表現の現在―ささいに見える問題から ⑫
-補註1 (吉本隆明『言語にとって美とはなにか』に触れ)
※今回からのいくつかの補註は、前回の又吉直樹の『火花』に触れた文章の補註に当たる。あれはあれで一つの区切りは付けていたが、もう少し残余があり、しかもその問題がわたしにとって大きすぎて、難しすぎるのでこの文章はのびのびにしていた。曖昧さは含むだろうが、一応のけりを付けておきたい。
例えば、竹取物語は作者未詳と言われている。このような作者がはっきりしない作品は平安期でも他にいろいろある。当時の作者意識は現在とは違っていたのではないかということを推測させる。現在では、作品には固有の作者が存在する。しかも、著作権ということで著作に対して作者は法的な保護も受けている。
作品は、わたしたち読者をある物語の時空へ誘い出し、様々な物語の起伏や流れを通してもてなしてくれる。作者もまたわたしたちと同じような社会関係の中に存在し、同じ時代の大気を呼吸している。したがって、作品には、作者を通してわたしたちと共有される時代の感性や意識の水準と作者固有のものとの二重性が織り込まれている。わたしたち読者は、すぐれた作品との出会いにおいては、作品世界に入りこめば作品をまるで日常の行動のように読みたどりながら、物語のわくわくするような起伏や流線の流れに乗って開放感を味わうことの他に、作品の中に作者を通して織り込まれた時代性としての既知のいい感じの感覚やイメージを味わったり、時代性を超えようとして作者が密かに微かに指し示す未知の感覚やイメージを味わったりしている。
以下に引用する吉本さんの『言語にとって美とはなにか』と「カール・マルクス」からの言葉は、わたしの言葉で簡潔に言い表せば、前者の言葉は、「作品には、作者を通してわたしたちと共有される時代の感性や意識の水準と作者固有のものとの二重性が織り込まれている」、その二重性の一面の、共通性として抽出できる社会や時代と関わる面を主要に扱っている。ある時代のある社会の状況が、その全ての生活者住民にある影響をもたらす。そして、普通の生活者ならそれに対する様々な反応が日常の生活過程での選択や行動として引き出されてくる。このことは表現する作者であっても同じであるが、作者の場合はさらにそれがより先鋭的に表現世界における反応へと持ち越され、作品の世界に現実社会での反応とは区別される表現的な反応として現れてくる。これらが、ある抽出された抽象度の水準で考察されている。そこでの具体性とは、個々の作品に表現される、言葉の表現の具体性である。
後者の「カール・マルクス」から言葉は、人間が社会の内で自然と関わり合い自然を人間化していく、またその反作用として、人間は自然に対するイメージや意識を形成していく。人間と自然との関わり合いの歴史的な積み重なりの中で、現在はそういう現実社会の大規模な変貌の段階に遭遇していて、そのことがわたしたちの自然に対するイメージや意識に知らぬ間に新たな段階を画しているのではないか。そして、それは感受できる徴候として当然ながらわたしたちの日々の生活の渦中でのイメージや感覚や意識として発現されているだろうし、作者たちの表現された作品の言葉にも発現してくるはずである。
個人の存在の根拠があやふやになり、外界とどんな関係にむすばれているかの自覚があいまいで不安定なものに感じられるようになると、いままで指示意識の多様さとしてあったひとつの時代の言語の帯は、多様さの根拠をなくしてただよってゆく。〈私〉の意識は現実のどんな事件にぶつかってもどんな状態にはまりこんでも、外界のある斜面に、つまり社会の構成のどこかにはっきり位置しているという存在感をもちえなくなる。
こういう情況で、言語の表現はどこにゆく手をみつけだすだろうか。
たぶんこれが大正末年このかた近代の表出史がつきあたった表現のもんだいだった。これは高度に均質にはばをひろげていった資本制度の社会で、さまざまな個人の生活史がどれだけ均質な条件にさらされたかということにちがいなかったろう。表現としていえば、文学者たちの現実にむかう意識はローラーでおしならされたように、かわりばえもなく均質化された。そして、文学の表現は、どんな個性の色彩をもち、個別のモチーフを唱いあげたものであっても、この社会がしいたローラーならしにたいする反応や、抵抗や、代償としてはじめて成り立つほかなかった。
解体にひんし、均質化につきあたった〈私〉意識が、まずみつけだした通路は、文学の表現の対象になるものを主体のほうからすすんで平準化し、均質にならしてしまうことで、現実の社会のなかでの〈私〉の解体を、表現では補償しようとすることだった。
たとえば、〈石ころ〉と〈人間〉とは現実世界ではまったくちがったものだ。そしてちがった認識の位相にひとりでに位置づけられている。また〈猫〉と〈舟〉とは現実の世界では質がちがい〈花〉と〈子供〉とは現実の世界でちがった意味づけをあたえられている。人間と自然とは、その自然が建物や器械のように人工的なものであれ、草や樹木のような自然なものであれ、まったく異質だということは、わたしたちが現実の社会にあるとき暗黙のうちに前提にしている。こういう前提が現実の人間社会を成り立たせている根拠になっている。そこで生活しているときのわたしたちの関係には、そういう基本になる確かさがひそんでいるといっていい。だが表現世界をどんなことでもあるしおこりうる想像の全球面とかんがえると、かならずしもこんな確かさは前提にはならない。それはけっして想像は自由だから(ほんとうは自由でないのだが)ではなくて、現実認識の序列があやういところでこそ表現の特有な秩序が成り立つものだとかんがえなければ、芸術的な表現は自由に存在できる根拠をたもちえないからだ。しかし、くりかえしていえば、芸術の表現が自由な秩序をもてるということは、すぐに想像がまったく自由だということを意味しない。すくなくとも、現実の社会でさまざまな個人が、じぶんの根拠や理由が不確かだとおもったとすれば、その部分に対応するある球面での想像が自由になるとかんがえることができよう。
近代の表出史がこのもんだいに当面したのは大正末年だった。
(『定本 言語にとって美とはなにかⅠ』「新感覚の意味」P256-P258 吉本隆明 角川選書)
(引用者註.横光利一の作品を引用して)
これらの断片が鮮やかにしめしているのは、表出の対象が等質だということだ。それは馭者が馬をさがさずに、馬が馭者をさがしてもおなじだし、日の光が馭者の猫背に乗りかかり、朝日が「私の胸」に殺到し、寒駅がぼんやり列車の横腹に横たわっているという主格の転倒によって、もともと対象の主格性が交換可能なものにすぎないことをあざやかに啓示した。
