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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

現在というものの姿(像)について

2016年08月08日 | 批評

 現在というものの姿(像)について
  ―退行としての復古イデオロギー批判


 現在というものは、おそらくいつでもそこを生きる者にはぼんやりした姿としてしか捉えることができないのではないだろうか。現在のものを素材として現在というものの正体を捉えようといろんな諸要素を駆使してその像を結ぼうとしても、どうしてもぼやけてしまうのではないか。これは、この社会や世界全体の現在という場合でも、ある家族やひとつの会社の現在についても変わらない。これはなぜだろうか。できるだけ内省しようとしたり、客観視しようとしても、現在に生きるわたしたちはその渦中にいて、頭がのぼせていたり、あるいは大半は現在に対して無意識的に振る舞っているからだと思われる。そこでもうひとつ、現在の正体に迫る方法として、少し頭を冷やして過去の方からたどってくるということがある。これは思想に限らず、わたしたちが日常的に採っているやり方でもある。

 そのように現在を捉えることが困難を極めても、それでもわたしたちは現在というものの姿を捉えようとすることを止めることはないだろう。現在を生きるわたしたちの息苦しさとそれを解除しようとする欲求がそれを促すからである。わたしたちひとりひとりの固有性を超えてその息苦しさの正体を一般的に分離してみれば、上限は政治を含む共同的なものとしてやってくるものであり、下限としては家族を含む人と人との関わり合うところからやって来るものである。それらはいずれも遙か太古からの歴史的な積み重なりの現在としてある。

 ところで、対象を捉え、吟味しようとして視線を向ける場合、その人間的な視線には、吉本さんの指摘した地面と平行な人の目の高さの視線(普遍視線)と上空から垂直に俯瞰する視線(世界視線)がある。後者は、現在では人類は人工衛星の高度からの視線を獲得している。わたしたちは特に現在に対して無意識的ではなく醒めた場面では誰でもこの二つの視線の交わるところで対象を見ている。その場合、世界視線は低高度であり客観的な視線と呼ぶべきかもしれない。これは自分含めた対象の現場性を抜け出して見渡す、考えるという外からの視線であり、現在を振り切って時間の流れで見渡すという時間性も含んでいる。そういう意味では、この世界視線は内省的な視線と見なすこともできる。あるいは、その客観的な視線を主要に行使すれば現場性を離れた外からの他人事の視線と見なすことができる場合もある。

 ここで、この現在というものの姿、にぎやかすぎるけど、どん詰まりの荒れ果てた風景たちの惨状はどこから来たか。過去の方からの俯瞰的な眼差しを向けてみる。

 現在の方へ下ってくると、第一次産業の農業人口が急速に減少し、それと同時に旧来的な農村社会の残滓や生(なま)の自然感や自然イメージが枯渇して来ている。一方で、第三次産業のサービス業が主流になり、経済構成も消費が中心となる経済社会になり、したがって消費を促す広告産業が産業の一部門になるほど栄えてきた。人工的な自然感性や自然イメージが振りまかれる消費資本主義の時代になってきた。この主流の産業の交替が、わたしたちの生活の感性や意識の変貌に与えた影響は大きい。この新旧の時代は、事件や出来事としての激しさは見られなくても、江戸期から明治近代への激動の時代のように大きく社会の段階を画するものになっている。人々は無意識的な部分でその流れを受け入れたり退けたり耐えたりしながら、少しずつ慣れて割と自然なものとして受け入れ見なすようになってきたのである。もし、わたしたちの現在の内面の感受や意識を腑分けしてみたら、それらの産業構成の大規模な入れ替わり・変動と対応するような自然感や自然イメージの入れ替わり変貌した分布が得られると思う。

 したがって、現在を、敗戦後からの70年の歩みとして捉えると、老年期に当たると言えるかもしれない。その例えで言えば、今までの歩みのいろんなツケが積み重なって来ていて、そのツケの支払いを迫られているような状況になっている。もうひとつの見方もできる。現在をそんなどん詰まりの死に瀕した社会だとすれば、死後の社会、つまり、次の新たな時代の始まりの兆しが蕗(ふき)のとうのようにどこかに存在するのかもしれない。それが本格的に大衆的に気づかれるのはずいぶん遅れてやって来るのだとしても。

 第一次産業の農業が主流から退いていくにしたがって、それに対応する生の自然意識が底をさらわれるように旧来的な世界や情緒や思想が消えていく現在、その危機感からその旧来的な世界を過激に回復しようとする退行が、現在のグローバリズムや消費資本主義的な衣装を身にまといながら、現れている。退行というのは、政治権力による一時的な見かけ上の回復は可能だとしても、その流れは避けられない歴史の必然だというわたしの認識から来ている。

 したがって、現状のSNSにおける「ネトウヨ」の花盛りに見られる惨状や現政権の復古イデオロギーへの純化は、かつて戦争期という大きな危機に際して、全てが雪崩を打つように太古の感性に先祖返りしてしまった、そうして米英を太古の感性さながらに「鬼畜米英」と呼んで退化した〈鬼〉のイメージで捉えることに何にもふしぎに思わなかった、こうした危機からの退行と同質のものである。そして、現在の危機感をもたらすのは、戦争ではなく社会の大きな段階を画するような変動である。彼らは右往左往してその変動する現在の難しい諸問題にまともに対処し得ないが故に、安易な退行に逃げ込んでいるのである。しかも、外敵を作って煽ったり、社会に様々なくさびを打ち、マスコミを統制したり、と憲法改悪と復古イデオロギーへの退行に突き進んでいる。つまり、この社会の未来的な兆しを捜したり、検討したするのではなく、このわたしたちの生存する現在の社会をひちゃかちゃに荒らしまくっている。

 わたしたち普通の生活者は、この社会内に存在していると見なせるとしても、そのことをふだんほとんど意識することなく、個々具体的に存在し、日々生活している。わたしたち普通の生活者が、社会的に登場するのは一般にマスコミの世論調査や行政の家計消費の統計の値として、抽象化された意識の集約として登場する。ネットやSNSの表現がビッグデータとして集約されるなら、これもまたわたしたちの抽象化された意識の集約と見なせるだろう。こうしてわたしたち普通の生活者の大多数の民意も割と簡単に把握できるような社会になった。
 
 したがって、わたしたち普通の生活者の代行としての政治家や政府は、知ろうと思えば簡単にわたしたち多数の民意を知り得るのである。しかし、与野党含めて馬鹿な外交理念(軍事的な安全保障)などは耳にしても、わたしたち多数の民意をほんとうに受けとめる姿勢は今のところ見えてこない。派遣社員の増大や低所得層の増加、マスコミを通して知る日々の嫌なあるいは奇妙な事件として社会に浮上してくるこの荒れ果てた現在の風景を見ていると誰もが良い気分にはなれないだろう。この風景の過半の責任は、政治にある。つまり、官僚政治と自民党政権にある。

 誰もが、この現在に押し寄せている諸問題に答えるのは難しいと思う。しかし、それを具体例で示せば、派遣社員問題や年金問題、あるいはそれらへの抜本的な対策としての、諸外国でも検討され始めている「ベーシックインカム」(最低所得保障制度)などの検討など、実際に考え検討するのと、社会的な制度を改悪し社会の風景を荒らし続けたり、株価虚飾経済や「一億総活躍社会」などの中身のない空無を唱え続けるのとは違う。日本の経済学者で大蔵官僚であった下村治の『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』を以前読んだことがある。彼は高度経済成長期の経済的なブレーンであった。そして、(上から目線の古い言葉で言えば)「經世濟民」ということ、つまり普通の人々の幸福ということが、彼の考え方の中心に位置していた。当時の日本の貿易黒字に対するアメリカの考えや対策に対してもはっきりと問題点を指摘して意見を述べていた。もはや現在は、このようなすぐれた官僚や学者も存在し得ない、ちまちました意識的無意識的な己の利権を守る世界になってしまったのか?。

