[短歌味体 Ⅲ] ネット海シリーズ・続
3117
足早に時間を下って
ゆくゆくは
何かに出会うかと心泡立つ
3118
イメージの破片群を
かき分けゆく
一瞬、サーカスのふしぎな光景に会う
3119
脇道から色んな楽隊
現れては
消え イメージの破片踏みゆく
[短歌味体 Ⅲ] ネット海シリーズ・続
3117
足早に時間を下って
ゆくゆくは
何かに出会うかと心泡立つ
3118
イメージの破片群を
かき分けゆく
一瞬、サーカスのふしぎな光景に会う
3119
脇道から色んな楽隊
現れては
消え イメージの破片踏みゆく
※作品(詩)読みの練習としてやっている。加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。
34.ゆうぐれはあなたの息が水に彫るちいさな耳がたちまちきえる 加藤治郎『ハレアカラ』
★(私のひと言評 3/10)
〈私〉がゆうぐれに感じた、はかなく移ろうという感覚が、おそらく女性が水面に息吹きかけると「ちいさな耳」のように一瞬盛り上がり消えていくという微細なイメージで表出されている。そして、男女の夕暮れ時のはかない逢瀬のような表現にもなっている。
35.さざなみのデッドラインと言うべきか出社出社執筆執筆出社出社出社 加藤治郎『昏睡のパラダイス』
★(私のひと言評 3/12)
調べたら「デッドライン」には死線の意味の他にしめきりの意味もある。ここでは「さざなみの」とあるから、死ぬほどではない「しめきり」の意味だろうが、二重の意味として掛詞として使われているように見える。歌か文章の作品締め切りが迫っていて仕事を抱えながらあくせくした日々に〈私〉は追いまくられている。下二句の出社と執筆が互いにしのぎを削っている印象を与える。
下二句を音数のリズムを無視して言いかえてみると「出社しては、帰って執筆し、また出社する、出社する」となる。
例えば、山村暮鳥に「風景」(青空文庫より)という詩がある。その三連中の第一連は、次のように表現されている。
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
鮮やかな菜の花畑、それに調和するように微かな麦笛も聞こえる、人の気配もするという詩である。
これは「いちめんのなのはな かすかなるむぎぶえもする」と言いかえることもできる。これらの元の表現と言いかえた表現では何が違うのだろうか。表現の世界に参入した〈私〉が、言い換えの静的な表現に比べて、視覚を空間的に巡らせている、その動きが表出されている。また、これは作者の意図したものではないかもしれないが、くり返しによる重畳(ちょうじょう)の効果も出ている。その小さい子が時に言ったりするようなくり返しは、重畳による強度から呪文のような表現もまといつかせるように思える。
人は誰でも、仕事や家族や個といったいくつかの次元の異なる場をなんとかスムーズに行き来しながら日々生きている。すなわち、わたしたちは多重な生活をしている。それが時に苦しくなるときもある。これはそんな状況を歌っている。したがって、上掲の歌の「出社出社執筆執筆出社出社出社」という表現は、「いちめんのなのはな」のような空間的な巡りにもなっているが、むしろその多重な世界の次元を〈私〉が苦しげに行き来している表現と見なした方がより正確である。
36.輝く水の塊を見た益荒男よ続いてう、みと発した唇 加藤治郎『ハレアカラ』
★(私のひと言評 3/12)
「益荒男」は、これは遙か太古のことですよ、という詩の入口も指示している。男は初めて海を見たのであろうか。その無量の思いを込めて言葉をつぶやいた彼に立ち会う〈私〉の感動の視線は彼の唇に向いている。太古のそれよりずいぶん薄まっているだろうが、現在でも、とってもいいなあという他人に初めて出会ったり、景色に出会ったら、言葉にならない言葉、始まりの言葉のような表出になるのではないだろうか?わたしは、読んですぐ、「海(う)」(『言語にとって美とはなにか』)の場面を連想した。
37.T・Fに いつかきっと黄いろい橋の上でおまえを切りきざんでやる 加藤治郎『マイ・ロマンサー』
★(私のひと言評 3/14)
これに類するセリフは「犯罪」になる手前で、沈黙の中でつぶやいたり手紙として送りつけたり、ドラマに限らず誰にも少しはありそうに思える古典的な悪意の表出である。現在では「誰でも良かった」という不特定の他者への悪意や殺意という新たな段階を迎えている。
なぜ「黄いろい橋の上」なのかと思い、検索してみたら、ほんとに黄いろい橋が2,3見つかった。この〈私〉の何か固有のこだわりがあるのだろう。これは石か壁かに刻んだ言葉だろうか。それとも現在に相応しく、匿名のメールだろうか。