おそらく、そういう表出の根源には解体してしまった〈私〉の意識からは対象は自然であれ人間であれすべて交換可能な相対性にすぎないという認識がひそんでいた。その意識からは〈馬〉や〈日の光〉や〈寒駅〉に表現のうえで自意識をあたえることが不自然ではないという文体革命のうえの事情がかくされていた。わたしたちはこれらの表現から横光利一の個性の特質をえりわけねばならないだろうが、しかし、そのうえに表出史のあるぬきさしならぬ契機がここにはあったとみなければならぬ。…………中略…………近代の表出史ははじめて大正末期に、ある想像線を設定し、その想像線のなかでは現実的な序列とちがった表現の対象があつまって、並列にならぶことができた。その無秩序が表出としてありうることを確証したといってよい。これは表出史としてみれば、現在までにかんがえられる最後の水準に言語空間が足をふみいれたことであった。
(『同上』P260-P261)
ここで、吉本さんは個々の具体的な作家や作品を取り上げたとしても、ある論じうる表現の地平に対象を抽出して、ある抽象度で論じている。先ほどの作品に織り込まれる二重性の、意識の面から見た共通な社会の有り様や時代の感性や意識の水準から作品と作者が捉えられている。つまり、人間が、ある社会状況の渦中や時代性の中に生き、そこで呼吸している以上、そのことが人々の抱く感覚や行動にある共通性をもたらすだろう。同様に、芸術表現の世界に赴く者も、個性やグループなどにおけるバリエーションがありつつも、何らかの共通な傾向性を持つだろうことは確実である。それらが歴史的な積み重なりの水準として把捉されている。
したがって、「現実の社会のなかでの〈私〉の解体」は、「新感覚派」のみに限らず同時代のすべての表現者を襲った共通の時代性の水準と見なされていて、「現実の社会のなかでの〈私〉の解体を、表現では補償しようとすることだった」、その一態様として「新感覚派」の表現も捉えられている。現実社会での人の対応とは相対的に独立した表現世界の有り様が追跡され、記述されていることになる。
(1/5)人は、現在では個人でありつつ、家族や職場など小社会の中に存在し、当然それぞれで話す言葉や振る舞いを割とシームレスに日々使い分けている。そして、誰もが仕事などは当の個人の視野中心として見たり感じたり受けとめたりする。したがって、二者関係などの待遇の具体性として捉えがちだ。
(2/5)しかし、職場の「非正規」待遇や一人では十分生活できない賃金は、個人に降りかかってくるけれど、「自己責任」ではない。会社の経営者層の見識や判断であるとともに、そういう制度を作った政府や経済団体の責任である。それは家計消費の縮退として彼らに跳ね返る。
(3/5)会社にも優れた見識持ち、人有っての会社であるという自覚を持ち、いい処遇をする経営者も時たまテレビなどで目にするが、主流は現在の体たらくをもたらしたような会社が多いということになる。また、その様な法や政策を迫る経済圧力団体がある。欧米由来の「強欲資本主義」と言えよう。
(4/5)何のために集団や会社はあるのかという人間の集団の遙かな歴史の始まりから眺めれば、これらは、歴史の始まりからの視線に恥ずかしくて耐え得ないはずだ。この列島の長らく生き延びてきた「相互扶助」という美点にもそぐわない。一体どうなっちまったんだろう、この世界は。
(5/5)この世界は逆転している。私たち生活者の代行にすぎないはずの政治家などが威張りくさっている。私たちは、生活にまつわるいろんなことでもっとちゃんと仕事しろよと言っていいはずだ。そのための政治、政府なんだから。この間の保育所問題でこうしたことを思った。
消費を控える継続中。
(ツイッターのツイートより)
『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』を読む (2/2)
―中世の西行を思い浮かべつつ
2
本書は、著者が現代の出家とも見なせる小屋暮らしをするようになったいきさつや著者の内面的な体験などが語られている。西行の時代に対応させれば、その出家の動機や出家後の生活を西行の場合とちがって外面からではなく内面から割と事細かに語ってくれていることになる。あるいはさらに普遍化させれば、わたしたちが他者(身近な人であれ、社会に浮上する事件の当事者であれ)の行動を推し量ろうとする場合のわたしたちが気掛けるべきことを暗示している。つまり、どんな他者の世界も、ということは自分の世界も、そんなに単純な道筋を経て現在の姿に到っているのではないということ。さらに一見そのことと矛盾するように見えるかもしれないが、この世界を日々生きているわたしたちは、それぞれ固有の色合いや性格を携えながらも誕生から生い育って死へという過程を誰もが一様にたどってゆくのだろうということである。
しかも、一般的には人は、内省することはあったとしてもそのような過程自体をごく自然なものとしてたどっていく。しかし、この著者の場合はその大多数が生活している「自然さ」に異和感を抱いている。また、誰もが何らかの形で持つのと同様であるが、著者によって事細かに内省的に語られても、著者が容易には触れ得ない無意識的な領域も存在する。著者の場合、それは日常性を振り切るような威力を持つ、〈死〉というものに過剰に引き寄せられ、引き回されることである。下の②に引用するように、そのことの起点としての小学生頃のイメージのようなものは描写されているが、おそらくその〈死〉への囚われは、もっと根深いもののように見える。そしてこのことは、西行の絶えず現世と出家後の仏教的な世界との間に引き裂かれ思い悩み、現世へ執着する心と似ている。
西行の歌を①と②に分けて引用したのと対応させて、本書の著者の言葉から取りだして、以下①と②に分類的に抽出する。
①
僕は遠い昔、むしろまったく逆の人間だった。人を真似したり、信じたりすることによって、無数の人々が構築してきた文明や文化の恩恵を享受する術を知っていた。しかし今や、自分の性格や思考様式はすっかり変貌してしまった。
それでも、なんとかやっている。僕は僕のままでちゃんと生きている。
小屋暮らしにはどの季節にもそれぞれのよさがあるが、あえて季節を一つ選ぶとするなら僕は冬を選ぶ。小屋を留守にしてどこかを彷徨っていることもしばしばだが、小屋を建ててから今まで、冬に小屋にいなかったことは一度もない。
朝、ロフトの寝床で目を開ける前に、雑木林ごと綿で包んだかのような静けさとほんのりとした暖かさに気づき、今日は特別な日だと感じることがある。目を開けて、ロフトの天窓が雪で覆われているのを確認し、「やはり」と思う。屋根に積もった雪が断熱材として機能しているのだ。かまくらの原理である。
顔を洗って外に出て、薪棚の前で今日はどれにしようかなと目をキョロキョロさせる。積まれている薪はあちこちからかき集めてきたもので千差万別てある。太いのもあれば細いのもあり、樹種も乾き具合も、表皮の厚さなんかも全然違う。なるべく相異なった太めの薪を三本ほど、たいがいサクラを一本、焚き付け用の細い小枝と一緒に抱えて小屋の中に戻る。
ストーブが稼働したら、パンを二枚焼く。薪ストーブの上で焼き網に乗せて焼くと輻射熱で中まで熱が通り、絶妙に焼ける。バターを塗って、こんがり焼いたベーコンを乗せて、塩胡椒を多めに振り、コーヒーと合わせて朝食とする。これは僕が冬の間中ずっと繰り返していたメニューである。
(『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』P144-P146 高村友也)
