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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

吉本さんのおくりもの 4.「50パーセントを超える 」

2016年12月31日 | 吉本さんのおくりもの

 吉本さんは、状況の変化をつかむ指標としてよく「50パーセントを超える」ということを語られていたようにわたしは記憶している。それはどこどこに語られていると挙げることはできないのだけれども、この言葉は重要なものを含んでいるように思う。

 人と人との関係でも、会社やサークルなどのどんな小社会の有り様でも、一国の経済や政治や文化でも、今までの関係や有り様の主流があってもそれの否定の支流が芽ばえ増大して「50パーセントを超える」と、主流の大変動と交替の可能性という重大な状況的な局面を迎える。このことは人と人との関係であれば、今までの関係の有り様の変貌を促されているということ、あるいは今までの関係の破局という場合もある。こうしたことは、誰もが実感として受け入れることができると思われる。

 その場合、それぞれの領域の流れの内部に居ても外部に居ても、自分が旧の主流と新の流れとのどちらに属しているか、あるいはいずれにも属していないか、こうしたことが、上方からの視線を行使してその流れの全体像をイメージする場合の、そのイメージの構成や質を決めてくるものと思われる。より正しく流れを像としてつかむためには、対立的な旧と新の流れのいずれにも属することなく、ある領域の主流のいわば成分分析をして、その動向のベクトルに目を凝らすことが大切だと思われる。この場合、そういうイメージの場所を占めないということは、例えば、衰微して退場していく場所にいくら固執してもそれは人間の歴史や文明史の主流の動向を読み間違えているということになる。身近な例で言えば、ラジオは、テレビは、洗濯機は、電子辞書は、ケイタイは、……人をダメにするなどとして否定するのは、そういうことである。それらの退行的な意識や言葉は押し流されていく運命にある。ただし、時代や社会の大きな過渡期には、必ずと言っていいほど旧と新は対立的に現象し、社会にある渦流を引き起こす。

 いずれにしても、あるものが主流ということは、あるものが「50パーセントを超える」ものであることは確かである。つまり、それほどの状況の変動を静止させようとする重力をもち、制圧する重力場を形成してきたということである。そうした状況が長らく持続していく中から、― 今までの人類の歴史でどんなに小さな領域においてすら否定する要素が全くないような完備されたものなどはあり得ないから― その否定の因子が芽ばえてくることになる。今までの主流が、次々に芽ばえてくる否定の因子を寛解しその内部に包み込むことができれば、否定の増大を押さえることができるかもしれない。しかし、それの否定の因子が増大を続け、「50パーセントを超える」と今までの主流と対立的な状況に到る。

 何事も、始まりは気づかれにくい。ある主流の中で、初めは否定の因子は余り気にも留められない、一風変わったものに見なされただけかもしれない。平安期に貴族によってガードマンとして都に引き入れられた各地方の武士も京の社会からは初めはそう見なされただろう。次第に貴族と武士が合力した戦から武士だけの自立的な戦となり、武家層が「50パーセントを超える」力を蓄えていって、貴族層が主流の社会から武家層が主流の社会に変貌していった。

 現在の大半が副業を持たざるを得ない作家たちとは違って、文学者としてデビューすれば割とその仕事で食って行けたような「文学」や「純文学」が主流であった時代の中から、「サブカルチャー」と呼ばれるものが芽ばえてきた。「サブカルチャー」という存在が目立ち始めて、「文学」や「純文学」の主流からの対立的な批判や論争もあったようだが、両者が主流として入れ替わるというよりも、いまでは両者が溶け合った状況が主流になっている。ただし、生真面目で暗い「文学」や「純文学」という一昔前の小説は、「サブカルチャー」に大きく浸食されてしまった。もちろん、旧来的な貧しい社会と対応した閉ざされた垣根が取り払われて、新たな社会の動向から生まれた、明るさも暗さも、軽さも重たさも、価値序列としてではなく、普通の人間の可能性の幅を拡げるような表現として、新たな表現の地平を獲得したことはすぐれた達成であると思う。こうして、両者の溶け合った状況といっても、「サブカルチャー」にどんどん追い上げられ深く浸透された「文学」や「純文学」という状況になっている。

