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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

表現の現在―ささいに見える問題から 23 (言葉の出自)

2017年01月19日 | 批評

表現の現在―ささいに見える問題から 23 (言葉の出自)



 存在と言えばいいのにプレゼンス
           (「万能川柳」2015年12月8日)



 英語の「存在」の意味の言葉として「presence」と「existence」がありますが、前者は具体的にある場に居るという存在、後者は哲学的なものの存在というようなニュアンスの違いがあるようです。

 この作品の「存在」も「プレゼンス」も、何を指し示しているかという指示性は同じでも、例えて言えば、わたしは通ったことはありませんが京都の「哲学の道」を通って対象に到達するか、大都市のしゃれた町並みを通って対象に到達するかの違いです。当然のこととして、その道中の景色や印象はずいぶん違っています。しかも、いずれの言葉もわたしたちの日常の生活で使われる言葉からは遊離した言葉です。この遊離と言うことの意味は、この列島社会では知識や文化上層と生活世界とが、生活圏としてはそんなに離れていなくても、隔絶した距離を太古から持ち続けた来たという歴史性に拠っています。

 だから、この作品の表現している内容は誰でもぱっとわかるような気がします。(あいつ、カッコつけやがって。「存在」と言えばいいのに「プレゼンス」という横文字使ってやがる。鼻持ちならない奴だ。)というような内容です。付け加えれば、現在では「存在」という言葉は「プレゼンス」という言葉より日常生活世界に近づいてきてはいても、もともとは西欧の輸入言語に対する翻訳語で、明治期にできた哲学用語でした。つまり、この「プレゼンス」同様わたしたちの日常世界から遊離した言葉でした。

 現在の印象では、経済社会を中心として世界がグローバルに開かれてきていますから、主に経済社会の方から密輸というか湧き上がっているというか、「プレゼンス」の類いの言葉が盛んに流通し、社会に漏れ出てきているようなわたしの印象があります。ひとつの大きな会社にいろんな言語を携えたいろんな国出身の人々が入社して混じり合うような現状では、そういう日本語の状況もグローバル化の下、未だそれに形ある言葉を言えませんが、この作品の揶揄(やゆ)する意味とは別の意味を持ちはじめているのかもしれません。


歌集『オレがマリオ』(俵万智)を読んで

2017年01月12日 | 批評

 歌集『オレがマリオ』(俵万智)を読んで、
      いいなと思う作品について、ひと言。




 言葉の表現も、他の仕事や技と同様に長らく手を動かし続けているとそれなりに年季が入ってくる。そして、言葉以外と同様に表現者にとっては、日常の平均的な普通を抜け出したその(言葉の)水準が普通になってくる。しかし、言葉の表現もまた、自らが何をしているのかを確認するかのように、自分の言葉の出生の地を、出生の心や感情を風通しのように反芻することがある。ちょうど、母が生まれ育つ子に眼差しや心を振り向けるように、言葉を差し向けることがある。


1.旅人の目のあるうちに見ておかん朝ごと変わる海の青あお

 人は、その地に生活を始めると、その地の風物に対する視線や感受も「旅人」から「生活者」に次第に移行していく。日々わくわくするような恋人同士の時間から、夫婦の日々の生活の時間に着地すると、最初の感動も薄れ、慣れや自然なものとなっていく。そのことは人間的な自然ではあるが、名残惜しむように最初の深い感動を味わいたいということ。ところで、「青あお」は、音数の促しとともに、「青」より青の広がりや動きが出ているような気がする。


2.落ち葉踏む音をおまえと比べあうしゃかしゃかはりりしゅかしゅかぱりり

 描写された足音の語感から前者が子で後者が母である「わたし」(作者)であろうか。こういう光景は、説明するまでもなく、小さい頃は誰にでもありそうな気がする。踏む音からは、互いが少し張り合ったり、楽しみ合ったりする情景が浮かぶ。子と向き合う母だからこそ、自らの遠い子ども時代を反芻するように踏む足音を立てているのだろう。


3.クレヨンの線どこまでも伸びておりこの放埒を忘れて久し

 「放埒」という語には、その行動をとがめるような少し否定的なニュアンスがあるが、ここでは肯定的な、子どもの気ままな自由さの表現や行動の意味で使われている。「忘れて久し」くても、あの遠い時間として「わたし」の心のどこかの層に仕舞い込まれているのだろう。


4.開花宣言聞いて桜が咲くものかシングルマザーらしくだなんて

 桜は、春の日差しを浴びつつ自らの内から突き上げるように花開く。同様に「わたし」もまた、外からのイメージや規定や指示によってではなく、内なる心の有り様によって生きているのだ。作者のめずらしくツッパッた歌。


5.ボタンはめようとする子を見守ればういあういあと動くわが口
 
例えば、テレビで相撲の取り組みを観たり、ドラマを観ていて、白熱した状況ではついつられて自分も身を乗り出したり、自分の手足に力が入っているということがある。この歌の場面もそういうことであろう。「ういあういあ」は、子どもの動作のこまかなひとつひとつに心配しながら付き従って自分もその動作を加勢しているような場所からの表現。


6.振り向かぬ子を見送れり振り向いたときに振る手を用意しながら

 人と人との関わり合いでは、例え密接なつながりにある母子の間でも、母の気持ち通りにその気持を察知して子も気持を返してくる(振り向いて手を振る)とは限らない。あるいは、成長するにしたがって、察知しても動作で表さないということもある。母と子の言葉にしなくても通じ合うような濃密だった世界も外の方に開かれて、引き止(とど)めようもなく互いにまた新たな時間を歩み出すのである。


7.ゼロひとつ含んだ長き掛け算を終えたるごとし人と別れて

 わたしたちは、日々いろんな人と出会う。そして、心通じ合わない、成り立たない会話の不毛さも経験する。ここでは、たくさん話をしたが、心通い合わせることもなくついに不毛な話であったということ。前半の算数計算の喩がおもしろい。数字の掛け合わせのような無味乾燥な会話であったという含意もあるのかもしれない。

(ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)


『石川くん』(枡野浩一)から考えたこと二つ

2016年10月20日 | 批評

 この本、面白く読めた。一つの対象も一人の人間も、それを内外から(内と言っても自分の体験や想像を巡らせて)捉え尽くそうとするのは難しいことだが、人がそういう欲求を持つのもまた自然なように見える。本書は、文学化した石川啄木像をわたしたちの普通の生活世界に引きずり下ろして、身近な隣人のように取り上げ遇している。多面的な像を放つ対象に対する大切な一面ではある。本書を読んで、考えたことを二つ述べてみる。


    1


こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なんと思ふ
 石川啄木 (枡野浩一『石川くん』より引用)



 人生の目標とか、大成するとか、これは石川啄木の生きた明治という時代、それを象徴する言葉の一つ「立身出世」という時代性の影響下にある考え方であろう。現在のわたしたちの感受や視線からすれば、それは大袈裟なものに映る。しかし、人は誰でもある時代のある場所を占めるように生きていて、その時代性の影響を異和であれ親和であれ空気のようなものとしてであれ振り切ることはできない。また、現在では古臭く見えるその考え方も、局所的にであれ依然として現在でも生き延びているように見える。一般的には、学校の校長の言葉や会社の経営者の言葉や政治家の言葉などに残留しているように見える。例えて言えば、社会的にはもはやある者の銅像を建てようという意識はなくなりつつあるけど、局所的にはまだ銅像志向が残っている。

 しかし、人の存在の重力の中心は日々の細々とした諸活動自体にあり、それと共に在るというように人は生きている。ちょうど話し言葉のように、語られた言葉は中空に消えていくけれど、人と人、互いに染み渡るものがあるというように、人は日々生きて、活動している。もちろん、その中にはこの逆の互いに憎み合う場合もある。ともあれ、人は日々習慣のように生きながら、出会うささいなことの中に無意識的に何か貴重なものを感じ取っているようなのだ。ちょうど話したら消えていく話し言葉のように、その具体性の場にこそ人の生存の価値の源泉があるのであって、消えゆく話し言葉の銅像を建てることはたいして意味あることではない。


   2


しかし、石川くんて、ほんとに立派だねえ。
こんな不思議な言葉をしゃべる地方に生まれたのに、
東京の言葉をあやつって短歌をつくれるんだもの。
今の言葉でいうと、
まさに「バイリンガル」だよ。
しかも昔の言葉(文語)まであやつるんだから、
三ヵ国語ペラペラって漢字仮名。かっこいー。
―(中 略)―
それから石川くんの歌は、
かざらない言葉でつくられているところがすごいと、
昔から文学者にも高く評価されてきたわけだけど、
そのじつ東京の言葉をつかっている時点で、
かざったり気どったり、してるんじゃない?
またもや君への理解が揺らいでしまう私です。 
 (第15回 ありがたい石川くん 『石川くん』 枡野浩一)



 わたしが大学の学生だった頃、大学の寮の仲間の誰かの提案で、夏休みにアルバイトしながら東京に遊びに行こうということになった。5人ほどで出かけた。たぶん神奈川の平塚辺りだったと思う。夜の土木工事の肉体労働だった。工事中誤って水道管が破裂して水しぶきが上がったことがあった。しかし、水道工事ではなかったと思う。その現場に、青森から来て働いているというおじさんがいた。その人の話す言葉は、まるで外国語のように九州から来たわたしたちにはまったくわからなかった。もちろん、それはお互いにそうだったのかもしれない。ただ、そのおじさんが標準語化した話し言葉をある程度理解していたのなら、一方向的だったのかもしれない。

 現在から内省を加えて振り返ると、その当時よりもっと以前の、地方から都会に出て来ての言葉(方言)による悲喜劇を書物などで知識として目にしたことがある。しかし、マスコミ、特にラジオやテレビや学校教育によって、これまた沖縄の方言札のような悲喜劇も伴いつつこの列島の言葉を標準化・均質化してきた。それでもまだそういうことがあり得るのだということに驚いた。わたしのその時の体験を現在から眺めれば、この同じ列島の住民同士でもまったく言葉がわからないということがあるんだということ、さらに遡(さかのぼ)れば、互いの地域間で言葉がうまく通じない時代があったんだろうなと想像できる。もちろん、古代以前はわからないとしても古代以後は、列島を旅する人々は商人や語りの者や僧など限られた人々で、大多数の人々はたぶん生涯をその地域からほとんど離れることなく生活していただろう。