小屋は、舗装された道路からでこぼこの林道を数百メートルほど入ったところにある。……中略……
都会にいながら、「一人の時間」を確保するのは、そんなに難しいことではないかもしれない。喫緊の用事を済ませ、携帯電話の電源を切って、部屋の扉にカタリと鍵をかければ、何か思案に耽るにはとりあえず事足りる。
山小屋の「一人の時間」はそれとは少し異なる。部屋に鍵をかけ、外界を遮断して一人になるのではなく、外界と繋がったままにして一人なのだ。雑事を締め出し、雑念を追い払い、ようやく作り上げるかりそめの一人の時間ではなく、全体性を持った本物の一人の時間である。
この全体性こそ、わざわざ実際に土地を買って小屋を建てて、自分の生活そのものを捧げてまで欲しかったものである。
(『同上』P146-P147)
小屋には誰も呼んだことがない。
僕は一人でいるのが好きだ。何か趣味に没頭しているわけではない。何もすることがなくても、何ヶ月でも延々と一人でいられる。「一人」というのは、本当に心が安らぐ。
自分の中の最深部へ降りていったとき、そこに他人がいるか否か。そこに他人がいるという人は、安全地帯にも信頼できる他人が必要なのだと思う。僕の場合、そこには自分以外には誰もいない。
(『同上』P146-P147)
②
しかし、あえて一言で言うならば、「自由に生きる」ために僕はこの生活を選んだし、選ばざるをえなかった。
自由に生きるとはどういうことか。
それは、自分の中にあるものすべて投じて、自分自身に忠実に、全身全霊で生きるということである。もしも、自分の中のごく一部の能力、ごく一部の思考、ごく一部の人格のみによって、上っ面を撫でるような毎日しか送れないとしたら、それ以上の悲劇はない。 ことさらに自由を求める人が往々にしてそうであるように、そもそも僕は本来、自由とは正反対の性質を宿した人間である。とりわけ小屋を建てようと思っていた頃は、数多の抑圧を抱えて身動きが取れなくなっていた。
その抑圧の根底には、物心ついた頃からずっと考え続けてきた「自分の死」のイメージがある。いつか死んで永遠の無に溶け込むことを知っている自分と、今まさにこの瞬間に日常を生きつつある自分とが乖離していって、なんだか毎日に全人格を投じて生きられていないと感じるようになった。
自由に生きる。自分自身として生きる。そのためには、生と死のどちらをごまかすこともできない。自由に生きるとは、すなわち僕にとって、「死」というものまで包含しながら生きてゆくということだった。
(『同上』「はじめに」)
小学校の一年か二年か、そのくらいだっただろうか。はっきりとした年齢は覚えていない。
実家の二階の少し広い和室に布団を敷いて、いつものように一人で寝るところだった。橙色をした豆電球の明かりをぼんやりと眺めるともなしに眺めていて、いやもしかしたら目を瞑っていたような気もするが、突如、「僕はいつか死ぬんだ」と思った。次の瞬間、「そして永遠に戻って来ないんだ」と思った。
たった二秒か三秒のできごとだった。
そのとき、現実の存在物とまったく同等なリアリティを持って僕の脳裏に浮かんでいたのは、僕がいなくなった後の暗黒の宇宙と、百年、千年、一億年、……永遠に終わらない無限の時間だった。
僕は動悸を起こし、発汗し、震えていた。上半身を起こし、そのまましばらく掛け布団の青い花柄を見つめていた。
僕は消えてしまう。永遠に消えてしまう。怖い。絶対に嫌だ。
時間の感覚が消失し、僕を突き動かしていた「人生」という物語が消えた。自分の人生が、点のように小さくなってしまった。
この二秒か三秒足らずの経験によって、僕は、外界にまったく原因を持たない、日常生活という文脈から完全に切り離されたところからやって来る、純粋に内的な経験があることを知った。僕にとって決定的な経験であったにもかかわらず、時間的に前後の出来事と結びついておらず、何歳のことであったか定かでないのは、文脈がないからである。
その内的経験は、何か現実の存在物の抽象化といった過程を経て得られるのではない自立した「観念」と出会うこと、あるいは自身の中に最初から存在していたその観念に気づくことを意味した。
そして、その純粋に内的な存在であるはずの観念が、肉体に影響を及ぼしうるのだということを知った。
(『同上』P20-P22)
僕はひたすら、自分ばかりを見ていた。
―中略―
しかし、特定の誰かの視線ではない、誰の視線でもない視線があった。死の観念がもたらす、死の世界から見る視線だった。
(『同上』P58)
病気ではないことははっきりしているし、医者に症状を言えば病気と言われるであろうこともはっきりしているし、医者には治せないであろうこともはっきりしているし、症状が治ればいいという問題ではないこともはっきりしている。
(『同上』P171)
著者が、過去を振り返り、自らを内省し、「随所にその動機となった思いや経験をちりばめた」言葉の中から、わたしが大事と思うそのいくつかを抽出してみた。わたしは心の専門家でもない普通の平均的な世界を主に潜り抜けて来た者に過ぎないし、どこまでそれが可能かわからないけれど、できるだけ著者の心の在所に近づこうとしている。
抽出した①の群は、著者の小屋暮らしの描写の中から、わたしが特にいいなと思った部分である。たとえ不安の影が背に張り付いていたとしても、そこには万人が持つであろう、日々の細々とした生活の中で、穏やかに流れる時間があり、柔らかな眼差しや憩いや心安らぎがある。ここでは、人と人との関わり合いが希薄な、中世の「隠者」たちのような静けさがあるとしても、である。
②の群は、著者がなぜこのような小屋暮らしをするようになったかの動機の連鎖に当たっている。人は誰もが気づいたときには物心ついていて、誰々の家の子であり、どんな性格であり、という風になっている。どうして自分は感じ方や考え方や性格がこんななのだろうと嫌になったり、疑問に思うことは誰しも多少はあっても、それをたどる術がない。現在では、胎内の胎児の振る舞いが画像としてある程度わかるようになってきているとしても、その謎をたどる術がないように見えるのは変わりがない。ただ、わたしたち人の性格の核の部分の形成は、胎内から始まっていると言えそうである。そして吉本さんが明らかにした太宰治や三島由紀夫の乳児期の有り様から見れば、人の性格などの核の形成時期に相当する胎児期や乳児期という、人が絶対的な受動性であるほかない時期の生活の有り様が、無意識的な核として後々を大きく左右するほどとても大事であるということも言えると思う。
著者が、〈死〉というものに過剰に引き寄せられたり、占領されたりすることの起点として小学生頃のイメージを置いて描写している。著者に思い当たるのは、そのような唐突に訪れた体験であったのだろう。しかし、人の生まれ育ちの観点からすれば、誰もが通り過ぎてきたのに「そこに思い出せない記憶があるということはわかっている」(P37)とあるような漠然とした靄のような心の領域がある。わたしたちの性格の核の部分は、容易に気づくことのない、無意識的な領域に沈んでいるのだと思う。したがって、それは性格の核の部分が発した現象の一つなのかもしれない。付け加えれば、生まれて言葉をしゃべれるようになったまだ小さい頃なら、胎内の記憶を持っていてそれを語り出す子もいるらしい。
