』「第0回 はじめに」2022年4月4日)
註.
以下の文章は、2022年の12月に書き始めて、1から3までだいたい書き上げてそのままにしていたものである。少し手を入れて、そろそろ公表することにした。(2024.8.17)
1.はじめに
坂口恭平という存在を知ったのは、今年(2023年)の1月の始め頃に亡くなった、熊本に住んでいた表現者、森崎茂の文章によってだった。森崎茂はものごとを初源から深く思索を続けてきた人ではあるが、その文章に対しては、人間的な本質や人類の可能態としてそんな考えや生存のあり方は可能だろうかと、絶えず疑問符を付してネット上に公表される言葉に付き合ってきた。彼の思想の核の部分は、わたしの想像では全共闘的な過剰なパトス(熱情)の名残のような気がしていた。そんな彼が坂口恭平という表現者を取り上げていた。興味関心さえあれば、この世界では思わぬつながりや出会いがあるなと思う。
わたし(たち)が他者を想起する時、誰もがひみつを持っているなと思う。そのひみつとは、ひとりひとりの生き方のスタイルみたいなもので、この世界に生まれ育って形成されたものである。この列島の精神の遺伝子のような共通性として抽出できる面もありながら、個々の家族や地域で育まれた固有の生き方のスタイルを具体的に持ってしまっている。他者を意識の俎上に乗せて理解しようとする時、そのような他者が一種の「ひみつ」を持っているように感じられる。しかし、本人にとっては、そのことはひみつでも何でもなくて、意識的あるいは無意識的な行動を割と自然に日々くり返しているというふうになっている。
わたしが坂口くんの表現に向かう時、坂口くんにもひみつがあるように感じられる。もちろんわたしたちは、誰にもひみつはあるように感じてしまう。この場合、わたしに映る「ひみつ」とは、わたしたちの前に公然と現れてはいても、公然とわたしたちに気づかれていないことを意味している。わたしたちが人付き合いをくり返していけば、そのひみつは少しずつ薄らいでいくだろう。しかし、そのひみつが霧消することはないような気がする。他者を家族や親友などで考えても、あるいは自分自身を他者と考えても、他者を理解し尽くすことはできないと思われるからだ。
したがって、「坂口くんのひみつ」と題したからといってその「ひみつ」を公然とあきらかにできるとは思っていない。坂口くん自身には「ひみつ」でも何でもない割と自然なことかもしれないが、わたし(たち)には「坂口くんのひみつ」に見えたり感じられたりする。だから、坂口くんの表現や言葉に驚いたり感心したりもする。
坂口くんは、いろんなものに手を出す。多才である。そのひみつの周辺や性格を主に彼の言葉の表現(残念ながら例えば絵画や音楽や服飾や料理などはまだ触れることはできない)から少しでもはっきりできればいいなと思っている。付け加えると、言葉の表現は、彼の全表現の一部だが、その一部や細部にも彼の生き方の固有のスタイルが貫かれているはずだと思うから、この言葉の道を進むことにしよう。
この文章の題名を思いついたのは、本文の中にある言葉に出会う前である。2022年12月5日にネットで公開された文章を読んだ部分に「秘密」という言葉があった。
僕の中で今、一番熱いこと、燃えていること、湧いていること、思いついていること、閃いていること、心の奥の奥のそのまた奥の秘密の言葉、それを人々に伝えるのが、教育なんです。
(「お金の学校(8)文藝春秋にとっての王とは何か?」)
自分の思いついたことや考えたことや自分の戦略などが語られているこの文章は、坂口くんの意識的・自覚的な面と同時に本人も無自覚な・無意識的な面も織り合わさっているように見える。そして、そのことは誰の文章についても言えることである。だから、「秘密の言葉」の含みはそのような二重の意味を持っているとわたしには感じられる。
坂口君が表現した言葉から、そのひみつに触れる方法はいくつもあると思う。例えば、坂口くんが時々触れる西欧哲学のドゥルーズやフーコーやソクラテスなどの言葉の通路を通ってそのひみつにたどり着こうとする道もあるかもしれない。ぼくがここで坂口くんのひみつに触れる方法は、親鸞の「橫超」(おうちょう)という言葉の道を通ることだ。それが最善かどうかはわからないが、大事な、反復された未知の道だと思っている。
2.「堅超」と「横超」
坂口くんは、現状の政策や政治などにクソッタレ!という気持ちを内心に持っているように見える。一、二度彼のそんなツイートに出会ったことがあると記憶しているが、ほとんどそんな言葉は表出しない。すなわち一般的になされているように、現実を対象として取り上げ格闘して批評の言葉を積み重ねて自力を磨いていくというふうではなくて、彼の口からふわっとあるやり方が示されるという印象を受ける。
