①さつまいもを育て始めて四、五年になる。きっかけは、草刈りをやっていたら隣の畑の人から余ったさつまいものつるをもらったからである。さつまいもは、小まめに面倒を見なくてもいいというのがわたしの性分にも合っている。種芋から芽が出て成長したつるを植えるというのは、まだ試みていない。植えるつるは、店から買っている。紅あずまと紅はるかという品種を少し植えている。紅あずまのたくましさに比べ紅はるかの方が少しデリケートな感じがする。
今年は、昨年畑に1メートル四方で深さ1.7メートル程の穴を掘って、購入してきたワラやもみ殻とともにさつまいもをいけたので、それを種芋として植えて、つるを取ることを試みてみようと考えている。発芽・成長のための温度管理が難しそうだ。
②さつまいも栽培は、毎年まったく同じというわけではない。大枠の同一性の中に、天候など(日照時間、気温、雨量)の自然条件の変動やこちらの働きかけの違いなどの微妙な差異性もある。ただし、植えてから収穫するまでの大まかな時間性は、わたしの中に肌合いの感覚として収まっている。そして、その時間性は深度と構成を絶えず少しずつ更新していくものとしてある。ちょうど人と人との関係の有り様と同じように。もちろん、人の世界と同じように、関係の失敗ということも起こり得る。そのデリケートさは共通しているのではないだろうか。
③スイカはとっても好きだけど、さつまいもは好きというほどではなかった。それなのになぜさつまいもを育てているのか?人が現実の場面と出会い、ある行動を選択し展開していく過程は、そんなに単純なものではない。けれど、まったく不明で跡づけることができないというわけでもない。
④ところで、「さつまいもは好きというほどではなかった」と言っても、焼き芋ならおいしく食べた経験が何度もある。あのあっちっちではあるけれど、いい匂いや味わいは忘れられない。また、さつまいもを使ったお菓子のようなものを試み、作ってもいる。当然ながら、同じ素材でもその加工や他のものとの組み合わせなどによって、多様な姿を取ることがある。
⑤遠い昔、おそらくそんなに変わり映えのしない日々の食べ物の繰り返しの中から、いろんな工夫が付け加えられ食事に深みと多様性を積み重ねて来たのではないだろうか。そして、それは一般に女性の手に負うことであったのであろうか。しかし、そのような工夫はまた、深い人間的な欲求に根ざしている。
例えば、今からすれば「塩あん」なんておいしいだろうか、と思うかもしれないが、砂糖というものが一般の人々にまで普及するまでは、砂糖によるあんこのあんこ餅ではなく塩あんだったと柳田国男は書き留めていた。その時代は塩あんでおいしく食べていたのであろう。ちょうど現在の「スイーツ」などと同じように。
⑥わたしの農事が「趣味」に分類されるのに不服はない。しかし、人の外面から差し込んでくる言葉と自分の内面から湧き上がる言葉とが、しっくりと共鳴することは難しい。また、自身でさえ自分の行動がよくわからない場合もあり得る。わたしの「不服はない」という言葉には、そんな背景がある。
⑦例えば、わたしは、自身の「さつまいも」に関する物語をひとつも漏らさず語りたいのである。たとえ「さつまいも」の味わいやその栽培の記録など局所的な部分にしか触れていなくても、その触れた言葉の底流では「さつまいも」の総体に触れているという風でありたいのである。このようなことは、わたしたちの自然状態でも幾分かの度合いではなされているだろう。それを意識的な、更なる高い度合いで成し遂げたいという欲求がある。
⑧このことは、人の振る舞いと言葉との関わり合いという一般性の比喩として見なされても構わないけれど、また「さつまいも」それ自体に関することと見なされても構わない。人の表現というものは、個々人という固有の多様性に対応するように一般に恣意的で多様な解釈の可能性に開かれているからである。
しかし、わたしの本質的な欲求としては、誰にも公然とあるいはまたひそかに流れ込み、流れ出してくるような、普遍的な言葉というものを行使したいのである。様々な事柄に関して対立的な言葉というものが相変わらず花盛りの現状で、その無用な対立の言葉を超えたいのである。わたしの固執する「起源(ものごとのはじまり)という考え方」も「この列島に生きる住民」という考えもそのような流れから流れ出して来ている。
(ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)
現在という世界についての考察
―テレビドラマから、監視・作為・陰謀に囲まれた世界
①わたしはずっと昔は、アメリカの西部劇が好きでした。日本のドラマはほとんど観ないのですが、ケーブルテレビに加入しているのでアメリカの現在のドラマはよく観ています。今は『フォーリングスカイズ』『ブラックリスト』『フリンジ』『パーソン・オブ・インタレスト』などを観ています。いずれも娯楽番組です。
