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吉本さんのおくりもの 14.批評ということ 

2017年08月22日 | 吉本さんのおくりもの

14.批評ということ ―『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』(柴田弘美 2014年)から

 

 『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』(柴田弘美 2014年)を少しずつ読み継いでやっと読み終えた。頭が痛くなるほどカタイ本ではあったが、中途で投げ出す気にはならなかった。「頭が痛くなるほどカタイ」と言っても、また、わたしにはまだ十分な視界とまではいかないけれど、著者の説く数学的な構造に慣れてすっきりした視界を手にすればそうでもないだろうと思われる。わたしは高校生の頃たぶん『ガロアの生涯』を読んだ辺りからと思う、現代数学に関心を持ち、その後若い頃に遠山啓の諸本や野口宏の『トポロジー 基礎と方法』などなどたくさんの本を読み漁ったことがある。アインシュタインの相対性理論も関心を持ちその本を少し読んだり解説本も読んだことがあるが、現代数学同様これもあいまいさのイメージに包まれたよくわからないものであった。独学であり、またそれらは例えば海外での生活に差し迫って必要とする語学のようなものでもなかったから、中途半端のよくわからないままに終わってしまった。

 読者としての一方的な言い分としては、めったにないけれども、読書を途中で投げ出すこともある。例えば菅野覚明『吉本隆明―詩人の叡智』は、終わり近くまで来て読み終えずに投げだした。吉本さんの表現をあれこれ参照しつつ細かに拾い上げてはいた。「固有時」という言葉を物理学の概念として割とていねいにたどり説明もしていた。つまり、批評対象との応対はていねいではあった。ただ、なぜ吉本隆明なのかというという対象を批評として取り上げるモチーフが希薄な感じを受けた。著者の批評のモチーフとしての生命感が感じられなかったのである。簡単に言えば、校長の話を聴かされているようでおもしろくなかったのである。

 一方、本書は細かいところではいくつかアラはありそうにも感じたが、吉本さんの批評に数学的な構造(連続、基底、ベクトル空間、作用素、同型など)が一貫したものとして駆使されているのを心はやる思いとともにていねいにあとづけている。これは初めての試みではないかと思う。本書を読みながら考えたことがある。『言語にとって美とはなにか』の基軸となる二つの概念である自己表出と指示表出、そして両者が関係し合いながら表現空間に表現としてかたち成す構造、『心的現象論(序説)』の基軸となる概念の原生的疎外や純粋疎外と両者の関係する構造、こうした概念の創出やそれらの構造としての描出の背景にあるのは、吉本さんの科学的思考の修練や実験化学の具体的な修練と日々の人間的な経験、すなわち実感から来ているのではないかくらいでこれまでは済ませていた。だから、数学的な構造把握と構造的な措定とがそこまで徹底したものとして駆使されて考察されているという筆者の跡づけていく過程は驚きであった。

 しかし思えば、『言語にとって美とはなにか』の数年後に刊行された『共同幻想論』の「序」では、「論理性あるいは法則性というものの抽象性のレベルというものに対する理解」ということが語られている。つまり、吉本さんの行使する論理に対する方法的な自覚と論理の世界の統一像が語られていた。その箇所は、わたしが初めて読んだ若い頃、十分に理解できないとしてもなにか大切なことが語られているぞと立ち止まってくり返し読んだ覚えがある。



 だんだんこういうことがわかってきたということがあると思うんです。それは、いままで、文学理論は文学理論だ、政治思想は政治思想だ、経済学は経済学だ、そういうように、自分の中で一つの違った範疇の問題として見えてきた問題があるでしょう。特に表現の問題でいえば、政治的な表現もあり、思想的な表現もあり、芸術的な表現もあるというふうに、個々ばらばらに見えていた問題が、大体統一的に見えるようになったということがあると思うんです。
 その統一する視点はなにかといいますと、すべて基本的には幻想領域であるということだと思うんです。
 (『吉本隆明全集10』「共同幻想論」の序 P273 晶文社)



 つまりそういう軸の内部構造と、表現された構造と、三つの軸(引用者註.自己幻想、対幻想、共同幻想のこと)の相互関係がどうなっているか、そういうことを解明していけば、全幻想領域の問題というものは解きうるわけだ、つまり解明できるはずだというふうになると思うんです。そういうふうに統一的にといいますか、ずっと全体の関連が見えるようになって、その一つとして、たとえば、自分がいままでやってきた文学理論の問題というのは、自己幻想の内的構造と表現の問題だったなというふうに、あらためて見られるところがあるわけです。そして、たとえば世の人々が家族論とか男女のセックスの問題とか、そういうふうにいっていた問題というのは、これは対幻想のもんだいなんだというふうにあらためて把握できる。それから一般に、政治とか国家とか、法律とか、あるいは宗教でもいいんですけれども、そういうふうにいわれてきた問題というものは、これは共同幻想の問題なんだなというふうに包括的につかめるところができてきた。だから、それらは相互関係と内部構造とをはっきりさせていけばいいわけなんだ、そういうことが問題なんだ、こんどは問題意識がそういうふうになってきます。
 そうすると、お前の考えは非常にヘーゲル的ではないかという批判があると思います。しかし僕には前提がある。そういう幻想領域を扱うときには、幻想領域を幻想領域の内部構造として扱う場合には、下部構造、経済的な諸範疇というものは大体しりぞけることができるんだ、そういう前提があるんです。しりぞけるということは、無視するということではないんです。ある程度までしりぞけることができる。しりぞけますと、ある一つの反映とか模写じゃなくて、ある構造を介して幻想の問題に関係してくるというところまでしりぞけることができるという前提があるんです。
 (同上 P274-P275)



 それではなぜそういう欠陥が出てきたかといいますと、そういう人たちはおそらく論理性あるいは法則性というものの抽象性のレベルというものに対する理解がないんだと思うんです。つまり、現実の生産社会、技術の発展というものがあるでしょう、それを一つの論理的な法則、あるいは一つの論理の筋道がたどれるものとして理解する場合には、すでにある段階の抽象度が入りこんでいると思うんです。経済学でもそうだと思うんです。経済学でも、あるがままの現実の生産の学ではないのです。それは論理のある抽象度をもっているわけです。その位相というものがある。つまり水準というものがあるわけで、それがどういう水準にあるかということをよくつかまえることができないで、あるがままの現実の動き、あるいは技術の発展とか、また言語のばあいでもいいですよ、そういうものがなにか論理の抽象度というものとしばしば混同されてごっちゃになって考えが展開されるから、そこのところでひどい混乱が生まれてきてしまうということがあると思うんですよ。やっぱり全論理性というものの中でも、その抽象度というもの、あるいは抽象の水準というものをはっきりとつかまえて論理を展開していかないと、非常に簡単な未来像が描かれてしまったり、技術の発展に伴って非常に楽天的な社会ができてしまうんだというような考え方になっていってしまうけれども、それはおそらく論理の抽象度のある混同というものがあると思うんです。あるいはそれの把握しそこないがあると思います。
 (同上 P279)



 わたしがここで提出したかったのは、人間のうみだす共同幻想のさまざまな態様が、どのようにして綜合的な視野のうちに包括されるかについてのあらたな方法である。そしてこの意味ではわたしの試みはたれをも失望させないはずである。なぜならわたしのまえにわたし以外の人物によってこのような試みがなされたことはなかったからである。ただこのような試みにどんな切実な現代的な意義があるのかについてはひとびとのいうのにまかせたいとおもう。
 (同上 P284)




 ここには、黙々と荒地を耕すように論理の不毛な言葉の大地を突き進んできた吉本さんの姿があり、その自らの孤独な営為に対する自負が語られている。



 ところで、柴田弘美の『言語にとって美とはなにか』への入口は次のような箇所に語られている。


 吉本隆明の思想史として主要なことは、経験的実験科学に、そして少青年期を支配して来たナショナリズムの思想に、すべて絶望していた敗戦期に、遠山啓の「量子論の数学的基礎」という特別講義を聴講したことである。・・・・・・(略)・・・・・・吉本隆明は、それをもっと深く思想的基礎において受けとめたにちがいない。
 ・・・・・・(略)・・・・・・遠山啓氏によって触発された、単純因果律とは違う開かれた現代科学的思考は、文学、思想の場の核心となる。
  (奥野健男「自然科学者としての吉本隆明」、
          『科学の眼・文学の眼』、236~237頁)

 奥野のこの記述によって、「もしかしたら私の勝手な思い込みにすぎないかもしれない」という迷いは少し退いた。実際、吉本の初期以来の諸論考を、このような現代数学が与えた影響とその痕跡を探るという明確な問題意識を携えて辿りはじめるや、「深く思想的基礎において」受けとめるべく模索する青年・吉本の姿に幾度もつきあたることになる。・・・中略・・・私の目には、遠山の特別講義によって与えられた現代数学の諸概念を、思想と科学の方法にもち込もうとする懸命な姿にみえる。本稿で後に幾度も触れることになるが、この試みはしだいに、そして真っ直ぐに『言語・美』へと結実していったと私は考えている。即ち、今、私にとって、『言語・美』は次のようなものとしてみえるのである―唐突、常識はずれという反発は覚悟のうえで、まず述べておきたい。

 『言語・美』は量子論に数学的基礎を与えた「位相解析学」を導きの糸として、これとほとんど同型の構造をもって成立している。
 この構造は、いわゆる構造主義の系譜とは大きく異なる別の出自から来ており、性質が異なる。端的に、変化、運動、ひいては歴史を扱うことができ、『言語・美』はまさしくそれを実行している。
 (『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』P8-P9)


 一つの集合に基底を与える、あるいは基底を見出す、という時、その集合を単なるものの集まりではなく、ひろがりのある空間として把握することを意味する。そしてこの基底によって、さまざまなモノの集合において、各要素の「位置」やその「変位」、「運動」を抽象的ではあるが表現し、検討できることとなった。
 若き日の吉本は次のように記している。