 江戸期になり幕藩体制としてこの列島が政治的に統一されてからは、参勤交代や江戸詰など政治法制度に促されて、主に地域の異なる武家層が種々の異なる話し言葉の場面に直面することになっただろう。そのような状況があらゆる階層、万人に訪れたのは明治期である。そうして、政治・文化の上層から、近代国家にふさわしい必要なものとして、均質な言葉が構想され、標準の言葉として具体化されていった。

 昭和初期から京都の大学へ、その後学校の先生をしながら大阪に住んでいた伊東静雄は、故郷諫早の方言をよく話していたようだが(家庭では特に。職場の学校でのことはよくわからない。)、彼の詩作品や文章は方言ではなく書き言葉(口語や文語)で書かれている。この書き言葉は、どこで習得し始めるかと言えば、明治以前は、文化上層にある貴族や武士は学校のようなものや家庭教師のようなものを通して習得してきたのだろう。明治近代以降は、すべての子どもが公教育を受ける制度が設けられて、その学校教育を通して書き言葉を習得した。

 この書き言葉というものは、当然ながら文字の使用と共に始まった。白川静が明らかにしてくれたように中国の漢字は、初源的には神話的、呪術的なものだった。つまり、文字の使用と書き言葉の発生は、少なくともこのアジアでは起源的にも生活世界や大多数の生活者とは遊離した、今風に言えばいわば「かざったりきどったり」している政治・文化上層の世界であった。わが列島においてもまた。だから、大多数の民衆にとっては、それらの文字や書き言葉の世界は無縁なものであった。むしろ、その断絶の深さから、人々は文字を神々しいものと見なしたという証言もある。(註.1)

 一方、話し言葉は、家族やその地域の場で生まれ育っていく過程で習得されていくものである。それは多分にその地域性の言葉(方言)や生活世界に根差している。多分にという意味は、この列島を縦断する日本語の骨組みとしての同一性を持ちながら、互いに地域性としての様々な偏差(方言)を持っているということである。わたしたちは、現在でもそれら異質な二つの言葉を二重性として使い分けている。

 したがって、話し言葉と書き言葉は、互いに異質な出自を持つものであるから同列に扱うことはできない。別物と考えた方がいいと思われる。

 明治期以前であれば、話し言葉としてそれぞれ異なる地域性の言葉(註.2 方言)を話していても、主に知識層が書き言葉として文章を書いたり読んだりしている時は、この列島で同一の漢文(調)の文章や古文であったはずである。この事情は、明治期以降でも同様のこととして言えるはずである。

 話し言葉の世界でも歴史的に積み重ねられてきた書き言葉の世界でも、誰でも場面によっては普段着の言葉や着飾った余所行きの言葉を行使することは現在でもあり得ることである。そして、どんな着こなしでもいいけれども、そのことは表現されたものの鋭さや深さに関わるものだと言えるだけである。

 というわけで、『石川くん』の作者の言葉は、わかりやすい言葉で語られているけれども、生真面目に応答すれば、書き言葉と話し言葉のそれぞれの事情と区別があいまいなものとして語られているように思う。


 (註.1)
 吉本 僕はそういう問題で、最近、沖縄の学者さんが書いた方言札という表題の、要するに、その学者さんの文章を読むと、日本本土では、ただ言葉だけで言霊といっていたんだけれども、沖縄では、それまで文字なんてあまりなくて、筆記ができるようになる初めだろうと思いますが、中国の漢字が文字として入ってきたときに、文字どおり文字を書いた紙を祀って拝んだりしていたという。本当に神様扱いにして、文字を奉って拝んだりしていたんだという研究が書いてあって、へーっと。
 日本本土では言霊というぐらいで、折口さんは、女の人に言霊をつけたくて手紙をやって、女の人もまたそれをつけ返したら恋愛が成立するんだみたいな考え方だと思います。そういう言霊が、手紙とか相聞の歌とか、文字としてできるものだと折口さんは考えているけれども、沖縄の人は漢字を書いた紙をまつって拝むということを本当にやった。
 (「超人間、超言語」P161 吉本隆明・中沢新一対談 「群像」2006年9月号)



 (註.2)
 地域性の言葉といっても、例えば「九州方言」は、京大阪辺りの方言や東北辺りの方言と比べると大いに異なるかもしれないが、九州内の各地域では微差を伴いつつ割と似ているということがある。こうした事情は、大きく括られる地域性の言葉(方言)とその地域内の言葉同士の関係として言える。しかし、柳田国男がこの列島の各地の言葉の地層を発掘して関係づけて見せたように、その大きく括られる地域性の言葉(方言)同士も見た目や表面的な印象とは違った深い共通性も見通せるのかもしれない。


作品から ― 片山恭一 『なお、この星の上に』

2016年10月10日 | 批評

 では、人間界における人と人との関わり合う世界が、物語の主要な舞台になってしまった現在の物語作品で、作品の主舞台を童話という形式として選択することなく、童話的な表現を部分的にであれ選択し作品世界に引き入れるということは可能だろうか。可能だろうかということは、(なんで鳥や獣が言葉を語るのだろうか)という読者の疑念を解消しうるような生きた言葉のイメージや理念を放出しうるだろうかと言い換えてもよい。ここに童話的な表現を部分的にであれ選択し作品世界に引き入た作品がある。まだ継続中の作品だから当然のこととして今まで表現されている作品の世界から見える、感じられることから考えてみる。

 作品の舞台は、今から半世紀くらい前の、高度経済成長によってこの列島の旧来的な社会が、景観としても産業構成としても文化や精神的なものとしても切り拓かれていく以前の時代や社会である。そんなとある村が取り上げられる。ただ、高度経済成長期へ流れていく徴候はある。「エラン」である。あるいは、電気洗濯機の話題である。(『なお、この星の上に』(8) 片山恭一)



 ほどなく大人たちの会話のなかに、「エラン」という聞き慣れない言葉があらわれるようになった。それは金やダイヤモンドにも相当する貴重なものであるらしかった。地質調査の男たちも、また健太郎たちが出会った老人も、この高価で貴重な鉱物を探していたらしい。やがて「エラン露頭発見」という記事が、地元の新聞に掲載された。さらに「有望なエラン鉱床発見」というニュースが、全国的にも大きく報道されるに至って、健太郎たちの村を含む一帯は、エラン鉱石生産の中心地として一躍有名になった。村中がエランの話題で持ちきりになった。新聞の見出しなどに使われた「石炭にかわる夢のエネルギー源」という謳い文句を、大人も子どもも門前の小僧のように口にした。エランとは何か? 石炭にかわる夢のエネルギー源である。それで充分だった。
 小学校の冬の暖房は主に石炭ストーブだった。当番は倉庫から石炭をバケツに入れて運んできたり、ストーブの底に溜まった燃えカスを捨てに行ったりしなくてはならない。雪の降る寒い日などは、なかなか辛い作業だった。あるとき朝礼で校長先生が話したことを、健太郎はいまでもよくおぼえている。将来は石炭などを使わなくても、エランによって簡単に暖房ができるようになる。エランを使って発電した電気によって、日本中の街が夜でも明るくなる……そんな話を校長先生は得意げにしたものだった。日本にとっても、健太郎たちの村にとっても、エランは明るい未来の象徴だった。
 (『なお、この星の上に』(5) 片山恭一)




 主人公と思われるのは、卒業後の進路を控えた中学生の少年、健太郎である。その健太郎は、次のような一般的な時期に差しかかっている。



 ここには自分が知らない世界がある、と健太郎は思った。山参りのなかで見聞きすることの多くが目新しく、どこか怪しい魅力を湛えている。日ごろ慣れ親しんでいる世界の奥に、もう一つ別の世界があり、そこへは神や信仰を足がかりにしなければ赴くことができないらしい。子どものあいだは、学校などで習う表向きの世界がすべてだ。大人になることは、さらに奥にある世界の存在を知ることなのだろう。自分はいま、子どもから大人への境界を越えようとしている。そのことを、身を切るような水の冷たさとともに健太郎は感じた。
 同時に、一つの疑問にもとらわれた。村の人たちは、エランによる発電という最新の科学技術を受け入れてようとしている。供給される電力によって、暮らしが豊かになることを期待している。その同じ者たちが、山参りのような昔からのしきたりを絶やさずに守りつづけている。奇妙なことではないだろうか? そう感じるのは自分だけだろうか。少なくとも父親をはじめ大人たちは、奇妙とも不合理とも思っていないらしい。そんな大人たちに、健太郎は軽い不信感をおぼえるようだった。
 (『なお、この星の上に』(13) )



 少年期を抜け出して少しずつ大人の世界に近づく時期にある少年の内面とそこから健太郎少年の目を通して、村の大人達の内面が矛盾した世界として見られている。現在から振り返れば、この村も「山参りのような昔からのしきたり」はどんどん切り崩されて「エラン」に象徴される「より豊かな」経済社会の方へ解体され組み込まれていくことになる。現在ではおそらく地方の小都市になっていると思われるこの時代の村は、日々の生活に必要なものは現在のように店でほとんど購入するというわけではなかった。まだいくらか自給自足的なものが名残のように残っていた。浦島太郎の時代は、遠い過去ではなかったのである。わたしが小さかったその頃は、まだ家庭用洗濯機が普及する前で、近くの川の堰き止められた所で洗濯していた。そこは近隣の女性達の語らいの場でもあった。

 この作品の舞台は、わたしの小さい頃のなじみの風景に近い。そして、作者が学んだこととともに小さい頃体験してきたこともいろいろとこの作品に散りばめられているように見える。例えば、次のような描写がある。