 そういう状況になる前には、従来の主流からの視線では、「文学」や「純文学」=偉い、真面目で、深刻、一方の対する「サブカルチャー」=偉くない、軽薄、軽すぎなどの価値観を含んだイメージで捉えられていたと思う。おそらく「サブカルチャー」の表現者たちは、主流からの視線を浴びつつも黙々と表現に力を注いできたのだろう。一方、日本の社会が高度経済成長期を経て経済力を増大させ、わたしたち普通の生活者も慌ただしい労働と引き替えに一定の豊かさを享受できるようになり、生活の余裕を持てるようになってきた。「サブカルチャー」の表現者たちは、そういう新たな社会の豊かさや余裕の中から登場した。そして、わたしたち普通の生活者に時代や社会の空気や実感にふさわしい表現として受け入れられた。

 たぶん、「文学」や「純文学」の主流の世代は、そういう社会の主流の動向に対して、旧来的な社会の部分に対応していたのだと思う。つまり、これら文学の世界の主流の重心の交替は、社会における旧来的な貧しい生産中心の社会の部分と経済力の増大により生産から消費に重点が移っていく新たな社会の部分との主流の重心の交替と対応している。社会の大きな深い変動は、必ず全社会的に波及し、浸透していくものだからである。

 高度経済成長期をたどり、生み出された社会的な富が再分配されて消費が中心となるような社会が形成され、わたしたち生活者の中流意識が盛んに取り上げられた時代があった。そういう豊かさのイメージは、いまや暗転して「格差社会」という負のイメージと実体をもたらしている。(もちろん、家族の経済的な状況の悪化には、例えば老人ひとりの世帯の増大など旧来と違った家族のあり方、家族構成の状況の変化など他の社会的な要素も関与している。)このことは、労働者派遣法などによって派遣社員を増大させるなど、政治や経済の権力の強制力の行使によって社会の主流を一時的にねじ曲げることは可能だということ意味している。しかし、大多数の普通の生活者を軽んずる状況は社会の主流としての条件を持たないがゆえに、主流として持続できるはずがない。

 消費が中心となる現在の社会は、― ということは、盛んに広告宣伝がなされ、わたしたちはうんざりするほどそれを見聞きすることになってきているわけだが― わたしたち生活者の家計消費がGNPの過半を占めている社会である。そのこととそのことの意味は、吉本さんがわたしたちへのおくりもののように発掘して開示してくれた。わたしたち生活者は、まだそのことの重大な意味に十分に気づいていない。また、そのことに気づいて新たな社会運動(わたしのイメージでは、デモに出かけるわけでもなく寝転んでいても消費しないということができるのだから、たぶん、従来の社会運動の上下関係や権力性をずいぶん払拭する未来性のある社会運動になるだろう思う)を組織しようとする組織者も不在である。だから、わたしのような「社会運動」無経験のど素人が、「消費を控える運動」への意識的な参加を呼びかけるという、性に合わない口出しをしているわけである。

 おそらく現在は生活の苦しさや将来への不安から生活防衛的に、主に無意識的に家計消費の中の選択消費だけでなく必需消費も控えることが行われている。このことは、吉本さんの見識によると次のようなことを意味している。わたしたち生活者の家計消費がGNPの過半を占めているということは、わたしたち生活者がこの社会の過半の経済的な力(権力)を持っているということである。したがって、わたしたち生活者が一斉にその家計消費(選択消費)を控えることは、過半の経済的な力(権力)のそのまた半分くらいの力を社会に対して及ぼし得るということ、つまり、経済はひどく落ち込みどんな政権でもそれに耐え得ないということである。現実には、意識的ではなく、一斉でもないから、消費は悪化しながらこの政権は延命している。しかし、一斉に、全員でなくても、家計消費を意識的に控える人々が増加するにつれて、経済界や政権へのダメージは増していくはずである。この場合は、家計消費を意識的に控える人々が「50パーセントを超える」ことがなくても、政治の主流を切断することは可能だと思われる。わたしたちは、どんな政権であっても、わたしたち生活者の生活や意志を無視する諸政策を行い、居座ろうものなら、それらを無血で追い落とすことが可能な力(権力)を知らない間に手にしてしまったのである。