②アメリカの現在のテレビドラマ『フリンジ』の現代性と西部劇の牧歌性を以前、比較して考えたことがあります。ドラマという架空の表現ですが、そこには明らかに時代性というものが無意識的あるいは自然な感じで刻印されています。そして、その両者の表現の間には、めまいを感じるほどの世界の落差や変貌が横たわっています。
③そのめまいは、先進地域であればどの地域を持ってきても感じられることだと思えます。現代のフランスやイギリスのドラマは数えるほどしか観たことはありませんが、それぞれなんとも言えない味わいや違いがあります。あんまり面白くは感じません。それらはアメリカ映画とも異質です。
④娯楽中心のアメリカ映画といっても、そこにも裏切りや憎しみや家族愛や友情や親愛の情など当然人と人とが関わり合う世界で起こるだろう人間的な光景も十分に描かれています。ただその描く角度やリズムや湿度や陰影などがフランスやイギリスなどとは異なっています。また、娯楽がメインになっています。
⑤しかし、そのような地域性の違いはあっても、先に感じためまいのような世界の変貌の表現としてのある共通性を取り出すことはできそうに思われます。それを簡単に言えば、西部劇の牧歌性に対して、現在ではまずあらゆる道路は舗装され都市的な複雑な景観になってしまっていること、そしてそこで人間たちは監視や作為や陰謀に囲まれた世界に存在しているということです。あるいは、逆の言い方をするとそのように見なすほかないような複雑で多層的な世界にわたしたちは存在しているということです。
⑥そして、どこから来るかよくわからないそれらの監視や作為や陰謀との関わり合いを人は避けることができない状況になっています。アメリカの娯楽映画は、そのようなことを背景としてスピード感や迫力を伴いながら観客にジェットコースター体験のようなはらはらどきどきを味わわせる作品が多いです。
⑦もうひとつの特徴は、大都市の建築群のように監視や作為や陰謀に象徴される複雑に入り組んだ社会ということと関連していますが、他人もそして自分自身もまたよくわからない複雑系の存在であるという認識があるように見えます。親しい者でもいつ豹変して自分を裏切るかもしれないという風に描かれたりしています。膨れあがった都市的な環境やそのシステムが、反作用のように人間の内面にもたらしてきたものと思われます。
これらの現在のテレビドラマたちは、現在を生きる作者たちが生み出した架空の表現であるわけですが、あきらかに現在の複雑に膨れあがり絶えず増殖し続けている、しかも閉塞感を伴った人間社会の写像的な表現になっています。
⑧以上を枕に、わたしの取り上げてみたいのは次のことです。ツイッターで、出会いました。
NHK大河『花燃ゆ』 大コケの背景に作品巡る政治的配慮あり│NEWSポストセブン http://www.news-postseven.com/archives/20150118_298380.html …
⑨わたしは観ませんが今回のNHK大河ドラマが不人気みたいだという情報には少し前に出会っていました。記事に確からしく思われる面も感じますが、あくまで「陰謀」や「作為性」が推測的に読みとられています。どんな事柄でも裁判のように最低でも対立的な二色に分離することができます。当事者本人がいかに抗弁しても、「事実」はいかようにも解釈されることが可能であり、それらをつなぎ合わせて様々な物語を構成することができます。残念ながら、相変わらずのこうした状況が現在の段階です。
こうした「事実」を元に様々な「物語」が、主要にマスコミを通して芸能人や政治家などの有名人の行動を素材にして日々生み出されています。わたしはこの件についてもそうですが、一般にそうした自分が直接に見聞きしていない「物語」については、ふうーん、ということで反応しています。つまり、積極的な興味関心が持てませんし、一種判断保留の中立的な感情の状態です。
しかし、現在はソフトで巧妙な誘惑の広告表現から「オレオレ詐欺」にいたるまで、そのような「物語」に充ち満ちています。明確な詐欺でないかぎり、そのことをわたしたちは割と自然なものとして受け入れています。そして一方で、現在の社会では自分が直接見聞きしたことがないのに、科学的発見や統計データや事故の事実などそのことを借用して、つまり間接性を仲立ちにして語らざるを得ないことが増大してきています。その中には、残念ながら意図しない虚偽も意図的な虚偽も混じっています。したがって、わたしたちはとても慎重にならざるを得ません。
