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回覧板

ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

短歌味体な Ⅱ 194-196  

2015年05月07日 | 回覧板

[短歌味体な Ⅱ]  みどりシリーズ・続
 
 
194
しっとりと雨にぬれ煙る
葉のつやの
言葉を超えて 浮上するイメージ
 
 
195
日々眠り 起き くり返す
ふしぎはない
けれど 時に みどり影射す
 
 
196
「ああいいね」 言葉は走り
意味伝う
その道はずれ 言葉の芯が火照っている


参考資料―考える吉本さん②

2015年05月05日 | 回覧板

(「どう生きる?これからの10年」吉本隆明インタビューより )
 
 
B:これからの未来を生きる人たちに対して、
何かアドバイスはありますか?
 
 
僕は最近、「人間力」という言葉を作りましてね。
もうこうなったら「人間力」と「構想力」だって。
「人間力」って何かって言うと、
「人間が理想の可能性を考える能力」の事なんです。
それから「構想力」を持っていた方がいいですよって、
若い人には言うんです。
その二つだと思う。
「構想力」というのは、たとえば、仮にあなたが文部大臣なら何をするのか、
それを考えておくということです。
今の学校制度のここが駄目だと思うとか、
これは変えたいと思うとか、ここはいいと思うとか、
そういう事について具体的に自分の構想力を持っていた方が良い。
それを実行するかしないっていうのはどうでもいいわけです。
そういう場面がいつ来るかわからないけれど、
もし場面が来たらやればいいし、
そういう必然性が無いのならやらなきゃいいし、
それだけの事なんだけど。
それは一見すると何も意味がないって思われるかもしれなけれど、
それはそうじゃないんですね。
たとえば三人の仲の良い友達がいて、
その中の二人が「構想力」を持っていたら社会は変わります。
これはハイテクが発達すればするほど変わりますね。
だから「構想力」だけはもって、明日からやれって言われたら、
はいって言っていってすぐにやればいいんです。
これは当番みたいなもので、別にそんなの偉いもへちまもない。
いつだって、お前やれよ、ってことになったらやればいいんです。


参考資料―考える吉本さん①

2015年05月05日 | 回覧板

(「どう生きる?これからの10年」吉本隆明インタビューより )
( http://www.bookclubkai.jp/interview/contents/0062.html )


B:100年後、人間はどのような意識の状態にいると想像されますか?


100年というと、人間が赤ん坊のころから亡くなるまで、だいたい一代。
そのくらいの範囲で考えられることだけが、
まあ真面目に考えている事なんだっていうことができますね。
レーニンは、唯物論的な政治哲学を持っていたけれど、
それだって150年ももたなかった。
宇宙は人間とは桁違いのことで計らなければいけないけれど、
人間の脳より先に宇宙があったんだよというのは、
どんな宗教家だろうがなんだろうが、
現在ではだいたいにおいて今は認めるでしょう。
物理学者のエルンスト・マッハは、
「そんな事いうけど、目をつむっちゃったらそんなこと問題にならないじゃない」
っていう観念論です。
人間の脳より先に宇宙が無かろうがあろうが、
要するに死んじゃったらおしまいじゃないじゃないかっていう事になります。
まあ、とりあえず、100年以内に考えられる事は考えた方がいいし、
わかればわかった方がいいと思います。
だけども、これが真理だぞっと言えるような事を人間の社会について
考えてみろって言ったって、そりゃあ誰にも不可能でしょう。
僕がいくら考えても10年か15年か、20年までは
ちょっと怪しいというそういう感じがしますね。
それ以上の事を言ったら嘘言っていることになる。


短歌味体な Ⅱ 74-76 

2015年03月22日 | 回覧板

 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)



74 ▲
わからない言葉同士でも
匂い立つ
例えば笑みの流れ滲(し)み入る

 註.「奇跡のリンゴ」の木村秋則さんが、外国に出かけてだったと思うが、互いに外国語を知らないのにある外国人と意思疎通ができて語り合ったとある本の中で述べていたことに、わたしがふしぎな思いを抱いたことを思い出して。