 そのことは、あらゆることがどん詰まりのこの社会において、わたしたちの最後の希望であり、それは同時にそのどん詰まりを突き抜けようとするある未来性の希望でもある。わたしたちが政治家や政治に近づいたり、お願いしたりするのではない。政治家や政治や経済界や官僚層が、この社会の真の主人公であるわたしたち生活者の方に絶えず耳を傾け、その大多数の民意に沿って行動すべきなのである。現政権も、わたしたち大多数の生活者の大きさと重さをある程度分かっているから、やっている諸政策は別にして、バレバレのウソを重ねつつも私たちの方に阿(おもね)った振りをすることを止められないのである。今から50年も前と比べると、店の対応も地方の役所の対応もずいぶんと変貌して、私たち生活者の存在に割とていねいに対応するようになってきた。こうしたこともこの社会の変動してきたことの小さな徴候と見ることができると思う。

 人類の知恵が加担した社会の主流の動向の渦中に、小さく日々生活しているわたしたち普通の生活者が、そこから観念的に少し抜け出て社会の動きを見渡そうとする場合、社会の流れの旧にも新にも属することなく、またそれらに付随するイデオロギーにもイカレることなく、わたしたち生活者の日々苦楽にまみれた小さな世界を自分の属する在所としながら、見渡す方がより歪みのない正確な社会像が手に入ると思われる。良いことでも悪いことでも、「50パーセントを超える」現象となってしまったら、状況の主流の交替可能性が浮上してきていることになる。わたしたちは、この社会に生起してくるささいなことに神経症的に次々に反応する必要はなく、主流の動向に少しゆったりと目を凝らせばいいと思う。

 吉本さんの最晩年のインタビューの末尾に次のような言葉がある。


心の中で、普通の人が「俺が総理大臣になったら
こうしようと思っている」ということをもてたな
ら、それでいいんですよ。あとは何もする必要な
いから、遊んでてください (笑)。
  (「吉本隆明インタビュー」 季刊誌『kotoba』2011年春号(第3号) 小学館)



 この吉本さんの言葉は、若い頃からの果てしない考察の積み重ねを歩んできた果ての、少しの余裕を持って「主流の動向に少しゆったりと目を凝ら」すことができるようになった場所からの深みのある言葉のように見える。

 吉本さんは、自分の生存の総体を根底から揺さぶるような戦争ー敗戦の体験の内省と戦争詩の批判や転向論などの検討から、自己の「内部の論理化」や「社会総体のイメージの獲得」ということを提起されていた。たぶん、その若い頃に提起されたもののいずれもがこの家計消費がGNPの過半を占めるということの分析や意味の考察にも貫かれていると思う。吉本さんの考えは、途中修正されたりしてきてはいても、吉本さん自身が述べていたように、通ってきた考えの道筋は誰もがきちんとたどれるようになっている。吉本さんの言葉は、こうした一筋のものに貫かれていた。


補註として

付け加えれば、なぜ吉本さんには「先見の明」があるのか。例えば、現在では割とすんなり受け入れられるように見えるが、誰も指摘していないように見える(わたしは経済領域に通じていないから見えるとしか言えないが)時期から旧来的な主流の公共工事にお金を注ぎ込んでも無意味に近い、それよりも新たな主流として登場している第三次産業のサービス業の分野に補助金としてお金を注ぎ込んだ方が経済対策として効果的だと言われていた。それは、社会が消費中心の新たな段階に到っていること、何が社会の主流であり、何がそれを突き動かす主要な動因かなど「社会総体のイメージ」の獲得のための日々の研鑽を吉本さんが心掛けていたからである。手品でも才能でもないのである。


吉本さんのおくりもの 3―吉本隆明という存在

2016年12月25日 | 吉本さんのおくりもの

吉本さんのおくりもの 3
 ―吉本隆明という存在。吉本さんはいわゆる「頭の良い人」ではない。



 ある人はこの世界に生きて、関わり合う人の数だけそれぞれの人に「ある人」のもたらす感受やイメージや像を生み出す。つまり、人はこの世界に生きているということだけで、まるで重力波のように本人も気づかないような所で他者に影響を与える。そうして、それは当然のこととして相互的である。

 その場合、それぞれの受け取る感受やイメージや像は、それぞれの人の固有なフィルターや屈折率を通過して生まれたものである。ちょうどある物語作品を読んで百人なら百人の微妙に違った作品の切り取り方や印象やイメージなどがあるように。しかし、百人に共通するおおまかな共通性のイメージや印象というものもある。吉本さんが作品を百回読めば読者の印象やイメージはある共通の場所に収束するのではないかと述べていたことは、人そのものについても言えることではないだろうか。つまり、ある人と深く付き合えば付き合うほど、「ある人」の共通のイメージや印象の場所に収束するというように。