⑩たとえ明らかにするのが難しいとしても、人があることをしたかしてないかという行動の事実ははっきりしているはずです。しかし、その行動の事実の内面的な揺らぎの過程を明らかにすることはとても難しいことです。また、ある問題に対してどちらが悪いかという場合も、それは人と人との関わり合いの結果でもありますから、人間の特に個の行動では二色にすっきりと分けることができないのが普通です。そして、そんな複雑さに対する微妙な肌合いの感覚(自覚)を大切にしながら、複雑な関わり合いには入り込まなければいいのですが、どうしても避けられない場合が誰にでもあり得ます。
⑪避けられない場合には、ありきたりですが個や集団の有り様に対するクールな俯瞰的(ふかんてき)な認識の目を働かせながら、流れて来る伝聞や噂ではなく現場に居る自分の目を同時に行使し続けるしかないように思われます。そんなどこからか繰り出されてくる監視や作為や陰謀が加味された間接的なもの(情報)に囲まれて、やや窮屈で複雑系の世界にわたしたちは日々生きています。
⑫付け加えると、のん気なわたしは、そんなこと考えたこともなかったのに、東日本大震災と原発の大事故の後、主に原発を巡ってこの列島に張り巡らされていた「陰謀」や「作為性」が大衆的な規模で露わにされました。それらを張り巡らすことに加担してきた官僚層から政治層そして学者たちやマスコミは、日に照らされたモグラのように恐縮して、謝罪し、たとえこの国の経済が収縮しようが当該住民に対する手厚い対策をとるのかと凝視していても、相変わらず居直り続けています。また、人為的な災害性を持つ原発事故の責任者は何も裁かれずに現在に到っています。これだけでも原発への担当能力は無いと判断できます。
まず第一に、事故の緊急的な混乱の後には、当該関係組織(東電、政府、原子力学会等)は、隠蔽や組織防御的な姿勢ではなく、反省と謝罪という生活社会では当たり前のことをなすべきだったのであり、そこから徹底的な開放性と公開性へと到るべきだったと思います。このことが、放射能汚染問題や原発問題の対立や混乱や紛糾の主要因です。このような構図は、例えば諫早湾干拓問題など巨大公共事業などでの住民分断などと共通の構図で、ずっと同じようなことを繰り返してきています。
そして、その結果として当該住民たちに対立的な無用の軋轢(あつれき)を引き起こしています。もし政府・官僚層・学者層がもっと違った柔軟な対策を取っていたら、その軋轢も小さくできたかもしれません。多数の黙する当該住民を背景にして、放射能被害問題について触れる者は、どんなに科学性を主張しても、またどんなにソフトな開かれたような語り口をしても、残念ながら振り分けられるいずれかの側に加担することを免れることはできません。このような対立は、ほんとうに恐ろしい絶対的な蟻地獄のような世界に見えます。ただ、現状ではうまく言えませんが、ここでもやはり、「住民」という存在や考え方が問題への出立点となるほかないという思いがあります。
ほんとは住民レベルで見るならば、日々の生活が安全であり、安心を持てるということでは一致できるように思われますが、政府の自由度のない施策のせい(これこそが、何度でも強調すべき主要因です)で対立的に現象しているのだと思います。また、「住民」の生活世界を超えた様々なイデオロギーが関わっているということも影響しています。わたしは当該住民ではないから、気楽な場所に居ることになります。しかし、もしわたしが当該住民であったなら、その軋轢の渦の中に居るはずです。わたしは一応の圏外ですが、絶えず注視続けています。なぜなら、原発がこの列島に敷き詰められている現状で、もし万一の事故が再び起こったとき、この列島の住民でその被害を免れる者はいないからです。
⑬現代では、「鉄腕アトム」の牧歌的な科学の時代から一段上がり、科学技術が自然とのいっそう深い関わり合いの段階に到っています。また、科学の研究も大規模な実験設備を要するようになり、研究も集団的なものになっているように見えます。そして「STAP細胞」問題のように、わたしたち素人はその現場に容易に立ち入ることはできません。もはや歯車などから成る牧歌的な科学技術の時代には戻れません。それらの科学技術の成果である飛行機や新幹線から医療機器、ジェットコースターなどの大規模な遊戯施設にいたるまで、それらの機能的なスケールや便利さも危険性も大幅に増大してきています。したがって、それらを稼働させる側には従来にない見識の「器」が必須となってきているはずです。もしそれが不十分であれば、今回の原発の大事故に類する大規模事故は、いろんな分野で今後も起こりうるように思います。
二月になると
みかんと入れ替わるように
デコポンが店頭に顔を出す
遙か昔のように
その形状に沿って
誰が名付けたものか
黄色い響き
待ちわびる
わたしのデコポンと同じく
誰もが待ちわびる
お気に入りを抱えている
春の訪れのように
今年初めてを
待ちわびる
タオルは何度も洗えるけど
濡れてくると 冷!
