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回覧板

ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

わたしの理想のイメージ

2014年12月30日 | 回覧板

 ①空想としてではなく、実現されるべきものとしてわたしの現在思い描く理想のイメージは、いくつかある。その根本はおそらく大多数が認めるであろう単純なことである。
 
②偶然のようにこの世界(人間界に限らず、大自然、宇宙を含めて)に生まれ落ちて、いろんなものを見聞きし学んできて、やはりわたしたち人間は(ほんとはあらゆる生けるもの、存在するもの)、上に立ったり下に立たされたり、差別したりされたりすることなく、苦労少なくゆったりと楽しく生きたいものだ、ということである。
 
③逆に言えば、その理想像に反する現在の有り様、職場や生活圏で現れる、例えばスピードや効率や……などは、理想のイメージに反する否定性と見なさる。ただし、ゲームや遊園地のジェットコースターなどのもたらすスピードは、快として受けとめられるというスピードの一面もあるから、ことはそう単純ではない。
 
④上に見たスピードの二面性が、全面的に否定されるべきということではなく、例えば仕事の息苦しいスピードということであれば、懐古的に二昔前の割とゆったりした時間に戻るということは不可能だから、週休を二日以上に増やすとか、あるいは仕事の一部を人間以外の機械などに任せるなどとして考えられるべきだ。
 
⑤大多数の主流は働くだろうけど、まずはたとえ働かなくてもなんとか生活できる社会。社会的な贈与によってそういうことは可能だろうか、例えば「ベーシックインカム」(最低限所得保障)の導入などにより、社会保障などに関わる公務員や組織を大幅削減することにより、システムを単純化し風通しを良くする。わたしは経済には疎いのでよくわからないが、システムの導入や、社会的な贈与によって消費を生み出す、これらのことの経済的な意味を専門家にはぜひ試算・検討して欲しいものである。もし、それが実現されれば、最初はいろんな問題をはらみつつも、徐々に自然なものとして受けとめられていくだろう。
 
⑥ということは、会社と求職者やそこに働く者との間に現在のような権力関係(上下関係)が生じないこと。また、たぶんとても細分化されてきたそれらに関わる法律が静かに消えていくこと。これらはおそらく「ベーシックインカム」が導入されれば、徐々に実現していくもののと思われる。

⑦さらに、無関係な者を殺傷したり、子どもを虐待したりなど、それらが時々痛ましい事件として社会に浮上して来て、この社会に重たい陰りの彩りを加えている。現在の社会が荒んで見えるとしたら、その過半は余裕のない社会の有り様のせいである。それはゆったりした社会の形成とともに何世代かを通じてゆっくり解きほぐしていくほかないと思う。現在の社会の有り様は、もはやどんずまりの状態に到っているように見える。
 
⑧わたしは「ベーシックインカム」がずっとずっと昔から検討されているということを近年まで知らなかった。専門的なことはよくわからないけれど、年金や福祉や生活保護などが個別的に問題を抱えすぎている状況で、この構想はそれらを総合する簡素なシステムとして近未来に導入されるべきものだと思う。
 
⑨この「ベーシックインカム」の構想は、けっして荒唐無稽ではなく、現在でもテレビで時折目にする原住民社会、マレビトが来たとき以外は、いつも同じようなものを食べ、割と平等に分かち合いながら、ずいぶんゆったりと流れる時間の中に生活している、それらの新たな形での反復(繰り返し)に当たると思う。
 ちなみに、わたしのこうした理想のイメージに呼応するような現在を呼吸する言葉を任意に拾い上げてみる。
 
 
頑張りたい人は頑張ったらいいし、頑張りたくない(頑張れない)人は頑張らなくていいと思うんだよね。俺らは頑張ってるのに頑張らない奴がいるのはズルい、じゃなくて、頑張れない人が頑張らずに生きていける社会が良いなあ。もう背伸びもキラキラもしなくていいと思う。
(「IEIRI.NET ほぼ日刊ダメ人間」家入一真 2014/12/10の記事「頑張りたくない」より) 


  (註.ツイッターのツイートを元に少し加筆訂正)


ものを考えることについての考察

2014年12月30日 | 回覧板

 誰もが、日頃、感じたり自分の視線を内省したりすることがあるような場所について触れてみたい。あるいは、そのような場所から言葉を繰り出したい。

①わたしたちの日々の生活は、現在が重力の中心であり、さらにその場で自分が主体であるから、現在の世の中の有り様や自分に引き寄せたものを中心にものを考え、行動するのは、自然なことである。しかし、この自然性による視線では、局所性を免れられない。つまり、総体的なイメージを獲得するのは難しい。なぜなら、わたしたちは自然性においては、無意識的にもある地域のある家庭に育ちある小社会を潜り抜けてきたという自分の固有性に基づいて眼差しを向け、切り取ってくるからである。したがって、あるものについての総体的なイメージを獲得するためには、わたしたちは意識的な姿勢を取る必要がある。

②例えば、所得が400万の人の日常生活の有り様と所得が200万の人のそれとはずいぶん違うはずだ。私たちの視線や言葉は、無意識のうちに自分の有り様をもとに繰り出されるから、内省の視線や言葉を行使しない限り、現在のこの列島の住民の生活の有り様の総体的なイメージを獲得するのは難しい。

③さらに、所得が同じ200万の人々の生活の有り様も様々であるに違いない。ドラマや物語作品と違って、自分とは異なる経済的な生活の有り様をその内面にまで降りて、手触りの感覚を手に入れるのは難しい。

④しかし、はっきりしているのは、そのような所得を強いられていては十全なゆったりした生活を手にすることは極めて困難であるということである。このような大まかな判断は、自分の生活の有り様に対する内省と想像力を働かせれば明らかであると思われる。

⑤ところで、わたしたちは、現在に、個を中心に、日々生活している。しかし、それは現在や個の歴史を超えて、人類としての連綿と続いてきている歴史の大河を背景にしている。そのことについては、ふだんは無意識的である。したがって、人類の歴史の経験に対して開くことなく閉じてしまうのは、ものを考えることを偏向させることになる。