 そしてそのことは、「ある人」の外からはどのようにささいに見えることの中にも、ある固有の普遍性として貫かれているように思われる。わたしは吉本さんとは二三度顔を合わせた程度で、主に表現者としての言葉の吉本さんとの付き合いということになる。しかし、その言葉から推察すると、日常の立ち居振る舞いも出来不出来は別にしても表現者としての思想と同期して一貫した生活思想としてあったように思う。ここでは、吉本さんという存在もまたわたしたちの中である共通のイメージや印象の場所に収束するということを意識して、吉本さんという存在について少し考えてみる。


1.吉本さんにも当然ながら人並みのミスも勘違いもある。


 遙か昔のことで、わたしの記憶もぼんやりだけど、吉本さんの『詩学叙説』に関して、その本が出た頃誰かが引用された詩(富永太郎だったか?)について資料的なミスがあると指摘してしている文章(たぶん雑誌に載っていたような)を流し読みしたことがある。

 次に挙げるのは、わたしが少しずつ柳田国男を読み進めていて、偶然に出会ったことである。これは吉本さんの記憶違いに当たる。柳田のその箇所を読む前に、わたしにはどこに書いてあるかは忘れていたけれど、当然のこととして、以下の『母型論』「序」に書かれている言葉、「柳田国男はどこかで、日本列島の全土をせめて一メートルくらいの深さでもいいから掘りかえしたうえで、考古学的な結論をやってほしいと言う意味のことを述べている。」ということの、その言葉に近い大雑把な記憶があった。



 わたしはおなじようなことを、じぶんの方法を使って、いつかやってみたいと、ずっとかんがえ、空想してきた。柳田国男はどこかで、日本列島の全土をせめて一メートルくらいの深さでもいいから掘りかえしたうえで、考古学的な結論をやってほしいと言う意味のことを述べている。これが日本列島のいたるところに足跡をのこし、いたるところの住民と結びつけてみせた柳田国男の自負だったといえる。「海上の道」は、そういう経験知が積み重ねられ、ある厚味の閾値を超えたとき、超えた部分から経験知の集積がイメージに転化した文章だ。「海上の道」には、そんなふうにしてしか得られぬイメージが、いたるところにあり、この論文を一個の作品にしている。もっといえば普遍文学にしている。
  (『母型論』「序」P9)


 吉本さんがたぶん触れた柳田国男の該当箇所は、次のようになっている。


 人類学の方でもこのごろはもはや天孫族だの出雲族だのという大雑把な語は使わなくなった。日本人くらいよく周遊移動した国民も少ない。いかなる東北の辺隅の村でも、一色ばかりの苗字から成り立ったはほとんどない。婚姻のためにはむしろ異分子と接近して行く必要を認めていたらしい。海から移るを得意とする種族、山を越え嶺を伝わってばかり動いたものもあれば、落ち付いて耕作ばかりしていられぬ家族も多かった。この人々の配合の如何によって、生活相がきっと変わっているはずであります。それが熱心にしらべて行くうちには、わかるかも知れないという希望、その希望の光が明るくなってから、我々の学問は急に活気を帯びて来たのであります。ただしまだこれだけでも不足なのは、今までの研究が第一にあまりに上代に偏している、第二にはその捜索は田舎の隅々に届かぬことである。性慾学の大家としてのみ日本には知られている、ハブロック・エリスは、かつてその随筆中にこんなことを言っている。遺跡遺物の学をして人類運命の解説者たらしめんには、地球の表皮を深さ約二丈か三丈、全体に引きめくってみなければならぬと。それはやや無理な難題ではあるが、少なくとも考古学の取り扱っている遺物なるものが、縦にも横にもはなはだわずかなる一標本、いわゆる大海の一滴、九牛の一毛であるという謙遜の態度だけは必要だと思います。現に遺物という名こそ与えられていませんが、人類学の取り扱おうとしている「我々活きた人間」もまた一種の遺物である。
  (「東北と郷土研究」P492-493 『柳田國男全集27』ちくま文庫)