仏教で、心身を痛めつけて自力の修行をしながら少しずつ悟りへ上り詰めていくのが「堅超」(しゅちょう)と言われ、現在でもその考え方は、この社会での人の生き方として当たり前の普通の考え方として根強く社会の主流を占めている。きびしい修行を上り詰めると仏が実感されたり見えるようになるのだろう。もちろん、外からの現在的な視線によれば、それらの仏教の自力修行は幻覚の一種を見ているに過ぎないと言えよう。それを現代風に言えば、人は、日々自己研鑽をし一歩ずつ成果を出して自己実現をしていく、そうして社会に貢献する。現代では仏をほのかに見るのではなく、そうした自己完成が目的となっている。これは、学校教育から企業社会に渡って貫かれている。ひとりひとりは、いわば学校や企業に収奪された生き方のスタイルを強いられている。そういう息苦しく見える生き方のスタイルから脱け出て、割と自由な生き方のスタイルを選択する人々もいる。
坂口くんも、そんな「脱」の、割と自由な生き方のスタイルを取っている。
親鸞は、比叡山の堅超世界を二〇年ほど潜り抜けて、比叡山という世界から下りてきた。比叡山で修行する日々で親鸞はいろんな疑問や疑念を抱き、考え抜いてきたのだろう。念仏はただの一遍唱えただけでも極楽に往生できるという「一念義」を称えるようになった。これはひとたび念仏を称えれば、一挙に悟りに入るという考え方であり、これは親鸞の言う横様に超える、あるいは一気にある状態に至るという「横超」(おうちょう)に相当する。坂口くんからは、どうもこんな印象を受けるのだ。
宗派によっては現在でも残っているのだろうが、仏教の「堅超」という考え方は、仏教を超えた普遍的なものとして現在でも自然な考え方と見なされている。例えば、お菓子作りの修行でも、他に学びながら自力の修行をしなくては一人前にはならないという「堅超」は自然な道筋や考え方として成り立っている。このことは、学校の勉強でも会社の仕事でも、お稽古ことでも、・・・あらゆる分野について当てはまる全社会的なものであるように感じられている。そのこと自体は、避けられないことかもしれない。問題は、修行や努力のくり返しが、一種ヘーゲル的な上り詰める自己完成やそこから下りてくる強制をともなっていることである。一般に、そうしたことは人に不安や圧迫感などの苦をもたらしている。坂口くんの場合も、例えばパステル画をものにするにも、先人の方法などに学んだり、「堅超」的な日々の努力は必要だった。ただし、少し違うのは、好きだ、楽しいということを欠かせない大事な要素として持っていたことである。
ところで、それぞれの小世界内で、日々修行努力していかなくてはならないという「堅超」という考え方や生き方が肌感覚としてなじめない者たち、いわゆる社会の壮年期的な常識や規範からの「落ちこぼれ」者はどうすればいいのだろうか。あるいはまた、社会の壮年期の人々に主流の考え方にしか見えないそういう考え方から外れている世代、幼少年期や老年期の人々はどうすればいいのだろうか。
3.横超するということ
「堅超」と「横超」は、それぞれの内にある者から見れば特に相互に対立して見えるだろう。現に、ある事件をきっかけに、「1207年、後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然及び親鸞ら門弟7人が流罪とされ」(wiki)ている。これは、具体的な事件があって断罪されたとはいえ、「堅超」の考え方の旧来の仏教が国家の庇護の下にあったということ、旧来の仏教が政治や権力と結びついていたということ、そして彼らが法然や親鸞らの新しい仏教の動向に批判的であったことによっている。現在では、この「堅超」という考え方は社会内に分布していて、誰もがその考え方の虜(とりこ)になっている。したがって、組織で上位に立つ者がそこから発する権力を行使できるようになっている。「堅超」という考え方やそれにもとづく行動をしない者は、学校内に限らず周囲からは「落ちこぼれ」と見なされるだろう。そんな者が度が過ぎていると見なされたら、組織で上位に立つ者から排除されることもある。
こうして、日々修行努力してある境地に至るという「堅超」の世界内からは、「堅超」という考え方は現在にまでも生きている絶対性のようなものである。「横超」という感覚や概念は、「堅超」の世界内にあっての息苦しさや疑念に発祥したものであるように見える。そして、「堅超」の世界内を司る視線からすれば、それは怠惰や怠けと映り、許されないもの、対立するものと見なされる。