 もう一度くり返せば、アホな民主党政権の転んだ後の現政権は、本当は代々の自民党政権が積み上げてきた原発問題や他のさまざまな問題の尻ぬぐいが仕事だったはずである。それを居直り強盗よろしく、わたしたち大多数の普通の生活者とは無縁な、虚飾経済対策を併せ持つ空無な復古イデオロギー政権になってしまった。このどん詰まりの現在の社会の向こうから見れば、つまり未来性の萌芽の方から見れば、SNSにおける「ネトウヨ」の花盛りも復古イデオロギー現政権も、退行する病の、悪の徒花以外ではない。つまり、人々のまじめな知恵の結集として見なせるこの社会の本流とはなり得ない。


人と諸対象との関わり合いの構造的な変容

2016年07月09日 | 批評

 (わかりやすく言えば、私たちの世界の変貌、旧世界と新世界)
 
 高度経済成長期以後に生まれ育った若い世代は、生活に結びつく経済状況がひどく悪化してきたということはあったとしても、第三次産業が主流となり消費中心の経済社会やネット環境によるネットを介したつながりという社会環境を割と当たり前の、自然なものとして受けとめているだろうと推測される。
 
 二昔前までは、この世界は割と小規模の閉じられた生活世界であった。食や必要な道具などまだ自給自足的な名残が生活世界には残っていた。わたしの小さい頃の話である。まだ60年代の高度経済成長直前の時期である。わたしの祖母の世代では、一生に二三度くらい大きな旅行ができるという認識だったと思う。その自覚はわたしの父母の世代にも受け継がれていたはずだが、60年代の高度経済成長以後の世界の変貌が、そのことをも解体して見せた。つまり、社会が経済的に豊かになったのである。しかし、それは同時にそれまでの割と牧歌的なのんびりした時間の中の生活という社会的な閉鎖系から消費の拡大を伴う活発な経済社会が人々に慌ただしい開放系に居続けることを強いるようになっていった。これと並行するように、第一次産業が急激に減少し、第三次産業が急激に増大していった。
 
 二昔前まではまだ、わたしたちにとって世界(対象)は小さく割と具体的な手触り中心の世界であった。道具や物のイメージも、柱時計がそうであったようにそれらの内部の機構は歯車のイメージだった。もちろん、真空管を装備したラジオや蓄音機などの電化製品もあったが、生活の主流ではなかった。60年代の高度経済成長の過程で、電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビなどの電化製品や家庭の固定電話が普及し出した。これらの道具や物のイメージはもはや歯車のイメージではなかった。次第に内部はブラックボックス化していき複雑な電子部品の集積や構成のイメージとなっていった。
 
 ここで、私が触れたいのは、次のことである。60年代の高度経済成長の過程では、私の両親もそうだったが、人々はほとんどが慌ただしい労働や生活の日々を送っていたように思う。しかし、現在から振り返ってみれば、二昔前とその60年代の高度経済成長以後では、世界が一変してしまったように見える。このことの意味を人とその人が関わり合ういろんな対象との関係で見てみる。
 
 二昔前であれば、人と諸対象との関わり合いの主流は、まだ農業中心の社会の名残を持った、眼で見たり手で触ったりするというような〈直接性〉や〈具体性〉を持つものだった。ところが、60年代の高度経済成長以後では、人と諸対象との関わり合いの主流は、ちょうど中身はよくわからないブラックボックスだけど使いこなせればいいという関わり合いになった。そしてこのことはわたしたちの現在にまでさらに高度化しながら到達している。この人と諸対象との関わり合いは、〈間接性〉や〈抽象性〉を持つものになってきた。このことは社会のいろんな場面に敷衍できるだろう。例えば、テレビの日々大量に流す情報がある。テレビの番組や情報の扱い方にも作家が物語を作り上げていくように番組制作側の意図やあるいは局側の意向なども加わるということ、さらに悪く取れば人々の考えをある一定の方向へ導こうとする作為こめることができること(例えば、「地球温暖化」対策キャンペーンやわが国が膨大な借金を抱えているというキャンペーンなど)を、内省すればわたしたちは持つことができる。しかし、わたしたち普通の生活者は、実際には割と無自覚に自然な感情の状態でテレビを観ていることが多い。
 
 そのテレビの情報も銀行あるいはコンビニのATM(現金自動預払機)お金の出し入れも、ネットショッピングやネット上での代金の決済も、あるいはさらに、遙かな遠い観測された銀河の振る舞いについても、現在の社会のあらゆるものが気づいたら(つまり、わたしたちは知らない間に徐々に慣れてきたのである)、中や中間の仕組みは分からなくても、ある対象のことをわかったり(わかったつもりになり)、それに基づいてある判断や行動を取るようになっている。わたしたちがあるものやある人に慣れるということは、日々の出会いと時間のくり返しの中にある。その過程を経て、わたしたちは対象に対して徐々に自然な受け止めや感情を持つようになるのである。もちろん、過敏な人で、その移行に敏感に反応して自然に慣れてしまうことができずに異和を持ち続ける人々も少数はいるかもしれない。
 
 そして、それらの人と諸対象との関わり合いを支えているのは、〈信頼性というシステム〉である。現在のわたしたちの割とスムーズな日常生活はその〈信頼性というシステム〉に支えられていることは間違いない。時々食品偽装や手抜き建築、あるいは虚偽の情報が流されたなどが事件として浮上してくることもあるが、わたしたちの社会の主流はこの〈信頼性というシステム〉にあることは確かである。

 二昔前と高度経済成長期以後との間には、この人と諸対象との関わり合いの構造的な変容が起こっていると言えるだろう。ここで「構造的な変容」というのは、新旧が次元や段階を異にするほどの大きな変貌という捉え方から来ている。それを人と自然との関わり合いでいえば、人 ― 一次的な自然という関係から、人 ― 二次的な自然(人工的な自然)という関係に構造的に変容してきたということができる。もちろん、時代の主流としてであり、両者ともにもう一方を部分的には内包したり残存させたりしているはずである。さらに、両者の中間の過程は、その主流の動的な移りゆきの過程と見なすことができる。そうして、これらの人と諸対象との関わり合いの高度化は避けることのできない世界の変貌である。 


対象世界の構造とそれへの出入りについて

2016年07月01日 | 批評

 この文章のモチーフは、人がある専門的な分野や専門的な言葉に対面したときのある言葉に言い表しがたい思いから来ている。そういうわけで、この文章はたとえ固い言葉でしか言い表せていないとしても、たぶん万人の思いに交差するものであると信じている。

 わたしたちは、この人間界(社会)に存在しながら、海、空、大地や石などの自然物や動植物や、人間(他者あるいは自分自身)や人間の作り出したものなどとの多様な関わり合いの渦中にいる。その渦中では、それらのものを対象として意識し、志向したり引き寄せたりして日々生きている。

 人の対象とするものには、自由や愛のような抽象度の高いものもあれば、また単一なものだけではなく植物界や宇宙など大規模な構造を持つ対象世界と呼ぶべきものもある。わたしたちは誰でもこうした無数の対象との関わり合いを日々生きている。さらに、そうした対象との関わり合い自体をこの現在のわたしのように内省することもある。

 例えば、株価や為替相場とかいう経済領域の要素の話がある。株価という経済領域の一要素は企業の生命力や活動の状況と連動しながら、為替相場などの金融経済とも連動しているらしい。現在に到る政府―日銀の意図的な株高・円安誘導政策がそのことを語っている。

 また、エコノミストや経済学者という人種の主流は、古い言葉で言えば「経世済民」ではなく、上から目線である。つまり一般的には、わたしたち生活者目線でなく為政者目線で語る者を指すようだ。その中にもリフレやらいろんな流派があるらしい。

 わたしは文学や思想の世界には積極的な関心があるが、経済や政治や法の世界には積極的な関心はないから、いろんな専門的な解説に出合っても、どうしても本気になれなくて生返事で聞いているような状態になる。つまり、どうでもいいやという感じでそれらの対象に向き合っていることになる。

 しかし、生活者として、あるいはこの世界に生存する者として、消極的な、防御的な関心は、経済や政治や法の世界に対して持っている。また、経済世界の専門的な言葉に出合って、それがよくわからないとしても、わたしたちは誰もが日々経済世界内存在であり、経済活動をしている当事者である。