 僕は一つの基底を持つ。基底にかへらう。そこではあらゆる学説、芸術の本質、諸分 野が同じ光線によつて貫かれてゐる。そこでは一切は価値の決定のためではなく、原理の照明のために存在している。
      (『箴言Ⅰ 原理の証明」、『全著作集』15、勁草書房、121頁)

 一九五〇年、25歳の時にこれほどの重みを込めて書かれた「基底」は、10年の時を経て『言語・美』に甦った。「自己表出」と「指示表出」の一組である。この二つの概念によって言語の集合は方位や座標が抽象化、一般化された「基底」を与えられて、ひろがりのある空間性をもつこととなり、その内部で変位や運動を保証された。
 (『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』P22)



 吉本隆明が遠山啓の特別講義で出会い、獲得したと考えられる「構造」の世界では、「行為する人間」は「作用素」として、むろん高度に抽象化、形式かされてはいるが、その本質を保持し存在することができるのではないか。言い換えれば、いわゆる「構造主義」が捨ててきた「人間」あるいは「主体」という概念は、日常的で具体的な生身のそれとしてではなく、疎外-外化された「作用素」として、つまり「構造」という把握が成り立つレベルの抽象水準において、「構造」世界に生きぬくことができるのではないだろうか。 (『同上』P27)



 今ここで述べておくべきは、この「互いに独立」という一つの関係性は先に触れた「基底」に要請される基本的な条件だということである。空間を「張る」もしくは「生成する」ために「基底」はこの条件を満たさなければならない。そして吉本は言語の空間構造把握に際して、史的必然性を担うものと、個体的な偶然性、一回きりの現存性を担うものと、二つの概念を〈互いに独立な〉「基底」として定立し、史的決定論とも、反ないし没歴史的「構造主義」ともはっきり違う理論を構成していったのだと考えられる。
 (『同上』P30)



 言語の自己表出は「(人間の:著者註)意識の構造にある強さをあたえるから、各時代がもっている意識構造は言語が発生した時代からの急げきなまたゆるやかな累積そのものにほかならず、また、逆にある時代の言語は、意識の自己表出のつみかさなりをふくんでそれぞれの時代を生きる」(『全著作集6,37頁』)・・・中略・・・
 これらの立言を本稿の主要な関心事に即して言い換えれば、意識としての人間は言語を媒介、仲立ちとして自分自身(の意識)を作り、人間相互に(意識を)作りあい、同時に言語を表出してきたのであり、したがってある時代の人間の意識の強度の水準は、またそれを担う言語の「自己表出」の強度は、意識のまた言語の発生の当初から「連続」して転化し続けている、言い換えれば、各人はその時代の意識の強度また自己表出の水準を受け入れつつ、なお彼の意識生活の結果としての微小な増加分を付け加え続けている、と考えられる。・・・中略・・・
 一方、言語の指示表出についてみてみると、「指示表出としての言語は、あきらかにその時代の社会、生産体系、人間の諸関係そこからうみだされる幻想によって規定されるし、強いていえば、言語を表出する個々の人間の幼児から死までの個々の環境によっても決定的に影響される。また異なったニュアンスをもっている」。これは言語の本質にまつわる「時代性」、類性に対する「個性としての差別性」言語本質の「対他の側面」であり、「おびただしい時代的な変化をこうむる。このような変化はその時代の社会の多様な関係、そのなかでの個別的な環境と個別的な意識性と対応し」「この意味で、言語(の対他的側面)は、ある時代の個別的な人間の生存とともにはじまり、死とともに消滅し、またある時代の社会の構造とともに生存し死滅する側面をもつ」とされた。

 右のように整理した時、確認すべきことが二点ある。一つは第三節に述べた、連続性についてである。本稿は先に『言語・美』の基本的な志向を次のようにまとめておいたのだった。

 作家、表現者個人の主題的意識を偶然に選ばれたにすぎないものとしてこれを遠ざけたのちになお、言語と文学表現のうちに歴史的に累積し、個々人の偶然性を越えて「連続」する何ものかを見出して、それを言語や文学の普遍的な測度(引用者註.著者の「補註(1)によれば、本稿では数学概念の「測度」は日常的な「尺度」と見なしてよいとある)として定立したい。

 即ちここで、言語の「自己表出性」が時代を通じて前の時代の水準を前提的に引継ぎ何がしかの強度を付け加える(微小な増加分を付け加える)といった意味で歴史的に連続に転化するものであることを了解するなら、右のような測度としての役割が期待できることとなる。
 一方、指示表出についてのまとめをみると、ある時代の言語の指示対象の全体像と別の時代の指示対象の全体像とを安易に比較することはできないと考えなければならない。つまり歴史的につながりをもたないことをみておかなければならない。また同時代にあっても、個々の人間が指示対象として切り取る現実はその人間の個体性の発露であって、他の人間のそれと比較してもしかたのないものなのだ。
・・・中略・・・
 つまり言語表出や言語表現を比較較量する測度としては「自己表出性」がその可能性をもち、指示表出性は測度になりえない、という『言語・美』の全体をつらぬく原則的な考え方が示された。
 もう一つは、第一章第七節に述べた史的必然性と一回きりの現在性との〈矛盾〉の問題である。右に整理したように、「自己表出性」はにんげんの類的本質力としての自己対象化の能力が発動され、その結果として自然の動物段階から人間自らを引き剥がすようにして発生し、それを前提にして後代の人間は生き、同様にして自己表出性を積み重ねていくものとして抽出されたのであるから、一方向に後戻りなしに進行する史的必然性をもっている。いっぽう、「指示表出性」はその先端的動向においては抽象性、普遍性、類性を増大させる傾向をもつけれど、その内部では各人は各々の個的事情にうながされ、また関心のおもむくまま、さまざまに対象指示を行いつつ生きるのであって、その時代の時代性、現在性、個的偶然性を示すことになる。『言語・美』が構造思想によって史的決定論に陥ることなく歴史を扱いうる、という時、このように、二つの「基底」に史的必然性と個的偶然性、一回性を振り分けて担わせ、現実の言語表出(表現)は両方を何がしかずつ同在させて実存する、という把握の仕方を指しているのである。
 (『同上』P50-P53)





 柴田弘美の『言語にとって美とはなにか』への入口部分に照明を当ててみた。そのことは同時に『言語にとって美とはなにか』の基本構造、いわゆる骨組みを明らかにすることにもなっている。それは柴田弘美が、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』の具体的な現場そのものに立つことは一般的にも不可能だとしても、吉本さんの現場と同型性を持つある抽象度の水準の現場において立とうとすることを意味する。引用の後半では、自己表出の史的連続性と指示表出の時代制約的な固有性を『言語にとって美とはなにか』の構造を明らかにする大切な二つの〈基底〉として捉えている。このことによって、自己表出はその史的連続性ゆえに〈表出史〉として「表現転移論」(『言語にとって美とはなにか』 第Ⅳ章)として描きだれる必然性を持つことになる。ここでは批評は、吉本さんが『言語にとって美とはなにか』を書くに到った固有のモチーフや固有のイメージはあまり問われることなく、一挙に『言語にとって美とはなにか』の世界自体を開示しようとしている。

 本書で論じられている吉本さんの『言語にとって美とはなにか』の刊行が1965年で、数学的な表現も駆使した『ハイ・イメージ論』が1989年であることを考えると、柴田弘美が本書で述べているように、吉本さんが遠山啓との出会いでおそらく数学の概念や捉え方を学び自分のものとして批評に自覚的に活かし続けてきたと言えるように思われる。

 海外の思想や学者の概念や言説を紹介して、あるいはそれらに乗っかって何事かを言ったつもりになるのは、この列島の古代から今なお続く悪しき伝統である。清少納言の『枕草子』にもそんな悪しき伝統を背景とした作者の無邪気な物知りをひけらかすような描写があった。こうした連綿と続いてきているマレビト思想とでも呼ぶべきものとは無縁に、近代以降西欧の波を被ってきていることが背景としてあるとしても、抽象や論理ということが不毛なこの列島の言葉や思想の世界で、抽象レベルに自覚的で数学的な構造や概念を自分のものとして批評の世界に導入したのは、吉本さんが初めてであり、そして本書の著者は吉本さんのその現場近くに立ち合うようにして、それを追跡してゆく。このこともまた、初めて本格的に成されたものである。

 〈批評〉という概念や表現がはじまり流通し出したのは、わが国では近代からである。もちろん現在からの視線で、平安期の歌合の判詞が歌の評価や批評に当たり、また歌論も歌の批評に当たると見なすことはできる。しかし、現在に通じる近代批評が本格的に始まったのは小林秀雄からである。その背景には、主要に近代以降に先鋭的に抽出され社会的に押し出されてくる個という存在がある。

 ところで、わたしは〈批評〉という行為やその本質を作者(表現者)の言葉の現場に近づいて立ち合おうとすることであると捉えたことがある。その観点からすれば、本書は正しくその〈批評〉の本質にかなった批評であり、ひとつの作品であるということができる。わたしたちは、すぐれた作品(表現)に対しては、作者(表現者)の言葉の現場近くに立ち会い、その風景をていねいにたどることが、〈批評〉の前提的な本質だと思う。そうして、そのような〈批評〉の場においてこそわたしたちは、ある言葉の未知に出会うのだと思われる。つまり、自分でほんとうに考えを進めるきっかけを手に入れることになる。

 


吉本さんのおくりもの 13.知識の起源から照らして

2017年04月29日 | 吉本さんのおくりもの

 前回も知識(宗教性)の起源を考慮に入れて知識というものを考えなくてはならないと述べた。知識というもの知識世界というもの、これは知識の起源から照らしてわたしたち一人一人やわたしたちの生活世界にとって本質的にはどんな位置にあり、どんな意味があるのかを考えてみたい。
 がんにかかった姪に触れた吉本さんの言葉がある。