アメリカ流の使い捨てか
キッチンタオルをよく使う
あ
154円か
まだあるし いいか
120円 一家族二個まで
お やすいやん
二つ買っておこう
スーパーのものの値段図が
私にも肌感覚で記憶されている
わからない
別の国でも
別の地方でも
ないのにわからない
言葉がある
わからない
他人のでも
幼年のでも
ないのにわからない
言葉がある
わからない
言葉には
半ば無意識のように
匂い立っている
言葉の表情がある
駆ける心の
少し乾いた裏地がある
耳から来る
みかた
味方だと思っていたら
見方の一つだった
誤解の峠を越えて
道に踏み迷う
耳から来る
みたか
三鷹に入り込む
たかみから太宰治をみたか
水の匂いする
耳から来る
みかた゜
うまく聴き取れない
音とともに
見たかい
景色が自在に変幻する
吉本 ただ、ぼくの関心に即していいますと、柳田国男でも折口信夫でも、ほんとうはちゃんとやっていると思うんです。日本での歴史性あるいは時間性をどうとらえるかといえば、いちおうは、大和朝廷の勢力が統一国家を形成した以降のせいぜい千数百年の歴史があるわけです。歴史学の叙述のイントロダクションは、いつもそこから始まっていて、それ以前のことは、何か考古学みたいになっちゃうのが常道です。そこでいきおい天皇制が大きなウェイトを持って出てきちゃう。そんなふうに限定し、区切る限りは、それがあると思うんです。折口さんも柳田さんも礼儀正しい人ですから、あからさまに言わないけど、日本の歴史性あるいは時間性をせいぜい千数百年以前、大和朝廷という統一国家を形成した時間性で考えることを本音のところでいえば、あまり問題にしていなかったと思うんです。それを、あからさまには言わないですが、よくよくあたっていけば、ああこの人たちはどのくらいの時間を想定して日本の民族とか文化とか詩とか、あるいは歴史とかを考えているかということは、何となく見当がつきます。それは少なくとも統一国家が形成された以降の千数百年にはあまり重きを置いていないということだけは、確実なように思えるんです。ぼくなんかはいわゆる戦中派ですから、戦争中そういう考え方にとても影響を受けたり悩まされたりしたことを含めて、大和朝廷が統一国家を形成したことは、あまり日本の文化そのものを論じる場合に、結節点とするほどの重要さはないはずだという観点が、どうしても出てくると思います。それが、時間性あるいは歴史性というものを考える場合の観点ですね。その観点は、ぼくの独創でも何でもないと思います。それは、折口信夫とか柳田国男を読んで学んだ要素に負うところがたくさんあります。
なぜそう思ったかといえば、それでさんざん悩まされたんで、それでいく限りは三島由紀夫さんのような美的価値観にいくよりしかたがない必然性みたいなものがあります。どうもそれはちがうんだということで、いまみたいに考えるようになったと思います。それを、見つけようとした場合、沖縄に変形を受けないで保存されているものが、大きな要素になってくると思えたんです。
(「わが思索のあと」P153-P154 吉本隆明・小潟昭夫対談1974年
『吉本隆明全対談集3』青土社)
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(わたしの註)
わたしは、折口信夫に関しては少ししか知りません。柳田国男の書き残したものはずいぶん読みたどってきていますし、今も少しずつ読んでいます。したがって、もうずいぶん柳田の文体(個の固有性を持つ言葉の織りなし方)には慣れ親しんでいます。したがって、吉本さんがここで語っていることについては、わたしもそう思います。つまり、天皇や国家と共に始まる古代の歴史以前にも連綿としたこの列島の住民たちの歴史があるということ、柳田国男は民俗学において古代以前にもさかのぼっていますし、またほんとうは一国の民俗学を超えて世界へと橋渡しをしていく構想を時折書き留めています。しかし、柳田国男も述べていましたが、一人の生涯にできることは限られています。この列島の住民たちの精神史をたどるだけでも大変な仕事です。柳田国男は途方もない調査と比較・総合を繰り返しながら、日本人の精神史の古い層へ段階的に降りていくイメージの形成をなし遂げようとしています。正しく苦闘の足跡を記しています。