そんな対立的に現象したり、見なされたりする「堅超」と「横超」の関係は、それ以外に取りようのない絶対的なものだろうか。ここで、両者が言葉の普遍の有り様に照らされるなら、それぞれの言葉が人間の総体的な表現の中でどこにどのように位置するかという内省が起こりうる。別の言い方をすれば、「堅超」と「横超」の関係が人間の本質性から照らされた言葉となっているかということである。この社会内には、赤ちゃんも幼少年も青年も壮年も老年も存在している。この社会内の壮年期の層、特に政治経済の支配的な層や学校教育に関わる層からそれこそが大切な中心や主流だという顔をして繰り出される、「堅超」的な頑張りや努力や自己研鑽などは、赤ちゃんや幼少年や老年の層には無縁ではないとしても薄い関係しか持たない。むしろ、赤ちゃんや幼少年期や老年期の本質は、生きること自体を楽しむ「横超」的な生き方のスタイルが主流となっている時期である。人の生涯の真ん中の一部の時期にしか通用しそうにない論理や考えや生き方(「堅超」)を、人の生涯に渡って適用しようとするからいびつなものに感じられてしまうのである。
したがって、この社会内で常識だ自然だと見なされ社会を制圧している「堅超」の固い鎧を解(ほど)いて、気ままにゆったり気分よくの「横超」と対立的・制圧的ではなくうまい出会い方をすることが必要なんだろうと思う。わたしは、「堅超」的なものの考え方や生き方は全否定されるべきだとは思えない。それにもそれなりの居場所はありそうに思う。問題は、「堅超」的なものの考え方や生き方を人間の生涯に押し広げて適用したり強要したりすることにある。
そのことをもう少し考えてみる。
現在の社会は、全体として「堅超」世界的だといっても、その社会の基層(家族などの生活世界)や局所(趣味、サークルなどの小社会)には例えば「のんびりゆっくり」や「気まま」などに象徴される「横超」の世界が存在する。「堅超」世界の権力線に公然と突っかかったり反抗したりしない限り鳴子(なるこ)はならないし排除までにそう簡単には至らない。
大枠としては、現在の社会も全体として「堅超」世界的である。その大枠内にわたしたちは存在せざるを得ない。そこで、普通の生活でも文学の表現でもいいが、人間の本質性から照らされて、もっと自由に気楽にのびのびと生きていたいという思いからの実践には二通りくらいの形がありそうだ。
ひとつは、濃度が濃くなっている「堅超」世界内に存在していたとしても、精神の肩こりに耐えながら魂までは売り渡さないという存在の仕方である。二重生活というべきか。誰もが会社勤めなどしながらそういう生活をしている。
もうひとつは、法然や親鸞が濃度が濃い「堅超」世界の比叡山を飛び出して、新たな宗派や宗教を起こしたように、「堅超」世界を抜け出して「横超」的に地方に移住して小規模の起業をしたり、フリーランスのように仕事や文学表現などをするやり方である。
濃度が濃い「堅超」世界の内にいるかぎり、「堅超」と「横超」との二重生活は苦しい。しかし、大多数の普通の人々はそういう生活をしている。そんな中にも「堅超」世界の仕事の重圧に耐え忍んでいる人々もおれば、うつ病を強いられている人々もいるのだろう。誰もが濃い「堅超」世界からぱっと抜け出てわりと自由に振る舞えるわけではない。わたしたちは、二通りの存在の仕方があっても、いずれにおいても日々「横超する」ということを実践しているのである。それは見かけとしては気晴らしや趣味の活動とかに見えても、人の内心の本質としては「横超」しているのである。
わたしたちは、経済や精神の「選択的消費」をして日々「横超」している。わかりやすく言えば、堅く凝り固まったからだをほぐすように、時に好きなことや気晴らしに自分を解放している。それは、中心の大事な仕事から外れた、周辺の単なる気晴らしとかではなく、人間の本質の根っこから湧き出る気ままな自由や平等の振る舞いであり、価値の火花とも言えるように思う。
付け加えれば、1960年代辺りの高度経済成長期と言われた時代は、まさしく「堅超」の考え方や生き方が蔓延し人々はそれに追いまくられる社会だった。それに比べると、現在の消費資本主義の社会では、「堅超」的な考え方やシステムが緩(ゆる)み、「横超」的な考えや行動に対する許容度も増してきたように感じている。
高度経済成長期辺りまでの社会を象徴する文体を窮乏の社会の文体である「竪超」とすれば、窮乏を一応脱した現在の消費資本主義の社会を象徴する文体はこの横超であると思う。それは、まだまだ十分に花開いてはいないけど。
4.坂口くんの横超する姿
ここで、坂口くんの場合の横超する姿を見てみたい。長い生活や表現の経験と実感から生み出された言葉や生き方の方法である。よく考え抜かれていると感心する。それは、わたしたちのずいぶん凝り固まった重たい生き方に、浮力を与え、解きほぐすものを放ってくれるような気がする。
坂口くんの『継続するコツ 』という単行本の目次は次のようになっている。
はじめに 僕について
第1章 人からの評価はいらない
第2章 作りたいのに、作れない
第3章 とにかく定量を死ぬまで継続。これこそが人生……?
第4章 生きている時間を、ただひたすら自分がやりたいことだけで埋めていく
第5章 続けていると、予測ができる
第6章 どうやって生活を作り上げるか
終章 いつまでビビっとるんじゃい!