 人はこの社会で家事や学生や職業など、誰でも一つは専門的な対象世界に関わっているように見える。教育という対象世界がある。わたしは少なくとも十年は高校の教員として学校や教育という世界に関わってきたから、その教育現場が抱えているだろう諸問題もわかるつもりでいる。

 教育学者が教育を論じる場合の当否やその言葉の空疎さや教育行政の空疎な言葉もわかる。もちろん、同じ教育現場にいたとしても、小中高校大学を貫く教育の普遍的な事柄もあるだろうが、すべての個別具体性を同一の地平で論じることはできないことも確かである。

 ところで、教育という世界も、誰もが学校を通過し、そして親になり、その子どもたちが学校へ行くようになると再度新たな形の学校との関わりを持つことになる。こういう誰もが学校や教育に関わるという点と、人は太古から教育ということを家族内や地域で行ってきたという点から、教育という対象世界に入ることができる。

 これを教育という対象世界の基底として第一層と見なすことにする。この層は、万人に無縁ではなく、万人に開かれて在り、この層では誰もが教育とは何か、どんな形が理想的かを考え論じることが可能である。この第一の層の上に、第二層として公教育の現場の先生や生徒の世界がある。

 さらにその上に第三層として、教育学者たちの教育論や教育工学や技術論などのにぎやかな、しかも空疎に見える世界がある。第二、三層の活動や表現の生命を支えるのは、それらの層が第一の万人に開かれた教育という層をどれほど組み入れていることができるかに掛かっている。さらに第四層として、国家の教育に対する関わりもある。

 このようなことは、教育以外のすべての対象世界についても同様だと思う。したがって、人は誰でも自分の関わっている対象世界の経験を基にしながら、別の対象世界に入り込み、その第一層から対象世界を捉えようとすればいいのだと思う。このことは容易なことではないけれど、これが普通の生活者であるわたしたちにはより本質的な関わり方であり、出入りの仕方であると思う。
 
 現在の経済という対象的な世界も、第二や第三層の人々があれやこれや机上で論じていても、特に政権寄りの彼らが、第一層のわたしたち普通の生活者の経済活動を繰り込めていないから、GDPの6割を占めるという家計消費の問題が今頃浮上してきているのだと思う。



その道の専門でなくても
出入りする
大道無門しずかに開いている

註.経済でも教育でも政治でも音楽でも美術でも、どんな専門的になってしまった領域も人間的なものに過ぎず、万人が出入りできる層が必ずあると思う。
 ([短歌味体 Ⅲ]966 入口シリーズ・続 自歌より)


  (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)


表現の現在―ささいに見える問題から 22

2016年06月23日 | 批評

表現の現在―ささいに見える問題から 22 (人類の言葉以前の痕跡)


 現在の私たち大人に流通する言葉を、言葉以前の乳胎児期の母 ― 子のコミュニケーション(註.吉本さんによれば、言葉に拠らない「内コミュニケーション」)体験に対応させたり(「表現の現在―ささいに見える問題から 20」)、言葉の発祥期に関係づけたり(「表現の現在―ささいに見える問題から 21」(語音の問題から))、試みてみた。いずれに関しても、個の遠い遙かな発生期の時間が個の中に保存されていて、いまだその発動の機構は不明だとしても、表現において発動されてくるものと見なした。

 ここで考えてみたいのは、人が人類として言葉(言葉のようなもの)を獲得して登場する初期やそれ以前の人の遙かな時間についてである。


 言い方で載ったとわかるらしい妻
         (「万能川柳」2016年06月20日 毎日新聞)


 この作品は、夫である作者が妻と何か話していたら、「自分の作品が新聞に載ったよ」と言わないのに、その「言い方」で夫の作品が新聞に載ったんだなと察知できたという内容だろう。顔の表情や言葉のふんいきやあるいは以前にもそういうことがあって、察知できたのであろう。これをもっと突き詰めて純化していったのが恐らく「霊能者」という人々の感応・察知の世界だ。現在では、「霊能者」のような鋭い感能力や察知力は大多数の人々は持てなくなっていて、それらを非科学的と一蹴する「科学的」という見方もある。しかし、もう現在ではよくわからなくなってしまっているが、遙かな太古にはそのような自然の世界に鋭く感応したり、輪廻転生ということを信じたり、死後の世界の実在を信じるという人類の段階があったことは確かである。そして、その世界イメージは、当時にあってはわたしたちの現在と同様に自然なものだったはずである。

 現在でもそれに類する世界イメージや世界観の内にわたしたちは存在しているが、太古のそれとは断絶した異質な世界になってしまっている。このことは、太古の〈科学〉(知見)が迷妄に近いということを現在までの〈科学〉が明らかにして分かってきたせいでもあり、また産業社会の高度化と対応して脳が中心化してきた考え方のせいでもある。しかし、それでもなおわたしたちの心の深層には、太古の世界観の残骸が保存されているように見える。さらに、迷妄ではないかと見なす太古の科学を現在の科学から新たに捉え直す可能性もあるように思われる。

 ところで、この作品に見られる言葉以前の察知のようなものを、個の誕生からの時間で言えば前に追究した「乳胎児期の母―子のコミュニケーション」に対応付けられが、個の時間との対応付けをしないならば、人が人類として言葉(言葉のようなもの)を獲得して登場する初期やそれ以前の人の遙かな時間と対応付けるほかないだろう。

 つまり、人は途方もない時間をかけて言葉を獲得するようになる以前には、これまた途方もない時間を植物生や動物生として触手を働かせ合って感応し、察知し合う世界を生きていたのだろうと想像する。そうしてそれは、胎児が母親の胎内で成長していく過程で、最初は魚類、そして両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類へと人類の進化の過程を短時間で反復するように形を変えていくと三木成夫が明らかにしたことと対応して、私たちの心の深層には人類の初期やそこに到る言葉以前の遙かな道程も保存されていると言えそうに思われる。それらの道程は、時間の規模において近代社会の数百年の道程と比べて比較を超絶している。ということは、現在の人類や個の基層部分を形成していると言えると思う。しかも、それは現在的に発動され続けている。


この列島の意識の接続法について

2016年06月13日 | 批評

 わたしたちが、この人間界で日々生きて活動しているということの中には、誰もが何らかのつながりの中に存在していて、関係の糸を伸ばしたり、つなげたり、切断したり、またあるときにはあいまいなつながりのままを許容したりなどというようにしている。この関係の接続法とも呼ぶべきものは、個々人によって固有性があり、違いがある。また、個々人のレベルを離れて、日本人の意識の接続法とでも呼ぶべきものも想定できそうだ。

 例えば、以前一度触れたことがあるが、この列島の至る所に無数の小野小町伝説が存在する。そのことは現実的に考えてあり得ない。それはなぜなのかということについて、柳田国男は答えている。この列島各地を移動して、説話を持ち運んだ語りの者がいて、自分が見た聞いた、あるいは小野小町になりきって語るなど一人称形式で語った。そのことから素朴な村々の聴衆は、語り手と小野小町を同一化することになり、列島各地に同じような小野小町の塚や伝説が残されることになったと分析している。語りが白熱してくると「語りの者」と「語る者」(一人称形式の小野小町であるわたし)が、「語りの者」本人にとっても観客にとっても同一化されていくのは容易に想像でる。無数の小野小町伝説の存在にふしぎに思うわたしたちにとって、説得力のある捉え方だと思う。

 この小野小町伝説の存在を事実か否かとして受けとめようとすれば、小野小町本人が列島をそんなにも広範囲に歩き回ったということはあり得ないことだから、事実ではない、虚偽であるということになるが、それで終わればこの伝説について何にもすくい取れないことになる。柳田国男の上の解は、事実か否かの判断領域を超えて現に存在する小野小町伝説を発掘してその存在の意味に照明を与えたことになる。