 この柳田の話は、「原因が遠く数万年の昔になかったなら存在し得ざることは同じである。この意味において我々は、今日の日用言語というものを最も貴重なる遺物に数えている。」と続き、当時の国家政策から下って来た「方言の軽率なる『匡正(きょうせい)』」を批判してこの段落は終わる。

 吉本さんには、―吉本さんの柳田国男把握風に言えば―柳田国男が今までに全国隅々を渡り歩いたり、方言や文物を渉猟してきたその蓄積の頂から、その深みから突き上げて来るような言葉によってイメージの線分が引かれ、イメージの流れが造成される様を記憶に止めていたのかもしれない。その中のハブロック・エリスの言葉を踏まえた柳田の言葉という微細な差異は流れに溶けてしまっている。吉本さんも、自分の記憶がおぼろなことを自覚しているのは、「柳田国男はどこかで、……と言う意味のことを述べている。」という言葉からもわかる。吉本さんの「一メートルくらいの深さでもいいから掘りかえし」と言う言葉の発言主体は、わたしたち読者としては柳田国男としか取れないけれど、実際はハブロック・エリスであり、また「せめて一メートルくらいの深さ」は、「深さ約二丈か三丈」(明治時代の尺貫法で、一丈が約3mだから、約6~9m。)とあるから、実際とは違っている。

 事実誤認に当たるが、ハブロック・エリスの言葉を踏まえて吉本さんが語ったことと同様のことを柳田が述べているから、ささいな問題だというべきである。記憶というものは誰にとっても、特に時間が経ちすぎた場合は一般にこうした曖昧さを持っている。


2.吉本さんはいわゆる「頭の良い人」ではない。


 吉本さんを読み込んでいる人は、意外に思うかもしれないが、実は吉本さんは「頭が切れる」とか「頭が良い」とかとは無縁の人だったと思う。その例証として、例えば、源氏物語の考察(『源氏物語論』大和書房 1982年10月)の後だったと思うが、専門家でも古文(『源氏物語』)をその当時の時代のように読みこなすことは不可能だと述べられていた。つまり『源氏物語』を原文で読み取れたとかわかったように振る舞う者は、うそっぱちだという趣旨のことが語られていた。この言葉は、『源氏物語』を読み取ろうという具体的な苦労を潜り抜けた体験から出てきた言葉だと思われる。吉本さんは、自己欺瞞を極力避けた人であった。吉本さんのそのような言葉は、古文がわかるってどういうことだろうなど古文に対して誰もが抱くような素朴な疑問とつながっている。

 いわゆる「頭の良い」人は、カッコつけたりしてこのようなことを普通語ってくれないものである。また、よくわからないことに出会っても、石と石との間など気にもせずに飛石を飛んで川を渡るのだろう。そうして、わたしは川を渡ったと答えるのだろう。そこには、意識的にか無意識的にか、自己欺瞞がある。高校の国語の先生を10年もしていたら誰でも、例えば伊勢物語の筒井筒や源氏物語の若紫の場面などに毎年のように何度も出会うから、表面的な意味や話の流れは覚えてしまってだいたいわかってくる。しかし、そのことが、作品が生まれた時代と作品の中の言葉をほんとうにわかっているかということとは別のことである。

 あるものごとに一日も欠かすことなく十年やれば誰でも一人前になれる、とか、ある作品を百回読めば読者はある共通の作品理解の場所に出会う、とか、吉本さんが語った言葉の眼差しは、いわゆる「頭の良い」人のものではない。そういうことは才能でも手品でもなく、誰でも必死に研鑽(けんさん)を続ければできることだよ、驚くことではないよと語っている。これを逆から言えば、ほんとうは「頭の良い」とか「頭が悪い」とかは、別にたいした問題ではない、ということになる。そしてそのことは、現在にも相変わらず、才能や能力が人間の価値の上下のように見なされている経済社会や教育界や官僚世界などがあるが、ほんとうはそんなことは大したことではないという、わたしたち普通の生活者のまともな沈黙の言葉に通じている。もっと言えば、現在までのところ、「頭が良い」とかいうことはひけらかすものではなく、恥ずべきことなんだよ、とも言えるかもしれない。なぜなら、ひけらかすなどすることによって、ほんとうのあり方、ほんとうに大事なものが覆い隠されてしまうからだ。