おわりに 幸福とは何か
この目次の流れを見れば、この社会を生きてくる中で培われた、あるいは囚われている「堅超」的な固定観念を「脱」して、「横超」的な柔軟な生活や生き方を実践する、そのことを坂口くんの今まで生きてきた経験と実感や勘などを総動員した指南書であることが感じられる。
『継続するコツ 』という単行本になる前の、ネットに公表された「継続するコツ」は次のような目次になっている。比較検証はしないが、たぶん単行本では手が入って元の文章が少し整序されているのかもしれない。
第0回 はじめに 2022年4月4日
第1回 継続に才能は全く関係がありません 2022年4月4日
第2回 継続できない理由 2022年4月4日
第3回 作りたいのに作れないというスランプについて 2022年4月5日
第4回 無能の術 2022年4月6日
第5回 何を書きたいとかはなく、ただ書きたいだけなんです 2022年4月12日
第6回 継続仙人と出会う 2022年4月17日
第7回 作るとは自分が得意な方法が何を知ること 2022年4月18日
第8回 どうやって自分の生活を作り上げるのか 2022年4月25日
第9回 継続したくなる環境 2022年4月27日
坂口くんの「横超」する姿をその表現された言葉から少し取り出してみよう。『継続するコツ 』の単行本は持っているが、書き写す必要がなく都合がいいのと割と生の現場感が出ていると思われるので、ネットに公表された文章から引用する。表現された言葉の濃度が濃いと思われる個所、言いかえれば「横超」的な言葉の姿が強く感じられるところを抜き出してみた。長い引用のため、同時に『継続するコツ 』の本の紹介にもなっているだろう。
1.
つまり、何かを継続している時の方が、楽しいんです。
この馬鹿みたいな単純なことに、僕は気づいたんです。発見したというほど大袈裟なことではないのかもしれませんが、僕にとってそれはとても大きな発見でした。
継続することが幸福ということなのではないか。
このことに気づいたんです。確かに、僕は今、じんわりとですが、幸福を感じてます。しかも、継続してますから、その幸福がじんわりとですがジーンと長く続いているんですね。
幸せとは何か?
これは生きている人間が全て気にしている命題だと思うのですが、僕なら「幸せとは、自分が興味があることを今も継続できていることである」と言うでしょう。
継続は人との比較を無効化します。継続は自分が好きなことをまたもう少しだけ好きになること、興味があることをまたもう少しだけ興味を広げることにつながります。
なんか気持ちよさそうじゃないですか? 実際、継続はとても気持ちがいいです。
でも継続こそが一番難しいと思っている方も多いようなんです。電話で聞く限り僕はそう感じました。
でも嫌なことをずっとやるより、少しでも興味があることを継続する方が楽しくないですか? これは当たり前にわかりますよね。
人生は1日1日が継続していくわけですから、やっぱり、毎日の生活は自分が興味を持っていることを継続していく方が楽しいに決まってます。
でもなぜか難しいと思われている。僕はこれは誤解されていると思ってます。そこでこの本でその誤解を解きたいんです。
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もっというと、売れることよりもはるかに継続していくことの方が重要です。そうすれば、人生は切り開かれていきます。
しかし、多くの人が、売れないことを理由にして、お金にならないことを理由にして、継続を諦めていきます。
そうすると、人生が止まってしまいます。楽しくなくなります。幸福じゃなくなります。
それは辛いことです。そして、興味がないけど、お金になることに向かっていきます。
でも結局それも継続しなくてはいけないのです。生活ですから、人生ですから。生きるためには全て継続が関わってきます。
継続は実はお金とは関係がありません。だからお金のために継続を諦めるのはおそらく勘違いです。
人生はお金ではありません。僕が感じているのは人生は継続です。それのみです。だって継続とは毎日の生活ってことですから。
この本では、何かを作っている人に向けて書いてみようと思います。その人たちにとっては、僕も同様ですが、死ぬまで作り続けられたらそれは幸福だと思うからです。
(『継続するコツ 』「第0回 はじめに」2022年4月4日)
2.
何かを作る。僕はこの行為こそ、全ての人間に必要な楽しいことだと思ってます。実際に、みんな何かを作っているはずです。僕は本を書き、絵を描き、歌を作ってますが、それ以外にも、セーターを編み、陶芸をし、ガラスを吹き、織物を織り、先日はフェルトでフグの人形をつくりました。畑で野菜も作ってます。そこで収穫した野菜を使って料理することも大好きです。みなさんもそうやっているはずです。実はみんな何かを作っているんですね。お金になるならないは関係ありません。そんなことどうでもいいです。作っている人は作っていることが楽しいはずですから。
しかし、人は少しずつ作らなくなっていきます。昔は作っていた。でも今は・・・・という人も多いのではないでしょうか。
まずはどうして人は作らなくなっていくのかということを考えてみることにしましょう。
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これは僕の経験でしかありませんが、才能という言葉についてまとめてみましょう。
① 才能という言葉は、自分に対しては使わない。
② 才能という言葉は、憧れる他者に対して使われる。
③ 才能とは、一時的な能力の発揮ではなく、継続していることを指している。
④ 継続している人は、他者に対して「才能がない」とは言わない。
⑤ 才能がないという言葉は、未経験者しか使わない。
いかがでしょうか。才能という言葉がグラグラ崩れていくように感じてくれたら、それは僕が意図していることが伝わっているのかもしれません。
僕は才能という言葉を強く疑っています。才能あるなしで、行為をするしないを選択してしまっている今の世の中のやり方に反乱を起こしたいくらいです。
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才能=継続ってことです。才能がある人、ではなく、今も継続している人です。才能がない人とは、継続できずにやめてしまった人ってことです。
こうすると、シンプルに考えられるような気がしませんか?