 また、山々を渡り歩いたという木地師が、何々天皇とのつながりをしたためた由緒書を持っているということがある。また、この列島各地のおそらく大多数の神社が、古事記に出て来る神々のいずれかとのつながりの伝説を持ち、その神を祭っている。この両者とも事実か否かで見れば、事実とは見えない。しかし、事実か否かの領域を超えて、木地師たちが「尊い存在」とのつながりの中にあるという彼らの意識は真実だろう。同様に、列島各地の神社の由来も事実か否かの領域を超えて、統一国家が集約しているレベルの神々とのつながりを付けようとしたという神社側からの意識は真実だろう。これらは、わかりやすく言えば、価値あるものと見なされているものにつながりを付けることによって、自分たちの存在や神社に箔を付けるという人や組織の悲しい習性を意味している。、

 伝説の中には、自分たちにつなぎとめられる相手は尊い存在であるというつながりの意識としては同一であっても、上記の小野小町伝説や木地師や神社のつながりを付けるやり方とは違った形の接続法によるものがある。これも事実レベルでは現実にあり得ないようなつながりを持っている。柳田国男が触れている。



 伝説の上では、空也上人よりもなお弘く日本国中をあるき廻って、もっとたくさんの清い泉を、村々の住民のために見つけてやった御大師(おだいし)様という人がありました。たいていの土地ではその御大師様を、高野の弘法大師のことだと思っていましたが、歴史の弘法大師は三十三の歳に、支那で仏法の修業をして帰って来てから、三十年の間に高野山を開き、むつかしい多くの書物を残し、また京都の人のために大切ないろいろの為事(しごと)をしていて、そう遠方まで旅行することのできなかった人であります。……中略……とにかく伝説の弘法大師は、どんな田舎の村にでもよく出かけました。その記念として残っている不思議話は、どれもこれも皆似ていますが、中でも数の多いのは今まで水のなかった土地に、美しくまた豊かなる清水を与えて行ったという話でありました。
(「日本の伝説」P180 『柳田國男全集25』ちくま文庫)


とにかく十一月二十三日の晩に国中の村々を巡り、小豆の粥をもって祭られていたのは、ただの人間の偉い人ではなかったのであります。それをわれわれの口の言葉で、ただだいし(「だいし」に傍点)様と呼んでいたのを、文字を知る人たちが弘法大師かと思っただけであります。
 だいし(「だいし」に傍点)はもし漢字を宛てるならば、大子と書くのが正しいのであろうと思います。もとはおおご(「おおご」に傍点)といって大きな子、すなわち長男という意味でありましたが、漢字の音で呼ぶようになってからは、だんだんに神と尊い方のお子様の他には使わぬことになり、それも後にはたいし(「たいし」に傍点)といって、ほとんと聖徳太子ばかりをさすようになってしまいました。そういう古い言葉がまだ田舎には残っていたために、いつとなく仏教の大師と紛れることになったのですが、もともと神様のお子ということですから、気をつけて見ると大師らしくない話ばかり多いのであります。 (「同上」P194-195)




 この柳田国男の言葉の背後にはたくさんの民俗的な蒐集と比較検討があり、言葉はそれらに支えられている。素人のわたしたちがここで確認できるのは、この列島内のいろんな遺物や伝説に弘法大師や聖徳太子が関係づけられているけれど、現実的に考えてそのことは疑わしいということである。では、なぜそのようなことが起こったのか。「だいし様」というのが「神様のお子」だとして、それが「弘法大師」や「聖徳太子」と同一化して見なされるようになったのは語音の類似からと見なされている。背景としては、「だいし」という存在が人々の意識の中で次第に薄れてきているということと仏教の流入・浸透・流行がそれを支えたのだろう。

 ここで、柳田国男は何をしようとしているのだろう。この「日本の伝説」では十分に尽くされていないが、柳田国男は日本語というあいまいな言葉やイメージの森を探索しながら、埋もれてしまってはっきりした像を結ばないこの列島の〈尊い存在〉の発生やそれに対する列島民の処遇などの移り変わりを発掘しようとしている。いわばこの列島の精神史の真の姿を発掘しようとしている。

 しかし、上記のような横滑りや同一化がなされても、人々の意識の中での〈尊い存在〉という点では同一性が保持されている。こういう事情は、おそらくこの列島の人々の意識の古い層に保存されてきたずいぶん強固な根のようなものだという気がする。したがって、そのような心性や意識は現在のわたしたちの世界にまで続いてきているはずである。


 このわたしたちの意識の中での同一化に関係するものとして、最後に引用するが、吉本さんが「日本語の迷路」として取り上げている。従来からある和語と呼ばれる日本語(これ自体の像もはっきりしないけれど)を、初めは「漢字の音でもって置き換えていった」。その後表音と表意を併せ持つ漢字の表意性も付加したり、あるいは表意のイメージも受け取ったりとなっていって、日本語がよくわからない迷路に入り込んでしまったということ。柳田国男の指摘した、「だいし」→「弘法大師」、「たいし」→「聖徳大師」などは、まさしくこの吉本さんが指摘して「日本語の迷路」に起因している。

 わたしは、詩や短歌で普通漢字にすべき所を意図的にひらがなで書いたことがある。そうすると「ひらがなのA」という言葉は、「漢字のA」なのか「漢字のB」なのか、文脈上からも曖昧で決めかねるというもので、あいまいさを湧き立てる表現として使ったことがある。これは「日本語の迷路」を逆手に取ったものと言えるだろう。ただし、それが普通の表の風景であれば、この「日本語の迷路」は現在のわたしたちに到るこの列島人に日本語や日本文化について様々な誤解や誤読を生み出してきていることになる。



 それから、もうひとつの問題は、非常に、今度は、言語学上の問題になってしまうわけですけど、たとえば、日本語と、日本語周辺にある、たとえば、地域との言語年代的な比較をやると、そうすると、だいたい、どこにも類似の言葉がないっていうようなことが、現在のところでてきているところなんですけど。

 つまり、日本語と、なんらかのかたちで共通性があるらしいとみられうるのは、まず、琉球沖縄では、3,4千年くらい以前には、同じ祖語から分かれたであろうということが、おおよそ言えるということ、それから、もうひとつは、7千年から1万年くらいさかのぼりますと、日本語と朝鮮語っていうのが、あるいは、同じ祖語に、つまり、元の言葉にぶち当たるのではないかってことが、なんとなく言えそうだってところが、現在の言語年代的な到達点であるわけですけど。

しかし、考えてみまして、周辺の領地と、まったく関係のない、類推がきかないような言語っていうのは、言葉の本来的な性質からしてありえないのであって、もし、それだけのことしかいえない、つまり、日本語っていうのが、どこにも周辺に類推する基盤がない、あるいは、類似の言葉が見つからないってことは、どういうことを意味しているかっていうと、大変な誤解がどこかにあるに違いないと。

 その誤解の主な部分は、たとえば、漢字の音でもって置き換えていったと、それで、置き換えていきますと、はじめは、表音的っていいますか、音を借りるために、漢字を借りてきたわけですけど、終いには、それが年代を経ていきますと、漢字自体の一語一語に意味がそれぞれありますから、だんだん意味があるものとして、変わってきてしまうってことがありうるわけです。

 だから、たとえば、二番目のあれでいいますと、美奈の瀬河っていうふうにあるでしょ、そうすると、あの美奈っていう字を、みなさんご覧になりますと、なんとなく、きれいでおっとりしたっていいますか、そういう感じがするでしょ、つまり、そういう意味合いがあるみたいな感じがするでしょ、しかし、そこが迷路のはじまりでして、そんなことは、ぜんぜん関係ないのです。