 吉本さんの言葉は、途方もない日々の研鑽を通して、わたしたち万人の心や精神の有り様の普遍性に深く通じていたから、自己欺瞞のほとんどないほんとうの言葉、ほんとうの認識を語ることができたのだと思う。ただ、吉本さんのような研鑽は、、わたしたち普通の生活者や表現者にはとても困難なことで、親鸞の一回でも念仏すれば良いと言う他力の易行道(浄土門)ではなく、自力による修行によって悟りの境地に達する方法である難行道(聖道門)に見えてしまう。

 吉本さんの言葉や言葉への眼差しが、どうしてこのように万人の心を共通に流れるもの(その基底としては、「大衆の原像」)に開かれたものとなっているかはここでは深くは問わないけれど、吉本さんの固有の生い立ちと全存在の存立に関わる戦争の体験、それに実験化学の修練がその大きな屋台骨としてあるように思う。そうして、吉本さんは、大多数の人々と同じただの人と未だかつてない鋭く深い表現者の二重性を生き抜いた人だったと思う。


吉本さんのおくりもの 1.出会いということ

2016年09月11日 | 吉本さんのおくりもの

 本など読んでのわたしの印象では、吉本さんとの出会いで多いのは安保闘争や学生運動時代の、吉本さんの言葉が社会の前面に出ていた頃の出会いだと思う。わたしはそれらの時代状況以後の世代であるから、そのような状況での出会いではなかった。わたしの場合は、地方に住むまだ高校生で、自分の身近な小さな生活圏以外のことは馴染みもなくよくわかっていなかったから、吉本隆明という存在も知らなかった。
 
 したがって、本屋の店頭に平積みにされていた『共同幻想論』との偶然の出会いから、わたしの言葉としての吉本さんとの付き合いが始まった。吉本さんは、この国に限っても無類の言葉、無類の存在ということが次第に感じられていった。そして、その無類さはどこから来るのかということが、吉本さんの言葉に向かうわたしの言葉の片隅に絶えず在り続けている。なぜなら、そのことの偶然性と必然性とを明らかにすることが、吉本さんという存在の総体、あるいは、存在の中枢を明らかにするということにつながると思えるからである。と同時にそのことは、フロイトに倣った吉本さんの、個の歴史と人類史とを対応させて捉え得るのではないかということ(『母型論』序 P7 吉本隆明)を踏まえると、この列島の人間の、いやもっと普遍的に人間という存在の、秘密についても逆に深く照らし出すかもしれないという思いもある。

 この人間界の内に生まれ育っていく中で、人は誰でも人やものごととのいろんな出会いを繰り広げていく。今日は、途中で突然空から魚が降ってきたので(そういうことがあり得るらしいが)遅刻しました、というような普通はあり得ないようなふしぎな出会いというものもあり得るかもしれない。しかし、どのような形の出会いであれ、普遍としていい得ることは、人は誰でも他の人と関わりを持って存在していて(たとえ山奥や都会で引きこもった生活をしていても、他人との負の関わり合いの意識を持つ)、したがって、誰でもなんらかの出会いをくり返しながら生きている存在だということである。その出会いには、人間界での生身の出会いもあれば、書物などによる言葉や音楽や映像を介した出会いもある。また、星野道夫のような幾分かは人間界を超えた大いなる自然との出会いもある。
 
 さらに、その人と人との出会いには、どのような層で出会っているかという問題がある。人の意識に、表面層や中間層や深層、そして無意識層などが想定できるように、人と人との出会いにおいても、その人の意識の層と対応するような出会い方があるように思われる。因みに、浅い付き合いや深い付き合いという関係の有り様を示す言葉もある。吉本さんの例で言えば、吉本さんが亡くなってからの追悼関連の文章をネットなどで読んで感じたことだが、吉本さんを評価する人が多いなという印象を受けて少し驚いた。ただ、それがどういう出会い方や関わり方をしているのかということが少し気になる。別に、どんな出会い方や関わり方をしようが咎め立てられる筋合いはないと思うのだけれど、吉本さんの場合は、単にある対象に対する卓見とかに終わらないものがあるからである。つまり、批評の言葉であれ、詩の言葉であれ、この世界の総体の中枢を貫こうとする意志や情感が吉本さんの言葉のベクトルには内在しているからである。わたしの場合は、不明の靄が打ち払われることはないけれども、吉本さんの全体の層と出会おうとしてきたと思っている。
 