―例えば若い看護師がターミナル期を迎えた患者さんのそばに行ったときに、たまたまその患者さんに「おれはもう死ぬだろう。死んだらおれはどうなるんだ」と質問されたとします。そのとき、ケアのプロである看護師はどんな答え方が良かろうと、吉本さんはお思いになりますか。

吉本 僕は姪が子宮がんで亡くなったときに、「おじさん、どういうふうに考えたらいいの」と盛んに聞かれました。今だったら何か言えそうな気もしますが、そのときはこの段階でおれが言うことはみんな切実さに欠けているという感じがして言えませんでした。「車いすで病院の中でも散歩するか」と言っただけで、何も言えませんでしたね。今だったら多少何か言えそうな気もしますが。
 でも、どんなことを言っても、死については野次馬的にしか言えない。ご本人がどういう状態か、精神状態は了解できるところもありますが、全体としてどうきついのかは全く分からない。分かるほうがおかしいのであって、分からない。そんなことで何かを言ったら、余計なことを言うな。死という切実な問題でないときだったらいくらでも意見を言います、僕ならそうなります。
  (『老いの超え方』P243-P244 吉本隆明 2006年)


 吉本さんのこういう体験に類する、もう少し小規模のものは、誰もがこの生活世界で経験する。つまり、相手の陥っているある失敗や失恋などの悲しみや不幸の状態の度合いの違いはあっても、そうした知り合いなどにどう言葉をかけたものかと悩みつつ結局は通り一遍のなぐさめの言葉をかけたという経験は誰にもあるような気がする。しかし、この場合は相手が死に直面しているという場合で、生活世界での悩みのもうそれ以上はないような最上級に当たるものである。

 この吉本さんが姪の問いかけにうまく答えることができなかったというエピソードを私が初めて目にしたのは上の引用とは別の文章で、自分の思想の問題と関係づけて述べられていた。吉本さんの晩年に近い本だったと思うが、それを今は捜し出すことができない。その文章に初めて出会ったとき、わたしはひどく驚いたように思う。自分の思想や思想の言葉というものを総点検するような衝撃を吉本さんが姪の問いかけの言葉から受け取ったということについてである。そしてそれから、思想や思想の言葉というものを深く万人に届くことができるようなものとして構想するのは吉本さんの思想や思想の言葉ならそうだよな、と思い直した。

 そこで、わたしが初めて目にした文章ではないけれど、『心的現象論 本論』のあとがきに同様の文章があるらしいとわかったので、「吉本隆明資料集」(猫々堂)の分冊を持っているから買わないつもりだったその本を取り寄せてみた。



  『心的現象論』を書きはじめた時、個人の幻想が共同幻想につながるところ、それは集団性と社会性につながるところまで伸びていけばいい、その意図が推察してもらえるところまでいけばいいというかんがえで、「このように完成する」という意味合いはなく、「だいたい、いくところまでいったな」というところで止めて、そのままになっているのですが、その間、わたしの姪が子宮癌になり、医者から「これ以上の治療はない」といわれた。姪から「あてがないのならば、治療を打ちきりたい」という相談が来たのです。
 ・・・中略・・・当人はもうよくわかっていて、わたしに「おじさん、どうかんがえたらいいの」とたずねられた。要するに死ぬとわかったばあいのじぶんの気持ちをどうかんがえればいいのと聞かれて、それに答えられなかったのです。今も答えられないかもしれませんが、その時はもろに答えられなかった。
 何をどういっていいのかじぶんでもわからない、病院の中だけで車椅子で散歩しながら、世間話、何気ない会話をする以外何もできない、じぶんは何もできない、ほんとうに答えがない。


 『心的現象論』を連載している最中に、姪たちからそのことをいわれて、ほどほどまいったというか、反省にもなりました。つまり、通りやすいところばかり通るな、通りやすいところばかり通ると必ず抜け落ちてしまう重要なことがあって、実際問題としては、人にとっては重要なのであり、そこを適当なところで済ましているのではないか、それはきちんとしっかりかんがえぬかねばならない、それでなければ思想などといえないとおもったのです。
 答えることができないこれでは駄目だ。こんなことに答えられないのに、何か書いたり、やっていたりしても、そんなことでは意味がない、ほんとうに駄目なのだとおもいはじめるようになって、そのことをそれなりに一生懸命にかんがえたりしたのですが、姪のことでじぶんの思想的範囲、囲い、守備範囲の中では答えるだけのものは、じぶんにはない。徹底的に、はじめからこれは駄目だ。これについては、もしじぶんなりにやるならば、これからかんがえていかなければいけない、そういうふうにおもうまま、姪は亡くなったのですが、それは今でもひっかかっています。何とかじぶんなりの出口はないのか。じぶんだったらどうなのか。そういうことは今でもじぶんでわからないけれども、ひとつの問題としてはいつでもあります。
 (『心的現象論・本論』「あとがきにかえて―『心的現象論』の刊行にあたって」)


 そのことは、言語の表現にももちろん成り立つわけで、マルクスの基本的な自然哲学、自然にたいする考え方、じぶん以外の外界にたいする働き方における考え方の根本にそれがある。こういうマルクスの自然哲学であると、観念でわかっても、実感として、具象性を帯びたひとつの考え方としては、どうしてもこちらには入ってこなかった。
 「表現は自己疎外のひとつだ」という言い方をこの本でしていると思いますが、
 「それをじぶんはほんとうにわかっているのだろうか」とたいへん疑問であり、具象性を帯びて、わかったという感じにはならなかった。それが嫌で、この本を刊行するという話が出ても流れてきたという案配です。これをまとめる気にならないというかんがえになっていたのです。
 今はほとんど、それが具象性を持っている気がじぶんではしています。マルクスの考え方は最終的に、未だ滅びていない、とじぶんが信じているところなのです。
 ( 同上 )



 こちらの方がより詳しく語られている。
 わたしたちは例えば『心的現象論序説』の原生的疎外や純粋疎外という概念が何を指しその枠組みがどこから来たのか、つまりなぜ導入されたのかはわかるだろう。つまり、人間の身体的かつ心的な振る舞いというものをより構造的に捉えようとする基軸として。しかし、その背後に控えている表現者としての吉本さんの内面や言葉の揺らぎのようなものはわたしたち読者としてはなかなか突きとめるのは難しい。この『心的現象論』の刊行に対するためらいのように本人に語ってもらわないとそこまでたどり着くのはわたしには難しい気がする。このためらいは、おそらく姪の問いかけにうまく答えることができなかったというエピソードなどと連動していると思う。

 わたしの若い頃は、吉本さんの繰り出す概念やそれらが生み出す構造の理解に力を入れつつああ難しいなと思いながらたどっていた。しかし、吉本さんの対談や対談集が出るようになって表現者の深い舞台上の具体性や様々な揺らぎを知ることができるようになった。そうして、そういう微妙なことは表現されるあるいは表現された言葉にとってとても大切なことだという気がする。

 この社会は青年期や大人期を中心として稼働してきているように見えるが、人は、当然ながら青年期や大人期のみを生きるものではない。したがって、人の生活上でも知識世界上でも言葉はその本質は不変だとしても、幼年期、少年期、青年期、大人期、老年期と同一の人の言葉でも深みや色合いを推移していくもののように見える。

 人は、知識世界に限らず生活上のことでも、一般に若い頃は小さなくいちがいや微妙な揺らぎは飛び越えて大雑把な目の荒い言葉で対象(世界)を捉えがちだと言えそうだ。自分を振り返っても、そして吉本さんにもこのような内省が訪れたということは、そうだろうと思う。よりきめの細かい言葉で内省すると自分ががむしゃらに走行してきた言葉の軌跡が姪の問いかけによって大きく揺らいだのだと思う。

 この吉本さんが姪の方の問いかけにうまく答えることができなかったというエピソードは、知識の世界や知識の課題にとって何を意味しているのだろうか。現在の生に重心があるからそれは必然的でもあるが、現在の芸術も経済も政治も教育も、つまりあらゆる領域のものがまるで遙かなそれらの起源は忘れたかのように激しくどん詰まり感漂う中を走行し続けている。つまり、自分はなぜこのようなことをやっているのだろうかなど静かな深みで遙かな起源からの照り返しが時折問われることはあっても、本格的に問われることはめったにない。ただし、遙か起源からの照り返しへの内省が現在におけるよりよい走行にとって大切だといっても、遙かな起源を深く意識せざるを得ないということは、現在が病的であるということを意味しているのかもしれない。

 動物生から抜け出し自然とは異質な存在として自分を区別し始めた人間生を歩み始めた人間の、知識の遙かな起源を想起してみれば、その自然と人間の分離の意識の根っこから、根っこに向かってという二重の意識の志向性に知識は起源を持っているはずである。そこから遙かな時間が経過して、国家以前の小さな集落レベルの世界では、知識はこの世界をよりよく知ろうとする志向性自体であり、それは同時にそういう志向性を持ってしまった人間とは何かという問いを志向するものであったろう。人間的な活動の無意識的な部分も含めるとそうなる。そういう途方もなく長い日々くり返される時間の中から、人間のよりよい生き方やよりよい社会(関係)というものが生み出されてきたのだと思う。こうした途方もない長い時間の中で形作られてきた知識というものの原型は、たとえ一方に知のアクロバットを競い合ったり、知をひけらかしたり、知を政治利用したりするような現在的な風景があるとしても、現在の知識の中にも深く内在しているはずである。

 したがって、生活世界(集落)から離陸して、そこから遠く複雑になってしまった知識の世界は、生活世界と無縁なように振る舞うことができるとしても、その起源(生まれ)を抹消することはできない。ほんとうは、知識の複雑な世界を上り詰めてきたとしても、知識の言葉は、吉本さんが姪の問いかけに虚を突かれて内省の言葉を走らせたように、大多数の普通の人々が生活世界で抱くありふれた疑問に深く本質として答えることができなくてならない、あるいは知識の起源からしてそのような問いかけに答えるような言葉でなくてはならないということだと思う。