75 ▲
似ていてもフリーズとプリーズ
夕暮れに
彼(か)は誰(たれ)ぞ誰ぞ不穏ざわめく

 註.もうずいぶん前になるが、アメリカ留学中の若者が、ハローウィン期間中に他家に迷い込んで射殺されたというニュースを思い出して。



76 ▲
freezeとplease フリーズとプリーズ
あちらとこちら
耳流れ来たる湧き立つ異形


日々いろいろ―ツイッター体験から 2

2015年03月12日 | 回覧板

①例えば、自転車に乗れない子どもに出会ったことがありますが、それはめったにありません。とても多くの人々が、自転車に乗ることができます。スムーズに乗れるようになるまでには、擦りむいたりけがしたりぶつけたり泣きそうになったりと様々な物語があったとしても、それは忘れたように鼻歌でも歌いながら自然に乗りこなしているように見えます。
 
②わたしたちが日々出会う物や人などとの出会い方には、ある一般性があります。まず不慣れな戸惑いを抱えながらある対象と出会い、次にその対象との出会いをくり返す過程を通して、次第に慣れていきます。そうして、その対象は、あの始まりの時を忘れたように、自分にとって自然なもの(存在)となってきます。
 
③つまり、ある対象とくり返し出会って関わり合い来た時間と空間の積み重なりから、その関わり合いの構造を内面化させ、それを自然なものとして取り出せる、あるいは自然に対処するようになってきます。もちろん、不幸にしてある対象が自分にとって異和感をもたらす場合もあるでしょう。
 
④この不幸な出会いの場合には、少しずつ解消されていく、あるいは相変わらず残り続ける異和感を抱えながら、上記の少しずつ対象に慣れていく過程をたどることになります。わたしの小さな経験から言えば、どのような人間の小社会でも自分と相性が悪い人が少なくとも必ず一人はいるような気がします。
 
⑤また、この人は人見知りだとかいうことがあるように、個々人の持つ性格的な違いによって、ある対象に対する慣れ易さの度合いの差があります。しかし、いずれにしても上のような慣れる過程を踏んでいくという点では共通しています。
 
⑥ある必要に促されるようにしてツイッターをやり始めて半年ばかりになります。ツイッターの大まかな文法(使いこなし方)にも慣れてきて、最初のわからなさや戸惑いは影を潜めて、あまりふしぎに思わなくなりました。しかし、振り返ってみればふしぎなことに、この一連の過程は人間にとって自然なことです。物や人や場面に対する警戒心がわたしたち人間より高そうな動物にも、この慣れていく自然さというのはありそうに思います。
 
⑦今までであれば、わたしたち住民が、一堂に会して話し合いを持ったり、意志を表明したり、意志を確認し合ったり、それを集約したりすることは不可能なことでした。ネット世界やSNSを生み出した、積み重ねられ来た現在の技術力によって、それらのことが可能域に近づいてきています。
 
⑧付け加えれば、ネット世界を現実と直結しない仮想的な世界に過ぎないと軽く見る考えもあります。しかし、現在の店舗や銀行のオンラインシステムは、正しく仮想的なシステムですが、現実に食い込んでいます。つまり、現実と合わさって機能し、力を発揮しています。
 
⑨したがって、この仮想的な世界はいわゆる現実に波及する力能を持っています。今は亡き吉本(隆明)さんが考え付いた「消費を控える運動」は、わたしたち列島の住民たちの多数が、「こんなひどい政権は許せない」、「そうだやってみよう」と意志して日々実行に移すならば、とても大きな現実的な力を発揮するはずです。
 
⑩今までにない「こんなひどい政権」の存在は、わたしたち住民が大きな問題ありの「政権をいつでもリコールすることができる権利」の必要性を逆に証明しています。また、経済の重要性は、現政権のその対応が逆証しています。その「消費を控える運動」は、強力なボディブロウになり得ます。
 