 ところで、この人間界という関係的な世界で、ひとが生まれ育ち日々を生きているということは、つながり結んだり、あるいはつながりから離反したりと様々な劇を繰り広げている。そのことがひとり一人にそれぞれの固有な曲線沿いに何らかのものを降り積もらせていくはずである。形式的な挨拶としては、それらの自らの経験を言葉で説明できるかもしれないが、その経験の本質は、人の内臓感覚や心から意識に渡る総体的な世界であり、経験の総量として捉えようとすれば言葉で表現し尽くすことは難しい気がする。だから主要には沈黙で感じ取るべきものであるような気がする。例えば、吉本さんの『追悼私記』は味わい深いものであるが、それは、人という存在の孤独な光が互いに共鳴し合うような場、共に沈黙で感じ合うような場を、沈黙の共鳴を響かせるように言葉を行使しているからだと思われる。
 
 他人の目をじっと見て話すべきだ(わが国では互いにあまり目を合わせないのが普通だったと柳田国男は記していた)とか、言葉で明確に説明できるはずだとか、こうした欧米流が現在では普通になってきているが、「筆舌に尽くしがたい」(英語にも同様の意味の「beyond description 」がある)という言葉があるように、この日常世界にはささいなことでも言葉にしがたいことがある。そして、それを無理に言葉にしてしまえば形骸しか残らないということがある。まさしく、人と人とが関わり合う場での特に深い付き合いの劇には、言葉を超えたものがある。それは、この世界の有り様やそこでの人の有り様の不思議さと共に、人が沈黙の内に感じるような、あるいは、体の肌感覚で感じるようなものだと思う。このような沈黙や肌合いの感覚は、人の言葉がその固有性に蓋をしてイデオロギー化して行くにつれて、喪失されていく。あるいは、乾いた砂漠の砂のような言葉に変貌していく。
 
 わたしが、吉本さんの言葉を介しての出会いをくり返しているのは、吉本さんにはそのような人にとっての沈黙の重要性に対する深い洞察と考察(「沈黙の有意味性について」などや晩年の「言葉の幹は沈黙である」など)が早くからあるからだ。そして、そのことはわたしたち人間存在とこの世界の有り様にとって根源的で大切なことだという思いがあるからだ。この書かれたり語られたりする言葉重視に対して差し出される沈黙ということは、閉鎖的な知識世界に対して差し出される生活世界の具体性の関係とも対応しているように見える。
 
 わが国では、時枝誠記や三浦つとむなど、外来の概念や思想を咀嚼した自前の優れた言葉についての考察が例外的にあるとしても、主流としては、相変わらず外来の輸入思想を操ることに終始してきたのではないかと思う。つまり、日本語の具体的な現実を対象とし、自前の言葉についての思想を築こうとはしなかったのだと思う。この病は、経済思想や教育思想や哲学思想など知のあらゆる領域で、現在でも依然として受け継がれてきているように見える。しかし吉本さんは、それらとは無縁な場所から、それらを超えて、言葉との関わりで沈黙の重要性を取り出して、本格的に考察した。そのような人(表現者)は、わたしの知る限り少なくともこの列島には誰もいない。


吉本さんのおくりもの 2.対象そのものと対象像について

2016年09月01日 | 吉本さんのおくりもの

 私の若い頃の知人で、父親が亡くなったために、学校を中途で辞めて、跡を継いで農に専心した者がいた。いつも熱心に農を営んでいて、昔の篤農家というのは、彼のような人を言うのだろうと思っていた。
 あるとき、家に立ち寄った際に、素朴で幼稚なことを訊ねてみた。日本の農業の稲の品種は南方系のものだと聞いている。でもどうして、新潟だとか秋田だとか寒い地域でいい米が獲れるのかということだ。
 彼の答えは単純で明快だった。作物は、日日刻々と天候によって変化するもの。毎日のように、時刻ごとに観察し、その表情に対応して気配りすれば、いいお米ができる。とくに寒さが厳しい地域では、温暖な気候の土地とちがって、きちんと育てるために、小まめに観察し、注意深く手入れをして、対応を怠らないからだと、彼は答えた。
 品種改良、地味、寒暖など、ほかにもたくさんの条件があるのだろうが、それらについては何も言わなかった。素人に言っても仕方がないと思ったのかもしれないが、私は流石に彼は篤農家だと感銘を受け、これに倣わんと思った。
 (「陸ひぢき回想」P172-P173 『開店休業』 吉本隆明 2013年)