吉本さんのおくりもの 12 知識の第一義的な課題 (既発表に加筆訂正)

2017年04月07日 | 吉本さんのおくりもの

 吉本さんは、知識世界に長く深く関わってきた。以下の引用部分では、知識というものの本質に触れている。わたしたちは、知識の現状にはいくらか通じているかもしれない。あるいは、知識の現状に到る道筋についてもいくらか通じているかもしれない。ギリシアを何度も反芻した末の近代ヨーロッパ哲学(ヘーゲルやマルクス)とロシア革命以降の「マルクス主義」、ロシアや中国の革命の無惨な結末と構造主義やポストモダンの潮流。わたしはそれらにイカレた覚えはないがいくらか触れたことはある。「東西対立」という虚構の神話の崩壊の後、知らない間に一時期の流行だったように思想やイデオロギーの潮は引いていった。この列島では知識世界はいつもそのような現象を呈しているように見える。もちろん、それらの思想が生まれた国々では発生する必然性とそれなりの重みをを持っていたはずである。

 わたしたちの生活圏における感受や感覚はずいぶんと欧米化を遂げてはいる。しかし、それはわたしたちの意識の表層から中層にかけてであり、意識の深層は太古から連綿と少しは形を変えつつ連続しているように見える。そのようなわたしたちの意識の深層に出会うためには欧米の流行思想ではなく、むしろ、柳田国男をこそ読むべきではないかとわたしは思っている。そこには柳田国男というすぐれたフィルターを通して見つめ蒐集されたこの列島の人々の生活世界の主流の精神史が独特の色合いや匂いを伴って像を結んでいるからだ。

 わたしたちは、知識というものをヨーロッパ近代以降や古代の中国文明期以降などからもっと時間を遡るべきなのだ。少なくとも、ちょうど知識(宗教性)というものが発生して集落世界から分離され始める時期にまでは。そこでは知識(宗教性)が集落の普通の人々にとってどういう必然として生み出され、どういう相互の関係にあったか。そこでの有り様が、遙かわたしたちの現在の姿にたどりつく運命を秘めているはずである。そのような知識(宗教性)の起源の場所から照らし出せば、現在の知識の大層な姿や空無さにはある深い目まいを感じるべきなのだ。少なくとも知識の世界に入り込んでしまった者は。



10 知識とは何か

しかし、しかしですよ、もし人間に知識という富というものが、もし備わっているとするならば、それが大事なもの、知識という富が大切なものだとするならば、労働者だってこんだけのことしか感じられないところで、これだけの全部のことを感ずるっていうふうになることができるわけなんです。また、インテリっていうようなものは、知識についてはいわば無際限に拡大する能力と、それから想像力っていうようなものを行使する。たとえば、部分的でありますけれど、行使する自由っていうのは、一時的でありますけれど、自由っていうのをもっているわけです。だから、その自由っていうようなものは、やっぱり問われなければならない。どういうふうに問われなければならないかっていうと、その自由っていうのは無限大にまで拡大しなければならないっていう、そういうことを絶えず問われているんですよ、インテリっていうのは。つまり、インテリゲンツィアあるいは知識っていうものが問われるっていうことは、これだけしか感じない人が世の中にはいるんだぞっていうことを、そういうことを知らなくちゃいけないっていうことはどうでもいいんです。つまり、悪いことじゃないんですけれど、それは第二義的なものなんです。知識にとっては第2番目のことなんですよ。知識にとって最大限に重要なことは、無限大に、知識っていうのは無限大に感じ、それから、無限大に想像力を働かせ、無限大に考えるっていう、そういう知識っていうのはいわば、議論をもってるぞっていう、それが知識にとっての課題なんですよ。知識のためにいろいろな、たとえば経済的な制約のために、労働者、大衆っていうようなものは、これだけしか感じられないんだよ、かわいそうなんだよっていうようなことを、なにも同情はするなんてことはどうでもいいわけなんですよ。つまり、どうでもいいっていうのは第2番目のことなんですよ。しかし、そうじゃなくて知識っていうのは、本当は無限大に感じなければならない。あるいは無限大に考えなければならないのに、たったこれだけのことしか考えることをしていないとすれば、それは知識が問われるわけなんです。知識の怠慢っていうようなものは、そこで問われるわけなんです。だから、知識っていうのは、その時代の人間が感じている自由っていうものを、自由の範囲っていうようなものを感じているとすれば、その範囲を同じ時代の人が感じているよりもはるかに多くの自由っていうようなものの範囲を感じ、考えなければならないっていうものが、知識にとって第一義的なことなわけなんです。


11 工場体験の意味

 つまり、その観点から言いますと、僕はヴェイユっていうのは、そこがダメなような気がするの。僕の考えでダメだっていうんですよ。ダメなような気がするんで、つまり僕とは違うなって思うの。考え方が違っているなって思うの。なぜかっていうと、ヴェイユはそこで、無際限の知識っていう富を自分が持っている。しかも、ヴェイユっていうのはソルボンヌの秀才ですから、当代の第一級の知識人ですから、なおさら罪を感ずるわけですよ。罪なんです。知識を持たない人に対して、あるいは、制約された場所でもって働いているそういう人たちに対して、無限大の罪を感じていたわけなんです。だから、そこに無限大に自分を同化していくことによって、なにかを獲得していこうっていうふうに考えていくわけなんです。
で、この考え方、決して僕は馬鹿だとかなんとか言いませんけれど、しかし、僕はそれは違うと思います。ヴェイユの考え方の中で、違うところがあるんです。違うと僕が思うところがあるんです。それは、ヴェイユだけじゃなくて、宮沢賢治なんかでもあるんですよ。似てるところがありまして、つまり、知識っていうものは罪悪だって、つまり、知識っていうものに罪を感じるっていう観点があるのですよ。宮沢賢治にもあるんですよ。自分を無限に超人的なところに追い込んでいくわけです。この追い込み方っていうのは、非常に宮沢賢治とよく似ているんです。
しかし、その考え方は違うと僕は考えます。こういうことを宮沢賢治でも言います。宮沢賢治の詩の中にも童話の中にもしきりに出てきますけれども。自分も農学校の先生をしてましたから、宮沢賢治は生徒たちに与える詩みたいのがありますけど、君たちがのっぱらに出て、畑や田んぼに出て、それで、ひとつひとつ耕しながら、そして、身につけていく、そういう学問の方が、学校行ってテニスをしながら教わるような、そういうものに比べたら、本当の学問っていうのはそういうのだっていうような言い方を、宮沢賢治もします。
しかし、僕はそうじゃないと思ってる。それは間違いだと思っています。つまり、知識っていうものは、いったん拡大した、獲得した、人類が獲得した、人類の誰でもいいんです。最大限に獲得した知識、あるいは感受性、そういうものは、それが一見退廃的であろうとなんだろうと、いったん獲得した精神の範囲っていうものは、逆に戻るっていうことはありえないのです。つまり、これを逆に戻すことはありえないのです。そういうことはないのです。知識っていうのは技術よりも、科学技術よりも、もっと確かなんです。科学技術っていうものは、やっぱり人間が統御すれば、わざとシンプルな機械を使ったりすることはできる。そういう社会を作ることもできるんです。しかし、知識だけは、いったん獲得された、人類の時代が長い間あれして獲得した知識の範囲っていうものは、これをせばめることはできないのです。だから、これを乗り越えるためには、それよりもより大きな自由っていうもの、より大きな感受性、想像力、それから思考力でもって、これを包括する以外に知識がそれを乗り越える道っていうのはないのですよ。ここのところが非常に重要なんです。
つまり、ここのところで、僕たちは、いつでも大衆っていうようなことを考えたり、あるいは貧困っていうことを考えたり、あるいは虐げられし人っていうものはどうなってるかとか、あるいは圧制されているものっていうようなものを考える場合に、いつでも突っかかってくることは、そこなんです。そこの問題です。そこでいつでも突っかかります。そこで、いつでも岐路に立たされます。知識っていうのはいつでもそこで岐路に立たされます。おまえはこういう人たちがいるっていうことを理解するところに、おまえは理解力を行使したり、また、その中に飛び込んでいかなければならないっていうような言い方が一方でなされます。しかし、一方でそのなされ方、言われ方の中に、一種のいつでも欺瞞が含まれます。いつでも一種の、どう言ったらいいんでしょうか、この息苦しさっていうのは名付けようがないけれど。しかし、それは間違いであろう。感覚が告げるところでは、それは間違いであろうっていうものが、いつでも付きまといます。それで、いつでも当面するものは、いつでもおんなじです。だからその気張っている中で、気張っているところで、ヴェイユがヴェイユなりに、知識の課題を無限の罪のところにもっていくわけです。
しかし、僕の考えではそうではありません。宮沢賢治もそういうふうにもってきます。だから、自らも超人的に自分も超人的なところに追い込んでいくわけです。しかし、それで潰れるわけです。潰れてしまうわけです。それは壮絶な潰れ方ですけども。しかし、僕はそうじゃないと思います。僕は、それは違うんだと思います。それはどこが違うんだって言うと、今言いましたように、知識っていうのは、いったん人類が獲得された知識、あるいは感覚とか思考力っていうようなものは、絶対にそれは逆戻りはしないっていうことなんです。だから、これに対して対立する知識を持ってきたってダメだっていうこと。これを克服するには、あるいはこれを総括してしまうには、これを無視して否定してしまうには、これ以上に知識を、あるいは感受性、想像力、思考力の範囲を拡大する以外に方法がないっていうことなんです。
だから、そこのところでたぶん、ヴェイユの考え方っていうのは、一種の凄まじい倫理観に追い込まれるっていいますか、そういう最初の兆しっていうようなものが、そこで現れてきます。これがたぶんヴェイユが当面した工場体験って言いますか、工場生活で体験したいちばん大きな問題なわけなんです。それでたぶんこういうところで、ヴェイユは何をしたかっていいますと。ひとつひとつたとえば、労働者っていうものに、知識や判断力や、それから教養とかゆとりとかっていうのを与えるには、どういうやり方をしたらいいんだろうかっていうのは、どうやったら日々の息苦しさっていうところから自分を一時的にであれ、自分を開放するみたいな、そういうことをどうやったら実現できるだろうかっていうことをしきりに考えていきます。