生きようとする意識にどこからともなく寄せてくる(ように見えたり感じられたりする)死の想念の波によって、著者の生存の感覚や意識は、今・ここに・生きているという現存性と、「世界をどこか遠くの上の方から眺める人格」(P95)とに二重化する。したがって、引き裂かれた分裂感(乖離感)を味わい続けることになる。
ところで、ここで個としての心や魂の場所から視線を引いて見る。
鎌倉期に多くの新仏教が起こり活動的になったということは、当然ながらそれ以前からの胎動があったということになる。平安末から鎌倉期にかけて、飢饉や病や戦さなど世の中のどうしようもないほどの惨状を目の当たりにして、また時代の激動と流行思想に押されるようにして、現世から出家遁世する者たちがいた。彼らは仏教の修行をしながら、西行のように文学(歌)に力を入れた人々もいた。これらの後に隠者と呼ばれる人々が、どの位の規模で存在していたのかは分からないけれども、この一群の人々が鎌倉期の新仏教への流れに大きく関係しているはずだから、社会的に無視し得ないような規模としてあったと思われる。例えば、西行の絶えず自らの生存の有り様を問い続ける歌のように、この一群の人々は、流行や流行思想に乗りながら、この世界から外れるようにしてその存在自体によって、この世界やそこでの人の生の有り様を照らし出していたはずである。
同様に、現在の著者のような生活する人々や「ニート」と呼ばれる人々まで含めると、この社会から一歩退いて生きる人々は、割合から見ても無視できない規模だと思われる。かれらを共通の地平で捉えれば、個々人の動機の違いは様々でも、自分の存在に対する何らかの否定性が普通以上に強いのかもしれない。これを社会との接触の面で見れば、本人たちの自覚としては希薄でも生き難い社会として否定性として見なされているはずである。このような動向や、例えば社会の現状に対応して社会で進行している葬式の有り様の変貌(家族葬の増加や葬式の簡素化)などが、徐々にこの社会を突き動かし変貌させていくのだろうと思う。もちろん、それらの大本には、わたしたちが関わり呼吸するこの社会の産業的な構成の更新があり、それに促されて変貌が現象してくる。
最後に、著者の場所に戻る。
普通、人々は、人間関係でひどい目に遭ったとか大きな難題に出くわしたときとかはあり得るとしても、学者や研究者や表現や思想などに入りこみすぎた者でなければ、日々生きていること自体を意識的に、継続的に問うたり、追い詰めていたりはしない。著者の場合は、生きていく上で大きな難題に魅入られてしまったから、避けられない形で小屋住まいという生活の形の有り様や本書の言葉として結んできたのだろう。
著者が力こぶを入れている(入れざるを得ない)ように見える哲学的な言葉は、ほんとうは彼の生存の条件から強いられたものにすぎないのではないかと思う。つまり、彼の生存の固有の条件が、哲学的な言葉を引き寄せ、哲学への関心へと押し出した。著者がどこかで哲学自体にそんなに関心があるわけではない、と記していたように思うが、ほんとうは、自らの魂の在所にわずかでも光が差し込んで、その心から精神に渡る乖離やこわばりがほどけていけばいいのだろう。それが第一に願われていることだろうと思う。
このように、思い悩むのは人であれば例外はないけれども、著者のように重たい課題を抱えてしまった人々も居るのだろう。その背負ってしまった重たい課題は簡単には解けてしまわないと思われるが、日々の生活の具体性を生きくり返す中から、いい小径ができて、心穏やかな時間が十分に持てるようになったらいいねと願うばかりである。お節介ではあるが、わたしから見ると著者は潔癖すぎる印象だ、もっと生活過程でのいいかげんさも大切にされたらと思う。
引用②の最後に、「病気」についての捉え方が記されている。坂口恭平『家族の哲学』の中の、作者が深く流れ込んでいると思える躁鬱を抱えた〈私〉もまた、この著者と同様な病の捉え方をしていた。この捉え方には、外からはいかにささやかにみえようと日々積極的に自由に生きようとする著者たちの、悪戦苦闘と生存の意志が込められている。
以前、「参考資料―吉本さんの『ほんとうの考え・うその考え』のこと」(http://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/841af6ae64bdcc90c039a4c60c4393f6)の「わたしの註」の末尾で、吉本さんの「対称」という言葉の癖のようなものについて触れたことがある。そんなに重要な問題とは思わなかったけれど、長く気になっていたことである。
最近になって、「短歌味体Ⅳ―吉本さんのおくりもの」を書き進めている関係で、遠い昔に買って若い頃読んだ『吉本隆明全著作集 2 初期詩篇Ⅰ』(勁草書房 昭和46年)を何十年ぶりかで開いて見ていたら、巻末の「解題」(川上春雄)にそのことがちゃんと書き留めてあった。後振り返れば吉本さんの著作の数は膨大で、雑誌に載ったり、本として出版されるものを次第に追っかけて読むようになっていった。傍線が引いてあるから、遠い昔一度は読んだはずのその「解題」のことはわたしの記憶のどこにもなかった。
用字仮名づかいについては、この解題でふれておかねばならないことは、著者の用語、仮名づかい、あるいは修辞の上で甚だ特色に富むことである。ついては、この企画の第一回配本がこの第二巻『初期詩篇Ⅰ』となる関係から、第一巻の刊行を待たずに、ここに一括して用字用語の大概を記しておく。
且てたれもがそうとはおもはなかつた不思儀な対称が視られるでせう。
右の文でたとえば、著者の意識的な好みなり、無意識的な誤謬なり、その混在なりの一端がみられる。しかも、そう(「そう」に傍線)はあるときはさう(「さう」に傍線)となり、対称は、ひとつの文章のなかにおいてさえ、対象、対照を併用していることもあるから一貫した用法ではない。これを校正係から[嘗て]あるいは[かつて]と訂し、[不思議][対象]と訂することの申出があれば、著者はただちにこれを諾するであろうということは、このようなことに固執しない人柄からみて、およそ明らかである。文学的な記録を意識的に行為するようになった米沢在住時代以降、昭和四十三年(一九六八)の現在にいたるまで、依然として、
(且て)(たれ)もが(そう)とは(おもは)なかつた(不思儀)な(対称)が(視)られるで(せう)。(引用者註.カッコの部分は、傍線あり。)
というような筆記法によっている。もちろん手紙の文面でもおなじである。
しかしながら、かつて「不思儀」を「不思議」と書きかえしなかった編集者校正者は存在しないのであったが、この著作集全般の校訂に際しては、あえて原型をのこして、著者の作風、感性を保存しようとつとめた。慣例、適切、常識、精確というような点では、あるいは一般的用字法に折合わなくても、著者独特の語法に拠って、原作にたちかえることを旨とした。