 鶏が苦手になったのには理由がある。小学四年生のときだった。健太郎は祖父に誘われるまま、何気ない気持ちで鶏の解体に立ち会った。祖父としては、孫に鶏のつぶし方を教えようと思ったのだろう。切り開かれた腹のなかには、これから産まれる卵が順番に並んでいた。殻が薄く付きかかっているものから、だんだん黄身だけになっていく。これが明日産むぶんの卵、これが明後日のぶん、というふうに祖父は説明してくれた。そのときは別段気持ち悪いとも思わなかったが、以来、目の前に鶏の肉が出てくるたびに、健太郎は腹のなかに並んだ卵を思い浮かべるようになった。
 (『なお、この星の上に』(7) )




 わたしの家でも、時たま父が「鶏の解体」をしていた。それをちらっと見たことがある。わたしも似たような感じで解体された鶏の料理を進んで食べなくなった覚えがある。この描写は、明確な根拠があるわけではない、わたしの直感的なものに過ぎないが、体験した者ではないと書けないのではないかという気がする。おそらくこの描写も作者の体験から散りばめられたものだろうと思われる。

  ところで、この作品には動物たちが人間と同じ言葉を語り合うように描写される童話的な表現が取られている個所がある。しかし、以下に引用する、遠足で眠気に襲われた健太郎の描写によれば、太古のようにあるいは宮沢賢治の童話のように人と動物などが言葉で交感し合うわけではないようだ。現在のわたしたちの世界のように人(健太郎)は動物(鳥)と言葉を交わすことはできない。人(健太郎)が動物(鳥)のさえずりのようなものを聞き取っている様が描写されているだけである。



しかし、やけにうるさく鳥が鳴いている。人間の知らない言葉で、何事か言い交わしているらしい。
「ツァラン、ツァリルリン」
「ツァリル、ツァリル」
「チチツン、ツーン、チ、チ」
 何を言っているのだろう。
 (『なお、この星の上に』(16) )




 動物たちが人間と同じ言葉を語り合うように描写される童話的な表現が取られている場面は、現在までのところ『なお、この星の上に』の(1)(10)(14)に表現されている。それぞれから取り出して、少し考察を加えてみる。



 イヌワシは切り立った崖の巣を飛び立った。昇ったばかりの朝日のなか、風をつかまえ、ゆっくりと旋回をはじめる。上昇気流に乗って、徐々に高度を上げていく。餌を探さなければならない。イヌワシは腹を空かせている。獲物はノウサギやヤマドリ、大型のヘビなどだ。ときにはカモシカの子どもを襲うこともある。獲物を見つけると、羽をたたんで急降下し、両足を突き出して襲いかかる。強力な爪で獲物を絞め殺してしまう。
 美しい朝だった。いい天気になりそうだ。イヌワシは気流に乗り滑空していった。羽ばたきをする必要はなかった。二メートルほどにもなる羽を広げれば、風が行きたいところへ運んでくれる。鋭い目と嘴が、太陽の光に反射して輝いている。たてがみのような後頭部の毛も金色だ。かすかに潮の匂いがした。風は海のほうから吹いてきているらしい。その風に乗って、今日はどこまで行ってみようか。
 (『なお、この星の上に』(1) )




 一段目は、〈語り手〉が登場人物の〈イヌワシ〉に関する様々な知見を基にした〈イヌワシ〉の説明的な語りになっている。「イヌワシは腹を空かせている」という内面を推し量るような描写があるけれども、この部分の描写の主流は割と外面的な描写になっている。それに対して二段目では、説明的な語りも含みつつも、〈語り手〉が登場人物の〈イヌワシ〉の内側に入り込み同化してしまった描写になっている。



 蜘蛛が巣をかけている近くでは、ホオノキに日光を遮られたユキノシタが、どちらに枝を伸ばそうかと思案していた。まったく予想外のことだった。いつのまにこんなに大きくなっていたのだろう。冬のあいだは葉を落としていたので気づかなかった。光は植物にとって食糧そのものだ。早く明るい場所に出なければならない。日差しを完全に遮られてしまえば、枝を伸ばすことは難しくなる。そうなれば他の植物に侵入され、悪くすれば枯れてしまう。まさに死活問題だった。だが間違った方向へ枝を伸ばしても光は得られない。右へ向かうか左へ向かうか。ユキノシタは芽と葉と茎を総動員して正しい答えを導き出そうとしていた。
 ようやく岩にたどり着いたイワガラミは、このときとばかりに成長をはじめていた。こいつに巻きついてしまえば一安心だ。アケビやツルアジサイも急いでいた。運良く、からみつく木に行き当たったのだ。この幸運を最大限に生かさなければならない。逆に、サルに喰い荒されたヤマヨモギは、根から吸収した水分を残った葉に送りながら、しばらく様子を見ることにした。食べられた部分は致命傷にはならないだろう。いずれ身体は回復するはずだ。しかし苦労して茎を伸ばし、葉を茂らせても、また食べられてしまってはどうしようもない。周囲のヤマヨモギたちも、被害にあった仲間の惨状に顔をしかめながら、当分は生長を見合わせることにした。気まぐれなサルたちは、そのうちに別の餌を見つけて場所を移動するだろう。
 (『なお、この星の上に』(10) )




 今度は植物たちの描写である。最初の引用は一段目と二段目で割と分離的だったが、ここでは〈語り手〉は、「光は植物にとって食糧そのものだ」に象徴されるような外部的な植物に関する知見からのまなざしと、〈語り手〉が登場人物の〈ユキノシタ〉、〈イワガラミ〉、〈ヤマヨモギ〉などに同化して語るのが混合された形の表現になっている。



 やがて母親のイノシシが霧のなかから姿を現した。後ろには三匹の子どものイノシシがくっついている。みんな身体にウリのような白い縞模様がある。この春に生まれた四匹の子どものイノシシだ。母親のイノシシは、子どもたちには目もくれず、地面の土に鼻をつけるようにして匂いを追っている。動物や虫の死骸が混じった腐葉土からは、発酵したような饐えた匂いがした。ふと何かを察知したかのように、母親のイノシシは顔を上げ、頭を左右に小刻みに震わせた。違う。この匂いではない。
「いいこと、坊やたち。世界にはたくさんの匂いがあるの。いい匂いもあれば悪い匂いもある。いい匂いのするものは、わたしたちのお腹を満たしてくれる。でも悪い匂いには絶対に近づいちゃだめ。それはわたしたちの命を奪う危険な匂いだから」
「ぼく、お腹が空いちゃったよ」
 一匹の子イノシシが言った。その子に向かって母親は言った。
「よく聞きなさい。いい匂いのなかにも、ときどき危険が潜んでいる。そのことを学ばないと、坊やの可愛いお耳もお鼻も尻尾も切り取られて、熱いお鍋のなかでグツグツと煮られてしまうのよ」
「そんな怖い話、ぼく嫌いだよ」
「さあ、付いてきなさい。おかあさんと一緒なら何も怖いことはないから」
 (『なお、この星の上に』(14) )




 まず、〈語り手〉は、姿を現す母親のイノシシと三匹の子どものイノシシとを外側から語り描写する。次に、「違う。この匂いではない。」と〈語り手〉は、母親のイノシシの内側に入り同化する、そこから語り描写する。次には、母親のイノシシと子どものイノシシたちが人間の言葉でやり取りする。ここで、「坊やの可愛いお耳もお鼻も尻尾も切り取られて、熱いお鍋のなかでグツグツと煮られてしまうのよ」という言葉は、イノシシが言葉を語るものだと見なしたとしてもイノシシの言葉ではない。つまり、イノシシが人間に狩られて解体処理され、人間に食べられるということは、イノシシが知りようがない世界である。そういう意味で、この部分の表現は、人間世界で子どもに対して言い聞かせるような方便が、ただ動物の世界にもスライドされただけだという通俗的な表現になっている。

 さて、この作品は現在のところ、人は動植物の言葉はわからないけれど、動植物たちは人間の言葉のようなものを語っている。そんな童話的な表現をこの作品の世界に引き入れる必然性はどこにあるのだろう。『なお、この星の上に』(18)まで読みたどってきた限りでは、そのような童話的な表現の必然性は感じられない。健太郎は鳥の言葉を理解しないのだから太古の名残のような人と自然物との交感ということでもなさそうだ。だから、その童話的な表現は、作品を空想性や通俗性の方に引き寄せてしまうのではないかと思われる。

 もし、そのように見なさないとすれば、どのような捉え方が可能であろうか。それは作者がこの作品に込めたモチーフに関わることである。つまり、作者が無自覚に童話的な表現を作品に引き入れたとは思えない。それに触れる前に、この作品には、作者の抱く独特の思想やイメージが込められているように見える。その部分を取り出してみる。



 歩き疲れた四人は、日の当たる暖かい草原に仰向けに横たわった。空にはやわらかな光が溢れている。風が顔の上を吹き渡っていく。目を閉じていると眠気に誘われそうになる。ここは穏やかさと安らぎに満ちた光の王国だ。生命を脅かすものは何一つない。健太郎はゆっくりと息を吸い、息を吐いた。呼吸に合わせて、太陽の熱に温められた身体が少しずつ膨らんでいく気がする。そして草原のいっぱいに広がっていく。
 自分が大人になったときのことを想像してみた。まだ何十年も先のことだ。そのころには、今日が遠い昔になって、多くのことが忘れ去られているだろう。ある一日、彼はこの草原にやって来る。そして同じ場所に寝転ぶ。すると何もかもが同じ姿で甦ってくる。この草の上に寝転んで目を閉じれば、いまの自分たちの姿を目に見ることができるだろう。太陽の日差しの暖かさや、鼻先をかすめていく風の匂いを感じることができるだろう。何も失われない。すべてはこの場所、この土地とともにありつづける。
 (『なお、この星の上に』(6) )