⑤'戦争が遠くなり、戦争世代も消え入るように少なくなっている状況で、戦争-敗戦におけるその指導層ではなく、大多数の住民の声になりにくい体験や不幸の数々に対して、聞く耳を持たず、復古的イデオロギーやパワーポリティクスをのんき気に弄(もてあそ)んでいるのは、閉ざされた偏向に違いない。

⑥この歴史性の考慮を抜かして、私の結論的なイメージを言うと次のようになる。例えば、高校の体育祭に向けて、係で話し合いを主導する者、それに同調する者、できるだけ参加する者、できるだけ参加したくない者、自分の興味関心が中心でそっぽを向く者、いろんな考えや行動のスペクトル帯がある。これはわたしたちの関係し合う世界での普通の光景である。

⑦このように集団として眺めれば、わたしたち住民の中にもいろんな考えや行動の層がある。自分自身がどのような考えや行動を取ろうとも、それらすべての層に対して、自分の視線や考えを閉じることなく開いておくことが大切なことだと思う。町内会などの話し合いによる大事な決め事は、一般にそのような自己配慮を働かせて成されてきているのではないかと思う。

⑧私たちの日常の人間関係でも、ある人が割と頑固な人だなと思える場合がある。自説をあくまで主張するのは別にかまわないが、他人の気持ちや考えに対して開かれていない場合には、私たちにはその頑固さは否定的なものと映る。これは悪しき意味での「空気が読めない」問題ではない。

⑨しかし、お互いが顔つき合わせていかなくてはならない家族や学校や職場などの小社会に存在する限り、長い時間をかけて徐々に互いの新たないい関係を作り上げていくほかない。大多数の住民たちが今までやって来たように、これからもやっていくように。

⑩現在の歴史の段階において、ある人が、ある(政治、経済、宗教)思想を持つのが自然なように、生活世界のことしか関心がないというのも自然なことである。また、人が集団的な思想(イデオロギー)を持つのも、持たないのと同じく自然なことである。これらのことは、ある宗教やイデオロギーを持つ人とそうでない人とが対立的になった場面での、当人同士や端から見る人に与える、言い様もない空虚感の問題とは別に本質的に言えることである。

⑪しかし、日常世界でも、関係に追い詰められたりして他人に対して閉じてしまうと刃傷沙汰にもなり得るように、宗教やイデオロギーに熱中しすぎると、同様のことになり得る。両者の目には、他人は悪意を持った存在や敵対性に見えるようになる。残念ながらこのことに無縁で或る者は誰もいない。

⑫またそのような閉じた目には、他者は「何も考えていないような否定的な存在」に見えることがある。しかし、何も考えていないという状態は、短時間ではあり得ても継続的にはあり得ない。それは頭を休止して内臓感覚を開いたようなぼーっとしている状態であり、誰もが日々経験しているものだ。そして、わたしの小さな観察に拠れば、犬や猫などはそのようなぼーっとしている状態を中心にうまくこの世を渡っているように見える。犬や猫の世界は、人間世界に劣るなどとはわたしには思えない。わたしたち人間も大切なものとしてそのような動物生の状態を共有している。

⑬ここで「何も考えていないという状態」は、ある人に映った否定的な他者の像であるが、その他者の本体では、そのイメージとは別に、誰もが日々の生活で思い悩み判断し行動し喜び楽しむというような複雑な諸活動が成されている。もちろん、その中から宗教やイデオロギーに触手を伸ばす場合もあり得る。

⑭私の判断では、例えば政党が似たり寄ったりの状況になってきているように、もはや旧来的なイデオロギーはとうに終わっており、新たなわたしたち大多数の住民思想とも言うべきものが生み出されなくてはならない段階に到っていると思われる。

⑭' その住民思想を形作っていく場合の大切な核は、もちろんこの列島の住民たちが、負性を伴いつつも連綿と生み出してきた諸々の叡智(えいち)というものを新たな形で受け継いでゆく以外にはない。

  (註.ツイッターのツイートを元に少し加筆訂正)


選挙考2014.12

2014年12月28日 | 回覧板

 今回の選挙は、おそらく誰もが内心予想していたように結果は曇り空であった。わたしも選挙に出かけるようになったので、今回の選挙を自分なりに振り返っておきたい。

 まず、わたしの選挙体験を語れば、今回の12月の選挙で3度目である。若い頃公立高校の教員を3年勤め、その間、組合(日教組)に入っていた。しかし、動員じみた選挙には一切加わったことがない、いや意志的に投票というものをしなかった。相も変わらず社会を牛耳る層に対しては否定の意識しか持たなかったから、選挙というものに意味を見いだすことはできなかった。したがって、わたしの選挙体験は、2009年の民主党の政権交代以後というほんとに失望的な状況から始まっている。それは同時に、この国でそういうこと(政権交代)が可能だったんだという後からの驚きでもあった。わたしの50歳代後半から60歳代前半に当たっている。

 したがって、ツイッターで時折見かけたが、今回の選挙の投票者が棄権した者をくそみそに言いたい気持ちはわかるとしても、わたしは長らく選挙を拒否してきたからそのようには言えないし、また言う気もない。もちろん、前回の選挙を含めて今回の選挙結果もがっくりした気分になった。これほど今までにないアブナイ政権を放し飼いにしていたら、良くないだろうという危機意識がわたしにはある。

 有権者の総合を一人の巨人(人間)と見なすと、わたしたち住民のひとり一人がその一部を構成している。しかし、その巨人は、結果として今の最悪政権にもう少しやらせてみようとしたことになる。それに代わる政権担当能力のある政党がなかったのは確かであるし、それが大きな理由だったと思う。それでも、わたしの考えでは、「決められない政治」に持ち込むべきだったと思う。「決められない政治」でも、取りあえず大多数が認めるほかないものは決まるであろう。

 しかし、わたしの考えにもうひとつ内省を加えてみれば、おそらく巨人の意識は、政治の現状を超えているのかもしれない。政治の方が巨人の意識に応えるものを持たなかったのである。野党も政権と対応するように体たらくであったのである。現政権はクレイジーなほど例外的であるが、現在の政治は、どの政党も似たり寄ったりの政策や考え方に近づきつつある。わたしたち住民の意志や考えていることは、大まかな傾向性としてマスコミのアンケート調査でわかるようになってきている。(もちろん、マスコミのある方向への誘導性や作為性がないとは言い切れない) 各政党は、その住民の総意に近いものに注目すればいいのである。まちがっても我々が教え導くなどという横着な考えは持たない方が良い。正に現政権はこれに近い。様々なものが旧来的なものからの脱却を迫られている。現政権は、旧来的なものの最悪に凝縮したものになっている。おそらく最期の悪あがきだと思われる。