⑪これほど平和的で、住民相互の平等な関わりで、効果的なものはないと確信しています。野党が当てにならない現状で、悲観することは要りません。わたしたちの「住民力」が問われています。こんなことは今までの歴史上かつてないことです。みなさん、静かに実行されてはどうでしょうか。わたしはそうしています。
 
  (註.ツイッターのツイートを元に少し加筆訂正)


日々の感想

2015年02月28日 | 回覧板

①遠い昔、私の小さい頃、小学生だったか、昭和天皇の地方巡遊の出迎えに動員された。彼が何を話していたのかは覚えていない。彼はサーカスみたいな高台の上から手を振っていた。私の回りで帽子の振り方など得意げに講釈してる少年もいたが、何にも知らない私は、こんなことって何なのだろうというふしぎな感覚の中、「別に」という以外のプラスの感慨を持たなかった。

②本日、NHK7時のニュース。
英王子、安倍総理、被災地、子どもたちの出迎え。
わたしには〈平等〉ということが肌合いの感覚や感情としてあるから、ここでもまた「別に」という以外のプラスの感慨を持たなかった。

③ただし、もし私が現地にたまたま居たとして、相手が「水戸黄門」みたいなお忍びの普通の姿であれば、あいさつの一つもするかもしれない。住民としての普通の付き合い方やあいさつとして。

(ツイートを少し加筆訂正。)


わたしの空想 2

2015年02月27日 | 回覧板

③さらに遠い未来について。水や火の利用法の改良により、昔と比べると洗濯や炊事などの家事もずいぶん手間や時間など軽減されてきています。わたしの小さい頃は、水や火の利用法において、まだ「桃太郎」の世界(おじいさんは……おばあさんは……)とつながるものでした。
 
 昔よく観ていたアメリカのテレビドラマに、惑星連邦宇宙艦エンタープライズ号のピカード艦長が登場する『新スタートレック』という未来の宇宙を舞台とするものがありました。そのドラマの中で、エンタープライズ内に設置されている「レプリケーター」(これ、名前忘れていたので、検索しました)という機械がありました。欲しい飲み物や料理をその機械に向かって言うと、すぐにそれらが出てきます。
 
 それはおそらく原子や分子レベルでの合成技術でしょう。そういう「レプリケーター」のような装置ができたらいいなと空想します。わたしの小さい頃と比べて調理も格段に簡単になり、多彩な調味料などによって味も多様になっています。あるいはすぐに食べることができるレトルト食品もたくさんあります。インスタントラーメンなども質や味がずいぶん向上してきているようです。そういう意味では、その「レプリケーター」の世界に少しずつ近づいていると言えるかもしれません。
 
 ドラマの中で、どこで手に入れたのか、苦労して手に入れた本物の肉を調理して、「おいしい、やっぱり本物は違うな」というような場面がありました。ここはたぶん、ドラマ制作者たちの「現在」が介入しているものと思われます。つまり、「味」や「味覚」というものは、これまでいろいろ変化してきたし変化していくものだということです。例えば、木村秋則さんの「自然栽培」による「奇跡のリンゴ」は、他のリンゴと比べて長く置いていても他のもののように腐ることはなく、枯れ果てていくというような実験結果を紹介されていました。その味もちょうど温室栽培のトマトに対する露地栽培のトマトのように、力強い味のようです。しかし、その味は過ぎ去られていく味なのかもしれません。若い世代は、おそらく若いわたしたちがそうであったように、わたしたちとまた違う時代の先端の方の味に慣れてきているのかもしれません。
 
 例えば、原初の人間が生肉を食べていたとして、その味や味覚と現在のそれらとはずいぶん変貌しているはずです。その変貌の中に、わたしたちの身体の変貌と関わり合いながらの食や味覚の歴史が横たわっています。この変貌の歴史を推進しているのは、おそらく人間の自然への働きかけとともに、人間の可塑性や馴致性、つまり、変わりやすさと慣れやすさという性質だと思われます。もちろん、どれほどの歴史的な時間の深さを持つのかわかりませんが、生肉や生魚を食べる風習として現在に残っているものもあります。(これまた、どの位の歴史の深さを持つかわかりませんが、昔、NHKのテレビで偶然に、ロシアのバイカル湖の近くに住む人々で生魚を食べるということを観たことがあります。)
 