才能がないから、やめたわけじゃないんです。継続する方法がわからなかっただけです。
継続するコツさえ知れば、また再開できるはずです。だって、楽しいと感じたんですから、再開して悪いことは一つもないはずです。
そして同時に、やりたくないことを継続することは、できるだけやらないようにしたいなと思ってくれるはずです。
(『継続するコツ 』「第1回 継続に才能は全く関係がありません」2022年4月4日)
3.
つまり、継続できない理由は、ただめんどくさがりというわけではないんですね。
継続できない理由は上に書いたようなメカニズムが働いているんです。継続できないことには理由があるということです。しかし、それが自然の摂理と合体しているので、わかりにくいんですね。
ここでの自然の摂理は、慣れる、ということだけです。作品の否定は自然の摂理ではありません。そこに注目してみましょう。
どうやっても慣れます。慣れることを禁止することは不可能です。そして、慣れると、今度はうまくやろうと試みはじめます。良いものを作る、というよりも、体裁が良いものを作る、という風に方向性が変わっていくんですね。技術を向上させるってことです。技術の向上は同じ動作を繰り返すことで実現します。だから、人はつい好きなことを見つけると、どんどん同じ動作を繰り返し、技術を向上させて素人とは思われないようになろうとします。慣れてしまって喜びを失っているのに、そのことにはなかなか気づけません。むしろ、最初期、人はできるだけ同じ動作をして、慣れようとすらしてしまいます。
じゃあどうするんだよ、ってことですよね。
僕がやっているコツをお伝えしますね。
二つあります。
一つが「二度と同じことを繰り返さないこと」
もう一つが「嫌になった途端に、全て止めること」
です。
どちらも継続することとは全く関係なさそうですよね。逆にそれじゃ継続できなさそうに思える。
でもそうじゃないんですよ。一応、僕は継続仙人まではいってないと思うんですけど、継続名人くらいはいってると自分で言うのもなんですが思っているのですが、僕が継続できているのは、この二つのやり方のおかげなんですよね。
(『継続するコツ 』「第2回 継続できない理由」2022年4月4日)
4.
質より量の人間ではありますが、量を作れば、一流の芸術家になれると思っているわけでもありません。僕は自分で作っている大半の作品は駄作だとも思ってます。いや、それも違いますね。自分の作品のことは駄作とすら思ってません。もうほとんど評価するしないの世界から、解き放ってあげてます。作品が生まれているんだから、生きているんだね、よかったね生きていて、というくらいです。
僕は芸術家、作家、音楽として大成する、成功するなんてことをそもそもはなから求めてません。むしろどうでもいいと思ってます。
人からの評価は、浮き沈みが必ずありますし、高い値段で売れたとしても、暴落したりします。評価も値段も相対的なことですから、一喜一憂するのは疲れます。疲れることは僕はNGなので関わりません。疲れるのは嫌だといっても、一人で作品を作るのは疲れることでもあります。そういう疲れは奨励してます。
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だから、作りたいと思わない日は実は1日もない、という僕の仮説はまんざら嘘でもないんじゃないかと思ってます。もちろん、ここで質は問わない、ということがポイントです。
人は質があるものが作品であり、質のないものは作品ではなく、クズであると勘違いしてますが、僕は違います。作品は優劣で判断してはいけません。なぜなら、作品の判断は常に人は誤るからです。作品の良し悪しなど、ほとんどの人には理解ができないんです。生前売れない画家なんて作家なんてたんまりいるんです。カフカだってそうです。誰も気づけない。でもいつか気づかれるかもしれない。別に、死にたい人のたわごと全てがカフカに勝ると言っているわけではないんですよ。判断がまだできないってだけです。だから、常に作品に関しては良し悪しではなく、その人から生まれたものは全て作品としてみなすことが重要ではないかと僕は考えているんです。もちろん、僕は僕なりに作品としての強度があるかどうかの判断はしますよ、自分の作品に関しても、他者の作品に関しても。でも、それは一時的な判断であり、変化していく可能性を多分に含んでいるという謙虚さは忘れたくありませんし、その謙虚さこそが、継続をさらに可能にしてくれる栄養になると思ってもいます。
(『継続するコツ 』「第3回 作りたいのに作れないというスランプについて」2022年4月5日)
5.