「シモーヌ・ヴェイユの意味」(吉本隆明の183講演 FreeArchive A050 講演のテキストより) ※これは『言葉という思想』に手を入れて整序された文章として収められているけど、生の語りの方を引用した。




 この引用部分では、二つのことが語られている。まず、人間的な活動の自然(必然)性から次々に増大していったり深まったりする「知識」というものの第一義の課題は、「無限大に想像力を働かせ、無限大に考える」ということだと言われている。二つ目は、「知識」の世界に入った者が知識を罪悪なものだと見なすことがあるということが語られ、その例としてシモーヌ・ヴェイユと宮沢賢治が挙げられている。

 「知識」の第一義の課題は、人間というものの本性(それは未だ十分に明らかにされているわけではないが)に根差した捉え方だと思う。共通性として分離・抽出してみれば人間には、人を思いやるような性向(結(ゆい)などの様々な相互扶助組織の存在)もあれば、邪悪な性向(国家による経済・政治・文化の独占の歴史)もある。これらの人間の二つの性向が共同性として組織化された様々の形態をわたしたちは現在までの歴史の中に見出すことができる。

 しかし、柳田国男の貴重な「おくりもの」によって過去の人間の生活世界の推移や動向を捉えてみたら人間のその前者の性向が束ねられて歴史の無意識的な本流を駆動してきたのは間違いないと思われる。そして、吉本さんの「知識」の第一義の課題ということも、その歴史の無意識的な本流に添って「無際限の知識っていう富」として捉え返されたものである。その歴史の無意識的な本流に潜在する、大多数の普通の人々の、より良い生活、より良い人と人との関わり合い、より拡大された自由などの潜在的な欲求に、「知識」というものの第一義の課題は「無限大に想像力を働かせ、無限大に考える」ことによって答えることではないか。そのことは同時に「知識」を無限大に追究するその人自身のそれらに答えることでもある。さらにそのことは、知識(宗教性)というものがなぜ生み出され、それによって何をしようとしたかという知識(宗教性)の起源を反芻して捉えられた知識の意味や課題だと思われる。

 ところで、語られている二つ目の「知識を罪悪なものだと見なす」ことはどこからやって来るのだろうか。思うにこのことには、「知識」の起源ということとそこからの歴史的な展開の事情ということ、そして人間的本質の性向などが関わってくる問題である。

 シモーヌ・ヴェイユも宮沢賢治も抱いてしまったという「知識っていうものは罪悪だ」ということは、知識というものが荘厳な台座の周辺のものとして長らく支配上層や文化上層によって独占されてきたという歴史的な自覚とそのことに対する自己倫理が促してきたのかもしれない。また、その自己倫理(罪悪感)を逆に組織化すれば、政治や社会を転倒しようとする革命によって、共同的に組織された負の出来事として中国の文化大革命など歴史は無数の血なまぐさい過ちを持っている。

 知識(宗教性)は起源においては科学であり宗教性であり世界観であったはずである。つまり、その当時の人々の感じ考え方の総体としてあったはずである。そしてそれは世界(自然や神々)と交通する力を持つなにかすばらしいものと人間には見なされていたと思う。しかし、大多数の普通の人々よりも世界とうまく深く通じることができる知識(宗教性)を持った人々が巫女やシャーマンとして登場し、次第に専門化していった。ここに、「知識(宗教性)」は分離の徴候を持ったことになる。さらに国家が成立し、政治や文化上層が高度化するにつれて、そのことによって「知識」の活動も格段に促進され、と同時に専門家独占化されていった。つまり、大多数の普通の生活者と政治・経済・文化上層との二層分離である。

 初めは、単に普通の人より物知りだったり、大いなる自然(神々)とよりうまく意思疎通ができるなどから、次第に普通の人々から〈特別な眼差し〉を向けられたり、特別な扱いを受けたり、自身も自分は〈特別な人〉なんだという自覚やおごりを持つ者となり、知識(宗教性)が集落の生活世界から浮遊していく。知識(宗教性)の中空性と二層分離が、知識(宗教)がそれに携わる者におごりや特権性や権力性を持たせることにつながっている。これを負性と見たのが、シモーヌ・ヴェイユや宮沢賢治が抱いた知識に対する罪悪感だったと思う。いずれも知識の自然性としての有り様に沿ってなぞられている。そして、この本質とそこから生まれるそのような二種の反応は、太古以来現在でも不変である。

 こうしたことを背景として、大多数の無名の人々に眼差しを向けたシモーヌ・ヴェイユも宮沢賢治も、自らがその「知識」の世界にいることから負の自己倫理(罪悪感)を喚起されたのだろうと思う。言い換えると、その落差の歴史性を歴史性そのものと捉えることなく、重圧として自らに促す自己倫理として受けとめたからであろう。こういうことは、日常世界でもよくあることである。もし自分が多く持っていてそれが精神的な負担なら他人に分かち合えばいいことである。シモーヌ・ヴェイユや宮沢賢治の場合なら、「知識」の第一義の課題に黙々と邁進することがその分かち合いに当たっている。


※ この文章は、以下の文章に少し加筆訂正したもの。
  知識の第一義的な課題 付、わたしの註
   ―「シモーヌ・ヴェイユの意味」(吉本隆明)より (2017年03月11日発表)


吉本さんのおくりもの 11.考え、表現することの二重性

2017年04月01日 | 吉本さんのおくりもの

 知り合いの奥野健男が太宰治を対象とし、江藤淳が夏目漱石を対象として、それぞれが深く追究しているようだから、もう自分は太宰治や夏目漱石を論じなくてもいいか、と吉本さんが対談かインタビューで語ったことがある。こういう考え方はや姿勢は、科学の研究では一般的なものである。

 現在では科学者間の熾烈な競争があることは確かだろう。企業の研究開発部門にいる場合は、いっそうの競争の熾烈さがあるだろう。だから、海外の情報を含めて自分の研究分野に関係することは、誰がどんな風に研究していて今どの段階までいっているのかということを研究発表論文などを頻繁にチェックして把握しているはずである。

 他人の研究が自分の研究分野と同じでも、他人が研究したものを別のやり方でたどり、別様の展開が予想されるなら、他人がやってしまった研究分野でも依然として推し進めていくということはあるだろう。しかし、一般的には、他人がある分野の研究を十分に渉猟し尽くしていると判断したら、そこはその人に任せて自分は違う分野を追究するだろう。 
 吉本さんの語るところに寄れば、『言語にとって美とはなにか』はその様にして成立している。つまり、近代批評というものを打ち立て格闘した小林秀雄がまだやってないのは言葉の考察だということで、表現された言葉という誰もが受け入れるだろうことを出発点として言葉や表現や芸術の考察に取りかかったということである。

 科学者のそうした研究に対する考え方や研究姿勢は、科学者の倫理というより、研究開発は経済社会と密接な熾烈な競争であるということと対応しているからである。研究開発が経済活動とリンクする特許と結びついたりするから、他人がやった研究をたどったりすることは無意味なのである。もちろん、学校での科学の教育は別としても、この世界の有り様を明らかにするという科学研究の本質性から見ても、他人がやってしまった研究は特に疑念が起こらない限りたどる必要はないと言えるだろう。吉本さんの太宰治や夏目漱石を取り上げるのはもういいかという考えや判断は、こうした現代の経済社会を背景とする科学者としての体験から来る自然性、つまりそういう判断や姿勢を自然と見なすところから来ているだろう。

 しかし、この問題は、もう少し先まで広げて考えることができるかもしれない。
 まず、わたしたちが考え、表現することには次のような二重の意味が考えられる。

 考え、表現することの二重性
1.個としてのよりよく生きようという固有の動機
2.同時代の他者や後の世代の人々への無償の贈与

 現在は、考え、表現することをプロの仕事としている人々は、経済社会や著作権などとまだ結びついている。そして読者や観客は、それらのプロの仕事にお金を出して本を買ったり、講演を聴いたりする消費という経済活動として参加している。経済の視線からすれば大方はそれでお終いかもしれない。しかし、それがすべてではない。作者たちの考え、表現する過程には自らの精神的な消費(個々の充実感など)も伴っているし、読者や観客にも精神的な消費(個々の充実感など)がある。そらになんらかの精神的な生産へのきっかけをも含むかもしれない。したがって、作者たちと読者や観客たちのあいだで受け渡されるものが経済活動の中に収まってしまうわけではない。

 あの親鸞でさえ名利(みょうり、名誉や利得。)に囚われる自分というものを内省したように、人間世界の現実界では名誉欲や人を出し抜こうとかもっと生々しいものが渦巻いているのかもしれない。それらは経済社会の競争というものに思想や芸術も組み込まれているから人の本性のようなものがそれらによって開拓され増幅されて出てくるのだろう。一方で、吉本さんも述べていたように経済社会の競争というものは行きがけだけは人が思想や芸術を磨くのを手助けしてくれるという面も持っている。

 人が考え、表現するということは、プロの場合はそうした経済社会に囚われその渦流に揺さ振り続けられるということがあるとしても、それが考え、表現するということの本質ではない。人は、個の固有のモチーフから出立し、時代や歴史的な現在というものとぶつかり合いながら、考え、表現していく。その個の固有のモチーフは、一方で自らがより良く生きようというモチーフから出立し、その生存の流れに還流していく。もう一方では、本人が意識しようがしまいが同時代の他者や後の世代の人々への無償の贈与として、〈おくりもの〉として言葉は放たれることになる。すぐれた考察や思想は、著作権などの経済や法などの現世的なしばりを超えて、無償の〈おくりもの〉として言葉は贈与されるのである。そして、その〈おくりもの〉を受け取った人は、同じようなことを反復することになる。