 本書は、二〇〇七年から二〇一一年にかけて雑誌に掲載されているから、吉本さんの最晩年の文章ということになる。しかも、目が悪いなどにも関わらず自筆で書かれた文章である。吉本さんは、戦時中の勤労動員だったかで農作業を少しやったことがあるとどこかで語られていた。しかし、農に限らないが、農という日々具体性を伴う世界をよくわからないなりに、農を営む知人の、吉本さんの質問に答える言葉から彼の農の日々を吉本さんは想像を巡らせている。

 吉本さんは、自分の専門とする文学の領域に限らず、あらゆる領域に入り込んでいく。マルクスと同じように吉本さんの場合も、あらゆる人間的なものは自分の関心の対象であると見なしていると言えそうだ。そして、自分の抱えている諸問題を具体像を含めて捉えよう、言いかえれば、実感を込めて捉えようというモチーフから様々な疑問や追究が伸びていく。必要ならば、他の領域にも越境していく。ここでの知人へ尋ねてみたことを単なる世間話程度のものと見なさないならば、そういう背景の下に吉本さんの言葉はある。

 この場合の吉本さんのモチーフは、一方にこの列島を「南方系」の品種の稲を携えてある人々が移動し、列島の南から北まで現地の自然環境に適応させて稲を栽培してきたという疑いようのない歴史があり、「でもどうして、(引用者註.「南方系」の品種なのに)新潟だとか秋田だとか寒い地域でいい米が獲れるのか」という歴史の中の農の具体像のイメージを追い求めるところからきている。

 ただ、この場合、この農の専門家に対する文章のように、その領域の内側で日々実践しているその道の専門家に対する礼節は尽くされている。また、マルクスに触れて何度か言われたことがある、それ以上突き進んだら危ないことになる、つまり真が揺らぐ、マルクスはそれを心得ていて、危ないことは言っていないと。そしてまた、吉本さんもそれを心掛けていたと思う。危ない言葉を言わないためには、ある領域の内側の言葉を、具体像として、実感として自分の言葉に繰り込んでいくことが重要である。

 作物は、日々の天候によって変化するから、小まめな観察と対応や気配りが大切だ、そうしたらいいお米ができるという吉本さんの知人の農の実践家の言葉は、農の内側に少し入り込んで趣味的に農に携わっているにすぎないわたしにもわかる気がする。彼は学者ではなく農の実践家であるから、作物に関わる諸条件やそれらの関わり合いの構造などとは述べないのであろう。

 たとえば、今回の台風の影響による久しぶりの少雨の日、雨が止んだ午後に今年初めて試みる「秋キュウリ」の苗を植え、水やりした。その後2日秋晴れのような日が続いたけど畑には出る余裕がなく、3日目の今日ちょっと心配だったので水やり用の水を携えて畑に出た。「秋キュウリ」の苗が少し萎びたり枯れたりしていた。このように、農の仕事は吉本さんの知人の言葉のような心がけと実行が大切である。他の作物より少し強いサツマイモでも苗を植えて晴天続きだったら枯れてしまうこともある。人間の小さい子どもの世話と同じで、作物も後はほったらかしで良いとしても最初は小まめに面倒をみなくてはならない。農の内側に居れば、このようなことは誰でも自然に身に付いてくるものである。

 このようなことは、たぶんどんな分野の小世界でも同様であると思われる。そして、誰でもある小世界の内側に在りつつ、他の小世界に対しては外側に在るというようにこの社会に存在している。自分がその内側に居る小世界の有り様が他の小世界と同質の面もあれば、それぞれの小社会毎の特殊性もあるはずだ。したがって、自分がその内側に居る小世界の基準で他の小世界やその内側に生きる人々を論じると間違うこともあり得る。間違わないまでも、その小社会の内側に生きる人々の具体像や実感とは乖離しているということがあり得る。

 つまり、わたしたちがある対象に意識を向けてその対象の像を獲得しようとする場合に、大切なのはある対象そのものの世界に降りたって、できるだけその対象の内側の具体像や実感を手にして対象像を形作っていくことが大切である。

 付け加えれば、この文章はもちろん現下のネットのSNSや社会内に飛び交う不毛な言葉たちを意識して書かれている。