 巨人の、暮らしの経済中心の考え方は、それに異存はないけれども、戦争から遠く離れたわたしたち戦後世代の住民のプライドが試されていると思う。つまり、積極的に自由や人権を獲得したことがない負の伝統しかないこの列島で、しかも依然としてどこかで戦争が続いている現状で、偶然のように未来性のある憲法9条を持つことになった。これを生かすも殺すもこの列島の住民であるわたしたちひとり一人である。その憲法9条も今までにずいぶん傷ついてきている。この点に関してわたし含めて巨人は余りにも無防備すぎたと思う。これは暮らしの経済以上に重要な問題である。わたしたち住民のプライドと存立に関わる根本的な問題である。これが、わたしもその一部である巨人に対する自己批評である。

 戦争と敗戦を経験した世代が、底をさらわれてきている。それと呼応するようにそれらを体験したことがない世代が大多数を占め、その世代からパワーポリテックス(軍事力を背景とした力の政治)の具体性を装った、「集団的自衛権」に象徴される抽象的な論議が起こってきている。これは戦争を生き延びてきたものの悪しき遺伝子や現在の主流の欧米的な合理主義というほかない。これらは歴史の忘却の結果であり、誤った「歴史認識」から来ている。また、内省を欠いた合理主義から来ている。こうした状況で、大規模な国家間の戦争は不可能に近い時代にはなっているとしても、国と国との付き合い方(外交)も、わたしたちの生活世界の常識から、戦争と敗戦からの教訓をただぼんやりした平和や民主主義としてではなく、はっきりしたわたしたち住民の意志として示し、形作っていかなくてはならない時代に当面しているという状況認識がわたしにはある。こういった次第で、いい加減うんざりしながらも今回の選挙に出かけた。


理想のイメージを思い描くということ

2014年12月23日 | 回覧板

①わたしたちの思い描く「理想」というものは、現状に対する否定の意識から湧き上がってくる。一方で、自分や社会の現在の有り様に対する否定性が駆動する理想のイメージには、それは集団的なイデオロギーではないから、どこかに穏やかに着地したいという、概念的ではない、具体的な肌合いの感覚的欲求も併せ持っている。したがって、生み出される理想のイメージには、例えば概念的には「自分の家を持って暮らすこと」と一言に集約されたとしても、様々な色合いやふんい気を伴っている。

②自分や社会の現在の有り様に対する否定性を駆動するのは、現在の社会の精神的な大気を呼吸し、現状を肌で感じ、もっとよりよい状態があり得るはずだというわたしたちの内省という行動である。わたしたちは日々生きる中で、この理想のイメージを生み出すという行動を誰もが等しく取っている。もちろん、憎悪や悪意による否定性の駆動もあり得る。

③理想のイメージに限らず、わたしたちが日々生きていくということは、物質的にあるいは精神的に、何ものかを生み出し、同時にその過程で何ものかを消費している。例えば、食事を作るということは、何ものかを加工し生み出していくということと同時にたとえ嫌々であっても何らかの精神的な消費も行っている。この人間的な過程は、活動する当人において、その表層においては計画的だったり、目的に対して意識的だったりというこであっても、その人間活動の深層に対しては無意識的に行動するという度合いが大きい。したがって、そこは学問・研究や哲学の対象となり得る。

④もちろん、わたしたちの日々の行動には、総体として見れば、同時的な生産=消費もあれば、時間差を伴う生産→消費も消費→生産もある。そして、それらは複雑に関係し合っている。例えば、職人さんの作るものでも芸術作品でも、それらを作り上げていく過程では、同時的な生産=消費を行いつつ、完成した(完結した生産)後で、その職人さんがある感慨を催す(精神的な消費)、あるいはそれが販売されて人手に渡り、その人が消費するというように。次に、買ったその人が、職人さんが生産したものを使って(消費して)、先に述べた同時的な生産=消費を行いつつ、何ものかを生み出す(完結した生産)というように。

⑤その生産=消費という同時的なわたしたちの日々の行動は、人が活動するあらゆる場で齟齬(そご)することなくしっくりと張り合わされていた方がいいに決まっている。しかし、人は人と人とが関係し合う世界にも生きているから、現実にはその行動は波立ったり、泡だったりすることもある。ここに憎悪や悪意、親和も立ち上ってくるし、また内省も否定性も立ち上ってくる。

⑥集団的なイデオロギーではない個の理想のイメージには、個々人から生み出されるから、個々人の生きてきている年輪からの負荷が加えられていて、話し合いでちょうど一つのテーマに対して様々な案が出てくるように、人によって少しずつ理想のイメージやその肌合いや色合いのちがいがある。

⑦しかし、ゆったりした大河の流れのように、少しずつ少しずつ変貌して来た理想のイメージを追い求めるような痛ましい人類史の無意識の歩みに目を凝らすとき、そのことを考慮に入れる(媒介する)ことによって、個々人の理想のイメージは、その現実性を獲得し、普遍的な理想のイメージへと変貌しうる契機(きっかけ)をつかめるのではないだろうか。

 


参考資料 ―「十年やれば誰でも一人前」、鮎川信夫・吉本隆明対談より

2014年12月21日 | 回覧板

   詩人の才能(註.小見出し)