このような味を巡る綱引きは、現在でも生産者と消費者の間の、はっきりとは見えないところでやり取りがなされているはずです。たぶん、消費者に好まれると思う味(味だけとは限りませんが)のトマトを作り出したとか、それが余り売れなかったとか、様々なやりとりが、この領域においてもなされながら、少しずつ踏み固められていくでしょう。
 
 先ほどのレプリケーター」という装置に関連して、『新スタートレック』には「転送装置」というものも出てきます。人や物をある地点から別のある地点に瞬間移動させることができる装置です。人や物をおそらく原子や分子レベルにまで分解し、復元するということを行うことによって、そのことを実現しているようです。現状ではまったくの空想に見えますが、トラブルを想像すると恐いとともに、魅惑的な空想です。
 
 現在、ネット通販の飛躍的な増大とともに、物の流通量も増大しているはずです。それだけ流通業のトラックの交通量も増大し、その運転手などの負担や疲労も増加しているかもしれません。流通の形態や構造を変えなければどこかで飽和点に達するように見えます。もちろん、車の自動化による運転の軽減や会社の経営側の配慮や人口減による消費の増大の鈍化など、いろんな要素がその飽和点に関して関わってきます。いずれにしても、現在から見たその「転送装置」は、旅行や人や物の移動に対して輸送機関が要らない超革命的な空想に見えます。瞬間移動できるわけですから。
 
④何億年か先のこと。それまで人類が存続していたとして、人間の祖先が海から陸に上陸したように、今度は地球上から宇宙空間へ本格的に上陸していくのかもしれません。現在のところ、地球(太陽系)も危機的状況には見えませんし、宇宙空間の放射能問題、食糧問題などなどたくさんのクリアーすべき条件がありすぎて不可能に見えるかもしれませんが、しかし、この太陽系の終末以前に、人類はそれらをひとつひとつ乗り超えて、宇宙空間に上陸していくのを空想します。わたしたち人類が、途方もない時間の中で、海の世界の魚のような姿かたちから進化して現在に到っているとすれば、この先どのようにも変わりうるように思われます。


わたしの空想 1

2015年02月26日 | 回覧板

①近未来について。「ベーシックインカム(basic income)」(最低限所得保障)は、空想的ではないかもしれませんが、そのため財源などからして空想的だという見方もあるようです。これは、人類が歴史のある段階で、おそらく小さな集落レベルの社会において、「もやい」(分かち合い)として実現していたことでもあります。生活の知恵として生み出されたものでしょう。これが近未来において、再び「ベーシックインカム」という新たな形で実現されることを空想しています。
 
 もし、これが実現されれば、ほんとうの平等が浸透していく大きな契機(きっかけ)になります。この制度に対して、現在の眼差しからの、人が怠け者になるなどの否定的な意見もありますが、この制度は一度は歴史的に経験していることでもあり、徐々に問題点をクリアーしていくだろうと思います。わたしがこの「ベーシックインカム」で空想するもっとも重要な点は、次のようなことです。
 
 例えば、現在では大きな苦労をして役者のように装って会社への就職活動をしなくてはなりません。就職難を苦にした学生の自殺もあるようです。求職者と会社というのが上下関係になってるからです。これが実現されれば、嫌な仕事ならすぐに辞めることができます。求職者も会社も変わりゆき、上下関係は徐々に平等な関係へと動いていくと思います。また、現代社会では知識を持つということは、富や権力と結びついていて、無言の内に、あるいは無意識の内に大きな力を発揮し、わたしたちの考え方や行動に規制を加えています。……数え上げれば切りがありません。わたしたちは、覆い被さってくる様々なマイナスと見えるものを押し分けかき分けしながら、自分の大切と思うものごとを守りながら日々生活しています。
 