 父と山へ登る日が楽しみだった。まだ頂上へは行ったことがない。山の神の祠から先へは、子どもたちは立ち入ることを禁じられていた。その聖域に、はじめて足を踏み入れる。何が待っているだろう。どんなものに出会うだろう。頂上にある権現滝は、どんな姿をしているだろう。思いを巡らせているうちに、健太郎は不思議な感覚にとらわれた。自分のなかにたくさんのものがいるような気がした。どれが本当の自分かわからない。どれもが本当の自分だった。やがて一つが、彼の身体を抜け出していく。一つ、さらに一つ、また一つと……。
 そうして彼は大空を舞うイヌワシだった。日差しを求めて、競い合うように枝を伸ばす森の植物だった。梢のあいだを飛びまわる小鳥だった。大地を駆け抜ける犬だった。すべての生命が彼のなかにあった。すべてのものたちが深いところで結びつき、つながり合っていた。

 (『なお、この星の上に』(9) )


 「おばあちゃんは死んだらどこへ行くんけ」遠い記憶のなかで幼い子がたずねていた。 「ずうっと見守っておるよ」やはり遠い声が答える。「なんの心配もいらんよ」
 いま自分のいる場所が定かではなくなっている。あたりには人の気配がなく、先ほどまで聞こえていた同級生たちの声も遠くなっている。ここはどこだろう。現実の世界のなかに忍び込んだ、もう一つ空間にとらわれている気がした。やけにうるさく鳥が鳴いている。人間の知らない言葉で、何事か言い交わしているらしい。


 たしかに今日の自分はおかしい、と彼は思った。いつからおかしくなったのか、その境目がはっきりしなかった。ここに来て草の上に横たわったときからか、小鳥たちの奇妙な言葉が耳について離れなくなったときからか、それとも匂いに感覚が研ぎ澄まされていったときからか……。無力感をおぼえるようにして、健太郎は傍らに横たわる清美
(註.)を見た。顔に当たっている光は、彼女の内部より現れ、宇宙へ解き放たれているように見えた。これはいったいなんだろう。このキラキラと輝くものは。清美の顔や身体全体から放たれ出ているもの。それは彼のなかにもあった。清美から放たれ出たものが身体を通過し、自分のなかにある同じものとぶつかり、混ざり合い、共振し、落ち着かない気分にするのだった。これまで気がつかなかった。こんな輝かしいものが自分のなかにあることに。それは彼のなかにありながら、彼のものではなかった。
 健太郎は喘ぐようにして考えつづけた。先ほど口いっぱいに詰め込みたいと思ったものが、いまは彼の身体のなかにあった。胃袋の粘膜にこびりつき、悶々として光彩を放っていた。暗い臓腑の奥深くで、鈍く光っている。胃の腑にあり、五臓すべてにある。この卑俗な欲望は、卑俗であるがままに清浄だった。暗く窮屈なところに押し込められていながら、縹渺として自在だった。これは本当に自分だろうか。この身に起こっていることなのだろうか。極彩色に輝きながら、彼のなかに潮のように満ちてきたもの。それは生物であること、一個の欲望する生命であること、そのものだった。彼は自分がここに在ることに、目の眩むような慄きをおぼえた。
 (『なお、この星の上に』(16) )


註.
清美は同じ中学に通う少女で、仲間の豊が思いを寄せているらしいが、健太郎は小さい頃から清美を見知っているけど異性という意識は持ったことがなかったとある。(「(3)」) しかし、「これまでは見向きもしなかったものを、誰かが欲しがっていると知った途端に自分も欲しくなる。たしかにそういうことはある。つまり(引用者註.転校生の)内藤は、期せずして清美に新しい光を当てたのだ。この狭い共同体の外から、別の視線を持ち込んだ。異質な光や視線に触発されて、幼いころから清美という少女を見てきた者たちが動揺している。いまの自分はそういう状態なのだ、と健太郎は思った。」(「(18)」)というように、健太郎の心も動揺し変貌していく。


 遠足の日のことを、健太郎は思い出した。草の上に寝転んで目を閉じていたとき、ふと何か気配を感じて目をあけた。自分を見つめている眼差しと出会った。その眼差しは、彼がよく知っているものでありながら、まったく知らない少女のものだった。いった何が起こったのだろう。何が起ころうとしていたのだろう。あたかも外国の珍しい音楽と出会ったようなものだった。まるで耳にしたこともない未知の音楽。出会いは驚きであるとともに、どこか懐かしくもあった。長いあいだ忘れていた友だちと、ひさかたぶりに顔を合わせたような、そんな驚きでもあった。
 とても小さな音で、静かに流れていたのかもしれない。ずっと絶えることなく、流れつづけていたのかもしれない。いつも聞こえていたはずなのに、気がつかなかった。それが何かのきっかけで、突然聞こえはじめる。あのときがそうだった。いまも聞こえている。たとえ耳を塞いでも閉め出すことはできない。その美しい音楽は、遥か彼方の宇宙の果てを流れているようであり、また彼自身のなかを流れているようでもあった。 
 (『なお、この星の上に』(18) )

 
 
 たくさん引用したけど、作者の抱いている独特な、思想的なもの、概念のようなもの、あるイメージのようなもの、そこから下って来たと思われる言葉が、それらの描写の中には表現されている。特に、わたしがゴチックにした部分がその中枢的な言葉に当たっている。すべてに共通しているのは、わたしたちの普通の対象把握や対象理解とは違っているのではないかということである。

 例えば、引用1つ目の健太郎の内面の思いは、おそらく作者の思いが重ねられているように見える。わたしたちが過去を振り返る時、、「何もかもが同じ姿で甦ってくる」ことはないと思う。わたしたちの現在の選択や脚色を知らぬ間に受けて過去は浮かび上がるのではないだろうか。同様に、作者がおそらく自伝的なものも織り込んだ遠い過去を舞台とするこの作品を書くモチーフも作者の現在に属している。そうして、モチーフの現在から出立し、作品世界を造型し、また現在に戻ってくる。

 清美に対する健太郎の心の描写に関しても、通俗的には、つまり普通大多数の人々が感じ捉える場合という意味では、清美に対する健太郎の内面は他者(一般的には異性)に向かい、受け取る、思春期特有の心の揺動である。しかし、作者は、そのようには見なしたがっていないように見える。あるいは、わたしたち読者には未だ明確の像としては浮上してきていないように見えるけれど、作者は一般理解を受け入れたとしてもそこからさらに違った地平での把握がより〈真〉に近いのだと言いたがっているように見える。

 これらの引用前の、作者がこの作品に込めたモチーフに関わることに戻る。動植物が人間の言葉を語り合うという表現は、普通の読者には通俗的な表現に見えて少し真実味を減殺するように感じられるが、作者の意識的な表現であると見なせば、今までにないような、作者の抱いている独特な、思想的なもの、概念のようなもの、あるイメージのようなものから下ってくる言葉の表現ということと対応しているように思われる。つまり、表現の型として志向する喩ということにおいて同一ではないかと見なすほかないように思う。



 ※ 『なお、この星の上に』という作品は、「片山恭一公式サイト」に無料公開されている継続中の作品で、2016年10月8日で18回目。読ませてもらっている返礼も兼ねて論じてみました。

 ※ 以下の小論は、一つながりになっています。
・「童話的表現の意味」
・「語り手について」
・「作品から ― 片山恭一『なお、この星の上に』」


童話的表現の意味

2016年10月07日 | 批評

 裁判に一郎の出席を要請する、山猫からの「おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。」その翌朝の描写。


 けれども、一郎が眼をさましたときは、もうすっかり明るくなっていました。おもてにでてみると、まわりの山は、みんなたったいまできたばかりのようにうるうるもりあがって、まっ青なそらのしたにならんでいました。一郎はいそいでごはんをたべて、ひとり谷川に沿ったこみちを、かみの方へのぼって行きました。
 すきとおった風がざあっと吹ふくと、栗の木はばらばらと実をおとしました。一郎は栗の木をみあげて、
「栗の木、栗の木、やまねこがここを通らなかったかい。」とききました。栗の木はちょっとしずかになって、
「やまねこなら、けさはやく、馬車でひがしの方へ飛んで行きましたよ。」と答えました。
「東ならぼくのいく方だねえ、おかしいな、とにかくもっといってみよう。栗の木ありがとう。」
 栗の木はだまってまた実をばらばらとおとしました。
 一郎がすこし行きますと、そこはもう笛ふきの滝でした。笛ふきの滝というのは、まっ白な岩の崖がけのなかほどに、小さな穴があいていて、そこから水が笛のように鳴って飛び出し、すぐ滝になって、ごうごう谷におちているのをいうのでした。
 一郎は滝に向いて叫さけびました。
「おいおい、笛ふき、やまねこがここを通らなかったかい。」
 滝がぴーぴー答えました。
「やまねこは、さっき、馬車で西の方へ飛んで行きましたよ。」
「おかしいな、西ならぼくのうちの方だ。けれども、まあも少し行ってみよう。ふえふき、ありがとう。」
 滝はまたもとのように笛を吹きつづけました。
 一郎がまたすこし行きますと、一本のぶなの木のしたに、たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこと、変な楽隊をやっていました。
 一郎はからだをかがめて、
「おい、きのこ、やまねこが、ここを通らなかったかい。」
とききました。するときのこは
「やまねこなら、けさはやく、馬車で南の方へ飛んで行きましたよ。」とこたえました。一郎は首をひねりました。
「みなみならあっちの山のなかだ。おかしいな。まあもすこし行ってみよう。きのこ、ありがとう。」
 きのこはみんないそがしそうに、どってこどってこと、あのへんな楽隊をつづけました。
 (『どんぐりと山猫』宮沢賢治 青空文庫より)



 一郎が、山猫に呼ばれて裁判の場所に出かける途中の描写である。一郎は、「栗の木」や「滝」「きのこ」と言葉を交わしている。さらにこれ以降の描写で、一郎はリスや山猫とも言葉を交わし、また、裁判の当事者であるどんぐり達も言葉を語っている。言わば、動植物を含むあらゆる自然物が一郎と言葉が交わせるのが当然のように自然に描写されている。