ところで、生命や宇宙の起源に関する研究は、次第に起源の方に近づいていきます。それと同じく、文明や文化を生み出してきた人間の精神史もだんだん起源の方に近づいていきます。考古学的な遺跡や文物など、もはや遺されたものが限られてきてもうこれ以上人類の足跡を探査することは不可能ではないかと見えても、遺伝子レベルでの遺された人類の足跡の探査ができるようになってきています。したがって、近代では日本の伝統文化として奈良や平安時代などの美的なものに収束しがちでしたが、現在ではそれらを突き抜けて、古代以前にまでさかのぼって日本人や日本語とは何かが問われています。このことを従来的な捉え方の日本文化や伝統や日本人ということにクロスさせれば、漢字から万葉仮名や平仮名へや律令制の導入など、外来のものを割と積極的に導入し、それに独自の改良を加え、自分たちの世界に接ぎ木する、その接ぎ木された結果ではなく、その真似上手な接ぎ木するこの列島の住民たちの意識の有り様こそが問われなくてはならないという段階に現在は到っています。
その奈良や平安時代の「接ぎ木された結果」に日本の伝統や文化や美を見てきたのが近代だとすれば、現在はそれよりもっと根深いところが問われるようになってきています。人類は、歴史の進展とともに過去に向かってもより深く捉え返すようになってくるからです。柳田国男もまた、過去を深く捉え日本人の精神史を明らかにしていくことは、同時にわたしたちの未来の有り様を考えることと同じである、とどこかで述べていました。
現在でも、雑誌やテレビなどが日本の伝統文化として奈良や京都の文物を取り上げることがあります。別に個々人の趣味や好みをどうこういうつもりはありませんが、「日本人とは何か」「日本人の精神史とは何か」「日本語とは何か」というテーマから見て、もはやそのような一時期のものに本質を求めようとすることは終わっていると考えざるを得ません。つまり、グローバル化ということが浮上してきている中で、縄文弥生や奈良や平安や鎌倉江戸などの文化の有り様を生み出してきた日本人の心性の根っこの部分が問われ始めているということです。その兆候の一つとして、おそらく現在のわたしたちは、心のどこかで「なんか世の中が従来とは違ってきているようだ」という大きな変わり目の感覚を抱いているのではないかと思っています。このことは、もちろん世代によって違ってきます。若い世代は、割と自然なものとして現在を受けとめているからです。また、海外で企業などで仕事してている人々は、異文化や異慣習がぶつかり合う中、おそらく切実に日本人としての根っこの部分を反芻させられ、考えさせられているのではないかと想像します。
わたしたちは日々あわただしい生活を繰り返しています。しかし、現在中心のその中にも奈良や平安というよりもっと数万年前というような、この列島の住民の「起源性」(ものごとのはじまり)から受け継いで来ている精神の遺伝的なものがあります。つまり、現在の感覚や考え方の中にとても古いものが混じり合って、いくつかの層を成しています。吉本さんは、現在の私たちにまで遺されているそのようなとても古い部分を「アジア的な段階」以前の「アフリカ的段階」のものと見なしました。そのような部分にわたしたちは普通は割と無自覚ですが、おそらく欧米などの外国人の目を通すと浮かび上がってきやすいと思われます。
グローバル化という言葉が、自然なものとなりつつある現在では、世界の各地域の固有の文化や精神史の根深さを踏まえながら、各地域がお互いにどのような付き合い方をしていくのかが、政治・経済・文化などあらゆる面で問われています。つまり、自分の地域の固有性を抱えながら、グローバル化する世界に自分を開いていくということです。例えばイギリスやフランスなどもいろんな人種の人々が混じり合っています。したがって、その過程では、宗教問題から社会問題までさまざまな軋轢(あつれき)や困難な課題に直面しているし、していくでしょう。地域間、人間間の対等な付き合い方や互助という理想の基本線ははっきりしていても、それを実現していくことは大変なことだろうと思われます。しかし、それらが乗り越えられるべき課題としてわたしたちの前に横たわっているのは確かなことです。