(『吉本隆明全著作集 2 初期詩篇Ⅰ』「解題」P410-P413)
そういうことだったのか、と少しすっきりした気分になった。
『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』を読む
―中世の西行を思い浮かべつつ
1
わたしは、本書を読みながらわたしの好きな中世の歌人、西行のことを思い浮かべた。西行は、平安末の動乱の時代を生きた北面の武士、佐藤義清(のりきよ)であったが、なぜか若くして出家してしまった。後に読まれた歌からすればこの世での生き難さから当時の流行思想である仏教の方に入り込んでいったのか、妻も子もいたらしいが、出家の動機も出家後の動向もよくはわかっていない。
ところで、西行は平安期末の1140年23歳の時出家したと言われている。西行といくらかのつながりのあった貴族の藤原頼長の日記『台記』には、次のように描写されている。
「そもそも西行は、もと兵衛尉(ひょうえのじょう)義清也。重代の勇士たるを以て、法皇に仕ふ。俗時より心を仏道に入る。家富み、年若く、心に愁無きに、遂に以て遁世す。人これを嘆美する也」(『台記』1142年3月15曰の記事)(http://www.intweb.co.jp/saigyou/saigyou_nenpu.htm ここから引用した)
藤原頼長が西行とどれくらいの関わりがあったかは知らないが、訪れてきた西行の印象が簡潔に描写されている。そして日記という性格もあるだろうが、これは西行の内面には触れない外面描写になっている。これ以外にも荒唐無稽な話を含む西行の説話的な物語や伝記や記述が書かれているものがある。これらをひとくくりで外面的な描写や説話と見なせば、現在でそれに対応するのは週刊誌の記事や描写であろう。その外面的な描写や説話も現代の週刊誌の記事や描写もともに、ある特定の人物の内面を十分に描写する位置にないし、描写し得る文体でもない。
だが、西行には歌が残されている。出家前のことや出家後のこと、あるいはとても心引かれていた桜を歌った歌など『山家集』に収められている。また、当時から人工的な美の造型である新古今派の歌と引き比べて具体像をまとった西行の歌は異質であり、すぐれたものであるという評価を歌の世界(貴族社会)では受けていた。残された西行の歌は、人間界の前景からの消失、つまり出家遁世の動機とその心模様を西行が自覚的ではない形で自ずから語ってしまっていると見なせると思う。もちろん、歌であるから、西行の内面が整序立てて明確に語られているというわけではない。しかし、歌には西行の内面が具体像を伴いながら描出されているものもある。例えば、次の『聞書集』の歌は、おそらく老年になっての歌と思われるが、若い頃を思い出しつつ「たはぶれ歌」の形式に乗って歌われている。このような日常詠の歌は、俗謡としては似たものはあったかもしれないが、日常詠の歌として本格的に歌の領域に入り込んでくるのはおそらく近世になってからだと思われる。
①
嵯峨にすみけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを(八首)
うなゐ子がすさみにならす麦笛のこゑにおどろく夏の昼臥し(聞書集165)
【通釈】うない髪の子供が戯れに吹き鳴らす麦笛の音に、はっと目が覚める、夏の昼寝。
昔かな炒粉いりこかけとかせしことよあこめの袖に玉だすきして(聞書集166)
【通釈】昔であるなあ。炒粉かけだったか、そんなのをしたことよ。衵(あこめ)の袖にたすきがけをして。
我もさぞ庭のいさごの土遊びさて生ひたてる身にこそありけれ(聞書集170)
【通釈】私もそのように庭の砂の土遊びをして、そうして成長した身であったのだ。
恋しきをたはぶれられしそのかみのいはけなかりし折の心は(聞書集174)
【通釈】恋しい思いをからかわれた、その昔のあどけなかった頃の心は、ああ。
(http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html#kikigaki 「千人万首」西行 より引用)
②
春立つ日よみける
なにとなく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の山(1062)
【通釈】春になったと聞いた日から、なんとなく、心にかかる吉野山である。
花に染そむ心のいかでのこりけむ捨て果ててきと思ふわが身に(76)[千載1066]
【通釈】花に染まるほど執する心がどうして残ったのだろうか。現世に執着する心はすっかり捨て切ったと思っている我が身なのに。
ゆくへなく月に心のすみすみて果てはいかにかならむとすらむ(353)
【通釈】あてどもなく、月を見ているうちに心が澄みに澄んで、ついには私の心はどうなってしまうというのだろう。
あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来む世もかくや苦しかるべき(710)
【通釈】ああ、ああ。現世のことは、ままよ、どうとでもなれ。しかし、来世もこのように苦しいものなのだろうか。
題しらず
世の中を思へばなべて散る花の我が身をさてもいづちかもせむ(新古1471)
【通釈】世の中というものを思えば、すべては散る花のように滅んでゆく――そのような我が身をさてまあ、どうすればよいのやら。
あづまのかたへ修行し侍りけるに、ふじの山をよめる
風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬ我が心かな(新古1613)
【通釈】風になびく富士山の煙が空に消えて、そのように行方も知れないわが心であるよ
(同上 より引用)
①②の引用歌から見ても西行は、仏教の修行者というイメージとはちがっている。桜の花に心ひかれたり、出家しても残る現世への執着を隠そうともしていない。平安末の動乱期、現実世界での生き難い心が、当時の流行の思想である仏教を呼び寄せたと言うべきだろうか。自分の内面との果てしない問答がくり返されている。しかも、それがどこへどういう形で到るのかは西行自身にとってついに不明のままであった。
①の引用歌は、西行が眼前の子ども等の所作から自分の過去を振り返ったり、あるいは遠い過去の記憶を思い浮かべたりしている歌である。②の引用歌と比べたら、割と穏やかな内面の在処や表情が表現されている。出家後も一人きりというわけではなく、同じ出家者の親しい知り合いも居て交流もあったようだし、①の子どもの砂遊びなどを見ての歌などもあり、よくわからないという抽象性を伴いつつもある具体像を思い浮かべることができる。人が生きていくということはわたしたちの現在を内省すればわかるように、②の表現のようなある思想的な思い悩みのきびしい系列の表現もあれば、①のような自らを慰藉するような柔らかな表現もある。
②の引用歌は、花や月や山などの自然が詠み込まれているけれども、おそらく現世的なものと出家の世界、つまり仏教の世界との間に引き裂かれた心を持て余している表現になっている。西行は、おそらく穏やかな生を望みつつも生涯このような思い悩みを手放せなかったろうと思う。
付.