 だから、それとおんなじことなんですけど、たとえば、水無瀬川っていう、水無しの瀬の川って書く、水無瀬川っていうのが、たとえば、京都のほうにいきますとありますけど、そうすると、なんか水があんまり無くて、川の瀬がいっぱいでているっていうような、そういう印象を、自然に受けてしまうでしょう、しかし、そんなことは何の意味もないです。
そういうふう字をあてますと、ひとりでに、字が意味をあたえてしまうってことで、変わってきてしまうのです。つまり、その種の迷路ってものは、日本語の古典語から振り分けたうえでないと、言語年代学的な比較というのはきかないということがあるのです。
 つまり、そういうことを、言語学者っていうのは、より分ける方法っていうものをつかまないかぎりは、やはり、日本語っていうのは、わりあいに、孤立語であると、つまり、周辺の領域に共通の言語っていうのはみつからない、あるいは、共通の祖語にいきあたるだろう、つまり、共通の元の言葉にいきあたるだろうっていうような言葉にいきつかないってことがでてくるのです。

 それは、そういうことは、たいへんおかしいことであって、そういうことは、本来的にいえば、ありえないことなんですけども、おそらくは、そのもとは、その種の、美奈瀬河っていうふうに、ああいう字を書けば、なんとなく美しいような、やさしいような川みたいな感じになります。それから、水の無い瀬の川っていうふうに書けば、なんか浅くて、川の瀬がいっぱいでているっていうふうな、そういう川っていうふうに、だんだん年代をくううちに、そういうふうに考えていってしまうっていうような、性質が漢字にはありますから、そういうふうにして、ぜんぜん、まったく違うものに変わってしまうってことが、違う意味に変わってしまうってことがあるのです。

 そういうことを、方法的に選り分けられなければ、おそらくは、言語年代学っていうのは、比較をやっても意味がないというふうに、ぼくには思われます。それが、おそらく、日本語を、たとえば、非常に孤立語だっていうふうに思わせてくる、非常に重要なポイントだっていうふうに思われます。

(「(講演A023) 詩的喩の起源について」5.日本語の迷路 吉本隆明 1971年)
http://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a023.html
 ※読みやすいように、段落間を一行空けました。


表現の現在―ささいに見える問題から 21

2016年06月12日 | 批評

 表現の現在―ささいに見える問題から 21 (語音の問題から)



 乳児が言葉を獲得していく初期の段階で発する言葉のようなもの、例えば「ばぶばぶ」などは「喃語」(なんご)と呼ばれている。それ以降でもまだ言葉を覚えたての小さい子どもがしゃべる言葉はよく聴き取れないことが多い。しかし、それがくり返されていくうちにわたしたちも小さい子の言葉に慣れていって、その言葉が何を指し示しているのかをわかるようになる。

 例えば、「いただきます」と普通表現される言葉を、小さい子どもが「いたーきまーす」と言ったとして、小さい子どもが食事する時の慣習という十分な認識の下にその言葉を発しているかどうかという問題はあり得るとしても、わたしたちは両者の言葉を同一だと見なしている。このようなことは小さい子どもの言葉に限らず、大人の世界でもある。文字で記されるとまったく同一に見える言葉の「はし」と「はし」でも、言葉として喋ってみるとアクセントやイントネーションの違いなどがある。わたしたちはそれらも同一だと見なしている。

 「あざーす」は、お笑い芸人が広め始めたらしいが、「ありがとうございます」の省略あるいは転訛の表現と言われている。日本語には省略表現が多いように感じるが、この場合は省略ではなく語音の縮退として転訛と見るべきだと思う。小さい子どもの言葉の「いたーきまーす」は、「いたーきまーす」=「いただきます」と同一と見なした。しかも、この「いたーきまーす」は小さい子どもの大人の模倣性を多分に含んだ自然な言葉の表現である。一方、「あざーす」も、「あざーす」=「ありがとうございます」で同一のことを指示しているが、小さい子どものように自然ではない、意識的な表現になっている。しかし、「あざーす」というこの意識的な語音の縮退には上記のような無意識的な幼児期の言葉の自然な経験が反芻されているのかもしれない。


 好きと言うかわりに月と言ってみる
         (「万能川柳」2016年01月21日 毎日新聞)



 この作品は、今まで触れてきたような語音の問題をモチーフとしている。この作品中の「わたし」が、好きな相手を今目の前にしているのか、いないのかは確定できないとしても、「好き」と言いたいところなのに「月」と言ってみたということである。相手には「好き」と伝わったか「月」と伝わったか、あるいは相手がよく区別できない「好き」と「月」の混合として伝わったか、はわからない。「わたし」の気持は、相手を「好き」という点で曖昧さはないのに「月」と言ったのは、「わたし」の恥じらいの消去までは行かないかもしれないが、恥じらいの感情の中和にはなっているのだろう。

 この作品の、スキ→ツキ→〈好き〉(月・好きの二重化)という表現は、「わたし」の恥じらいの感情の中和をもたらすだろうという作者のユーモラスな意識に支えられている。そして、この作品を形作る作者の表現の過程にも、作者の遙か幼児期の言葉の自然な経験が無意識的に反芻されているように思われる。

 最後にひと言付け加えれば、わたしたちは絶えず現在に当面して生きているけれど、このようにその現在には、〈起源〉からの積み重なりの経験がわたしたちのどこかに仕舞い込まれていて、現在の行動や表現に遙かなところからの色合いのように無意識的に付加されていると思われる。


表現の現在―ささいに見える問題から⑳ (よくわからないということ②)

2016年05月15日 | 批評

 表現の現在―ささいに見える問題から⑳ (よくわからないということ②)


 読者として言葉で表現される文学の具体的な作品の中に下りていくと、またいろんなわかりにくさも待ち構えている。短くはない言葉の表現である詩でも場面や情景が捉えにくい場合が多くあり得るけれども、短詩型文学と言われる川柳や俳句や短歌などの短い言葉による表現に焦点を当てると、読者から見たらその言葉の短さゆえに言葉の指示性が十分に尽くせないからどうしても場面や情景が捉えにくい場合に多く出くわすことになる。作者の側から見たら場面や情景の説明的なものが極度に削られたり、ある中枢的な場面が直接に指示されたりもする。


1.中国が東にあればと思う空
  (「万能川柳」2016年3月15日 毎日新聞)

2.春霞実はPM2・5
  (「同上」2016年5月10日)

3.上階に布団叩きの好きな人

4.他人(ひと)の孫まあかわいいと言いはする
  (「同上」2016年3月8日 )

5.妻の呼ぶ声の調子で解る事
  (「同上」2016年4月24日 )



 1.の作品を最初に読んだ時、何のことを指示しているのかまったく意味がわからなかった。しばらく考え考えしていたら、ふと思い付いてしまった。中国の大気汚染物質であるPM2・5と呼ばれているものが黄砂と共に中国大陸から気流に乗ってこの日本列島にも押し寄せてきているらしいということが近年わたしたちにもわかったが、そのことを指している。空を見ていたら、もし中国大陸が日本列島の東側にあればこの日本列島にPM2・5が押し寄せることもなくこんな嫌な目に遭わなくても良いのに。しかし、現実にはどうしようもないから困ったものだという作品である。「空を見ていたら」と作品をたどったけれども、作者としては何を指し示しているかを示すために、あるいは読者の理解の助けとして「空」という言葉を選択したのかもしれない。しかし、わかりにくかった。これに対して、2.の場合は、いい感じの春霞と思いきや、なんと迷惑な「PM2・5」だったとその理由が指示されているから理解に迷うことはない。

 柳田国男がまとめた『遠野物語』の世界にある、村に伝承され流行しているような共同幻想(集団的な共通のイメージや観念)は現在と比べたらそうたいして多くはない。現在の文化や趣味やあらゆることが細分化された社会では、膨大な情報の中から社会に目立ったって浮上してきたとしても、それは次から次に泡のように現れては消えていくから、それらのすべてについてわたしたちが知っているとは限らない。わたしたちの現在の共同幻想では、わたしたちは膨大な情報に囲まれており、その情報の海を日々泳ぎきらなくてはいけない、ということがありそうに思える。そして、そのような日々の泳法に愉楽を味わうこともあれば、疑念を感じ続けることもあるはずである。こういう状況で、例えば「PM2・5」の情報を知っていないと理解できない作品もあり得るということになる。そういうすぐに消えていく泡のような流行(情報)を作品に取り込んだ場合は、作品の寿命もそんなに長くないような気がする。