 「ベーシックインカム」が実現されたら、舞台は暗転して、徐々に来たるべき社会に相応しい姿を現してくるのではないかと空想しています。遠い遠い遠い歴史の段階の、平等に近い集落の世界の再来のように。つまり、社会内に存在するあらゆる上下の関係が取り払われて、ほんとうに平等にふさわしい人の姿や人と人との関わり合いの芽が穏やかに芽吹き出すのをイメージしています。

 
②次に、もう少し遠い未来について。現在、英語が日本語化して、カタカナ語のよくわからない言葉や略語がたくさん巷にあふれている印象があります。中国から来た漢字や漢語に対してきたのと同様に、欧米から来る英語に対しても、「日本語」というものが懐が深く自由度の高い言葉だからでしょうか。「日本語」といっても、旧日本語という古代以前にまで拡張して考えると、よくその正体がわからないところがあります。
 
 ところで、わたしは、英語は日本語をいいかげんに発音したものだくらいに見なして、必要がないから英会話は勉強したことはありません。現在のところ英語が必要な人は、あくせくとあるいは楽しく勉強するしかありません。
 
 文明度の上昇は、明治近代以降、急激でめざましいものがありますが、数百年後にもおそらく現在のように異国語が互いに存在しているだろうと仮定して、耳に小さな器具を装着すればお互いに割とスムーズに会話できるようになるだろうと空想しています。つまり、自動翻訳のシステムということです。学者以外の普通の人々は、苦労して異国語を学習しなくてもよくなります。
 


空想ということ

2015年02月21日 | 回覧板

①空想というものを、人間の生み出す、現実的な支えや関わりを持たないイメージや考えであると見なせば、空想は余り意味のない遊びのようなものになります。もちろん、今流行の経済効率性という視線からすれば、無意味なものに見えるかもしれません。あるいは、すぐれた経営者ならそういう遊びの要素も現実の駆動力や動因として大切なものと見なすかもしれません。いずれにしても、人の行動の効率性や経済性などに関わりなく、子どもも大人も人は全て「遊び」を手放せない存在です。つまり、人間は、様々な表現-行動の恣意性や自由度を持つ存在でもあります。
 また、人のそういう「遊び」の要素は、経済社会の動向に大きく関わっていて、それを下支えしてもいます。
 
②空想は、しかし、数百年、数千年、数万年などという個々の人間の時間を超えた大きな時間のものさしで見れば、ある空想が現実(可能)性を獲得するということがあり得るように思われます。わたしたち人間は、それぞれひとり一人であるという固有な光を帯びた個別性であるとともに、また人類と一括りするような類的な(集合的な)存在でもあります。そして、その両者の時間のものさしは違っています。わたしたち人間はひとり一人であるという面では、時間のものさしは、目下、100年程度です。
 
③例えば、新聞でも取り上げられたことのある「宇宙エレベーター」(「軌道エレベーター」とも言う。これは村上龍の小説『歌うクジラ』にも取り入れられていました。)は、現在のところ空想的ですが、まじめに研究・開発・構想されているようです。これは、地球上と大気圏外の宇宙間に軌道を設けて、その間を宇宙船みたいなものが上り下りするというシステムです。
 
④また、ベーシックインカム(最低限所得補償)という考えも200年くらい前から構想され、現在まで生き延びてきて、徐々に現実(可能)性を獲得して来ているように見えます。付け加えれば、遠い歴史の段階で、収穫を皆で分かち合うなどひとたびはそれに類する制度のようなものが実現されていた時期もあったと思われます。その遙かな痕跡のようなものは、地引網漁の「もやい」(集団的な智恵としての分かち合い)に限らず、まだまだ残っているかもしれません。
 
⑤このように、ある時代に洗濯の泡のように次から次に個々人によって生み出される空想も、小さな時間のものさしの中ではほとんど意味のない思考の遊びに見えて、大さな時間のものさしである歴史の大きな流れの中では、空想を離脱することがあり得ることになります。

  (註.ツイッターのツイートを元に少し加筆訂正)