吉本 はいはい。ところで鮎川さん、詩ってものがあるでしょう。僕の感じかたなんですけれども、今の平等、不平等に関連するわけですけれど、こうなんですよ。詩ってやつも、靴屋さんが靴をつくるように、それから何屋さんが何をするようにってこととまったくおんなじで、たとえば十年詩を書いてたらね、だれでも一人前になれるっていうふうに思ってるわけです。そのことに能力の違いはないっていうふうに思ってるわけですよ、僕は。それじゃお前は一人前の詩人だとなるとするでしょう、僕の考えではそのあとに詩の問題になるのではないかと思うわけです。そうすると詩というのはきわめて意識的に、こう手を動かして書く問題になるのじゃないかと思うんです。
 だいたい日本の詩人の場合、十年やって一人前の詩人であるというところまではやるわけです。そうしておいて結局はその後がほんとに詩の問題じゃないのかなというところでは止めてしまうと思うんですよ。僕なんかそうですね。僕はもともと一人前かどうか別にしましてね(笑)。その後結局止めてしまいますよね。そして書いたとしたって、習慣的にしか書かない、っていうふうに思うんです。つまり十年の間にこう言葉が、つまりこういうふうにやればなんとなくできちゃうみたいな、こう坐ればなんか観念の流れというものに入れば、そうすれば詩というものは、習慣的にできるんだというような感じがあってね。そういうことの、まあある意味で面白さのなさと、それからある意味じゃこれから詩というものが始るんだよという、こんどは詩っていうのは苦痛だねっていう感じですよね。これは修行しなくちゃいけない(笑)、という、そういう感じで。


鮎川 いや、大工さんが一人前の大工さんになるというプロセスとある意味じゃまったくおんなじだという……。


吉本 うん、おんなじだということ。つまり僕の考えでは、その場合に十年やればこれはどんな人だって、別に文学なんか関係ない、関心ないよっていうよう人だって絶対に一人前の詩人だといわれるようになると思いますね。それでほんとうは鮎川さんの言われる能力の違いがあるかっていうような問題は、おそらくその後で始まるんではないのか、それはおそらくは意識的な、相当苦痛な過程なんじゃないかというふうに思うんですけれどもね。それでそのところでそれに耐え切ったというふうなことは、ちょっと日本の詩人の場合には少ないんじゃないかというように思うんです。つまりいろんな要因があるんだと思うんですけど、あとは結局習慣的になら書けるさっていうような感じでいくというふうな、それからもともと勘がいいから書けるという、たとえば田村さんみたいな(笑)、まあ、勘がいいから保ってるというふうな。しかし僕はだめだっていう気がするんです。つまりそれ以降の詩の問題は勘じゃない、相当意識的な修練ではないか、そしてそのときに本当の詩の問題というものが出てくるんじゃないかと、僕はそういう気がするんです。


鮎川 なるほど。


吉本 そして自分はそこで、もうこれはいかんということでね、止めちゃったような気がするんです。だからなんといいますか、そこを耐え切ったらちょっとよかったんだということになるんですけれどもね。だけどそのあとはだいたい習慣で書いているというね。それじゃたとえば明治以降、そうじゃないって言えるような詩人というのは本当に数えるほどしかないのではないか、あるいはいないのかもしれない(笑)、とそんな気がするんです。


鮎川 そうね。


吉本 そこの段階でほんとうは決まるみたいな、そういうことが僕はあるような気がするんです。それまでの問題は、能力の問題じゃないっていう感じがするんです。だからそのあとに能力の問題というのは出てくるかもしれない、あるいはやりかたいかんではいろんな思いがけない展望が開けるのかもしれないというみたいなことがあるような気がするけど、ちょっと十年の問題だったらば、能力もヘチマもないしね、文学に関心があるかないかもないと思う。とにかくやれやれってやって、十年やったらなんとかなるんじゃないかっていうのが、僕の感じかたなんですけれどもね。

(「情況への遡行」鮎川信夫・吉本隆明対談 初出「現代詩手帖」1973年3月号)

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(わたしの註)「十年やれば誰でも一人前」について

 


 以上は、鮎川信夫・吉本隆明対談の、ここで取り上げる「十年やれば誰でも一人前」の核心部分です。この引用部分の少し後で、鮎川信夫は吉本さんの考え方について「そういう考えかたっていうのは僕はやっぱりすごく科学的な感じがする。文芸批評という感じよりも、なんていうかやっぱり科学者が対象を検討するやり方っていうかね。」と語っています。

 吉本さんは、ある言葉や概念を単なる思いつきに終わらせることなく、長い年月をかけて考え、煮詰めてきています。ある場合には修正したり、またある場合には次第に深化させてきたりしています。この吉本さんがよく言ってきた「十年やれば誰でも一人前」という言葉も何度かくり返されています。ここでは、この言葉のそうした過程を明らかにすることはしませんが、上の対談からずいぶん後に語られた言葉をひとつ引用しておきます。ネットから採集してきました。


――専門家でないと物を書けないように思われがちですが?

(吉本) 学問者や研究者と、僕みたいな物書きとどうちがうかというと、前者は頭と文献や書物があれば研究ができる。物書きは手を動かさないと作品が書けない。僕も手で考えてきた。頭だけで書いたらつまらないものしか出ない。考えたことでも、感じたことでも手を動かして書いていると、自分でもアッと思うことが出てくる。それは手でもって書いてないと出てこない。
  でも、年食ってくると、いちいち、しんねりしんねりしながら手を動かすのが、おっくうになる。それは研究者も同じ。本を読んで、いちいち必要なところだけメモを取るなんて、面倒ですよ。そんな辛気くさいことやってるより、どっかの会長になる方が楽だよね。しかし、手で考えるってことをやめたら、物書きは一巻の終わりですね。これはあらゆる芸術でも言えることだよね。手を動かすっていう本筋は変わらない。
  だから、もし文学者になりたければ、10年間、手を動かすことだと思います。10年間やれば、一人前になりますね。秘訣も何もない。才能があるとか、ないとか言うのは、そのあとの話ですよ。文学の場合、「気が向いたときに書いて、気が向かないときには書かない」というのがいいことみたいに言われるけど、それはウソだよ。気が向こうが向くまいが、何はともあれ書く、手を動かす。そうしたら、一人前になりますね。

(「吉本隆明さんインタビュー」(09-10-26)『不登校新聞』http://www.futoko.org/special/special-19/page1026-540.html)


 吉本さんは、上の鮎川信夫との対談で音楽家や数学者は子どもの時からやらなくてはいけない例外として語り、それ以外であれば何歳からでもひたすら十年やれば誰でもいっちょ前になれると語っています。ただ、例えば詩であれば、気が向く日だけ詩を書いていてはダメで、書けない日でも毎日机に向かうというそういうつらい修行をしなくてはいっちょ前になれないと別のところで語っています。また別の所では、手を動かすことの重要性がここよりもう少し突っ込んで語られています。