 わたしが小学校の低学年だった頃のことだと思う。学校の図書館の授業で幻灯機(とまだ呼ばれていたような記憶がある。映写機のこと。)から鍋に大根や人参などの野菜が入っている場面がスクリーンに映し出されていた。そして、その野菜たちが言葉で何か語り合っていた。わたしは別に不自然な気持にはならなかったような記憶がある。つまり、自然物が言葉を交わし合うのを割と自然なものとして受け入れていたような記憶がある。

 サンタクロースの存在を信じるというか、自然なものとして受け入れることができるという、子どもの年齢がどの位までかはわたしにはよくわからない。けれど、ある年齢になってある帯域を踏み越えると、今までの風景の感じや匂いや対象への感覚などが知らぬ間に変貌しているのだろう。そして、新たな帯域の風景に対する感受や対象への感覚などへと割とシームレスに推移していくのだろう。おそらくわたしたちは誰でもこのシームレスな帯域間の変位を経験しているはずだ。そして新たな帯域への変位を遂げてしまったら、「幼児期健忘」―これは一般に3歳以前の記憶に関して言われることだが―のように以前の世界の感受を忘れてしまうのだろう。

 ここで、フロイト―吉本さんの、人の生涯の歴史と人類の歴史とを対応していると見なす考え方(註.『母型論』の「序」P7)によれば、宮沢賢治の童話が描写するような人が自然物と言葉を交わし合うことができるのは、新たな帯域への変位を遂げる以前の世界の人(子ども)の表現に対応している。また、人類史の方に対応させれば、まだ自然にまみれて生きていたであろう〈アフリカ的〉な未開の段階の人間的な表現に対応していると言えるだろう。童話は近代になっていろいろな民話や説話から分離されて子どもを対象に生み出されたもので、編集者や作者がいて、主な読者を子どもとしている。しかし、そのような意図を超えたところで童話という形式を考えてみれば、そのように見なすほかないだろうと思う。

 したがって、この宮沢賢治の童話作品を新たな帯域への変位を遂げる以前の世界の人(子ども)が読んだ、あるいは親から語り聞かせてもらったとして、彼と変位以後の帯域に生きる者が読んだ場合とでは、なかなかその世界の異質さを具体的に抽出することは難しいだろうが、感受の一般性において世界は異質なものとして感じられているだろう。したがって、わたしたち大人が、宮沢賢治の童話作品に限らず童話の作品世界に入り込んでいく時、前者の子どもの入り込む自然さとは違って、童話はどこか特別なもてなしや表現を施されたものだというような構え(自覚)が無意識的にもあるような気がする。わたしたちは誰でも、前者の子どものような時代を生き、独特の風景や対象把握をしていたに違いないけれど、遙かに通り過ぎてしまった今では、それがどのような世界だったかを具体的な手触り感と共にもはや再現することはできない。

 しかし、童話の世界は、作者が作品に込めたモチーフや意図とは別に、童話という形式の根源のような場所で、旧帯域の子どもの世界や〈アフリカ的〉な未開の段階の人間的な世界に接地しているのだろうと思われる。

 したがって、人間界における人と人との関わり合う世界が主な舞台になってしまった現在の物語作品が、作品の主舞台を童話という形式に取ってしまうことなく、童話的な表現を部分的に選択し取り入れる場合はどう理解したら良いのだろうか。モチーフの積極性として考えられることは、いわばサンタクロースの不在がすでに無意識になっている読者が白けるかもしれないということを覚悟の上でそれをやるということは、人と自然や人と人とが関わり合う物語の舞台に今までにない何らかの深みある世界を浮上させたいという作者の欲求の表現ということになるだろうか。


新たな段階の徴候―システム化された農業工場

2016年09月20日 | 批評

 2016年9月15日のNHK Eテレ、スーパープレゼンテーション「次世代のデジタル農業」(ケイレブ・ハーパー)という番組を観た。これはアメリカのMITメディアラボ内での農業プロジェクトだった。また、先日は、ある番組内で、大分のパプリカ栽培工場の紹介の場面も観た。それは壮大な規模のハウス内でのパプリカ栽培だった。いずれもセンサーを様々な個所に取り付け、作物にとって最良の環境になるようにコンピュータによる探知・制御・管理をして育てるものである。おそらく経験を積み重ねて作物の成育にとって光や水や肥料などの最適な環境を整えるのだと思う。

 天候になどに大きく左右される、つまり不安定要因を持つ従来の農業にとって、ハウス栽培農業は、例えばスーパーに年中キュウリがあるようになった状況と対応した新たな飛躍した農業として今では定着しているのではないかと思う。もちろん、ハウス栽培農業はキュウリが一年に何度か収穫できるとしても従来の農業よりも経営規模は大きくなり、諸経費も大きくかかるのかもしれない。

 ネットで熊本県菊陽町のにんじん栽培の様子を動画で見た。にんじんは年に二回、冬ニンジンと春ニンジンが栽培されていた。動画に写っていたが、たぶん寒い時期はトンネル式のハウス栽培のようだ。苗の間引きは手作業で大変そうだったが、収穫は機械で行われていた。年中にんじんやキュウリなどがスーパーに出ているのは、わたしの推測に過ぎないがハウス栽培や冷蔵保存技術の進化などのおかげかもしれない。たぶん、いろんな技術がリンクし合ったり、メロンやキャベツなど列島の東西での収穫時期の少しのずれと流通が結びついたりして、年中見かけたり、以前よりも長くスーパーで見かけるようになっているのかもしれない。少しずついろんなことが変貌してきていて、わたしたちは日々の生活の中でその恩恵を受けている。

 しかし、植物工場のようなシステム化された農業は、ハウス栽培の農業がその小さなきっかけを与えたのだとしても、ハウス栽培農業をも従来の農業と括れるほどの、その従来の農業を超えたさらに大きな次元の繰り上がった飛躍に見える。植物工場のようなシステム化された農業においてくり返される経験の蓄積によって、人間は自然の更なる深層と出会うことになると思う。つまり、より一層すぐれた作物を安定的に栽培し供給できるようになるだろう。

 その場合、西欧近代のように人間は自然を思い通りに制御・加工するんだという横着な自然観(それは、わたしたちの現在が、大自然の引き起こす災害に成す術なしという面を相変わらず持っているとしても、人間はある程度の自然に対する独立性を手にしているという反映でもあるが)の延長ではどこまで行けるか頼りない気がする。たぶん、今はまだはっきりとは見えてこないだろうが、新たな自然哲学(人間と自然との関わり合いに対する考え方)が必要とされるようになるだろうと思う。つまり、わたしたちは現在新たな社会の段階のいろんな徴候と出会っていることになる。これもそのひとつである。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)


言葉の現在―桶谷秀昭(2008.5)・過去の文章より

2016年09月16日 | 批評


※現在の時代の空気や、古くさいイデオロギー花盛りの思想なき思想の状況に差し出す気持で、ここに再掲載します。     (2016.9.16)

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  桶谷秀昭は、三十年くらい前わたしが追っかけていた批評家である。昨年だったか憲法改正の論議が取りざたされている頃、本屋で偶然雑誌に載っている桶谷秀昭の憲法論議の文章に出会った。立ち読みの流し読みだったが、旧かなづかいの読みづらい文章であり、何を言おうとしているのかはっきりしない一種異様な印象を持った。そして今、『昭和精神史』と『昭和精神史 戦後編』を読み終えた。過去の返礼を込めて取り上げてみたい。 それらの著作に流れている主調音は、〈戦争〉と〈敗戦〉である。

 桶谷の現在は、次の表現で象徴させることができる。


 概念の操作とか、方法論といふものに腐心する学者とか研究者といはれる人たちの抱く学問の像を、私は好まない。整合性とか体系ばかりを気にする態度にもなじまない。直感を尊重しない実証研究や、文体に鈍感な学術論文を読む気がしない。印象批評などといつて、印象といふものが一等いきいきとした認識の初原の姿であり、印象批評が書けるのは第一級の批評家であることを知らない自称学者、研究者とはつきあひたくない。重箱の隅をほじくって差異を言ひ立てる、けちな根性のみえ透く研究を、うるさく感じる。それから・・・・・。
 (『人間を磨く』「文士と大学」P10 桶谷秀昭 新潮新書 2007年)



 かつて桶谷は、自らの戦争体験にこだわりながら、戦争の過程で表現された日本的負性の解明に向けて、「概念の操作とか、方法論といふもの」を駆使して対象を真摯に追究しようとしていた。


 わたしには。日本の「ナショナリズム」は、社会科学や政治思想からは、どうしても解きがたい構造をもっている、とかんがえられる。それに肉薄する方法は、わたしたちめいめいの生を、論理化する以外にない、とおもわれる。
 なぜなら、「ナショナリズム」は、日本人の生活のベースと、思想のベースである心情の次元で、流動的、非固定的に、融着し合っているので、わたしたちが生きている事実と、おなじ確かさで、戦時戦後を通じて、かつては顕在的に、いまは潜在的あるいは浮遊的に生きているからだ。民族の問題は、日本の思想が自立しうるか、しえないかをためすリトマス試験紙である。
 「ナショナリズム」の問題を、生活のベースからくみ上げてゆくときに、それは、天皇制を支えた日本民衆の意識構造の問題として考えることができる。
  (増補版『土着と状況』「保田與重郎論」P75-P76 桶谷秀昭 国文社 1969年)

 戦争詩は、戦争詩であることによって批判されるべきではなく、国策イデオロギーに安直に乗って発想されているか、いないかによってまず批判されるべきである。ざんねんなことには、わたしたちは、現在まで、それ以上に根本的な獲得せねばならぬ批判の武器を手に入れていないのである。つまり、日本人の暗い生命の原理そのものへの根本的な、そして至難な批判は、現在までいくらもなされていないのである。
 伊東静雄の抒情詩の変遷を、どうして「個性の宿命」に帰することができよう。そのような宿命観に抗うとすれば、わたしたちは不可避に、日本人の生命の原理そのものへ立ちむかわざるをえないのである。
  (『同上』「伊東静雄論」P111-P112 )