というわけで、僕は、何かを作りたいと思ったら、まず思うままに、計画も立てずに、作ってみます。それが初日です。そうすると、迷いなくどんどん作れます。先のことは何も考えずに、今の頭の中にあるものを体力的にちょっときついなと感じまで、ひたすら外に出してみます。それが今回の本だと、34枚の原稿として外に出てきたわけです。そこから毎日の定量が、半分より少し多いくらいの20枚と決まった。体力的にこの連載をどれくらい書き続けることができるかと考えたら、2週間くらいだなと感じた。そうすると、今日は34枚、残り13日間で20枚ずつ書き進めていくので、合計294枚の本になるんじゃないかと段取りを立てます。
僕の段取りはそこで終わらせるんです。そこから何を書こうかという具体的な細かい計画は立てずにやってみます。なぜなら書きたいことは、書く前の頭の中で育つのではなく、書いている中で伸びていくからです。書いている中でグングン広がっていきます。僕は今日のこの原稿を、最初、タイトルから始めました。タイトルを「無能の術」と最初書いたんです。何を書くかを決める前に、無能の術ってことに関して、今は書いてみたい、と思ったから書いてみました。でも、今、無能の術について書いているのかどうか、わかりません。今は、計画とは内容を具体的に決めることではなく、初日の創作初期衝動をもとに毎日の創作量を定め、体力と照らし合わせて継続できる日数をイメージし、完成する作品の全体量をぼんやりと算出するってことについて書いてます。
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あ、、、今、また別の書きたいことを見つけてしまってます。順を追って、説明しますか? いや、そんなことしなくていいんです、今、思いついたことだけをどんどん出していけばいいだけです。これがすなわち、僕が継続していくことができているエネルギーそのものの姿です。簡単に説明することはできませんが、この文章の連なりを読んで、流れを感じてくれたなら、この流れ自体が、そのまま、その意味です。意味を言葉に説明はできないですが、これが継続がもたらす意味です。どうですか? 分かりますか? 感じてくれてたら超嬉しいです。そうです。僕はもう今、すべての決めつけから楽になってます。金にすること、作品化すること、発表すること、編集者を納得させること、売れること、読者を獲得すること、作家と思われること、評価されること。まじでどうでもいいです。だって、この流れきたもん。これが、作ることの全てです。作ると、このような渦が起きます。
もうここまでいくと、無能だろうが、無能とよばれようが、理解不能と言われようが、気にならなくなります。本にならなくてもいいんです。だって、ここでオンラインで無料で公開して、たくさんの人が読んでくれたら、バッチリなんです。この作ることがもたらす渦は、多くの人を幸福にするからです。それだけで百点満点じゃないですか。
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僕は無能です。よく知ってます。謙遜では全くありません。その証拠に毎日、馬鹿みたいに練習してます。毎日10枚書き続けている人を、僕はほとんど知らないくらいです。むしろ、無能であることを自慢しちゃってます。無能であるからこそ、毎日、とにかく努力をしようと思えるのです。努力をしない人は、おそらく、自分のことを能力がある人と思っているのです。才能がないから、と何かを諦めた人は、才能がないから諦めたわけじゃないんです。その逆なんです。私は、才能があって当然なのに、何かを作ってみたけど、結果として形になったものは酷い有様で、こんなのは才能がある私が作ったものとは思えない、そのギャップに苦しんでしまって、ついには諦めてしまうのです。
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挫折なんて言葉は才能がある人だけが使えばいいんです。無能な我々は挫折とは無縁です。見てくださいよ、この私を。無能ですけど、毎日毎日やってますよ。毎日やってたら、かなり微量ですけど、それでもちょいとだけ成長するんです。それは実感します。いまだに無能ですけど、証拠は毎日練習しているからです、でも、ただの無能じゃないな、とは思ってきてます。むしろ、無能を活用しちゃってるなお前、練習すればするほど半端なくなっていくのをお前知り始めてるなとは思ってきてます。無能の達人かもしれません。こうやって、下げつつ上げるみたいなやり方は、継続していく上で必要なスキルです。
そして、今、なんか、疲れたな、と思ったので、書くことをやめます。
それでいいんです。無能ですから、また明日も書くんですから。
(『継続するコツ 』「第4回 無能の術」2022年4月6日)
6.
さっき書きたかったことを、むちゃくちゃシンプルに書くと、
継続したいことを継続することができなくなっても、また人生は続くのだから、つまり、それが生活なのだから、つまり、何かは継続している、ということです。
結論が、人間は全てすでに継続し続けています。何かを。どんな人も。やりたいことだろうが、やりたくないことだろうが。つまり、僕がこんな本を書く必要はないのかもしれません。確かにそうかもしれません。でも人は、自分はなかなか継続ができない、と思っているところもあるようです。それは電話(引用者註.いのっちの電話)で確認していることでもあります。私は継続できない、と思っている人も実は、毎日、何かを継続してます。これはどういうことなんでしょうね。そういう人はどうやら、やりたくないことを継続してしまっている、ようです。
やりたいことを継続することは無茶苦茶難しくて、やりたくないことを継続することは惰性でできてしまう。
何だか言葉で書いていると、そんなわけはないとみんなから言われそうですが、どうやら、こんな感じじゃないですか? 僕も書いてて、ちょっとびっくりしているくらいなんですけど、何でやりたくないことを継続することは惰性でできて、やりたいことを継続することは惰性でできないんでしょうか。これを考えるのは面白いのかもしれません。予想外に、予想外のことが飛び出てきて、今、少し嬉しいです。これぞ、書いてて、楽しい、瞬間です。
なぜやりたいことは継続するのが難しいんでしょうね。
ちょっと待ってください。僕の場合で考えるんですけど、どう考えても、やりたくないことは一切継続できません。やりたくないことは気づいた時にすべて停止しちゃいます。そりゃ当然です。やりたくないんですから。やらなくていいわけです。でも、やりたくないことを継続してしまっている、という人が多いような気もします。なんでだ?