 鮎川信夫は、吉本さんの発想を「科学者が対象を検討するやり方」と語っています。鮎川信夫の感受の鏡に写った吉本さんの言葉の像が語るのは、文学の内部に居るものの視線からはそう見えるということだろうと思います。しかし、「十年やれば誰でも一人前」という吉本さんのこの考えは、文学の世界を突き抜けて、わたしたちが生活世界で日頃感じていることと合致するもので、おそらく大多数の人が受け入れ可能なものではないかと思います。逆に言えば、その言葉は職人さんとかの当人からすれば、そんなこと当たりめえじゃねえか、ということになりそうです。万人が認めるような言葉は、まさしく「当たり前」と感じられるからです。ただ、ふだんはその「当たり前」にいろんな飾りがくっついてそれが見えなくなっていることが多いと思われます。この言葉は、「やっぱ才能かよう」とつぶやいてあることから引き返す若者を励ますものを持っています。もちろん、「十年やれば誰でも一人前」ということの中身には大変な日々の過程があるとしても、です。

 このような吉本さんの対象に対するまなざしの獲得は、鮎川信夫が語ったように吉本さんの科学的な素養(実験化学)からも来ていると思われますが、それだけではないと思います。ここではそのことを明らかにはしませんが、人間界での生き方のアドバイスをする評論家が、ある場合には努力というものを強調したり、またある場合にはチャンスをつかむことが大事とか、いうふうに対象の本質の周辺を語っている場合が多い中で、つまり当てにならないことがたくさん語られている中で、吉本さんの言葉は、職人さんならその職人さんの内面を包み込むような普遍的な(万人に当てはまるような)視線を行使しています。どうしてそのようなまなざしを獲得できたのかということは、わたしたちにとっても大事なことですが、ここでは吉本さんの、そのような万人の内面に深く棹(さお)さすことができるようなまなざしや言葉を取り出すだけにしておきます。

 付け加えれば、この対談(1973年)で吉本さんは詩を書かなくなったと語っていますが、また再開しています。1975年から1984年にかけて書き継いだ詩を元に、それらを再構成して『記号の森の伝説歌』(角川書店, 1986年12月)という詩集を出しています。吉本さんにとって、詩という表現は根源的なもので、思い入れも深かったものと思います。


人間における「表現」という活動についての考察

2014年12月19日 | 回覧板

①宮沢賢治は、「農民芸術概論綱要」などで、遠い過去の人々の「可成楽しく生きてゐた そこには芸術も宗教もあった」有り様をイメージしながら、芸術という行為を大多数の普通の人々(農民)にまで拡張しようした、いやむしろ、普通の人々の世界にこそ芸術の主流があると考えた。そこには仏教や科学、西欧由来の近代的な粧いや匂いもつきまとっていたが、彼のモチーフはわかるような気がする。
 
 現在でも、ずいぶん文明に浸食されながらもわりとのんびりと暮らす原住民の社会の画像を時折テレビを通して目にすることもある。食事の種類は限られていたり、住居は粗末であったとしても、「可成楽しく生きてゐ」る様子をうかがうことができる。したがって、宮沢賢治の描いた遠い過去の人々の像は、牧歌的なイメージもつきまとっているが、また飢餓などの苛酷なことも伴っていたとしても、あり得た像と言うことができる。
 
 宮沢賢治は、そうした遠い過去の人々の生存の有り様をイメージしながら、現在の「灰色の労働」に生きる人々を対照させている。そして、新たな時代のあり得る人間像を、宇宙レベルの感応を導入しながら形作ろうとしている。わたしたち日常生活世界からの視線によれば、以下に引用するような宮沢賢治のイメージは、ずいぶん場違いなものに映る。当時の宮沢賢治の言葉と出会った東北の農民たちにとってもなおさらその思いは強かったものと思われる。
 
 
農民芸術の興隆
 
……何故われらの芸術がいま起らねばならないか……
 
曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ
 
 
農民芸術の本質
 
……何がわれらの芸術の心臓をなすものであるか……
 
もとより農民芸術も美を本質とするであらう
われらは新たな美を創る 美学は絶えず移動する
「美」の語さへ滅するまでに それは果なく拡がるであらう
岐路と邪路とをわれらは警めねばならぬ
農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現である
そは直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である
そは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとする
そは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし
巨大な演劇舞踊として観照享受することを教へる
そは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとするかくてわれらの芸術は新興文化の基礎である
 
  (「農民芸術概論綱要」より 宮沢賢治 青空文庫)
 
 
②おそらく一部の者に占有され続けてきた芸術というものを、親鸞の悪人正機のように普通の人々こそ日常において芸術的な行為をなし得るのだという風に「芸術」というものを転換、あるいは拡張したかったのだと思う。
 
③しかし、世界中で「芸術家」と呼ばれる専門化せざるを得ない人々によって担われてきた芸術的な世界は、相変わらず現在でも存在しているし、これからも存在し続けるだろう。いろんな分野の専門化と対応するように、現在まで芸術も専門化の深い坑道を掘り続けてきているし、掘り続けていくだろう。
 
④私は、宮沢賢治の「芸術」の構想とは違って、「表現」という行動においてなら、人はみな平等に見渡せる地平に立てるのではないかと思う。私たちの日々の諸活動は、物質的なものや精神的なものを生み出したり、それらをまた自分に取り入れ味わったりする、生産と消費の活動と見なすことができる。この活動は万人が日々行っている活動である。
 
⑤わたしたち万人が平等に表現というものを持たされている、あるいは持ってしまっている。そして、経済の生産と消費は時間的な間隔が開いているが、人間的な行動の生産と消費は同時的なことが多い。つまり、何かを作り出すことが同時に精神的な喜びや解放感あるいは不安感の表現であるというように。
 
⑥文学や美術や音楽や舞踊などの芸術の表現は、その同時的な生産=消費という人間的な表現の中に含まれつつ、他の専門の分野と同じく、歴史的な積み重なりの現在として特殊化された表現の世界ということができる。しかし、その汲(く)み上げる養分は、わたしたち大多数が日々活動、表現する世界に在る。
 