3.の作品は、言葉の意味は、「おそらくマンションの上階に布団叩きの好きな人が居る」という風に一読で誰でもたどれると思われる。そこから、それがどうしたのかという問題になる。まず、「上階に」とあるから、作中の「わたし」は、アパートかマンションに住んでいる。その上の階の人(女性であろうか)が、天気のよい日にはベランダに布団を干して布団叩きをする。「布団叩きの好きな人」というのは、どこにも非難がましい言葉があるわけではないが、「わたし」の感受を言葉に乗せたものである。つまり、「わたし」はその布団叩きから出る埃が上の階から降ってくるので、毎回嫌な思いをしているのである。したがって、その言葉は非難の気持ちからの皮肉である。どこにもそのようになことは明確に言葉に書かれてはいないけれど、作品の言葉全体からそのことははっきりと滲み出してくる。

 4.の作品は、自分の孫はとてもかわいくてたまらないけれども、他人の孫はそこまでかわいいとは思えないなあという意味。これを音数は無視して中性的な表現に直せば、「他人(ひと)の孫をかわいいと言う」となる。この作品の場合この中性的な表現に、「まあ」とか「は」という自己表出性の高い言葉が付加されることによって、作中の私の微妙な感情表現を表していることになる。これが、語られる場合で抑制的でないならば、言葉では「かわいいですね」と言ったとしても、顔の表情は「まあ」とか「は」という言葉が付加されたような表情を垣間見せることになる。このような作品の場合も、語られる場合も、たぶん誰でもその表現を理解できると思われる。

 5.は、何のこと言っているのと疑問に思う人はあまりいないと思われる。「妻」が「わたし」を呼んでいるのだが、その声の調子で「妻」の機嫌の良し悪しがわかるということを表現している。

 わたしには、作品の言葉の理解において普通一般より少し劣るのではないかという自己認識・自己評価があるけれども、この1.から5.の作品はわたしでもよくわかる作品になっている。どこにも対象に対する直接的な批判や嫌悪が表現されているわけではないのに、日常の生活で他人の表情の意味を大体において誰もが理解することができるのと同じように、これらの作品を読み味わい理解することができる。

 このことは何を意味しているのだろうか。わたしたちが、世間話程度であれ語られる他人の言葉を全重量において受けとめようとする時、わたしたちはその読解に生い立ちからの時間の年輪のすべてを無意識の内に総動員しているはずである。そして、そこには相手がはっきりと言葉にしなくても相手の心がわかる、察知できるという、全ての人の基層にある乳胎児期の母―子のコミュニケーション(註.吉本さんによれば、言葉に拠らない「内コミュニケーション」)体験の蓄積がある。話し言葉や書き言葉の表現で、単にある情報や知識を知らないという場合ではなく、表現を理解しようとする場合に、わたしたちの「内コミュニケーション」の経験の蓄積が大人になっても発動されていることによって、よくわからないという状態から言外の意味までも察知して理解することができる状態に入り込めることになる。したがって、乳胎児期にあまり良い母―子のコミュニケーション関係でなかった場合には、察知もうまく働かずによくわからないということが普通以上にあり得るかもしれない。


表現の現在―ささいに見える問題から⑳(よくわからないということ①)

2016年05月10日 | 批評

 表現の現在―ささいに見える問題から⑳ (よくわからないということ①)


 芸術にも他の分野同様に、言葉、映像、ダンス、美術など様々な形式がある。それぞれの形式は、さらに細分化された形式を持っている。しかし、表現の形式は違ってもそれらを貫く表現のモチーフなぜ人は表現するかは、人間的な表現の持つ特質として共通しているように見える。普通、芸術表現をする人々はこのようなことを直接問うことなく表現の階梯を上り詰めていく。そのような問いは、簡単には答えにくい、よくわからない問題に属するものである。しかし、それは人間の始まりや芸術の始まりからの普遍的なものとして取り出すことはできそうに思われる。芸術に限らず、科学でも医学でも政治でも、このような表現する行為自体を内省するのは〈批評〉という行為であり、批評の言葉である。

 芸術的な表現の世界に入りこんでいる人の場合は、書き記す過程で現在までの積み重ねられてきた表現の歴史を踏まえつつ、現在を日々生きていることから寄せて来る新たな感動や美の表現を、ということはとてもしっくりくる深い感動や美を追い求めていくことになる。そこでは、現在に対する異和もあればしっくりくることもあり、誰もがおおそうだねと感じ思うような表現上の工夫をすることになる。例えば、明治の与謝野晶子の歌集『みだれ髪』や昭和の終わり頃の俵万智の歌集『サラダ記念日』は、ともにその表現の新しさで、こんな表現ができるんだという衝撃と感動を読者に与えた。もちろん、反発する人々もいただろう。ともに古びた硬直した短歌表現の世界に、前者は若い女性のエロスの開放を、後者は街角に普通に飛び交う言葉を、短歌表現として導き入れた。このように、時には表現の水準の転換や押し上げに大きく貢献する表現者もいる。しかし、注意しなくてはならないのは、そのような表現者の背後には、大多数の普通の人々が、それらの芸術表現と同質の感受や意識を割と無意識的に日々働かせている世界があり、表現者たちはそれを自覚的に汲み上げて文学的な表現によってかたち成しただけだと見なすこともできる。

 ところで、具体的な表現で、「桜の花が咲いていました。」と書き記されたとする。その書き記す以前に、作者の沈黙の内に言葉で感じ考えられるだけの状態がまず考えられる。わたしたちの日常ではそれで終わる場合も多々あるが、語ったり、書き記したりする場合がある。そうしたことは、普通の人々も表現者も一見無意識的なように成しているが、自分が感じたある感動のようなものに向き合い取り出し吟味したり、あるいはそれと同時にそのような感動のようなものを他者と分かち合いたいという動機も潜在しているように思われる。

 沈黙の内の言葉から「桜の花が咲いていました。」へとありふれて書き表されていたとしても、この表現には、実際目にした体験か想像かに関わらず、作者が、(桜)(の)(花)(が)(咲い)(て)(いまし)(た)(。)という時間に添って対象を認識・把握しながら言葉の選択と構成を成し遂げていくという複雑な過程を含んでいる。それは誰でも自然なものとして成し遂げているように見えるけれども、そういう言葉や表現は家族や学校などを通して獲得されてきたものの現在の姿としてあるのであり、また、沈黙の内の言葉のイメージとその有り様は、言葉への表現の過程を踏んでいくとき、いろんな変容や形を付与されていくことになる。

 つまり、作者が沈黙の内の言葉のイメージとその有り様からあるモチーフを抱いて言葉の表現の世界に出立していくとき、沈黙の内の言葉のイメージとその有り様は形を与えられていき、その過程で作者はある深い情感やイメージを絶えず生み出しつつ自らもそれを味わっていくのである。それは精神的な生産=消費という同時的な心から精神に渡る活動であると言い換えることもできる。そしてそういう精神的な生産=消費の活動は誰もが日々行っていることでもある。

 作者のこの言葉への表現の過程に何らかの形で参与しているのは、作者が生まれ育ってきた現在の世界(社会)、その中で育まれた作者固有の世界、そして言葉を形ある表現として生み出す仲立ちとなる積み重ねられてきた表現の世界である。作者は意識的あるいは無意識的にそれらを行き来しながら作品の言葉として織り上げていくのである。

 作者と作品を中心に持ってくると作品を生み出す主体は作者でありその作者の固有性が問題となるが、時代や社会が中心に来るようにして作品を見れば吉本さんの『マス・イメージ論』のような時代や社会のマス・イメージが作者に作品を書かせているというような像になる。批評の視線にもこのようないろんな位相があり得るが、いずれにしても表現された言葉に内省を加えているということでは同一である。

 作者によって生み出された作品を前にして、わたしたちがなぜ人は表現をするのかというようなよくわからない内省的な問いを発するとき、おそらくその作品という言葉の海に微かに浸透していたり、深みに沈んでいたりする、その問いに対応する破片のようなものが作品にはあるように思う。こういうよくわからない問いを携えて作品を読むのは、〈批評〉と言う行為であり、批評の言葉であると言うことができる。言い換えれば、内省としての言葉である。