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とにかく知ってほしいのは、僕は駄作ばかり書いてますが、幸福だってことです。名作を書いた人で自殺した方はたくさんいますが、僕はそんな人生あんまり興味ないんですね。作家たるもの、悩むべしみたいなことも興味ないんです、僕はただ書きたいんです。とはいいつつ、僕に不安も何もないわけではないですよ。僕の知り合いの橙書店という本屋があって、そこの店主の久子ちゃんは僕が書いた文章を好きでいてくれて、だから、書いた瞬間に全ての原稿をまずは編集者ではなく、僕は久子ちゃんに送るんですが、久子ちゃんに「何で僕はこんなに継続するのが得意なんだろうか」と聞いたら、即答で「継続してないと不安だからでしょ」と言われました。そういうことでもあるらしいです。継続してないと不安なんです。でも、継続できてたら幸福なんです。それならいいですよね。お金がないと不安、でもお金があると不安じゃない、幸福、とおっしゃる方もいるかもしれませんが、お金って、なかなか手に入らないじゃないですか。だからなかなか幸福になれないじゃないですか。でも継続って、誰にでも金をかけずに人に頼らずにたとえ家がなくても世間から馬鹿にされようとできるんですよ。才能がないから、やめる諦めるとか言っている場合じゃないのは少しずつ伝わってきているかと思います。それって、幸福をドブに捨てるようなもんです。こんなに幸福のことを考え続けている僕は変なやつですかね? なぜ人は幸福になろうとしないのか。それは僕からの疑問でもあります。自分が今、幸福で、なぜ幸福なのかって理由を細かく説明してくれる人って、いますか? そんな本ありますか? 僕は読んだことないんです。みんなどこか困っている。どこか悩んでいる。でも、僕はそうじゃないんです笑。やっていることといえば、作ることを継続しているだけなんです。これって僕にだけの、特異な状態なのでしょうか。そうじゃないんじゃないかって思うんです。
(『継続するコツ 』「第5回 何を書きたいとかはなく、ただ書きたいだけなんです」2022年4月12日)
7.
僕とは何か?
僕とは毎日10枚原稿を書き続け、毎日1枚パステル画を描き続け、毎日歌を歌って、料理を作り、掃除をし、畑で野菜を育て、週末は釣りか乗馬を息子とやりまくっている人間です。それだけです。というか、それをやり続けられていることだけが幸せです。他に自分にとって必要なものは何もありません。何か不幸なことがあったとしても、世界が崩れようが、戦争が起きようが、誰かが死んでしまって寂しさがまとわりついたとしても、おそらく僕はずっとそれをやり続けるんだと思います。変ですかね? 変かもしれません。だからこれは人におすすめできるようなものではないのかもしれません。そもそもなんでこんな継続することについて書いているんでしょうか。あ、それは僕が幸せを感じているからでした。幸せとは何かってことを書いている本とほとんど出会ったことがないので、自分でいつか書いてみたいと思っていたからでした。僕=継続で、しかも継続=幸せなのですから、僕=幸せなのかもしれません。こんなこと書いても、へえ、そうですか、幸せですか、よかったですね、と思われるだけかもしれません。でも、これは僕自身に書いているのかもしれません。今、幸せをせっかく感じているのですから、なんてったって、僕は幸せを求めていたからですが、つまり、僕は幸せじゃないなあ、と自分で感じていたんです。
(『継続するコツ 』「第6回 継続仙人と出会う」2022年4月17日)
8.