奈良県の吉野にある西行庵を若い頃訪れたことがある。出張ついでに訪れた。残念ながら桜の季節ではなく夏だった。著者の小屋程度かそれより少し小さい小屋である。どういう生活の日々を送っていたかは想像できるわけもなく、建物をのぞいただけであった。
西行庵の写真(http://87yama.sakura.ne.jp/gallery/saigyou-an.html より)
次の詩は、ツイッターで出会った詩である。
ライフ
私たちは
しんだひとに
つめたい。(A1)
それは
しんだひとが
先に
つめたくなった
からだ。(A2)
「あたためますか」
「はい」と
コンビニで
生まれて。B1(A3)
お箸も
つけてもらう。B2(A4)
(宮尾節子 #宮尾の短詩生活)
この詩の各連を順に、A1、A2、B1(A3)、B2(A4)と呼べば、わたしは初め、次のようなAとBの関連不明の詩行として読んだ。もちろん、詩題(テーマ)との結びつきもわからなかった。つまり、ひとつひとつの言葉は大体わかっても、この詩がよくわからなかった。詩題(テーマ)とA群とB群とがわたしの中では分裂していた。わたし自身も詩を書いているけれど、自身を平均的な普通人以下に鈍い方だと見なしているせいもあり、他人の作品を読み取るのは苦手で苦労する方である。もちろん、一般性としては、固有の地での固有の関わり合いから生まれ育ってきた他人の言葉を読み取るのは難しいということはある。
A1→A2
B1→B2
何度かくり返し読む内に、B1→B2の詩行の流線、特に「お箸も/つけてもらう。」が、A1→A2の詩行の流れを絞り決めていると思うようになった。つまり、この場面のスポットライトは、コンビニの弁当に当たっている。「しんだひと」というひらがな表記は、「死んだ人」を直接指示していない。ユーモラスに「死んだ人」のイメージも織り込みながら、「しんだひと」は、コンビニの「冷えた弁当」を中心的には指示している。そこで、わたしの中で、まだ少し不明な部分を残しつつも、やっと次のようなスムーズな言葉の流線を描くことになる。
A1→A2→A3→A4
この詩は、わたしたち(わたしはスーパー中心でほとんどコンビニは利用しないけど)が、コンビニで弁当を買い、冷えているのは嫌だから暖めてもらって食べるという日常生活のひとこまをユーモラスに表現した作品だと思う。
表現の現在―ささいに見える問題から⑲
(現在の渦中に押し寄せる二重性、現在性と永続性)
空想力は、もちろんそれも人類の現在までの蓄積の上から放たれるイメージや考えであるはずだが、何でもありの自在性や自由度を持っているように見える。例えば「宇宙エレベーター」などその現実化には、素材から設備、運行に到る膨大な技術力の集結と積み重ねの長い年月が必要であろう。しかし、村上龍の小説『歌うクジラ』には、地上から宇宙ステーションまでの「宇宙エレベーター」が登場する。つまり、空想世界や物語世界ではいとも簡単に実現する。わたしたちにとってこのことには異和感はない。科学技術としての研究・開発に取り組むきっかけとなるアイデアも、現在までの技術力の頂を踏まえながらも、そんな空想のようなイメージがきっかけとなっているものがありそうにも思われる。
自動運転居眠りしてもいいのかな
(「万能川柳」2016年2月20日 毎日新聞)
昨年辺りから、「自動運転」という言葉や開発の取り組みなどがテレビ、新聞などで紹介されていた。ウィキペディアの「自動運転」も参照してみた。開発側は自動運転車の開発段階をいくつかのレベルに分けて考えているようだ。つまり、当然ながら膨大な事柄が関わり合う自動運転システムが一朝一夕で出来上がるわけではないからである。
わたしは開発側とはまったく関係ないから、まずイメージしたのは、上の作品と同類のことである。つまり、自動運転が実現したら、運転者が居眠りしてても大丈夫とすると、飲酒運転も大丈夫ではないだろうかということであった。しかし、なんか遠慮してなのか、なかなかそんなことを言う人は見かけない。
飲酒運転と言えば、とてもむごい事故があった。それで罰則が強化されたらしいが、それでもしばらく経つとまた飲酒運転者が現れてくる。ということには、そこには人間の本質性が潜んでいるように見える。現在のところ、飲酒運転は抗弁しようもない悪であり、擁護できる論拠はあり得ないように見える。
わかりやすい例を登場させると、まだビデオ装置が登場してなかった頃のテレビでは、観たい番組を巡って子どもたちのチャンネル争いということがあった。一人っ子でない限り、そこでは当然ある取り決めが必要になってくるだろう。ところが現在では、ビデオ装置のおかげでチャンネル争いということはほぼ解決されてしまっている。これは技術力がわたしたちの生活の一場面に無用な争いをしなくてもいいような自由度をもたらしたからである。
同様に、現在では擁護のしようもない悪そのものと見なされる「飲酒運転」も、実現されるのはまだまだ遠い先かもしれないが、「チャンネル争い」と同じ無用な争いを解消するのではないかと想像する。
現状はどうなっているのか知らないが、飲酒運転事故が大きくマスコミで取り上げられた頃、アルコール検出とエンジン始動などを結びつけたシステムの車の開発などを報じていた。現在の段階では飲酒運転による事故を防ぐことは難しいから、何らかの現在的な対処法を考えたり、実行するのは当然であろう。しかし、これなどは、先の罰則強化と同じく人間というものをナメタ安易な後退的な対処法だと思う。
吉本さんが、現在の渦中には「現在的な課題」と「永続的(永遠)な課題」が混じり合っていると述べていた。飲酒運転の事故によってわが子を亡くした親の場合は、以下の捉え方は難しいと思うけれど、当事者ではなければ次のような立ち位置が望ましく思う。現在の渦中の問題に対して、「現在的な課題」のみと見なして絶対化すれば、飲酒運転=絶対悪としかならないが、交通社会の登場と一般化によって起こってきた諸矛盾の一つである飲酒運転も、いつか自動運転などとして技術力が解放するというイメージや意識を持っていたら、長く生き残る考え方と言えるのではないかと思う。つまり、半身か三分の一身かは未来性の方へイメージや意識を保留したり、開いたりしておくということである。
なかなか飲酒運転がなくならないのは、人間の本質性に関わっているのではないかと思う。現在の学校も職場も社会全体もどんどん機能・効率などのシステムを上り詰めてきている。昔の大工さんたちで、家を建てたり改築工事などで昼休みにビールなど飲んでいるのを見かけたことがある。現在では過去と現在間で相互に、だんだん想像できない断絶した世界になってきている。人間のいいかげんさやのんびりやぼーっとするような余地を許さないようなシステムや社会は、その人間の本質性に反している。このようなことを上り詰めるとわたしたちに病をもたらすだろうことは確実である。現代社会の「うつ病」の増大もそのことと無縁ではない。飲酒運転に対してもできるだけ柔らかな現実的な対処を考えるべきだと思う。