吉本さんのおくりもの 10.吉本さんの言葉というものの捉え方 (2017.2) 既発表文

2017年03月30日 | 吉本さんのおくりもの

 吉本さんのおくりもの 10.吉本さんの言葉というものの捉え方

                ―言葉という次元


吉本 
 ぼくは言葉というのは、表現しかないと思ってるわけです。表現されなければ言葉はないと思うわけね。だから、ぼくが言葉って言うときの言葉は、表現された言葉になるんですよ。


 ぼくの論理で、言葉っていう場合には、表現された言葉っていうふうになるんです。表現された言葉っていうのは、何が違うかっていいますと、表現する途端に内部ができる
(註.1)ということだと思うんです。つまり、内部がここにあって、言葉が何か言われるっていうことは、ほんとは全く嘘だと思うんですけど、しかし、表現された言葉っていうのができたときに、同時に内部ができるっていう、そういう対応の仕方になると思うんです。


表現された言葉だけが問題なんで、表現された言葉というのがあると、言葉を表現した途端に、反作用で、自分は言葉から疎外され、疎外された分だけ内部がそこに生じる。なぜ内部が持続的に生ずるように見えるかっていうと、そういうことを人間は繰り返しているから、何となくいつでも同じ内部が子供のときからずーっと連続しているみたいな気にさせられるわけです。それは全く幻想なんだけども、どうしてその幻想が生ずるかっていったら、やっぱり表現する途端に内部ができるから。表現しなければ内部なんかないんだけど、途端に内部ができるみたいな、そういう対応関係があるところで、内部と言葉っていうものとの関係が出てくるというところで扱いたいわけなんですよね。


 ぼくは、内部っていうのが持続的、実体的に人間にあるっていうふうにちっとも考えてないんですけれども、言葉を表現した途端に内部は生ずるものだ、同じ言葉を何回も発してると、内部がいかにも形あるように見えちゃうもんだよっていう意味合いで、内部というのを問題にするわけなんです。

(「内なる風景、外なる風景」(後編) 鼎談 吉本隆明・村上龍・坂本龍一
 月刊講談社文庫『IN★POCKET』1984年4月号)



 (註.1) 「表現する途端に内部ができる」ということについて

 「表現する途端に内部ができる」ということは、わたしたちの現在的な状況としても、あるいは言葉のようなものを表現し始めた初源の人間の起源的な状況としても、二重に捉えることができる。後者から見ると次のようになる。
 人間が途方もない時間の中で内部になにか「しこり」のようなものを形成してしまって、ある時そこから促されるように「あ」とか「う」などの言葉のようなものを表現してしまったとすれば、その表現自体が反作用のように人間にその言葉に対する印象や感じのようなものを与えてしまう、つまり、「内部」が浮上する。

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 吉本さんが、言葉について本質的なことを語っている。
 わたしは、解剖に立ち合ったことはないし映像で見たくらいだが、人を解剖しても内面的な内部と呼ばれる実体的な部位が見つかるわけはない。このことはおそらく誰もがなんとなく認めそうな気がする。しかし、人間の記憶ということになると、学者の中には「記憶細胞」というものが実体として存在すると考える者もいる。あるいは遺伝子を探索しているかもしれない。記憶には植物レベル、動物レベル、人間レベルというものがあると思う。人類は未だその記憶というものの機構がよくわかっていないが、少なくとも人間的な記憶は植物レベルや動物レベルの記憶と何らかの関わり(連続性と位相差)を持っているはずだ。そして、わたしの手持ちのものからは漠然とした推測程度でしか言えないのだが、人間的な記憶は上の吉本さんの言葉という次元の捉え方と同様のものではないかという気がする。もちろん、実体としての脳の各部位やその間の神経網の活動や化学物質などが記憶というものを支えているのは間違いないはずだが、それとは違った位相に言葉やイメージとして表現されるように見える。

 人間的な諸活動は、その機構がわたしたちにはっきりとわかっていなくても、わたしたちのその機構の捉え方がたとえ誤っていたとしても、人間的な諸活動自体は心臓が動いている不随意運動のように日々持続している。50歳代辺りから記憶を引き出すのが少し困難になる物忘れなどのわたしたちの日々の経験や、あるいは人が以前より長生きするようになったから問題化していると思われる「認知症」などの新たな経験が、わたしたちの記憶の機構の捉え方に以前にも増して深い洞察を促すかもしれない。それらのことは、わたしの素人の推測によれば、支えられる実体とは別次元の記憶や認知などのシステムが、支える実体的な次元の消耗や老化などによって、クリアーに機能しない事態のことを指しているのかもしれない。

 言葉は、実体的な次元(音や文字や身体など)を必ず伴うけれども、吉本さんが述べているようなそこから飛躍した位相の異なる幻想的な次元の時空に表現される。一方、読者や観客は実体的な次元(音や文字や身体など)を介して幻想的な次元に表現された言葉や映像などを味わうのである。しかも、言葉は幻想に過ぎないのに人の心を深く傷つけたり、あるいは深く感動させたりもする。言葉の表現に限らず、職人さんの技能でも、ともに先ほどの記憶ということも関与しているはずだが、体の中に実体として技能が存在するわけではない。未だその微細な機構はよくわからなくても、言葉の表現でも或る技能でも日々くり返していくと幻想的な次元に蓄積するように、幻想のつながりとして強化されていくのではなかろうか。そして、その表現の場に座ると、蓄積、強化された幻想的な言葉や技能の次元にたちどころに接続されるのではないだろうか。

 ただし、技能の場合は、言葉と比べて身体性との関わりが強いように思われる。わたしの経験を持ってくると、福岡で高校の教員になりたての頃飛騨高山にスキー修学旅行に行ったことがある。スキー修学旅行はその高校では初めてだったので下見もあり、わたしも下見に行った。このとき初めて飛行機に乗った。スキーなんて一生縁がないと思っていたが、三日間のスキー教室は、十数人に一人コーチがついて生徒も教員も三日間でまずまずの滑りができるようになった。とても楽しかった記憶がある。ところで、それから二十数年後阿蘇の人工スキー場で偶然二度目のスキーをすることになった。滑ってみて二十数年前とは比べものにはならない滑りではあったが、自分の身体が、スキーで滑る感覚をうっすらと記憶しているように感じられたのは驚きであった。たぶん、自転車乗りも同様のことが言えるのではないかという気がする。技能の場合も言葉と同様のイメージや幻想性があると思われるが、それ以上に言葉を離れた身体感覚的なイメージや記憶が大きな部分を占めているように感じる。それは動物性の記憶に近いと言えるだろうか。

 現在の実体的なものを重視する自然科学の科学者は、言葉を考察したり言葉を考慮に入れたりということをほとんどしないだろうが、したとしてもこうした言葉の捉え方はしないのではないかと思う。しかし、例えば自閉症の理解やAI(人工知能)の研究では人間にとっての言葉とは何かということが大きく関わってくるはずである。実証や実体的なものを重視する(自然)科学は、次々に細分化され狭苦しい世界に迷い込んでいるように見える。

 ヨーロッパのルネッサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチは、音楽・地理学から解剖学・物理学まで、あらゆる学問に通じていたと言われている。おそらくヨーロッパの中世期以降に本格的に学問が文系と理系というように分離し、細分化してきたのかもしれない。わが国では明治期にそれを輸入して現在に到っている。進学校の高校生ならほとんどその区分けを自然なものとして受け入れているような気がする。大学では、必要に迫られて理系内での科と科にまたがったり文系と理系の境界を横断する学問も学部新設などで試みられてきた。わたしは学問という世界とは無縁だが、学問というか知の世界というか、この未来的なイメージを描くとすれば、細分化の状況は今後も続くだろうが、総合性としての人間という観点からあらゆる人間的なものを対象とする〈科学〉というものが必然として生み出されていくのではないかというイメージをわたしは持っている。人類の歴史は、細分化されてきた近代に対して近代以前の総合性をまた新たな形で反復するというようなことをこれまでにやって来ているからである。

 ところで、この鼎談以前には、『言語にとって美とはなにか』(1965)、『共同幻想論』(1968)、『心的幻想論序説』(1971)と吉本さんの主要な著作がある。つまり、ここでの吉本さんの〈言葉という次元〉という考えの背景には、それらの大きな諸考察を経てきたという経験がある。また、長い詩作や思索を持続してきたその経験の実感が込められている。単なる思いつきではないのである。『言語にとって美とはなにか』や『心的幻想論序説』には、この〈言葉という次元〉という考えと同じような考え方が述べられてもいた。

 一般的には、吉本さんの〈言葉という次元〉の考え方、言葉や内部という捉え方は、まだなじみがないような気がする。しかし、わたしには妥当な捉え方だと思われる。そして、それは今後大きな基本的な視座になっていくと思う。現在的な主流の捉え方にもなぜそう捉えるのかという人間的な自然慣性からの必然的な理由がありそうに思うが、このわたしたちの文明史が更なる自然を掘り起こしていく中から、その妥当性も徐々に普遍的なものとなっていくような気がする。なぜならば、人類史の本流は、支流にずれ込んでも必ず人間というものの本来性に従うように修正されていくと思うからだ。そして、吉本さんの〈言葉という次元〉の考え方、言葉や内部という捉え方は、吉本さん自身の詩作体験やものを考える体験の実感から出発して人間の普遍に開かれているように見える。つまり、人間的な本質や人類史の本流に深く届いているとわたしは思っている。

※この文章は、「吉本さんの言葉というものの捉え方 付「わたしの註」 」を解題しました。

 

 