38.システムは救いの文字をトナトナと管楽よりもすずしく唱う 加藤治郎『昏睡のパラダイス』
★(私のひと言評 3/15)
「トナトナ」がよくわからないが、「システム」「救いの文字」とあるから、システムが復旧したことを示すシステム側からのメッセージだろうか。〈私〉は、システム管理とかの仕事だろうか、私もパソコントラブルとかで何度か経験したが、あれこれと思ったより長くかかって復旧した時、疲労感もあるが、その爽快感は格別である。それが音楽の演奏よりもイカすぜということか。
トナトナ(となとな)は、トナー関係の店の名前かゲームの主人公位しかヒットしない。意味が近そうに思えるのに、大阪の枚方市の子ども総合相談センター「となとな」のHPに、「「となとな」とは、“いつでも「となり」にいますよ”という意味が込められています。」とあったけど、マイナーすぎるか。
わたしは、歌を読んですぐ、「ドナドナ」の歌の中の「ドナドナ(Dona, dona )」というよく意味の分かっていない言葉を連想してしまった。
39.まりあまりあ明日(あす)あめがふるどんなあめでも 窓に額をあてていようよ 加藤治郎『昏睡のパラダイス』
★(私のひと言評 3/17)
意味の中心は〈私〉とまりあの情愛表現の下の句か。しかし、言葉をくり返すと「まりあ」が別の流れに変位していくような感じがある。「あ」音のくり返しが韻律の古い根源で何らかのものを指示しようとしている。ここでは、情愛のつながりか。
40.職務みな忘れろという社命あれシュークリームから噴き出すクリーム 加藤治郎『しんきろう』
★(私のひと言評 3/19)
「シュークリームから噴き出すクリーム」のように、仕事のことは忘れようにも忘れ難くどこにでも「噴き出し」つきまとい侵入してくる。ゆったりとシュークリームを食べている休憩時間であろうと休日であろうと。そういう状況での〈私〉の願望の表現。あるいは、「シュークリームから噴き出すクリーム」の「噴き出す」は、仕事のこととは関わりなくただ味わいたい充実の時だけの意味かもしれない。
41.これが最後の一つぶという自覚なく食べ終えた、そんな死もあろうよ 加藤治郎『しんきろう』
★(私のひと言評 3/19)
なにか食べていて、ああ、あ、もうなくなってしまったか。そんな体験は誰にもありそうな気がする。がむしゃらな戦闘の時代が終わり、真剣が飾り物の剣のようになった時代に、今風に言えばカッコ付けの武士道は起こった。現在では、生命保険やホスピスなどが人の死までの道すじを描く時代になった。しかし、死はそれらの様式美や計測を超えて訪れることが多いように見える。
42.ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷ乱暴なママのスリッパうれしいな して 加藤治郎『昏睡のパラダイス』
★(私のひと言評 3/19)
これは、「スリッパ」とあり「ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷ」とあるから風呂場かそのシャワーの場面か。ちいさいわが子が、自分のお気に入りのことをママにせがんでいる場面だろう。父親の〈私〉は、その光景を見ているか聞いているかして、わが子はかわいいなあと思っている。わたしたちが親になってから誰もが目にするような光景である。この歌全体は、父親の〈私〉が聞いたのを書き留めるのは作者であっても、わが子のしゃべる言葉である。ということは、この歌の本歌である北原白秋の童謡「あめふり」の中の「ランランラン」の部分が小さい子の言い回しで「乱暴な」と〈私〉には聞こえたのだろう。もしかすると、この「乱暴な」には、スリッパの乱暴に見える動きという作者による意味の付加もあるのかもしれない。わたしは、この歌を初めて読んだ時「乱暴な」って何だろうとつまづいてしまった。ちなみに、わたしには「アルチュール・ランボー」が、彼のイメージ通りに「アル中乱暴」に聞こえたことがある。
43.きみの言葉はこころを素描できるかい彗星のように裂けた制服 加藤治郎『ニュー・エクリプス』
★(私のひと言評 3/19)
「きみ」は、若者。「彗星のように裂けた制服」がよくわからないが、人が激しい混乱の渦中にある青春というものの過激な比喩だろう。青春期は一般に、情念ばかりが過剰に噴出、あるいは内閉する。その激しい情念が突き刺さっているのことの比喩が、「彗星のように裂けた制服」かもしれない。そのこころは、言葉に素描するにはあまりに熱く無秩序で言葉の整序もコントロールも効かない。人はそれに耐えつつ潜り抜けるほかない。