表現の現在―ささいに見える問題から⑱ (二つの心の状態について)
前回の「空返事」の作品で触れたのが、わたしたちの普通の心の状態(定常状態)の表現とすれば、今回取り上げるのはわたしたちの特別な心の状態(励起状態)の表現である。わたしたちは、普通にはこの二つの心の状態を誰もが持っている。
別れ時ワインの澱がよく見える
(「万能川柳」2016年2月2日 毎日新聞)
この「別れ時」というのは、友達と食事か飲み会に出かけたその別れ際ということではなくて、おそらく付き合っていた男女の別れの場面であろう。どういういきさつがあったとか、この場で別れ話を持ち出されたのか、事前に別れることはわかっていて最後の会食なのかなど細かなことはわからない。わからなくても、この作品に表現された場面や心の状態は、何らかの深刻な事態に人が当面している時の場面や心の状態として一般化すれば、誰でも思い当たることがあるだろう。
まずこれは別れを体験していないと出て来ない表現だと思われる。この作品の場合、作者が過去の体験を踏まえて書いているのか、ごく最近の体験を書いているのかはわからないとしても、その現場の〈私〉に移行して、〈私〉になりきって、その心を開示した作品と見える。作品の中で〈私〉は、別れという二人の今まで降り積もらせた関係が切断されていく状況の中に居て、そのことが閉ざされた部屋に居るような重たい気分になっていて、ふと目をやったワイングラスの底の方に溜まった澱が妙にくっきりと見えるという、内心に掛かる重力の中に居る〈私〉と〈私〉の外界への眼差しとが乖離してぼんやりした心模様を示している。つまり、〈私〉の心は、普段のように外界の景物を見ても心がそれと同調したり情感とともに自然に流露したりすることがなく、内心に掛かる重力が普段と違った大きさのために外界と隔てられている状態にある。
このような場面や心の状態を物語作品から取り出してみる。
①
強烈に、映画の一場面のように、その景色は丸ごと私の中に刻まれていた。
春先の優しい雨が降っていた。
雨の船橋、駅前のビル群が全て灰色にかすんで見えて、私はうっすら淋(さみ)しい気持ちになっていた。
心細い……私はここでやっていけるのかしら? この街を好きになれるかしら?
とまだ制服を着ていた十五の私は思った。
そのときのまっさらの気持ちをはっきりと覚えている。
わくわくした気持ちは一切感じられなかった。となりに母がいたからだ。
( 『ふなふな船橋』 P7 吉本ばなな )
②
いつものデートをするはずだったその土曜日、俊介さんはいつものようにぴしっとアイロンがかかったシャツを着て、いつもの待ち合わせ場所であるFACEビルの中にある椿屋カフェに座っていた。
店に入った私は彼の表情の違いに全然気づかなかった。そういう意味では私も彼に関心がなくなっていたのかもしれない。いてあたりまえ、会えて当然、そうなっていたのだと思う。……中略……
「ごめん、今日は花をうちに泊められなくなったんだ。」
俊介さんは私がうきうきとしながらアイスコーヒーを頼むやいなや、そう言った。
「急ね。お母さまが出てらしたの?」
私はにこにこして言った。
「実は、好きな人ができたんだ。」
落ち着いた声で、俊介さんはそう言った。
私の笑顔は固まってしまった。ただ目をまん丸にして、黙っていた。
俊介さんは続けた。彼の目の前の珈琲(コーヒー)は口をつけないまま冷めていた。私はそれをぼんやりと見ていた。入り口近くのスペースの他の席には人がいなかった。よかった、と私は思った。きれいな制服のウェイトレスさんたちが行き交うのを夢みたいにぼんやりと見ていた。アイスコーヒーが運ばれてきたから一口飲んだが、全く味がしなかった。
おかしいな、と思ってガムシロップをみんな入れて、ミルクも入れたけれど、味はやはりしなかった。
だから、グラスを置いて、俊介さんをまっすぐに見た。
俊介さんは言った。
「もう、つきあいはじめている。だからもううちに来てもらうわけにはいかないんだ。」
( 『同上』 P45-P46 )
①は、この物語の出だしの部分であり、主人公でも語り手でもある〈私〉(花)の回想場面である。〈私〉にとって、父と別れて再婚する母との別れの場面であり、新たな街船橋で母の妹である奈美叔母さんと一緒の生活をすることになっている。それがおそらく〈私〉の尊重された自由意志としての生活の選択だとしても、未だ心安らぐことはない新しい見慣れぬ街に佇む十五の〈私〉には、吹っ切れない内心のいろんな精神的な重圧ととも未来への不安がある。十五の〈私〉にとっては、これは重大な精神的出来事だった。だからこそ、「強烈に、映画の一場面のように、その景色は丸ごと私の中に刻まれていた。」のである。
そして、内心の抱える精神的な重みのために、外の景色とがぼんやりと分離状態のように「雨の船橋、駅前のビル群が全て灰色にかすんで見えて、私はうっすら淋(さみ)しい気持ちになっていた。」と語られている。〈私〉に「灰色にかすんで」見えるのは、見分けにくいけれども「春先の優しい雨が降っていた」のせいばかりではなく、「ワインの澱がよく見える」と同様の内心と外界の乖離状態が影響していると思われる。「ワインの澱がよく見える」は外界が〈私〉の内心とは無縁にくっきり見えるのに対して、こちらはまるで見知らぬこの地での生活の不安に彩られるかのようにかすんでいるという違いはある。
②は、〈私〉が付き合っていて結婚すらも想像したりしていた俊介から別れを切り出される場面である。〈私〉の「うきうきとしながら」の内心と「アイスコーヒーを頼む」外界に働きかける動作は自然なものとしてつながっている。ところが、別れを宣告する俊介の言葉によって、「私の笑顔は固まってしま」い、「ただ目をまん丸にして、黙っ」た。それから、外界は〈私〉にとって変貌し、〈私〉は、俊介の口を付けてないコーヒーやウェイトレスのきれいな制服は、最初の川柳作品同様おそらくくっきりと見えていると思われる。しかし、俊介の別れの宣告による〈私〉の重く占領された重力下の内心のために、〈私〉の眼差しを向けられる外界の景物は〈私〉とは乖離した状態で「ぼんやり」見えるばかりである。さらに、運ばれて来たアイスコーヒーまでも全く味がしない。これがあり得るとすれば精神的な重圧は、わたしたちの感覚をも変容させることがあることになる。これはありそうなことに思える。付け加えれば、テレビ番組『世界の果てまでイッテQ』で催眠術を見たことがある。催眠術は、精神的な重圧ではないけれども精神の定常状態からの変容であることは間違いない。そういう意味では精神的な重圧と同等と見なせるかもしれない。その催眠術では、辛い物を甘い物と感じて食べていたと思う。つまり、五感を変容させるということである。
①と②は、当然ながら作者吉本ばななが作品を書いている。しかし、実際には作者は、古くは巫女さんのように物語世界の登場人物「花」や語り手に分離・変身して、逆に彼女らに書かせられているといった方が実情に近いかもしれない。とは言っても、①や②の場面を描写するに当たっては作者の現実体験や見聞きした体験が元になっていることはいうまでもない。