継続していくと、こういうことが起きます。作るという行為は、何かの目的のために一目散にやっているわけじゃなくて、作っている最中の自分ってのはその都度変化しているわけです。こうやって書きながらも、毎秒変化している。頭の中にあるものは固まった何かではなく、ウニャウニャと動いてます。それを外に出すと、その都度変化する、それをまた外に出そうとすると、これまた変化する。そういうことの連続なんです。だから、外に出さないことには始まらないのですが、外に出した途端に始まるどころか、動き始めます。最初は、外に出すだけで力が入るので、例えば、執筆であれば、何かについて書こうと思って、ある程度、ゴールを設定して、そのゴールに向かって書こうとします。しかし、それだと固いんですね。今、継続するコツについて書いてますが、そうすると、もう継続する、というテーマ以外には書かない方がいいわけで、それ以外のことを閃いても、頭の中でカットして、外には出さずに継続について書こうとします。でも、それは、作る、行為とは真逆の動きなんですね。そうすると、すぐに書くネタがなくなったとか、そういうことになる。それで少しずつ慣れていくに従って、もちろん最初に書こうと思う動機になった、ここで言えば継続することについて書いていくのですが、今日も、昨日書きそびれた、継続するコツを書こうとしたのですが、もうすでに変わってしまっているわけです。僕は、今は、この変化することそのものについて書きたくなっているのです。これじゃ、いつまで経っても、人に伝えたいと思っていた「書こうとしているもの」が書けないじゃないか、脱線に次ぐ脱線で、なんの話かそもそもわからなくなっていくじゃないかと不安になったりします。でもいいんです。これで。だって、目的は人に何かを伝えることじゃないからです。そうじゃなくて、目的は、ただ書くことが楽しい、ってことです。これが僕の継続する原動力なんですが、とにかく書いていて楽しい、今も、この変化し続けながら外に出しながらまた変化していくことを書こうと思うとそれだけでワクワクします、これがもっと書きたいという力をどんどん生み出していきます。書くことについて考えると、言葉とは人に何かを伝達するためにあるのではありません。え、それおかしくない、と思われるかもしれませんが、僕の実感としてはそうです。言葉を伝達のために使うとおかしくなるんです。つまり、自分の中に浮かんでいる、形になっていないものを、全部削除することになるんです。そうすることで、伝えることはより容易になります。しかし、それは本当に伝わっているんでしょうか。単純なことはそうやることで簡単に伝わるかもしれません。しかし、それじゃ面白くないんですね。面白くないどころか、伝達は命令になっていきます。国家は、言葉をそのように命令する道具へと変換していきました。
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自分が得意なことが何かを知ると、作ることの速度と強度がどんどん増していきます。
とにかくあらゆる局面で、自分はどうすれば良いのかとか焦るのではなく、自分はどうするのが得意なのか、ってことを正直に考えて、素直に人に伝え、自分自身で整えていくと、驚くように作ることが楽になります。楽になると、作る量が増えます。作る量が増えると、継続する喜びが体を伝って感じられるようになります。そういう力を手にすると、何か失敗するとかありえるでしょうか。何事も失敗だと思わず経験だと余裕で口にできる気持ちの余裕で溢れかえっていくはずです。
(『継続するコツ 』「第7回 作るとは自分が得意な方法が何を知ること」2022年4月18日)
9.
継続するためには身を削らないことです。
楽しけりゃなんでもいいと言ってみたいところですが、楽しいだけではだめで、自分が楽しいのは必ず大事なところですが、周りから文句を言われない状況を作るってことがさらに大事です。別に周りまで楽しませなくてもいいんです。それぞれ人は自分で楽しんでいくもんですから。人を楽しませなくてもいいんです。人から文句を言われなきゃいいんです。つまり、人が嫌がることはゴリ押ししてやり続けちゃいかんのですね。それでもいいんですが、そういう行為は決して長続きできないんです。本当にこれは経験を通じて味わってきたので真理だと思います。自分が楽しいだけじゃダメなんです。でも自分は楽しくないと続かないんです。自分が楽しい、かつ、人が嫌な気持ちにならない。これがいのっちの電話をやる上で、僕がいつも心がけてきたことです。もちろんたくさん失敗もしているんですがね。。。
(『継続するコツ 』「第9回 継続したくなる環境」2022年4月27日)
さて、それがあたかも主流や中心であるかのように現在の社会にはびこっている、ある目標に向かって計画性を持ち効果的な努力をするのが大切だというような「堅超」的な考え方に対して、自然に「脱」する坂口くんの横超する姿が感じ取れただろうか。わたしは、わたしたちが囚われているさまざまな「常識」や偏見を、坂口くんがすっと軽やかにすり抜けていくのが爽快に感じられた。
そういう「堅超」的な考え方や生き方に囚われすぎて疲弊した人々が多い現在の社会において、坂口くんの横超する姿は、現在の窮屈な「堅超」的な考え方や生き方からの「脱」を意味しており、旧来的な政治集団による無効となってしまった革命とは違う、新たな考え方や生き方の、ひとりひとりのふだんかくめいのひとつの姿を示しているように感じられる。
最後に、坂口くんのツイートと『継続するコツ』が公表されて読んだ頃のわたしのツイートを載せておく。
坂口恭平@zhtsss
気合いなんか入れても勇気は湧かない。温まるだけで勇気湧いてくる^_^
2022年12月2日
2022年04月22日(金)
noteに掲載されている坂口恭平「継続するコツ」を第7回の半分くらいまで読んできた。仏教で、心身を痛めつける修行をしながら少しずつ悟りへ上り詰めていくのが「堅超」(しゅちょう)、それが普通だと見なされていたことに対して、親鸞らの念仏して一挙に悟りに入ることを「横超」(おうちょう)。
「継続するコツ」は、表現世界や表現者の「横超」に当たるのではないかという気がしている。
2022年04月26日(火)
この第7回を読んでいると、わたしは、坂口恭平という存在(表現者)は、古代に僧の位階の世界から外れて村の近くに住み在俗の沙弥として生活していたという念仏者、教信沙弥をイメージする。親鸞は、「私は加古の教信沙弥と同類のものである」と常に語っていたという。
2022年08月23日(火)
親鸞の橫超の考えが現代の坂口恭平に生かされているのを驚きを持って感じる。これは自己カウンセリングの言葉(文章)であるとともに、カウンセリングのための言葉でもある。窮乏の社会の文体を竪超とすれば、窮乏を脱した社会の文体はこの横超であると思う。
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