日々いろいろ―宝くじの話から

2015年01月30日 | 回覧板

①なぜ急に宝くじのことがわたしに湧き上がってきたのかはわからない。ふと湧き上がる言葉やイメージには、必然性が感じられることもあれば、まったくの偶然のように見える場合もある。しかし、もう一段人間の内面を下ってみたら、すべてが必然(あるいは偶然)のように生起すると見なせるのかもしれない。

②しかし、人間はまだそんな眺望を十分なものとして手にしていない。つまり、人の生誕から、成長し老いて死ぬという生涯の内面の流れが、言葉に取り出せるほど十分にわかっていない。もちろん、遙か大過去の人々のものの考え方で、それを「迷妄」と見なせるほどには解っていることもある。(わたしたち人間が、人間という存在の有り様や内面の活動の有り様、そして人間の生み出す世界の有り様、これらについての眺望を拡大し深化させて行けば、その眺望から来るまぶしさのために対立的な世界は少しずつこわばりを緩めていくのだろうか。)

③そして、同様に遠い未来からの視線では、現在のわたしたちのものの考え方や振る舞い方が「迷妄」と見なされることはあるだろう。そういう意味で、遙か大過去の時代も現在もその世界の在り方の本質は変わらないと思われる。しかし、わたしたちは現在という世界を基準にしてものを考え、判定を下している。喜んだり、思い悩み苦しんだりしている。いつの時代もこのことに例外はないと思う。

④ただし知の世界に関わる者は、一方で他と同じように現在という海に漬かり行動しながら、そのような現在の人の有り様を掘り下げて、歴史というものを呼び寄せたり、発掘したり、あるいは未来の姿を構想したりする存在である。これは人間に対する眺望を意識的に獲得し、深化させるのに寄与する行為でもある。

⑤しかし、わたしたち大多数の普通の人間は、社会の生み出す技術力や産業的なものとの日々のやりとり(交通)を通して、無意識の内に新たな眺望を生み出していく。知に関わる者は、自らの固有性を通してその無意識的なものを意識的に取り出し言語化や映像化しようと試みる者のことである。彼らは自力を過信したり誤解したりしているかもしれないが、彼らの営為はあくまでも膨大な無名の人々の日々の営みの総和が生み出す力強い流れに支えられているのである。それに気づかない思想やイメージは、誰にも当てはまるという普遍性を持ったものではなく、妄言に近いということができる。芸術的な表現を含めて知の世界に関わる者の活動は、そのような大きな「他力」に支えられた小さな「自力」と見なすことができると思う。

⑥ところで、わたしは、遠い昔、気まぐれで二、三度宝くじを買ったことがある。大当たりを期待してではない。目の前に売り場を目にしての購入だったと思う。気まぐれにと言っても、そんなしょうもないと否定せずに買う以上、遊びの要素があったり、どこかに淡い期待も微かにあったのかもしれない。動機は微妙だ。

⑦わたしが小さい頃、父が定期的に宝くじを買っている時期があった。ほとんどいい当たりはなかったように記憶している。父の動機は何だったのだろう。大当たりを願望しなかったとは言えないだろうが、少なくとも生活に余裕が出るような当たりを期待してのことだったとは言えるだろう。

⑧わたしの父の性格を考慮した上での判定ではそうなる。宝くじは大当たりが当たらないわけではない。この地球及び大地の定常的な大きなリズムから何百年に一度くらいの大災害が繰り出されてくるように、その程度の確率でならば大当たりは現前するのだろう。わたしはそんなものに託す気にはなれないだけである。

⑨したがって、わたしの場合は当たるはずはないと見なして、宝くじは買わない。しかし、他人が宝くじに寄せる思いや買う様々な動機を馬鹿にしたり、否定したりする気にはなれない。人、ということは他人や自分自身ということ、その内面の複雑な様相をまだ十分な眺望としてわたしたちは手にしていないし、また、この人間界で人類が積み上げてきた叡智というものはあっても、人の行動に絶対性としての基準はない。人は誰でも、人類が積み上げてきたものを背景として、様々な相対性にさらされながら日々いろんな気持ちを抱き、いろんなものに心込めて、自由に生きようとしている存在であると思うからである。