表現の現在―ささいに見える問題から⑫-補註3

2016年04月11日 | 批評

 表現の現在―ささいに見える問題から⑫
  -補註3 (吉本隆明「カール・マルクス」に触れ)

 ※これで「補註」は終りです。


 ここで、わたしたちの現在に戻ってくれば、わたしたちの現在は次のような自然に対する関わり合いやその意識が大きく変貌している段階に突入しているのではないかという問題がある。当然のこととしてこのことが作者とその言葉を介して生み出される芸術作品の表現にも影響を与え浸透しているものと考えられる。

 この今までにない時代の変貌は、世代によっても感じ方や捉え方が違うように思う。若い世代はその変貌を割と自然なものと感じているかもしれないし、わたしのような老年に近づいた世代なら前段階と比べることによってその変貌の徴候を見つけ出しやすいということがあるかもしれない。わたしたちの世代なら小さい頃の見聞きした体験からすれば、まだ「百年前の日本」の風景にあんまり異和を感じなかっただろう。そして、成長するに従ってそれとの連続性をどんどん離脱していったという感じを持っている。それは「高度経済成長期」に当たっていたと思う。いずれにしても、現実の渦中にあっては人はいろんな異和があったとしても少しずつ変化に慣れていって、それらを自然なものと化していく存在であるから、変貌の進行になかなか気づきにくい。しかし、それらがある程度積み重なってきた段階で、後振り返ってみると社会が大きく変貌していたということわかって愕然とすることがある。



しかし、わたしのかんがえでは、人間の自然にたいする関係が、すべて人間と人間化された自然(加工された自然)となるところでは、マルクスの哲学は改訂を必要としている。つまり、農村が完全に絶滅したところでは。
 たとえば、現在、アメリカでは、もっともそれに近づいており、ソ連、日本、ドイツ、フランスではそれにおくればせている。中国ではやっと都市と農村との分離がもんだいになり、農本主義を修正する段階にせまられている。現在の情況から、どのような理想型もかんがえることができないとしても、人間の自然との関係が、加工された自然との関係として完全にあらわれるやいなや、人間の意識内容のなかで、自然的な意識(外界の意識)は、自己増殖とその自己増殖の内部での自然意識と幻想的な自然意識との分離と対象化の相互関係にはいる。このことは、社会内部では、自然と人間の関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想との関係のようにあらわれる。だが、わたしはここでは遠くまでゆくまい。
 (「カール・マルクス」P191 吉本隆明全著作集12 思想家論 勁草書房)




 この「カール・マルクス」は、巻末「解題」によると、今から、50年ほど前の昭和三十九年(1964年)に発表されている。わたしが学生時代にこの引用部分に出会ったとき、吉本さんはこの世界における人と世界との関わり合いとその行く末をそこまで見通しているのか、と深い衝撃と感動を味わったのを覚えている。

 さて、そこから50年ほど経っている。わたしたちの現在では、すでに「このことは、社会内部では、自然と人間の関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想との関係のようにあらわれる。」という段階に到っていると思う。わたしたちはその渦中に生きている。例えば、キュウリやトマトが年中あって従来のそれらのイメージとは違ってきているとか、銀行などの対面でのお金の出し入れや送金等だったのが、機械装置やネットワークを介して行うようになってきているとか、徴候はいろんなところから引き出すことができる。ここでは、前回利用した政府統計で、「産業(3部門)別 15 歳以上就業者数及び割合の推移 -全国(大正9年~平成 22 年)」を利用して、 産業社会の変貌を確認しておきたい。

 ここには表として挙げないが、その政府の統計の、各産業の「就業者数及び割合の推移」(大正9年~平成22年)というのは、産業の従事者数であって産業の規模そのものではないだろうが、その時代的な推移は、各時代での(第一次産業、第二次産業、第三次産業)の社会に占める割合に対応していると見なすことができる。

 各時代での(第一次産業、第二次産業、第三次産業)の従事者の割合。
1.「都市と農村問題」が切実だった戦前(大正9年)では
  (54.9%、20.9%、24.2%)

2.上記の吉本さんの「「カール・マルクス」」が書かれた頃(昭和40年)では
  (24.7%、31.5%、43.7%)

3.現在に近い時期(平成22年)では
  (4.2%、25.2%、70.6%)

資料
表8-1 男女,産業(3部門)別 15 歳以上就業者数及び割合の推移 -全国(大正9年~平成 22 年) (www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/final/pdf/01-08.pdf)より


 この統計データによると、わが国では農村が縮小して均質化された都市の中に小さく収まってしまったイメージが得られる。もちろん、わが国でも農業は相変わらず存在するし、昔と余り変わらない農業の形態もあれば、機械化が十分進んでいる形態もあるだろう。また、それらの一方に例えばネットやパソコンによる農の制御や管理、あるいは「植物工場」など高度化してきている農業の形態もある。しかし、上の統計データでわかるように、社会内では農業は存在しても「農村が完全に絶滅したところ」に近いと見なすことができる。

 わたしたちは、一次的な自然との関係から一段高度化した自然との関係という新たな社会の段階に到っている。この社会のあらゆる問題群の現象が象徴するのは、この社会のあらゆる分野でこのような現在的な問題を検討することをわたしたちは促されているということだろう。

 吉本さんが、若い世代の現在の詩について、自然というものがない、それらは「無だ」というようなことを述べていたことがある。(『日本語のゆくえ』2008年) おそらく以上のような社会の大きな変貌の現在を生きる、わたしたちの感性や意識の現在的な自然性とそれらの内省とが表現の世界でも促されているということであると思う。


表現の現在―ささいに見える問題から ⑫ -補註2

2016年03月31日 | 批評

 表現の現在―ささいに見える問題から⑫
   
-補註2 (伊東静雄に触れ)



 ここで、大正末から昭和初期の人々の意識に押し寄せた均質化を迫る都市意識と「現実社会のなかでの〈私〉の解体」、そこからの反応について、詩人の伊東静雄を具体例として触れてみる。

 現在は、都市と農村間の物質的・精神的な落差が解体されて、割と均質な社会になっている。割とという意味は、どこへ行ってもコンビニなど似たような風景があり、似たような仕事や生活様式であるという均質さと共に、まだその地域独特の言葉や風習などが残存しているからである。もちろん、その地域特殊に見える残存しているものも、柳田国男が追い詰めたように、二昔前までのこの列島の共通性として抽出できるのかもしれない。ただ、現在の「消費資本主義」という新たな段階の社会様式の均質性から見たら、それらはそれ以前のもの、均質化以前の残存と見なせると思われる。

 産業の構成として現在は、伊東静雄が詩人として登場し始めた大正から昭和初期の第一次産業中心からちょうど入れ替わった形の、第三次産業中心の社会になっている。(註.図表資料参照)その渦中にいるわたしたちは気づきにくいけれども、長い歴史を振り返ってみても農耕社会が始まったような新たな歴史段階とも呼べるような異例の社会が到来しているのではないか思う。しかし、現在は現在で、その均質化した都市の内部に様々な諸問題を抱え、未来に向けた再構成が促されているように見える。

 一方、近代の主要な問題として、物質的・精神的な落差としての都市と農村の問題があった。諫早(長崎県)という地方(農村)出身の伊東静雄が、思想や詩の表現において強いられた場所も、以下に引用する「大阪」「京都」という文章に見られるような、伊東静雄に押し寄せてくる都市意識と伊東静雄から湧き上がる地方(農村)意識とが交わる境界にあった。