⑦こういうことを述べるわたしの強いモチーフは何だろうか。現実の人間界でのひとり一人の存在には、弱者や勝ち組や職業や地位・・・などなどのうんざりする社会的なイメージが張り付いてなんらかの力を放つことがあるように、芸術的な表現にもそのような非本質的な社会的なイメージが張り付いている。
 
⑧それらの本質的ではない張り付いたイメージを押し分け掻き分けて、日々の生活世界に生きるわたしたち万人の等しい表現の地平と専門化された芸術的表現の世界との有り様(実像)を、両者の関わり合いを含めて見定めてみたいのである。
 
 (註.ツイッターのツイートを元に少し加筆訂正)


参考資料―商の本質、柳田国男より

2014年12月07日 | 回覧板

 これに反して町が村に対抗しようとする気風は、かえってそれ以前に始まっている。いわゆる都鄙(とひ)問題(註.都市と田舎、都市と農村)の根本の原因は、何か必ず別にあったはずである。 私の想像では、衣食住の材料を自分の手で作らぬということ、すなわち土の生産から離れたという心細さが、人をにわかに不安にもまた鋭敏にもしたのではないかと思う。今でこそ交易はお互いの便利で、そちらがくれぬならこちらもやらぬと強いことが言えるが、品物によっては入用の程度にえらい差があった。なくても辛抱できる、代わりがある、また待ってもよいという商品を抱えて、一日も欠くべからざる食料に換えようという者などが、悠長に相手を待っておられぬのは知れている。ましてや彼等が農民の子であったとすれば、小さな米櫃(こめびつ)に白米を入れて、小買い(註.さしあたって必要な分だけ少量買うこと。)の生活に安堵(あんど)してはおりにくい。
  (『都市と農村』 P350 柳田国男 ちくま文庫)
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 (わたしの註)

 商という行為は、良い悪いを超えて言うのであるが、あたかも「オレオレ詐欺」のように現在では様々なオブラートに包まれている。テレビでは、洗練されたコマーシャルが流れる。企業としては、商品を買って欲しいわけであるが、販売市場が拡大した一方で、現在ではそのことは様々な迂回路をたどらないと実現されない。したがって、現在では商品と消費者を媒介する広告・宣伝ということが重要な位置を占めている。そして、インターネットやケイタイなど多くの消費者の好奇心や需要にかなうものは爆発的な普及ともなり得る。

 柳田国男の『都市と農村』は、1929年(昭和4)に出版されている。これを都市と農村の間の関係意識の問題としてではなく、商と消費者との関係として読むことができる。わたしたちの社会は、柳田国男の記述した百余年前と比べて、大きく様変わりしている。しかし、引用部分を商の本質と見なせば、そのことは現在においても不変である。現在の商と消費者との関係は、その間に市場調査や経営コンサルタントや広告・宣伝などが複雑に関わり、柳田の時代の牧歌的なそれとは様相が違っていても、現在の商も百余年前と同じ不安を抱えている。つまり、消費者に買ってもらわないと商は成り立たないということである。

 本来は商、そしてその組織化や拡大は、社会性としてはその成員の幸福を目指しつつ社会に貢献するものであったと思われる。しかし、農村の地主制度と同じように人間的な組織悪をも芽生えさせ成長させるものでもあった。その姿は、現在の「ブラック企業」や人ではなく企業優先の考え方などにも現れている。エコノミストやら企業の経営者にかぎらず、一般にも外来の「グローバリズム」や「市場経済主義」やらが浸透しているが、本来的な商という行為、つまり企業の歴史的な社会性は、冷静になってじっくりと内省するに値するものだと思う。本来的には、消費者と対立的ではないものとしてある商という行為において、企業の主流がその本来の社会性から逸脱して「グローバリズム」や「市場経済主義」やらの外来の経済イデオロギーを貫徹し続けるならば、商と消費者は対立的な関係に入り込む他ないと思われる。
 
 柳田の時代の牧歌的な商と消費者の関係と違って、現在のような高度な「消費資本主義」においては、わたしたちの自給自足的な生活がほぼ底をさらわれてしまった代わりに、選択消費を拡大させてきた。つまり、現在ではずいぶんと荒涼としてきているが、社会が豊かになってきたのである。
 
 個々の企業体は、様々であり得るとしても、政治と関わり続ける経済団体やエコノミストら、そして官僚層や政権が、現在のようにこのわたしたちが住む社会を荒らし続けるならば、商と消費者は対立的な関係に入り込む他ない。食費などの日々の生活にどうしても必要な必需消費は欠かすことはできないとしても、それ以外のとりあえずなくても済ませられるとか出かけなくても良いなどの選択消費は、わたしたちの個や家族の自由裁量によって決定される。
 
 現在では、わたしたちは知らぬ間に経済的な力(権力)を持ってしまっているのである。素人考えであるが、このことが同業の企業間競争の激しさと消費の獲得という中で、価格競争によるデフレ(物価の下落)となって立ち現れているのではないか。逆に言えば、デフレということは、消費者の経済的な力の象徴であり、消費者の経済的な力と経済社会が出会うときに生み出される表現と見なすことができると思われる。したがって、「デフレからの脱却」ということは、わたしたち大多数の消費者を無視した経済政策では特に不可能と言うべきである。


参考資料―小沢一郎の言葉より

2014年12月06日 | 回覧板

●今の自民党はかつての自民党ではない

 それ以来、四十数年たっておりますけれども、私はそのときの先生の言葉を私自身の政治信条として今日まで忘れずに、ずっと持ち続けて政治を行ってきたつもりであります。そういう考え方からいたしますと、本当に今、行われている政治。かつての自民党は今のような考え方じゃなかったですよ。
  私も自民党に長くいました。しかし田中先生の、今、紹介した言葉にあるとおり、自分たちの心のふるさと、依って立つ地域のことを決して忘れなかった。だから、かつての自民党は地方のことばっかり甘やかす、農業のことばっかり過保護にするといろんな批判を浴びました。
  しかし、全国どんな山村に住んでいても、どんな離島に住んでいても、みんなが安定して生活できる。そういう国土を、日本をつくらなきゃいけない。その思いをずっと田中先生ばかりでなくて、自民党の政治家は持ち続けてきたんです。
  ところが今、どうですか。今の政治家はどうですか。これは小泉さん以来ですけども、安倍政権になりましてより強くなった。要するに自由競争、市場原理。競争で勝ったものが生き残ればいいんだ。競争力のある力の強い企業をどんどん、どんどん大きくする。そして、その企業が儲けたお金を国民に全部分配すればみんなも良くなるじゃないか。こういう話です。
  小泉さんもそうだった。だが皆さん、今回、為円が安くなって、輸出を中心とした大企業は史上空前の利益を出しております。利益を出している。その利益を出したお金がみんなに回りましたか。全然みんなには回らずに、企業の懐に貯まっているだけじゃないですか。そうでしょう。こういうのが政治だとしたら、それはもう政治は要らない。自由競争を放りっぱなしにして、強いものが勝ちさえすればいいんだったら、まさに弱肉強食の世界じゃないですか。