吉本さんのおくりもの 9吉本隆明「カール・マルクス」から現在へ (2016.4) 既発表文より

2017年03月30日 | 吉本さんのおくりもの

 ここで、わたしたちの現在に戻ってくれば、わたしたちの現在は次のような自然に対する関わり合いやその意識が大きく変貌している段階に突入しているのではないかという問題がある。当然のこととしてこのことが作者とその言葉を介して生み出される芸術作品の表現にも影響を与え浸透しているものと考えられる。

 この今までにない時代の変貌は、世代によっても感じ方や捉え方が違うように思う。若い世代はその変貌を割と自然なものと感じているかもしれないし、わたしのような老年に近づいた世代なら前段階と比べることによってその変貌の徴候を見つけ出しやすいということがあるかもしれない。わたしたちの世代なら小さい頃の見聞きした体験からすれば、まだ「百年前の日本」の風景にあんまり異和を感じなかっただろう。そして、成長するに従ってそれとの連続性をどんどん離脱していったという感じを持っている。それは「高度経済成長期」に当たっていたと思う。いずれにしても、現実の渦中にあっては人はいろんな異和があったとしても少しずつ変化に慣れていって、それらを自然なものと化していく存在であるから、変貌の進行になかなか気づきにくい。しかし、それらがある程度積み重なってきた段階で、後振り返ってみると社会が大きく変貌していたということわかって愕然とすることがある。



しかし、わたしのかんがえでは、人間の自然にたいする関係が、すべて人間と人間化された自然(加工された自然)となるところでは、マルクスの哲学は改訂を必要としている。つまり、農村が完全に絶滅したところでは。
 たとえば、現在、アメリカでは、もっともそれに近づいており、ソ連、日本、ドイツ、フランスではそれにおくればせている。中国ではやっと都市と農村との分離がもんだいになり、農本主義を修正する段階にせまられている。現在の情況から、どのような理想型もかんがえることができないとしても、人間の自然との関係が、加工された自然との関係として完全にあらわれるやいなや、人間の意識内容のなかで、自然的な意識(外界の意識)は、自己増殖とその自己増殖の内部での自然意識と幻想的な自然意識との分離と対象化の相互関係にはいる。このことは、社会内部では、自然と人間の関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想との関係のようにあらわれる。だが、わたしはここでは遠くまでゆくまい。
 (「カール・マルクス」P191 吉本隆明全著作集12 思想家論 勁草書房)




 この「カール・マルクス」は、巻末「解題」によると、今から、50年ほど前の昭和三十九年(1964年)に発表されている。わたしが学生時代にこの引用部分に出会ったとき、吉本さんはこの世界における人と世界との関わり合いとその行く末をそこまで見通しているのか、と深い衝撃と感動を味わったのを覚えている。

 さて、そこから50年ほど経っている。わたしたちの現在では、すでに「このことは、社会内部では、自然と人間の関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想との関係のようにあらわれる。」という段階に到っていると思う。わたしたちはその渦中に生きている。例えば、キュウリやトマトが年中あって従来のそれらのイメージとは違ってきているとか、銀行などの対面でのお金の出し入れや送金等だったのが、機械装置やネットワークを介して行うようになってきているとか、徴候はいろんなところから引き出すことができる。ここでは、前回利用した政府統計で、「産業(3部門)別 15 歳以上就業者数及び割合の推移 -全国(大正9年~平成 22 年)」を利用して、 産業社会の変貌を確認しておきたい。

 ここには表として挙げないが、その政府の統計の、各産業の「就業者数及び割合の推移」(大正9年~平成22年)というのは、産業の従事者数であって産業の規模そのものではないだろうが、その時代的な推移は、各時代での(第一次産業、第二次産業、第三次産業)の社会に占める割合に対応していると見なすことができる。

 各時代での(第一次産業、第二次産業、第三次産業)の従事者の割合。
1.「都市と農村問題」が切実だった戦前(大正9年)では
  (54.9、20.9、24.2)

2.上記の吉本さんの「「カール・マルクス」」が書かれた頃(昭和40年)では
  (24.7、31.5、43.7)

3.現在に近い時期(平成22年)では
  (4.2、25.2、70.6)

資料
表8-1 男女,産業(3部門)別 15 歳以上就業者数及び割合の推移 -全国(大正9年~平成 22 年) (www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/final/pdf/01-08.pdf)より


 この統計データによると、わが国では農村が縮小して均質化された都市の中に小さく収まってしまったイメージが得られる。もちろん、わが国でも農業は相変わらず存在するし、昔と余り変わらない農業の形態もあれば、機械化が十分進んでいる形態もあるだろう。また、それらの一方に例えばネットやパソコンによる農の制御や管理、あるいは「植物工場」など高度化してきている農業の形態もある。しかし、上の統計データでわかるように、社会内では農業は存在しても「農村が完全に絶滅したところ」に近いと見なすことができる。

 わたしたちは、一次的な自然との関係から一段高度化した自然との関係という新たな社会の段階に到っている。この社会のあらゆる問題群の現象が象徴するのは、この社会のあらゆる分野でこのような現在的な問題を検討することをわたしたちは促されているということだろう。

 吉本さんが、若い世代の現在の詩について、自然というものがない、それらは「無だ」というようなことを述べていたことがある。(『日本語のゆくえ』2008年) おそらく以上のような社会の大きな変貌の現在を生きる、わたしたちの感性や意識の現在的な自然性とそれらの内省とが表現の世界でも促されているということであると思う。

※この文章は、「表現の現在―ささいに見える問題から⑫-補註3 (吉本隆明「カール・マルクス」に触れ)」を解題しました。


吉本さんのおくりもの 8 少しすっきりしたこと ―吉本さんの言葉の癖 (2016.3) 既発表文

2017年03月30日 | 吉本さんのおくりもの

 以前、「参考資料―吉本さんの『ほんとうの考え・うその考え』のこと」(「消費を控える活動の記録・その後 2 (2015.6~10)」)の「わたしの註」の末尾で、吉本さんの「対称」という言葉の癖のようなものについて触れたことがある。そんなに重要な問題とは思わなかったけれど、ずいぶん長く気になっていたことである。

 最近になって、「短歌味体Ⅳ―吉本さんのおくりもの」を書き進めている関係で、遠い昔に買って若い頃読んだ『吉本隆明全著作集 2 初期詩篇Ⅰ』(勁草書房 昭和46年)を何十年ぶりかで開いて見ていたら、巻末の「解題」(川上春雄)にそのことがちゃんと書き留めてあった。後振り返れば吉本さんの著作の数は膨大で、雑誌に載ったり、本として出版されるものを次第に追っかけて読むようになっていった。傍線が引いてあるから、遠い昔一度は読んだはずのその「解題」のことはわたしの記憶のどこにもなかった。



 用字仮名づかいについては、この解題でふれておかねばならないことは、著者の用語、仮名づかい、あるいは修辞の上で甚だ特色に富むことである。ついては、この企画の第一回配本がこの第二巻『初期詩篇Ⅰ』となる関係から、第一巻の刊行を待たずに、ここに一括して用字用語の大概を記しておく。

 且てたれもがそうとはおもはなかつた不思儀な対称が視られるでせう。

 右の文でたとえば、著者の意識的な好みなり、無意識的な誤謬なり、その混在なりの一端がみられる。しかも、そう(「そう」に傍線)はあるときはさう(「さう」に傍線)となり、対称は、ひとつの文章のなかにおいてさえ、対象、対照を併用していることもあるから一貫した用法ではない。これを校正係から[嘗て]あるいは[かつて]と訂し、[不思議][対象]と訂することの申出があれば、著者はただちにこれを諾するであろうということは、このようなことに固執しない人柄からみて、およそ明らかである。文学的な記録を意識的に行為するようになった米沢在住時代以降、昭和四十三年(一九六八)の現在にいたるまで、依然として、

 (且て)(たれ)もが(そう)とは(おもは)なかつた(不思儀)な(対称)が(視)られるで(せう)。(引用者註.カッコの部分は、傍線あり。)

 というような筆記法によっている。もちろん手紙の文面でもおなじである。



 しかしながら、かつて「不思儀」を「不思議」と書きかえしなかった編集者校正者は存在しないのであったが、この著作集全般の校訂に際しては、あえて原型をのこして、著者の作風、感性を保存しようとつとめた。慣例、適切、常識、精確というような点では、あるいは一般的用字法に折合わなくても、著者独特の語法に拠って、原作にたちかえることを旨とした。
 (『吉本隆明全著作集 2 初期詩篇Ⅰ』「解題」P410-P413)




 そういうことだったのか、と少しすっきりした気分になった。しかし、まだ不明のこともある。そのひとつに電車の中の席取り競争について触れた文章がある。その一度読んだ文章を何度か全著作集で捜したけど、見つからなかった。家族の行楽帰りだったか、もし家族の者がひどくくたびれ果てていたら、自分は席取り競争に加わるかもしれないけど、原則的には席取り競争には加わらないという、生活世界での吉本さんの倫理を語った文章だという記憶がある。


吉本さんのおくりもの 7「お鷹ポッポ」から (2015.5) 既発表文より

2017年03月30日 | 吉本さんのおくりもの

 NHKの大河ドラマは観ないけど、木曜時代劇は時々観る。今は『かぶき者 慶次』を観ている。時は、江戸初期、上杉家に仕えていた前田慶次(藤竜也)が主人公で、舞台は米沢。この第5回(2015.5.7放送)で、前田慶次(藤竜也)に仕える下男の又吉(火野正平)が木彫りの「お鷹ぽっぽ」を彫り、それを雫(壇蜜)という女性にあげる場面があった。「お鷹ポッポ」を見るのは初めてだったが、その場面(言葉)からわたしはすぐさま吉本さんを思い浮かべた。