 桶谷は、「それに私の意図は今日の時点の高みから当時をふりかへることでなく、まづ当時の再現をこころみることにある」(『昭和精神史』P401-P402)と述べているが、その再現に伴い流れる思想の情感や旧かなづかいの選択などが、桶谷の思想の現在を語っている。いわば桶谷自身が批判的対象とした世界に、没入してしまったようなイメージを得る。 『昭和精神史』と『昭和精神史 戦後編』は、桶谷の遺書のようなものではないか。読み進みながらそんな思いを持った。


 米軍は、台南からルソン島南部まで約五百浬の長距離渡洋爆撃が、日本空軍に可能であることを予想してゐなかつた。てつきりフィリピン海域に現れた日本機動部隊から飛んで来たものと信じた。
 ほつそりした、ひよわな感じさへする美しい姿の、単座零式戦闘機が、驚くべき長距離航続力をもつてゐることが、それまで知られてゐなかつた。のみならず、空中戦において卓抜な格闘性能をもち、剛直、獰猛な姿態米軍戦闘機を木の葉のやうに叩き落した。
 (『昭和精神史』「第十五章 南溟の果て」P474-P475 桶谷秀昭 文春文庫 1996年)

 総じて性能は零戦がまさる。が、その軽やかな機体は防弾設備の薄弱を代償としてをり、またその驚くべき航続距離は、ガダルカナル戦において、往復七時間余の飛行時間に加へて、激烈な空中戦をおこなはなければならないパイロットの精神と肉体に激しい負担を強ひるものであつた。
 零戦といふ美しい戦闘機が暗示するものは、国力の貧しさを質によつて克服しようとする考へ方と、戦場において生命を鴻毛の軽きに見做す日本軍の伝統思想とが結びついて生んだ、かなしいまでの独創といへる。
 それにくらべて、グラマンのずんぐりした姿と機体の重さは、周到な防弾防火設備によるもので、物量生産のゆたさを背景にした人命重視の思想の反映である。
     (『同上』P478-P479)



 この描写は、「ハワイ真珠湾の奇襲にはじまる緒戦五か月のあひだに、日本陸海軍は、北はアリュウシャン、南はフィリピン、マレエ半島、ビルマ、蘭印諸島を含む太平洋上に雄大な作戦を展開し、海に陸に米英蘭濠連合軍を破つた。」という流れの中にある。桶谷は敗戦時13歳くらいで、いろんな戦記や資料や聞き取りからイメージされている描写であろうが、まるで我が事のように生き生きと表現されている。
 飛行機を含めて、どんな物にもそれを生み出した文明の思想が意識的・無意識的に込められている。現在のわたしからすれば、「人命重視の思想の反映」であるグラマンの構造の方が「防弾設備の薄弱」な零戦よりも設計思想として高度であると見なせるなという思いが起こるくらいだが、桶谷は零戦に搭乗して撃墜する戦闘員に同化するように描写している。

「戦場において生命を鴻毛の軽きに見做す日本軍の伝統思想」とあるが、これは軍隊に限らず、小集団や国家などの共同性の世界では、現在でも相変わらずお馴染みのものである。常に公的なものを私的なものの上位に置こうとする、アジア的な負性である。大衆の生活世界と公的な世界は、通常は無縁な世界のように見なされていても、いったん接続されると過激に同致してしまい、個の世界は沈黙を余儀なくされる。たぶんこれは現在の小社会でも十分ありうることだ。

 特攻隊の一兵士の死も、たぶん桶谷は嫌悪するかもしれないが、現在のさまざまな事件における死も、その個の置かれた場面や位相が違っていても、等価なものとして、ある深い痛ましさとして感受しその世界を開こうとすることが思想の原則であると思う。わたしたちは絶えずこの世界の渦中から、おまえの思想の根源は何かと問われているはずだ。


 『擬制の終焉』は、自分の行動、動機についてほとんど何も語らないが、次のやうな概括的叙述が、かへつてその動機をよく語ってゐるやうに思はれる。

  戦後一五年は、たしかにブルジョア民主を大衆のなかに成熟させる過程であった。敗 戦の闇市的混乱と自然権的廃墟のなかから、全体社会よりも部分社会の利害を重しとし 、部分社会よりも「私」的利害の方を重しとする意識は必然的に根づいていった。こと に、戦前・戦中の思想的体験から自由であった戦後世代において、この過程は戦後資本 主義の成熟と見あって肉化される基盤をもった。丸山〔眞男〕はこの私的利害を優先す る意識を、政治的無関心派として否定的評価をあたえているが、じつはまったく逆であ り、これが戦後「民主」(ブルジョア民主)の基底をなしているのである。この基底に良 き徴候をみとめるほかに、大戦争後の日本の社会にみとめるべき進歩は存在しない。こ こでは、組織にたいする物神感覚もなければ、国家権力にたいする集中意識もない。    (以下の引用部分、略)

 吉本隆明氏の考へ方で目立つのは、ありとあらゆるイデオロオグにたいする激しい不信感である。吉本隆明氏の眼からみるならば、竹内好も谷川雁も埴谷雄高もみな、あやしげなイデオロオグの翳を曳いてゐると映つてゐるであらう。それらのイデオロオグの対極に「私的利害を優先する意識」の持主としての庶民生活者の原像があり、彼らが戦後社会を支へてゐる基底であると考へてゐる。この考へ方は、吉本隆明氏の戦争体験から生まれてゐる。
     (『昭和精神史 戦後編』P400-P401 桶谷秀昭 文春文庫 2003年)

 ところで、大衆生活者の実存といふイメエジは、それが「私的利害優先」の意識と、「拡大膨脹した独占秩序からの疎外態」のみにあるならば、それは戦後の大衆的動向として瀰漫した欲望自然主義と区別つけがたい不定型なものである。このことに着目するならば、「独占秩序」から疎外されてゐるのも、それを支へてゐるのも、「私的利害優先」の意識に生きてゐる大衆生活者にほかならない。このことに吉本隆明氏はあまり思ひわづらふことはなかつたやうにみえる。そこに「良き徴候」をのみみとめることに急であるやうにみえる。      
 大衆的生活者のひとりひとりが、意識的、無意識的に曳きずつてゐる日本生活の過去の翳を、吉本隆明氏は谷川雁や竹内好にくらべて、軽視してゐるやうにみえる。
     (『同上』P401-P402)


 たぶん桶谷は、「戦後一五年は、たしかにブルジョア民主を大衆のなかに成熟させる過程であった。」ということに、占領国アメリカがもたらした文明概念を生活レベルで黙々と受け入れていった大衆への異和感を「瀰漫した欲望自然主義」と述べている。そして「大衆的生活者のひとりひとりが、意識的、無意識的に曳きずつてゐる日本生活の過去の翳」つまり、癒しがたい戦争と敗戦の傷、世界への憎悪と言えるまでの世界にしずかに降りていく。けれど「瀰漫した欲望自然主義」というのは、敗戦によって国家というものから切れた大衆の日常世界の表情であるにすぎない。その切れているということをどのように肯定的にとらえるかに、桶谷同様、言葉に尽くせぬ戦争体験を潜ってきた吉本隆明の主眼があるのに対して、桶谷の言葉は個も家族も国家も直線的に接続された情感の世界に憤怒を秘めて帰っていく。


 安藤輝三の民衆にたいする不信の念は、社会への嫌悪から生まれてゐる。それは、人と人とが利において葛藤し、狡猾に妥協し、また裏切る姿が、粉飾なしに日常生活にあらはれるのが民衆の形態であることに由来してゐよう。この不信感は兵隊にたいする愛情と背中合はせであつた。(註.安藤輝三は二・二六事件の青年将校)
 (『昭和精神史』P282)

 『寺じまの記』(註.永井荷風の随筆)によれば、玉の井の売春婦は、現代の大衆的婦人のさまざまな容貌を集めてゐるが、みなその表情は「朴訥穏和」であつて、運命と境遇に甘んじてゐるやうにみえ、百貨店で呉服物の安売りに鋭い目付きを注ぐ陰険で神経質な家庭の主婦の顔はみあたらない。
 (『同上』P385)



 わたしが桶谷の過去の著作と出会った後、桶谷がどういう戦後の生活をその後たどってきたのか知らないが、これは桶谷の大衆への嫌悪を語っていないだろうか。ほんとうは過去の女性にも現在の女性にも「朴訥穏和」と「陰険」さを同時に見るべきではないか。桶谷は、アメリカ占領軍の関与した戦後秩序、そしてそれを受け入れていった戦後の大衆に背を向けるように、〈戦争〉と〈敗戦〉に、つまり自らが批判的に対していた、保田與重郎的な民族感情やその世界観の世界へ引き返していったのではないだろうか。

 その〈戦争〉は、民族国家にまで上りつめた国家同士が戦争という形式でしか互いに交通できなかった時代のものであり、しかも大衆を巻き込む総力戦の戦争という意味で、かつてない痛ましいものであった。けれど、戦後世界に生まれ育ったわたしには、その〈戦争〉は遠い世界である。ちょうど戦前に生まれ育った者に明治維新や江戸期が遠いように。また、欧米に対する敗北感も憤怒もほとんどない。けれど情緒的にはなんとなくわかるような世界でもある。なぜなら、公―私が分明でない世界が今でも存在するからである。〈戦争〉から遠く隔てられたわたしたちは、〈戦争〉という痛ましいおくりものを受け継ぐことができるだけだというより他ない。


 日本製品に押しまくられているヨーロッパのこと、日本企業の経営管理に興味が集中するのは当然で、日本通として知られるオランダ人講師が、1時間にわたって日本企業の経営管理の話をしたそうな。そのなかで「ある日本企業では従業員のモラール(勤労意欲)向上のため、毎朝全員で社歌を歌う」という実例報告は参加者を驚かせたという。
 これはヨーロッパのビジネスマンにとっては信じられない"別世界"の話。彼らにとって会社とは自分の能力を買ってくれるところであり、家族のために働きに行くところではあっても、「会社のために働く」という感覚は皆無なのだ。そのうえ個人主義のヨーロッパのこと、なぜ朝から団体行動をとるのか理解できないのは私にも想像できる。
 社歌斉唱の実例が披露されるやいなや、会場はザワザワしはじめたそうな。それでも日本で長年にわたり現実を見ている講師は、真面目に講演を続けようとした。
 すると、会場からヤジが飛んだ。
「冗談はやめろ!真面目にやれ!」
 (『一度も植民地になったことがない日本』デュラン・れい子講談社α新書 2007年)