●景気を良くするには、まず国民所得を増やすことから

 私は今の安部さんの政治を、個別にどこがいいとか、悪いとかなんとかっていうことを言ってんではなく、こういう基本的な考え方で政治を行っている。それが根本的な間違いだということを皆さんに分かってもらいたいんであります。
  この3~4日、党首が8人も9人も顔を合わせてテレビだのなんだので討論をやりました。その中で農業のことを、地域のことを、ほとんど触れる人は誰もいない。私はこんな政治を続けていたら、本当に国が結果として滅びてしまう。本当に心配いたしております。

  大企業の、経団連のお偉いさんともたまに会うんです。あんた方、目先はそうやってお金儲けて、労働者も正規雇用しない、全部非正規雇用で都合悪いときは首を切る。給料も安くて済む。そういう思いでやっているかもしれないけれども、しかし、国民が疲弊してしまったら、結局はあんた方にそのつけも回るんだよ。天につばする話だと。
  今景気良くするんだ、景気良くするんだって、安倍さんやなんかみんな一生懸命言っているでしょう。日本の経済の6割以上は個人消費なんです。個々の皆さんが使うお金、それが日本の総生産の6割以上を占めているんです。アメリカでは7割以上。
  大企業がいくら儲かったからって、個人個人の皆さんの収入が増え、生活が安定しなきゃ、消費に回さずに財布のひもを締めんのは当たり前でしょう。将来どうなるか分かんない、収入も減ってきている。結局、個人消費は増えない。落ち込んでいる。だから景気は良くなっていないんです。
  景気が良くなったら消費増税延期なんかしませんよ。景気が悪い。自分の政治の実態が見えちゃう。その前に総選挙をして、まずもう一度、政権を続けたい。それが今回の選挙であります。

(「小沢代表総選挙第一声全文」2014年12月04日より 「livedoorニュース」)

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(わたしの註)

 日本の経済の6割以上を占める個人消費の重要性と、それが景気と大きな関わりがあるという認識が語られている。

 わたしは個々の政治家や政党には否定性ばかりであまり関心を持ったことがないが、ここには、身内からの、またマスコミを含む複合する権力からの、作為的な長期にわたる徹底的な悪のイメージを形成され、追い落としキャンペーンを受け続けてきたにもかかわらず、つっぱり続けている孤独な姿がある。小さな集団になってはいても、ここには、自民党をかつて抜け出た最良の部分の最良の言葉があると思う。ということは、自民党は政権維持のためにわたしたち住民の方をちらりと見るばかりの、抜け殻のイデオロギー政党になってしまっている。もうすでに政治というものがイデオロギーではなく、例えば町内会で、ある問題をどうするか、というような状況に近づいてきているのに、わたしたち住民が置き去りにされている。ほんとうは死に体の枯れ果てた政治家や政治は退場して、局所的な個別利害を超えて、この列島に生きるわたしたち大多数の無名の住民たちのゆったりした生活が可能となるような社会や政治の有り様や諸条件を、みんなが知恵を出し合って考え出すべき段階に到っているように思われる。そうでないと社会に立ち現れる気分よくない数々の痛ましい事件も減ることはないだろう。これらの事件の過半は社会の有り様の責任である。

 最後の悪あがき政治家や政党によって政治が占拠され続けている。政権はろくなことはやってきていないのだから、新しい芽が出て育ち始めるまでは、むしろ「決められない政治」の方が望ましい。残念ながら、この国の政治は未だそのような段階にあると思う。当分、政治も誰もがしょうがなくやる掃除当番のようにはならないだろうが、そのような理想のイメージを持ち続けることは大切なことだと思う。たぶん、太古においても、現在のような住民と宗教・政治層とのあつれきは存在していたものと思う。しかし、この列島に生きる大多数の住民の日々の幸福を求める言葉や人がなくなることはないはずである。


わたしの活動のメモ ② 2014.12.1

2014年12月01日 | 回覧板

 これは、「わたしの活動のメモ ① 2014.9.20」に続くメモです。
ツイッターを8月24日に利用開始し、ずっとツイッターで「フォロー」したり「フォロー」されたりしながら、わたしのこの消費を控える活動を紹介・お勧めし、いろんなものを見聞きし、ものを考えたり、ものを書き付けたりして、今まで出店(でみせ)状態を続けてきました。

 ネットで、たまたまアメリカから来た署名サイト「change.org」を見かけました。ツイッターを仲立ちにして、消費を控える行動への賛同=実行を募る署名活動を行おうと考えました。署名とそれに関わるサイトの存在が、ひとり一人の賛同者=実行者の日々の行動を支えるものになるかもしれないと考えました。しかし、署名サイト「change.org」の「キャンペーン」を作る要領がよくわからないのと回覧板①よりもっとわかりやすい文章を書くのが難しく、あきらめました。

 次に、ツイッターで何かできないだろうかと考え、ネット上のツイッター集会を考えました。♯ハッシュタグ(註.#記号と、半角英数字で構成される文字列のことを Twitter上ではハッシュタグと呼ぶ。発言内に「#○○」と入れて投稿すると、その記号つきの発言が検索画面などで一覧できるようになり、同じイベントの参加者や、同じ経験、同じ興味を持つ人のさまざまな意見が閲覧しやすくなる。)を使って、♯ツイッター集会を開催できないかなと考えました。

 もし余りにたくさん集まったら見づらいだろうし、あるいは負荷がかかって画面表示が重たくなりそうだから、分散して、♯ツイッター集会1~♯ツイッター集会nという形にしたらどうかなと考えました。