以上、取り上げたわたしたちの特別な状態(励起状態)における心の表現であるが、これらは、心や精神の病以前のわたしたちに普通に訪れる心の状態の描写に当たっている。したがって、誰もが思い当たる所があるというような普遍性を持った表現であると言うことができる。そして、このことは現在だけではなく、遙かな過去にまでさかのぼれるような普遍性だと思われる。そして、この丘陵の向こうの、このような普通の心の状態(定常状態)と特別な心の状態(励起状態)の圏外には、それらと接触しつつもさらに特異な心や精神の「病」と呼ばれる領域がある。
返事なしよりはいいだろ空返事
(「万能川柳」2016年2月11日 毎日新聞)
この作品は、わたしたちの平均値的な考え方をいくらか抜け出ている。普通、「空返事」(「生返事」)というものは、否定的なイメージとしか見なされていない。この人と人とが関わり合う人間界での倫理として、互いに良く思わない同士や対立関係にある同士の場合は別として、つまり普通の関係の場合、相手に呼びかけられたらそれに応答するのが普通のことと見なされている。したがって、相手に話しかけられての「無言」や「空返事」というのは問題ですよということになる。しかし、日常の家族や職場などの場面で、大人同士や親子の関わり合いで、相手の言葉になんと言っていいかわからない「無言」も、「空返事」も十分にあり得ることである。そして、言葉を普通に交わし合うのではない「無言」や「空返事」の場合も、互いの意識の交通は行き交っているはずである。逆に考えると、人と人とが関わり合う時、Aか非Aかという単純な硬直する対立ではない多様性の有り様の象徴として「無言」や「空返事」という反応を捉えることができるように思う。
この作品のたぶん夫婦の場面のように空返事はあり得る。この場合の「無言」ではない「空返事」は、本人が何かに熱中しているとか集中しているとかしていて、それを中断はできないけど、話しかけてくる相手の存在も認めていて、その相手とのつながりの意識からの表出と見るべきである。人は同時に双方に対して集中的な応答はできないからこういう場面が生じてくる。自分の集中してやっていることが中断できるのなら、自分も相手もすっきりするのかもしれない。しかし、実際問題としてそんなにうまく中断できない場合が多いように思う。この作品では、その中断ができなくても、「空返事」はあなたの方に意識や関心を向けていますよ、というモチーフの作品である。
表現の現在―ささいに見える問題から⑯
(読者が作品の場面を再現する難しさ)
読者(観客)として作品を見る場合、表現された映像は、瞬時に指示して場面を表現できるのに、あるいはすでに場面は出来上がっているのに、言葉の場合は、作品から指示された場面を再構成するのが難しいということがある。
今では、誰かに自分の見たものや人や出来事を説明するには、言葉ではなく映像(ケイタイで撮った画像、音声付きの動画など)によることが可能となり、この場合が多くなっているような気がする。わたしはケイタイを持たないからこの便利さや快適さを肌感覚ではわからないけれども、こういう動向の積み重ねによって言語の今まで果たしていた指示的な説明の機能が徐々に取って代わられ、旧来的な表現は少しずつ退化していくだろうと思われる。
1.寿司届き和尚の経が早くなり
2.表札に博士と書いている阿呆
3.洋服に付いた草の実とる車内
(「万能川柳」2016年2月6日 毎日新聞)
ここに引用した作品は、ちょっと見でいずれもどんな場所が指示されているのかわかりそうな気がする。しかし、その場面の方へ入り込んでいくと、いろいろと不明なことが出てくる。1.は、今では葬式後その日のうちにやることが多い「初七日」なら、まだ死者が身近すぎて少し生々しすぎるから、もう少し後の「法事」の席の場面であろうか。お経の後の一同の会食の時間に配慮したか、あるいは自分もその会食に呼ばれていて食欲を無意識的にそそられたか、であろう。この場が、自宅なら寿司の配達の人の声がするかもしれない。自宅でなければ会場に設けられた仮設の仏壇に向かい、法事の参会者に背を向けてお坊さんは座りお経を上げるだろうから(他所の地域は知らないけど)運び込まれる寿司はお坊さんには見えないのではなかろうか。ということは、この法事は自宅で行われているのだろう。
言葉を拾い集めて、言葉をたどり、作品として表現された場面を再構成しようとすると、このように不明な部分がいろいろと出てくる。
2.は、作者が通りがかりに偶然目にした光景であろうか。「表札」とあるから、店で宣伝を込めて表示したのではなく、個人宅であろう。また「阿呆」と締めくくっているから、例えば表札に「安倍博士(註.読みは、ひろし)」と書いてあったとして、それを「博士(註.読みは、はかせ)」と読んでダジャレを言っておもしろがっているわけではなさそうだ。それとも誤解のしようもなく、「安倍太郎博士」という風に書いてあったのだろうか。珍しいことだ。
世の中にはただの普通の人に満足できなくて、カッコつけたり、名声にすがったり、虎の威を借りたりする者が居る。もちろん、あの親鸞でさえ名声などを気にすることを自戒を込めて述べていた。すぐに内省が訪れるけれども、わたしでもそんなことを気にする瞬間はある。しかし、もし個人宅の表札に「安倍太郎博士」と書いてあったすれば、わたしたちの普通の感覚や行動を超えた「イタイ」(最近この言葉を知った)人ということになるだろう。作者もそんな感受の視線を「表札」の主に投げかけていると思う。
3.は、近くの川原の土手の雑草の生い茂っている草地でも歩いて来たのだろうか、あるいは行楽地に出かけて草地でも歩いて来たのだろうか。言葉には書き記してなく表現された言葉から匂い立つのであるが、この車内の場面には何人かが居ると思う。もう帰りであろうか、電車かバスかあるいは自家用車か特定できないけれども、その車内で服に付いた草の実に気づいて、自分含めてみんながいっせいにそれを取り始めた光景を、あ、おもしろい光景だなと感じて取りだした場面だと思われる。これがもし一人だったら、なんだかさびしい場面になる。
このように、映像による表現と違って言葉による表現では、表現された言葉からその場面の細部を完璧に再構成することは難しい。作者ならばわたしたち読者とは違ってこの場面の細部を説明することができるかもしれない。しかし、作品の方は、あまり細部にはこだわらずに一挙に言語における美を、その場面の中枢を占拠するように指示性を集中して表現されているように見える。わたしたち読者の方もまた、それに見合うように場面の細部にはあまりこだわらずに作品の中枢で出会えたらいいなと思っているのかもしれない。と言っても、映像作品も言葉の作品も、作者の中枢に込めたモチーフは、場面のどんな細部やエピソードにも浸透しているということは確かなことだと思われる。