 オランダ人の男性と結婚して、ヨーロッパ在住の女性の証言である。個人主義が徹底しているヨーロッパでもいろんな問題を抱えているだろう。そのことには余り触れてない。しかし、このような割り切り方はすっきりするものがある。日本では、なんとなく情緒的にわかり合うということがあり、その隙間にこの社歌にしろ選挙時の動員などにしろ立ち上ってくる。その渦中で、そんなのどうでもいいじゃないと苦い思いを抱いても抗いがたいふんい気というものがある。

 現在まで、保存されてきた古い自然感性や、個―家族―社会―国家の接続の方法は、ヨーロッパのそれがどのような参考になるのかわからないが、戦争を超えて、民族を超えて、桶谷の天を超えて、未だ国家というものが存在すらしなかった時代、そうしてそのような小社会に国家がかぶさっていった過程へと解体される以外にない。そうして、未だ童話的に語るほかないが、何がわたしたちの生の基底なのか、どういう生活の諸関係が理想的なのかは問われたほうがいい。桶谷のたどる「日本人の心の歴史」は、国家形成以降の先進中国の文物に圧倒され浸透された日本に収斂する。けれどそれは、たとえば宮沢賢治の描く銀河鉄道の終点ではない。途中下車である。

 国境を越えてグローバリズムが波及している現在、たとえば日本企業の現地での現地住民との齟齬や軋轢等の中にも、日本人の意識や行動の基盤が新たな形で問われているのかもしれない。もろちん、いろんな難しい問題が噴出しているわたしたちの社会においてもまた。

 戦後が抽出、分離した「私的利害の優先の意識」は、もっと固執すべき受け継ぐに値するものである。社会に現れる個のありように対して、社会や国家に同化した意識から、あるいは短絡する意識から嘆く論には事欠かないが、それは一面吉本さんが述べていた「時代病」と呼べる性格を持っている。それを読んだ時にはよくわからなかったが、この世界には個が具体的な場面で責任を負うべき領域と、個が具体的に責任を負えない領域がある。個が生きる過程で、戦後の社会を呼吸してきたわけであるが、その呼吸してきた中で半ば受け入れた社会的な意識や感性のありようやそれにともなう切迫感や擦り切れた情緒などの普遍性は、個の責任でどうにかなるというものではないように思える。それは時代の方へ未来へ向かって返していくしかない。

 言葉の現在は、現在の社会に流通する具体的な事象に対して、肯定と否定のいろんな表情を見せている。曰く、学力が落ちてる、そんなの関係ない、身体能力が落ちてる、原始時代から人間は落ちてきてるんだよ、ワープロ作文はよくない、便利がなぜいけない、などなど。わたしたちの日々生活している現場の、このようなささいにみえることがらは、けれどじっくり深く考えるに値するように思う。

 年季が入った桶谷秀昭の作品の読みは深く、その言葉はできるだけ自己欺瞞を排しようとする姿勢を持った言葉であるが、美質をも含んだ、個も家族も国家も融け合うアジア的な負性の世界に草莽の文士として歩み去ってゆくのをどうすることもできない。個の思想というものが避けがたく別れる地点である。
                                   (2008.5)


語りの文体―擬音語による表現の意味

2016年09月16日 | 批評


 あるとき階下で、「ああああ、ぎゃああああ」という叫び聲がして、次に私を呼ばう聲が響いた。急ぎ下りてみると大工さんが元・茶室の水屋のあった辺りにいて、ガス管、切っちゃった、と言ってへらへらしていた。私は慌ててU羅君に連絡取って、ガス屋さんに来て貰った。
 その様はちょっと見には有志連合軍の空爆を受けた家のようであったが、よく見ると、廃材とは別に釘や板材といった資材が整然と積んであり、また、道具や機械類が壁際に並んで、建設・創造の気配、息吹がかすかに感じられた。
 そして四日目あたりから、そのかすかな息吹がたしかなものになっていった。大工さんが、木材を切削し、壁や天井を貼るその下地を作り始めたのである。二階にいて聞こえる音も、それまでは、ギャーン、ドンガラガシャッン、ドガドガドガドカ、アギャギャギャギャッバーン、と濁点の多いものであったが、この頃より、トントントントン、パシャ、キリキリキリキリキリ、ポソン、キュー、コツコツ。と比較的穏やかなものとなっていた。
 (『リフォームの爆発』P171-P173 町田康 2016年)


 町田康の作品には、作者としては意欲作のつもりかもしれないが、ちょっと読むのに疲れた長編、『宿屋めぐり』のような作品もあるが、作品の主流はどこかこの国の語りの歴史を受け継ぎつつ、語り手がハチャメチャに踊り出すようなパンクロック調の文体にあると思う。これがわたしを含む町田康の作品の読者にウケているところではないかと思う。したがって、作品が虚構性を持つ物語的であるか事実に基づくエッセイ的であるかどうかとか、さらには表現される言葉が言語の規範に忠実であるかひどく規範を逸脱してるかなどは余り関係がなく、その語りの文体自体がある虚構性を帯びていて、読者に快をもたらすように見える。この作品もエッセイと物語の中間の作品である。しかし、わたし(たち)はそんなことにはあまり気にも留めずにその語りの文体を読み味わっている。わたし(たち)町田康の読者は、この文体のうねりや息遣いに出会うために作品に向かっているのだと思う。

 引用部の大工さんの叫び声や「ガス管、切っちゃった、と言ってへらへらしていた。」は、作者による誇張表現と思われる。現実には常識的に見てその大工さんは「私」にガスの元栓の場所を尋ねて元栓を閉めるなりの漏れるガスの応急処置に奔走するはずであるが、作者はそのことは描写しない。その場面の出来事は、作者の独特な語りの文体の方へ簡潔に切り整えられたり、「へらへらして」のようにその場面から一部が選択され変成されたりしている。こうした流れに沿って作者の派遣した語り手は語っていく。わたしたち読者は、場面の出来事というよりも、そんな場面を眺め語る作者の世界に対する〈歌〉とも言うべきパンクロック調の文体のうねりや肌感覚に出会うために作品に向かうのである。

 ここで引用部の表現の特色について少し触れてみる。
 二段目の「ちょっと見」から「よく見ると」への移行には、わたしたちの対象とする場面への一般的な視線の向け方、イメージ把握の仕方が出ている。つまり、最初は場面の全体を大雑把に捉え、次に細部にまで視線を届かせることによって、最初獲得したイメージや印象を修正したり、強化したりする。ここでは、いつもは二階で仕事している「私」は大工さんに呼ばれて階下に下り現場を見ているから、リフォームの現場の破壊と建設・創造の気配が視覚的な把握で捉えられている。

 三段目では、そのリフォームの現場の様子が聴覚的な表現で的確に、しかもパンクロック調の文体という作者の固有の表現で成されている。リフォームの現場の日々の進行具合を擬音語の対比的な表現によって示したうまい表現であると思う。この擬音語を用いた表現にはたぶん誰もが納得するだろう。この場面での聴覚的な表現の必然性は、「私」の仕事場が二階にあってそこから階下のリフォームの現場の様子を聞こえてくる音から感じ取っているからである。擬音語を用いた表現はリフォーム工事の何日かにわたる推移の表現だから、大工さんたちが仕事を終えて帰った後、もちろん、「私」が階下に下りてリフォームの現場の様子を見渡したこともあるだろし、そのことがリフォーム工事の現場の様子把握として「私」のどこかに仕舞い込まれているとしても、ここでは二階に聞こえてくるリフォームの現場の工事の音から工事の推移を把握した表現になっている。

 ところで、この擬音語の対比的な表現は、たぶん誰もが納得するだろうという普遍性において、ある種の普遍の表現になっている。それをうまく指し示すことは難しいが、おそらく言葉以前の領域における表現やコミュニケーションに棹さしているように思う。つまり、人類の歴史で言えば、遙かな太古の、言葉がまだ指示性を十分に獲得できなかった段階の名残であり、言い換えれば、人間の内臓感覚中心の表現の段階に対応する言葉のようなものである。

 このことを作者の方に返してみる。町田康の優れた長編作品『告白』の主人公は、わたしの薄らいだ記憶に拠れば、ある村の出自であったが、解消しがたい他人への異和を抱え、農作業を試みたりもしたけれど、その村に自分の居場所を築くことはできなかった。ヤクザのような生活をして、最後は破滅する。作者町田康の場合は、その主人公のようなヤクザなところや破滅的なところは前面に出ていないとしても、普通の生活者の世界から少し落ち込んだ場所に生存の位相があるのは共通している。

 作者の場合、その普通の生活者の世界から少し落ち込んだ場所に生存の位相があり、普通の生活者の世界と作者の世界の間には溝があることが意識されている。その溝という位相差(断層)からの、あるいは、その断層を埋めようとする欲求からの表現として、パンクロック調の語りの文体が行使されているように見える。特に擬音語の表現は、そういう自分の断層の起源の方に向けて、あるいは、起源の方からの無意識的な欲求として、駆動されているように思う。