 あれこれ、いろいろ考えている内に、それを実行に移す前に、安倍政権は、退陣ではなく解散してしまいました。ちょっと肩すかしを食わされた格好になりました。

 吉本さんのアイデアを実行に移す、わたしの消費を控える活動は、もうしばらく意志表示として継続しますし、その活動の意味を知ってもらいたいという活動ももうしばらく続けます。言い換えると、ツイッター+臨時ブログはもう少し継続します。ただし、「回覧板①」の「昼寝のすすめ」という活動への賛同と行動を他の住民に働きかけるのは休止します。

 また、いつか、わたしがこの活動を開始するかどうかはわかりません。しかし、若い世代が、いや誰もが、いつでも開始できるように、わたしのささやかな試みの記録は、わたしの本来のホームページに保存して、いつでも参照できるようにしたいと考えています。

 目の前に選挙が近づいています。現政権の退場、少なくとも大きく勢力を減殺したいと思います。野党にも問題ありありの議員も多いですが、取りあえず最悪の政権の追い落としにわたしたちの力を重ね合わせたいものだと思います。


参考資料―吉本さんのレーニンに対するイメージから

2014年11月30日 | 回覧板

(吉本)
 だからさっきのアマ、プロで言うと、僕はアマチュア的考え方で、どうしてもあばいたほうがいいという考え方になるわけです。僕はレーニンという人はとてもアマチュアだと思うのです。つまり、アマチュアとしてのよさがある。政治運動に伴う暗さとか、陰謀とか、同じ集団に属する者とか、同じイデオロギーをもつ者同士の間の争いということに大半の精力を使わなければならないというようなのが政治運動家みたいな者の宿命だと思います。政治運動家というのはそれに馴れていきますと、たいてい、煮ても焼いても食えないというようなふうになってしまいますね。ところがそういうものをしこたま体験しているにもかかわらず、なぜレーニンが優秀なのかというと、アマチュア的素朴さといいますか、それを残していることだと思います。人柄の中にも残していますし、政治的なやり方の中にも残している。そういうことは、相当強固な意志を持った優秀な人でないとできないんじゃないかとおもうんです。たいてい、海千山千の権謀術策家で、どうしようもないというふうになるのが、政治運動家とか、政治家というものの運命だとおもうのです。どこかに、人間的にか、あるいは政治的にか、素朴さ、あるいは率直さというものを残しているとすれば、たいへん優秀な人か、そうでなければ政治から遠ざかるか、どちらかと思います。レーニンというのは前者だと思うのですね。だから、あの人は、江藤さんの言われるように、権力をとる前とあとではちがうということで、それはたしかにそうなんですけれども、権力をとったあとでもレーニンはオンボロ車に乗って出勤するわけですよ。少なくとも一国の元首なんだから、もっといい車にしたらどうですか、とはたから言われても、いや、おれはオンボロ車でいいんだ、ということで退けるわけです。それから政治的にも、官僚連中に対して、お前たちは労働者の給料以上の給料は絶対取っちゃいかん、というようなことを言うわけです。それは僕の考えでは、たいへんアマチュア的なんです。そんなことはどうだっていいじゃないかとか、あるいはまた別の考え方で言えば、能力があるならそいつは給料をたくさん取ったっていいじゃないか、というふうにもなるんだろうけれども、レーニンは固執するわけなんですね。それはまったくアマチュア精神だと思うんですけれどもね。ただ、たとえばクレムリン宮殿というものがある。わりあいに広いところで、これはすぐに使える、それでここを政府機関に使おうじゃないか、というふうになるわけだけれども、アマチュア的欲を言いますと、それもやめた、そんなところ使うな、というそこまで徹底しますと、たとえばスターリンみたいな人は、出てこなかったと思うし、出られなかったと思うのです。……中略……少なくとも一国の最高指導者が、おれはオンボロ車でいいんだということは、ある意味でたいへん気違いじみていることなんですね。だけれども、そういうところにレーニンは固執しますね。たいへんトリビアルなことになぜそんなに固執するんだ、政治にとってそんなことはどうだっていいじゃないか、というようなトリビアルなことですね。だけどもそういうところはものすごくアマチュアだなというふうに思います。それで、アマチュアを徹底的に通せば、(引用者、註.ロシア革命は)たいへんあとあと、ちがった展開の仕方をしただろうと思いますけれどもね。

(対談「文学と思想の原点」 江藤淳/吉本隆明「文藝」1970年8月号)
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(わたしの註)

 今から40年以上も前のわたしの若い頃は、世間的には、音楽やるのは不良だとか、マルクスやレーニンという言葉はタブーだとかいうふんい気がありました。現在ではそのようなタブーはほぼなくなっています。タブーが消えてものごとや人物や言葉を自由に取り上げ批評できるようになったのは、いいことに属しています。

 吉本さんは、たとえば高村光太郎や宮沢賢治やマルクスなど、自分にとってとても大事な存在だと思われる対象については、その者の作品から書簡、メモに至るまで徹底的に読むということをどこかで語っていました。幾多の血が流され、壮大な負の実験に終わったロシア革命、その指導者レーニンも十分に味読すべき存在だと見なされたのだと思います。人類の歴史のゆるやかな流れを急激にせき止め革命を実行しようとした、その渦中の指導的な部分の中にあった、ささいに見えることだけど、とても大切な意識的な部分について触れられています。このことは、いじめから集団的な悪に至るまで、現在でもどのような集団についても言えることでもあります。「アマチュア的」というのは、わたしたち普通の生活者の開けっぴろげの開放性や率直さと言い換えることができます。それらが集団の中では圧殺されることがあり得ます。

 わたしたちの日頃の人間関係においても、仲間と思える中に自分には付き合いづらい人も居れば、仲間じゃないと思える中にほんとにいい感じの人が居るということもあります。吉本さんが取り出して見せたレーニンの「アマチュア的」ということは、おそらくレーニンの個性的な固有のものから来ているだろうと思われますが、特に集団の中ではこのような「アマチュア的」な素朴さ、つまり開放性と、そのことに固執する意志力は現在においてもなお貴重なものに見えます。集団というものは、今なお小から大に至るまで、個人をのみ込んで、あるいは個人に乗り移って、数々の非行を行う存在なのですから。