―「吉本さんの見識に基づく消費を控える活動の記録 (2014.8~12)」の保管先について
振り返れば、我ながらこんな活動を開始するなんて驚きでした。しかし、わたしは戦争を体験していませんが、この国の文学や思想をたどる中でわかった、先の戦争への過程でこの列島の住民もあらゆる芸術家も総敗北しかなかったという無惨な歴史認識が、いつもわたしにはあります。また、歴史の遠い果てから考えても、この列島の住民は、神頼みこそすれ、自分たちの大切な生活世界を自立的に決死の覚悟で守るという経験に慣れていません。そういう歴史的な状況認識がいつもわたしの中にあり、わたしをつっぱらせるものになっています。
2014年8月から12月に渡る、このわたしのささやかな活動の輪郭は、「回覧板①」、「わたしの活動のメモ①」、「わたしの活動のメモ②」を読んでもらえればわかると思います。たった一人からでも活動することができ、しかも現実世界に波及させることができるこの活動は、現在という時代の「おくりもの」だと思います。それを具体的に言えば、家計消費がGNPの約6割という現在の「消費資本主義社会」、吉本さんのその社会分析、ネットやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などの仮想空間の普及・拡大などがあります。
わたしたち住民に政権を直接リコールする権利がない現状では、この消費を控える運動は、わが国に限らず家計消費がGDPの過半を超える先進諸国ではきわめて有効なものだと思います。もちろん、このような運動は、しなくて済むに越したことははありませんが、太古以来、人類の歩みにはわたしたち住民がそういうことを自覚して、せざるを得ないものを引きずってきています。わたしの試みは、十分計量できない実験的なものに終わりましたが、今後誰もが始めることができるよう、いくらかの参考にでもなればと思い、ここに活動の記録を収録しておきます。
わたしは、この列島の無名の住民として終始したく思い、活動してきましたが、活動の記録の保管先であるわたしのホームページ「言葉の海から」を見られたらわたしの個人名がわかります。「有名人」ではないから別にたいして変わらないかもしれませんが、現代社会の慣習により、個人名を記しておきます。
2014.12.31
(この列島の一住民 西村和俊)
※保管先ホームページ
「言葉の海から」( http://www001.upp.so-net.ne.jp/kotoumi/ )
読者は、現在10名弱だと思いますが、できるだけゆったりと必死でやっています。
※ツイッターは、残します。前からやってみたかった「ツイッター詩」(140字制限)をやってみようと考えています。臨時ブログ「回覧板」は、もうしばらく続けてどうするか考えたいと思います。
①人は誰でも、ある家族の下へ誕生することによってこの世界へ立ち現れ、育ち育てられ独り立ちして、そしてこの世界から去って行く。この両端の誕生と死は、自力だけではままならないものである。この生誕から死に渡る移りゆきは、植物や動物のあり方とも共通しているように見える。しかし人間の場合、それらの中間地帯では、自分の周りに凝集する人間界の現在が、圧倒的なものと見なされる。あくせく自力を行使せざるを得ない。
②昔、効率的な大学受験指導のためカリキュラムの違法な差し替え問題で高校の校長が自殺するということがあった。これに類することはおそらく枚挙に暇(いとま)がないと思われる。そんなに心が追い詰められていたら、辞めちゃえばいいじゃないかと端から思っても、当事者はあくせく自力を行使せざるを得ないのである。観客である外からの視線と当事者である内側の視線では、おそらく見える風景やものごとの軽重が違っているのである。
③このように青年から老年に渡る人生の「中間地帯」では、上のような問題性に限らず、無意識的にも意識的にも、わたしたちは日々の生活を普通のものあるいは至上のものと見なしている。つまり、人間界の家族や仕事での人間的な関わり合う世界に自力の力こぶを入れて日々思い悩み苦しみ喜び楽しみ生きている。