「茶だし」の問題―作者の生活世界の慣習に対する位置

2016年09月14日 | 批評

 町田康の『リフォームの爆発』という作品を読みながら、わたしがふと立ち止まったところを引用して、考えてみる。


 そしてそう、四日目くらいからリフォームをする際、その本質とはまったく関係がないのにもかかわらず、私を深刻に悩ませる事態が起きた。なにか。茶出し、の問題である。 職人だちは十時と三時に短い休息をとる。そして、十二時から一時までは長い休息をとる。この間に茶菓を出すのは依頼者の義務ではない、義務ではないが、出さないと、「なんだ。ここの家は」みたいな、まるで非常識で頭おかしい、男なのに平日はブラジャーをつけ休日はキャミソールを着ている変態、みたいに思われる可能性が大なのである。
 もちろん、そんなものは都市伝説であり気にする必要はない、と断言する人もある。けれどもそう断言するためには、心付けの習慣のある国に行って心付けを渡さないで恬としている程度の胆力が必要であり、私にはそんな胆力はないので、茶菓はこれをお出しする、と工事前から決めていた。
 そこで朝、うぇっす、と不分明な挨拶をして職人だちが現れるや、素早くその人数を確認、素早く茶菓を用意し、十時になるやいなや、これを盆に載せ、玄関脇の元アトリエ・現駐車場のところで胡座をかいて喫煙したり、混凝土の上に寝そべっている職人のところへ行き、「あのう、よかったらこれを召し上がってください」と言挙げし、そっと置く、ということをした。
 (『リフォームの爆発』P172-P173 町田康 2016年)



 まず、作品世界は、作者が語り手や登場人物たちを物語の世界に派遣して、織り上げていく。この場合、作品世界の全てが作者のものではない。もちろん、登場人物を選んだりその語る言葉を書き留めるのは作者に間違いないけれども、よく作家たちが語るように登場人物たちが作者にこうしろああしろと要求する。つまり、これは物語の場面が現実性(真実味)を持つように作者の意図を超えて要請してくる、作者にそのように書き留めるように強いてくるものであるようだ。言いかえれば、作品世界は、作者の方に照明を当てれば作者が主体となって人物やその言動や場面を選択したり構成したりしているように見えるかもしれないが、実情としては、作者によって幻想の物語世界に派遣された語り手や登場人物たちが、流行や風俗や人間同士の関わり合い方など現在のあらゆる「マスイメージ」を呼吸しながら自立的に登場し、行動する。作者はその舞台の後景にいて、しかし一応の主体として物語世界を物質的に織り上げていく、すなわち、物語世界を書き記していく。一方で、作者は、語り手や登場人物たちに対する異和や親和や中性の意識や感情を通して、つまり、作品世界そのものを表現として差し出すことによって、現実社会の織り上げるイメージや秩序意識への批評性を込める。さらに、それがどんなに見つけにくいものだとしても、作品には作者の無意識も刻まれているはずである。作品世界そのものに対しては後景にいる作者であるが、作者の作品世界への意識的な関与と無意識的な関与とが織り成されることによって、作者によって作られたものという作品の固有性というものが表現されるのだと思う。

 こうした事情によって、作品とは、作者(たち)とわたしたちが生きている現在との合作と見た方が正確で実情に即していると言えるかもしれない。これは、物語作品に限らず、あらゆる芸術作品について言えることである。

 ところで、この引用の場面では、語り手である「私」は「茶出し」という生活世界での慣習の問題に触れている。これは作者の自宅のリフォーム体験という素材を実際に物語の場面として構成していく過程が、作者に要請したものである。もちろん、職人さんと依頼主との間の関わり方として生き残ってきている「茶出し」という慣習に、作者として絶対に触れなくてはならないということはない。語り手の「私」を通して語られているが、これは作者がその慣習を選択し、それを受け入れようとしたと見てまちがいないと思う。つまり、ここには作者の日常の生活世界に対する関わり方の意識の有り様が込められていることになる。

 「茶出し」の話題が、町田康作品の読者にはおそらく親しく馴染みのある文体で織り上げられている。今では表現世界での社会的な破壊力は余りないかもしれないが、パンクロック調の文体で語られている。これは、人と人とが関わり合う日常の生活圏への作者の近づき方や入り方の文体である。ただ、パンクロック調の文体と言っても、「私」すなわち作者もそうであるが、生活世界から一歩退いた場所にいる。したがって、少し低姿勢で恥じらいがちなのを紛らわすような文体になっていて、そのことが文章の無意識的な柔らかな流れにつながっているように思われる。

 ここでは、深入りする余裕はないけれども、この「茶出し」の問題は、おそらくわが国で貨幣経済に組み込まれる以前の労働の有り様から来ている慣習と思う。しかもそれは、農村の外からある技術を携えて訪れて来る人々との関わり合いから生まれた慣習ではなく、農村の集落内での共同労働(協同労働)から来たものだと想像する。私が小さい頃だった今から半世紀くらい前は、ワラ屋根がまだ多く、私の家もワラ屋根だった。そのワラの吹き替えの現場を目撃したことがある。わたしは小さいから下から何人もの人々が吹き替え仕事をするのを見ているだけだったと思う。この仕事に関わっている人々が、どういう人の構成だったかはよくわからないが、こういう場面では家の当事者(女性)はこれもまた他からの協力を得て、親戚から手伝いに来た人々や加わっている職人的な人や近隣の人々に食事などの「もてなし」をしなくてはならなかったろう。したがって、家には何セットかの各人用のお膳や食器類があった。都会は分からないが、たぶんどこの家庭にも一般的にはあったのだろう。

 今から半世紀くらい前は、まだ結婚式も葬式も法事も家から外に出てしまっていなかった。今ではそれぞれの業者の手に移ってしまっていて、例えば、葬式は町内の班などが担当したりする大忙しの共同行事ではなくなっている。地域社会のそうしたつながりは、そうした行事の受け皿となる冠婚葬祭の産業が生まれて結びをほどかれていき、次第に関わり合いの少ない近隣関係や親戚関係になってきた。この変貌は、一方では、一日や二日かかったりするきつい共同の仕事からの解放であり、核家族中心の生活時間の獲得であるが、もう一方では、割とのんびりした生活時間の流れから、経済社会のあくせくした生活時間への変貌でもあった。たぶん、高度経済成長の時期がそんな変貌を促した。

 しかし、この引用した場面で「私」が少し戸惑っているように、現在でも「茶出し」の慣習が曖昧な形で残っている。わたしも家を建てる時の「茶出し」を経験したことがある。この「茶出し」の慣習が曖昧な形で残っているということは、この経済社会が合理性や効率中心の欧米化を完全に遂げていないことの象徴だと思われる。そして、この日常の生活世界で誰でも、この列島に生まれ受け継がれ消えかけているが残っている「茶出し」の慣習のようなものに、どう受けとめどう関わるかということをしているはずである。先に挙げたように、冠婚葬祭業の登場などの産業の構成の変貌がわたしたちの生活世界を大きく変貌させるということがあるが、他方で、消えかけているが残っている「茶出し」などをどう扱っていくのかという、わたしたち生活者の大多数の意志のようなものが、今後の社会の変貌のもう一つの要因ともなれるような気がする。

 このようなおそらく実体験に基づいたエッセイとも物語ともとれるような作品でも、町田康の作品の愛読者なら、そんな形式に構うことなくその独特の語りの流れに乗り心地よい体験をするだろう。つまり、この独特の語りの中にすでに虚構性が込められていると見ることができる。現実の具体性から素材を得ているとしても、作者は語り手や登場人物たちを物語の世界に派遣して、物語という虚構の世界を造型していく。そしてその際、この引用部分のように作者独特の対象選択や物の見方や感受や生活世界への関わり合いの意識などという作者の固有性もまた作品にパンクロック調の文体としてではあるが織り込まれている。


吉本さんの言葉から―社会の新たな帯域の水圧

2016年08月16日 | 批評

 たぶん、吉本さんの晩年のインタビューか対談だったと思う。わたしによくあることだけど、今ではどこだったか思い出せない。ネットでキーワード検索して該当する本が分かる場合もあるけど、これはだめだった。[現在では、人は、無意識的な部分(潜在意識)が表面に露出し、ふだんの意識している部分(顕在意識)がそれと入れ替わってしまった。]このようなことを語られていたように思う。

 その言葉に出会った時は、一体社会のどのような現象を基にした判断で、どういう意味なのだろうかとよく分からなかった覚えがある。あまり詳しい前後の説明はなかったように思う。吉本さんに関してこういう不明なことをわたしはずいぶんと抱え持っている。社会に浮上してくる今までにないような事件を素材とされていたのだろうか。

 この前の「津久井やまゆり園」での元職員・植松容疑者の兇行も、ふだんは表面化しないような個の内面が、たぶん生い立ちとままならぬ生活とイデオロギー染みた病的なものとが互いに接合して、旧来では考えられなかったような強力な非行として社会に噴出して来たもののように感じる。

 ネットのツイッターなどのSNSの表現を見ていると、あるいは表現しようとする私自身の内面の動きを内省してみると、その吉本さんの言葉が分かったような気になる。旧来なら、あることに出会って或る感情を誘発しても沈黙の内面で完結していたが、新たな仮想空間の登場によって、ネットのSNSを介してそれらを言葉として放出できるようになった。そして、これにはあらゆるものごと同様に、良い点と悪い点とがある。

 もちろん、SNSで仮想的に互いに近接しても、旧来のよく知らない他人に対するような配慮や対応は誰でも働かせようとするはずである。しかし、SNSによる仮想的な近接
感と匿名性とに駆動されて、怒りや憎悪や罵倒などの内面の毒が放出されやすくなった。つまり、旧来なら一般的な外への通路を持たない内面と抑制された意識的な表面とが入れ替わりやすくなっている。

 これらのことは、現在の社会にとってもはや十分な使い物にはならない古いものの掃き寄せられているような帯域を、未だ十分にかたち成すことのない或る未知の帯域がある水圧で押し上げようとしていることの、個の内面におけるそれと対応する、二つの帯域間の軋みや摩擦などのもたらす現象と見なすことができるように思われる。

 もちろん、SNSにおける内面の毒の放出も、社会に事件として現れるものも、この社会に未だ十分にかたち成すことのない或る未知の帯域の水圧に対する、退行や病として表現されているように見える。したがって、ありふれたことだけど、まずは新たな舞台に立つ自覚と内省とを心掛けるしかないと言うほかない。SNSに限らず日々の生活経験の中、わたしたちの人間観が問われているのだ。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)