 もし私が大阪に住まなかつたら、恐らく私は詩を書かなかつたことだらうと、近頃はよく考へる。さう考へることは大へんたのしい訓練である。誰だつて詩を書くといふことは、はづかしいことに相違ない。しかし大阪は私に詩を書く口実を与へるのだ。大阪では、自ら「心ある人」を以て任じてゐる人達は、私に、萩原朔太郎氏の所謂西洋の図(コレ西洋の図に傍点)を、余所の町でよりやすやすと認容するからである。大阪はそんな町である。私はかかる「心ある人」をこの町で一番軽蔑してゐる。
 私は家で退屈し切つてゐるが、外に出てそんな人々に故意とさも美しく生れ故郷の風景を、興奮した口調で描写する。そして聞き手の反応にじつと目を据ゑるのは私の反抗の流儀である。
 しかし、このたくらんだ西洋の図(コレ西洋の図に傍点)を簡単には許さない一二の友人だけが、表情の仕様もなくぽかんとして私の話に、実に実に困り切つてゐる。その表情がはじめて私を真実に興奮させる。友人はそこまで私を辛抱強く我慢してくれねばならぬ。そこでやつと臆病な私はいきいきと友情を感じて、対等な、虚空な場所に浮き上がる。私の目の前から大阪がなくなり、私の詩もなくなつてしまふ。
 そんなことを繰り返して私は毎日大阪で暮らしてゐる。
   (「大阪」全文 『椎の木』昭和十一年一月号)
     (『定本 伊東静雄全集』所収 人文書院 ※旧漢字は新漢字に直した)



 私が京都で大学生生活をしてゐたのは、大正の終りから昭和の初めにかけてである。九州の田舎から出た性急な私は、京都の温雅清寧の風景に先づ閉口してしまつた。何処へ行つても融和しがたい、憤懣に似た感情を味つた。私の当時の情感は、京都の風景を拒絶したが、悪いことに、私の本質はその美しさを理解してゐたのである。そのために二重にいらいらとし、自分がのけ者になつてゐるのを覚えた。私はこの温雅な風景に向つて、大声に罵倒してやりたい衝動をいつも覚え、おちついたその鑑賞者までが癪にさわつた。……中略……しかし私は今日でも尚、それ等愛読の古典とそれを生み出した京都といふ土地とを結びつけるのに困難を覚えるのだ。それは何故だらう。この背反の中にそのまま住するこのやり方は、私の性格に深く根差した発想法ではないかとも思ふ。自分の詩と生活の様式はいつもそこから出てゐるのぢやないか、そんなことが、それから十年経つた今日少しずつ自覚されて来るやうだ。しかし、再び京都に行つて、も一度今の目で京都を見直したいといふ気には未だなれない。その気持ちは頑強に持続している。
   (「京都」『新生』昭和十五年一月号) (同上所収)



 大正末から昭和初期の知的な若者たちで地方農村から都市に出向いた者たちの初めて感じた感受や言葉の落差を実感として想像するのは現在のように均質化した社会からは難しくなってしまった。かれらは地方農村の中でも経済的に割と余裕のある階層の出身であった。伊東静雄の場合は、旧制の佐賀高校を経て京都帝大に入学している。

 萩原朔太郎は、伊東静雄の第一詩集『わびひとに与ふる哀歌』(昭10年10月刊)を、「傷ついた浪漫派」の詩として高く評価した。伊東静雄の詩の言葉を「都市意識」あるいは西欧的な抒情詩の方から見れば萩原朔太郎の言葉のような「傷ついた浪漫派」の詩に見えただろう。一方の伊東静雄が引きずっている「農村意識」あるいは現実的な意識の方から見れば、青い未熟の果実しか実らないような不幸の農村世界の影が見えただろう。伊東静雄の詩は、「都市意識」の方から眺められた華やかなイメージ評価を多く見かけてきたけれども、ほんとうは伊東静雄に寄せてくる都市意識と伊東静雄から湧き上がる農村意識とが交わる境界にこそ伊東静雄の言葉の在所はあったのである。

 地方出身の伊東静雄に都市意識や都市という世界への同化を迫るように感じられるなかで、「大阪」という文章にあるように、西欧も無批判的に受け入れる都市や都市の人々への異和を表明している。しかし、伊東静雄が親友と交わした『伊東静雄青春書簡―詩人への序奏』を読めば、旧制の佐賀高校時代は島崎藤村や浪漫派の文学、当時の流行の阿部次郎『三太郎の日記』などの哲学書も読んでいたようだから、それらを通して間接的にであれ西欧の文学や思想や知識に触れていたことになる。伊東静雄の第一詩集『わがひとに与ふる哀歌』から詩「わがひとに与ふる哀歌」を引いて見ると、


  わがひとに与ふる哀歌


太陽は美しく輝き
或は 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讃歌を
あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如かない 人気ない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに

  ( ※旧漢字は新漢字に直した )


 伊東静雄は、「都市意識」と「農村意識」の間に引き裂かれる境界から、詩においてはひとつの息苦しい仮構によってその矛盾を乗り越えようとした。たとえ「輝くこの日光の中に忍びこんでゐる/音なき空虚」が見出されようとも、「 太陽は美しく輝き/あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ/手をかたくくみあはせ/しづかに私たちは歩いて行った」そして「 いま私たちは聴く/私たちの意志の姿勢で/ それらの無辺な広大の讃歌を」(「わがひとに与ふる哀歌」)歌い上げるのである。この詩は、「わがひと」に与える「哀歌」とあるように、「傷ついた浪漫派」の詩である。しかし、読者がこの詩に散りばめられた語群を結びつけていって華やかな哀歌のイメージを受け取るのは実像とは違うような気がする。この詩の背景には、伊東静雄が同郷の先輩の娘(たち)に思いを寄せ続けたが、拒絶されそれでも思い続けたという現実的な体験がある。その娘(たち)を「都市意識」と見なせば、拒絶された伊東静雄は引き裂かれた「農村意識」と見なすことができる。「音なき空虚を」を乗り超えようと呼びかける「あゝ わがひと」という詩語は、現実的には引き裂かれた悲痛さの表現に他ならない。伊東静雄が心寄せた娘の行動や語られた言葉から推測すれば、その娘には、互いに同郷の出身なのだが伊東静雄は「都市意識」からははずれたがさつな田舎者に写っていたように見える。しかし、不思議なことに伊東静雄は別の女性と結婚して以後も生涯その娘との手紙のやり取りなどを続けていた。

 この「わがひとに與ふる哀歌」という詩は、現在から見ればストーカーの心理のような奇妙な詩に見えるが、実像としてはきらびやかな詩ではなく、ひでりに疲弊した集落で必死に雨乞いを唱える、そのような言葉と見た方がいいと思う。それが「雨」を現実にもたらすことはないから、つまり、「わたし」と「わがひと」とが現実に結ばれることはないから、萩原朔太郎はこの詩を「惨忍な恋愛詩」と呼んだのであろう。そして、「雨乞い」と言っても太古以来の呪術的なそれではなく、近代的な衣装をまとったイメージとしての呪術とも呼ぶべきものだと思う。伊東静雄は、ドイツのロマン派詩人、ヘルダーリンの詩を愛唱していて影響も受けていたようだが、願望のイメージとしては具象性を欠いた西欧のそのような世界を彼岸として指し示そうとしたのかもしれない。しかし、この詩「わがひとに與ふる哀歌」に見られるような生硬な欧文脈の翻訳体のような詩の言葉が、そのイメージの此岸としての在所と孤独とを語っているように見える。

 「農村意識」を抱えた伊東静雄は、こうして「都市意識」の差し出す均質化の要求に耐え、失墜必須の不可能なイメージの翼を広げ飛翔を試みたと言えるだろう。若い伊東静雄は、大正末当時のロシア経由の流行思想である社会主義などの思想にも少し近づいて引き返したが、現在からの視線として言えば、ほんとうは柳田国男の言葉の在所へ近づいて、その言葉を繰り込むべきだったと思われる。


 註.図表資料

 伊東静雄の表現活動を開始した時期の大正から昭和初期と現在の産業の構成について。
 下の図表は、全国の平均であるが、大正から昭和初期の日本の平均的な産業社会像が、第一次産業中心であることを示し、現在のそれが、第三次産業中心であることを示しているのは確かである。

 表3-1 産業(3部門)別15歳以上就業者数の推移-全国(大正9年~平成17年)

  総務省統計局
 ( http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2005/sokuhou/03.htm )