④もちろん、そんな大多数の主流からはずれていく小さな支流もあるかもしれない。しかし、例えば仏教のように、人のこの世でのこのようなあり方に俯瞰(ふかん)する上の方からの視線を加えるとき、「大多数の主流からはずれていく小さな支流」のように、わたしたちの日々の生活が浮力を持たされるのを感じる。つまり、自分のこの世でのあり方を内省している自分がいる。
⑤おそらくこれは、人間界のわたしたちの現在に凝集(ぎょうしゅう)している、わたしたちの割と無意識的な生き方に、人間界を超えた大いなる自然(この宇宙)との関わり合いを感じさせるからだと思う。わたしたちは、葬式などの他人の死や災害などの大きな出来事の時、ふとぼんやりとそんな大いなる自然との関わり合いにこころ触れている。このようなことは、誰もが体験しているはずである。
⑥人のこの世界との関わり合いは、人間界のわたしの現在に凝集するような生き方に関わるものがすべてではない。人の歴史が、まず大いなる自然との関わり合いから始まり、次第にセイフティネットとしての人間界を築き上げてきたように、かけるウェイトの違いはあっても、人は「大いなる自然」や「人間界」との重層する関係を生きている。
(註.ツイッターのツイートを元に少し加筆訂正)
―「吉本さんの見識に基づく消費を控える活動の記録 (2014.8~12)」の保管先について
振り返れば、我ながらこんな活動を開始するなんて驚きでした。しかし、わたしは戦争を体験していませんが、この国の文学や思想をたどる中でわかった、先の戦争への過程でこの列島の住民もあらゆる芸術家も総敗北しかなかったという無惨な歴史認識が、いつもわたしにはあります。また、歴史の遠い果てから考えても、この列島の住民は、神頼みこそすれ、自分たちの大切な生活世界を自立的に決死の覚悟で守るという経験に慣れていません。そういう歴史的な状況認識がいつもわたしの中にあり、わたしをつっぱらせるものになっています。
2014年8月から12月に渡る、このわたしのささやかな活動の輪郭は、「回覧板①」、「わたしの活動のメモ①」、「わたしの活動のメモ②」を読んでもらえればわかると思います。たった一人からでも活動することができ、しかも現実世界に波及させることができるこの活動は、現在という時代の「おくりもの」だと思います。それを具体的に言えば、家計消費がGNPの約6割という現在の「消費資本主義社会」、吉本さんのその社会分析、ネットやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などの仮想空間の普及・拡大などがあります。
わたしたち住民に政権を直接リコールする権利がない現状では、この消費を控える運動は、わが国に限らず家計消費がGDPの過半を超える先進諸国ではきわめて有効なものだと思います。もちろん、このような運動は、しなくて済むに越したことははありませんが、太古以来、人類の歩みにはわたしたち住民がそういうことを自覚して、せざるを得ないものを引きずってきています。わたしの試みは、十分計量できない実験的なものに終わりましたが、今後誰もが始めることができるよう、いくらかの参考にでもなればと思い、ここに活動の記録を収録しておきます。
わたしは、この列島の無名の住民として終始したく思い、活動してきましたが、活動の記録の保管先であるわたしのホームページ「言葉の海から」を見られたらわたしの個人名がわかります。「有名人」ではないから別にたいして変わらないかもしれませんが、現代社会の慣習により、個人名を記しておきます。
2014.12.31
(この列島の一住民 西村和俊)
※保管先ホームページ
「言葉の海から」( http://www5.plala.or.jp/nishiyan/ )
読者は、現在10名弱だと思いますが、できるだけゆったりと必死でやっています。
※ツイッターは、残します。前からやってみたかった「ついったあ詩」(140字制限)をやってみようと考えています。臨時ブログ「回覧板」は、もうしばらく続けてどうするか考えたいと思います。