 もうひとつ、親しみを感じた理由があった。その店の庭先には、私が山形県米沢市の高等工業学校にいたとき、「お鷹ポッポ」と呼んでいた、おそらくアイヌの鷹をかたどったにちがいない、木を削っただけでつくった置き物が飾ってあった。
 うれしかった。これを知っているのは東北も山形県あたりの人だろう。もしかしたら、お兄ちゃんも米沢出身かもしれないと、勝手に空想をたくましくした。
 そういえば、高等工業学校時代、首が細く長い教授は、「お鷹ポッポ」というあだ名だった。思い出は果てしない。
 (『開店休業』吉本隆明/ハルノ宵子 「せんべい話」P82 2013年)



 何でもないせんべいの店だと思っていたところ、私は、あっと驚くほど感動した。東北の小さな町で学校に通っていたとき、小型のものを買って持ち帰ったり、町筋の店では飾られている大型のものを見かけたりした。あの馴染み深い「お鷹ポッポ」が店先に飾ってあったのだ。
 「お鷹ポッポ」は、一刀彫で一本の木材を切り開いて、鷹の形に仕上げてつくる見事な民芸品で、思い出すのは学生時代、顔が小さく細長く、首筋も細長い、とある名物教授を親しみを込めて「お鷹ポッポ」という、あだ名で呼んでいたこと。
 私は第二の故郷と言っていいほど愛着を感じていたその土地と、教授先生に誰もが感じていただろう愛情と同じような感情を、このせんべい店に感じた。
 それからは遠回りになってもときどき店に寄って、世間話を交わすようになった。
 (『同上』 「塩せんべいはどこへ」P227)




 本書は、食にまつわる話であるが、身近な食の話に触れながら吉本さんが全力を掛けて生涯考察してきたことの頂からの、未だに決着が付かない問題を考え続ける言葉の表情を窺うことができる。たとえば、「塩せんべいはどこへ」の末尾には、「人間と自然との相互関係には、不可解なところがある。」とある。ということは、わたしにはよくわからない部分にも遭遇したけれども、食に触れながら単なる随筆風ではなく、老いて尚対象の本質的な姿を追求して止まない思想者の新鮮な姿がある。娘ハルノ宵子の文章が吉本さんの文章に唱和するように各回付けられていて、吉本さんの言葉がいくぶん相対化され、本書はいい構成の本になっていると思う。
 「お鷹ポッポ」がどういうものか、以下の引用のページでもその画像を見ることができる。



「お鷹ぽっぽ」に代表される笹野一刀彫は、山形県米沢市笹野地区に伝わる木彫玩具です。お鷹ぽっぽの“ぽっぽ”とは、アイヌ語て“玩具”という意味。 米沢藩主上杉鷹山公か、農民の冬期の副業として工芸品の製作を奨励したことにはじまり、 魔除けや“禄高を増す”縁起ものとして、親しまれてきました。 (「東北STANDARD」 https://tohoku-standard.jp/standard/yamagata/otakapoppo/ )



 この説明によると、近世の起源とある。wikipedia「笹野一刀彫」によると、「お鷹ポッポ」以外の木彫りを含めて、「地元の伝承では、806年(大同元年)開基とされる笹野観音堂の創建当時から伝わる、火伏せのお守り・縁起物とし、1000年以上の伝統があると主張している」とある。こういう伝承自体は、すぐに事実とすることはできないが、かといって近世に過去との何の脈略もなく生まれたとも考えにくい。

 確かにアイヌ語との関わりなどを考えると、そのような木彫りのものは古い歴史を持つだろうと想像される。また、アイヌには木の棒から作られるイナウという祭具がある。そして、今では「民芸品」となっているこうしたものは全国的に様々に存在していると思われる。今では軽い品々になってしまっているけれども、元々は、「お守り・縁起物」のような宗教性をもったものだったのだろう。

 柳田国男が調べていた、東北地方で信仰されている家の神である「オシラサマ」は木で作られているという。木が霊力を持つと見なされていたのだと思われる。当然のこととして、それらの起源を考えれば、「オシラサマ」も「イナウ」も「お鷹ポッポ」も、また全国に残っているそれらと同様のものも、近世や古代や縄文時代を超えて、自然や自然のものに宗教的な霊力を強く感じていた人類の段階へと果てしなくさかのぼることができる。

 現在では、その霊力や宗教性はずいぶん薄まってしまっている。しかし、人類の起源からの流れは脈々とつながり、形を変えて保存され、流れてきていることになる。

 人がある懐かしさ(あるいは、痛ましい思い)で過去を振り返ることがある。単なる観光旅行ではなく、人がある地に一定期間生活していた場合を考えてみると、過去はもはや通り過ぎられてきたものであるが、ある地の様々な場面での風物や人々とのくり返してきた出会いがあり、そのことはその人に何ものかを刻みつけているはずである。そして、あるもの(ここでは、「お鷹ポッポ」)を媒介として、その過去の時間や空間がイメージとして蘇ってくる。そして、その湧き上がってくるイメージは、その人固有の色彩や匂いや情感に彩られている。



 何でもないせんべいの店だと思っていたところ、私は、あっと驚くほど感動した。東北の小さな町で学校に通っていたとき、小型のものを買って持ち帰ったり、町筋の店では飾られている大型のものを見かけたりした。あの馴染み深い「お鷹ポッポ」が店先に飾ってあったのだ。
 「お鷹ポッポ」は、一刀彫で一本の木材を切り開いて、鷹の形に仕上げてつくる見事な民芸品で、思い出すのは学生時代、顔が小さく細長く、首筋も細長い、とある名物教授を親しみを込めて「お鷹ポッポ」という、あだ名で呼んでいたこと。
 私は第二の故郷と言っていいほど愛着を感じていたその土地と、教授先生に誰もが感じていただろう愛情と同じような感情を、このせんべい店に感じた。
 それからは遠回りになってもときどき店に寄って、世間話を交わすようになった。
 (「塩せんべいはどこへ」P227 『開店休業』吉本隆明/ハルノ宵子 2013年)



 この文章のイメージや情感の流れを取り出してみると、「何でもないせんべいの店」→「あっと驚くほど感動」→「あの馴染み深い『お鷹ポッポ』」→「とある名物教授、あだ名」→「愛着を感じていたその土地」→「教授先生に誰もが感じていただろう愛情と同じような感情」→「このせんべい店」となっている。もちろん、このイメージや情感の流れは、吉本さんが現場で想起したり感じた流れそのままではないかもしれない。つまり、文章にする過程で付け加えられたものもあるのかもしれないが、そこは分離することはできない。

 まず、外国人に関してはわからないけれども、この列島の住人であるわたしたちには、こういう文章を読んでも異和感はないであろう、つまり、そのイメージの湧き方や情感の流れにスムーズに入り込んで行けると思われる。

 ここから、類推してみると、わたしたちは、それぞれ生い立ちが異なるものがそれぞれの固有性を携えつつ、同一の地域(または、小社会)で、同時代に生きるということは、ある地域(または、小社会)的な共通性を共有しているということである。このことは、昔にさかのぼるほど強かったものと思われる。現在では、このような地域的な固有性は、欧米文化やその考え方の浸透とそれらによる全社会的な均質化のなかに解消されつつある。

 しかし、そんな状況にあっても、この列島に住むわたしたちの精神や心に刻まれた数万年にも及ぶ遺伝子は、現在の状況を許容しつつも、その全体的な解消を許容することなく、避けられないグローバル化(人類の地球規模の再会)の中で、欧米主導のグローバリズムに対しては半ば無意識的にも反発しているものと思われる。そのわたしたちの意識的、無意識的な部分が、効率や競争や市場等々のキーワードに象徴される欧米主導のグローバリズムにやられっぱなしなのか、それともある独自のものを形作ろうとするのかは、これからのことに属している。


吉本さんのおくりもの 6.吉本さん追悼詩(2012.3)

2017年03月19日 | 吉本さんのおくりもの

吉本さんのおくりもの 6.吉本さん追悼詩(2012.3)



 吉本さんが亡くなった ①



隣の家の裏の畑に
満開の梅の花が見える

吉本さんが亡くなった

梅の花が満開だ

ぼくが花などいじるには
世界と和解しなくてはならない
ようなことをどこかで語られていたように思う

時には憩いつつも
上り下りしながら
つっぱった孤独なたたかいの
果てまで上り詰めた言葉たちが
しずかに収束するように
花びらを散らしている

まなうらに
まぼろしの梅の花たちも満開だ
薄紅の白い匂いに包まれて
ひとり しずかに
人界を越え
苦の母を越え
ていく
のが見える

小山に咲く梅 2012.2.8




 吉本さんが亡くなった ②


若い頃
吉本さんちに一度おじゃましたことがある
夏だったかスイカをいただいたことを覚えている
東京大阪博多小倉山口の講演会に出かけたこともある
ふだんの吉本さんはよく知らないけど
言葉の吉本さんとは長い付き合いで
四十年にもなる

高校生の頃
佐世保の本屋で共同幻想論に出会った
なんて横着な野郎だ
と自分を投影してつぶやいたのを覚えている
それからあれこれ読み進んだから
少しずつ自分がほぐれていったのかもしれない
孤独なひと筋の光のように
言葉は染みわたってきた

「吉本主義者」や「吉本信者」
という言葉を発明して得意げになっていた馬鹿な奴がいた
自立思想の吉本さんとは無縁のものである
意味ありげで無意味な言葉が多すぎる
ひと刷毛 ふた刷毛
無数の苦の刷毛で
沈黙の領野にひとつの深淵が浮上する
それはそれは
寂しい「ある抒情」
個の宿運を超えようと
母から国家に渡る無類の時間の旅
たぶんその足跡は匂いや色合いとともに
言葉に記されている

吉本さんは
この列島に限っても無類の人だから
ほんとうは
わたしたちも無類の言葉の風景に出会うことになる
血も滲む

言葉から滴るものがふうっと途切れて
文字が滲んで見える
哀しいというより
しずかな さびしさの滴が
からだ全体に沁みてくる


吉本さんのおくりもの 5.他者の言葉がわかるということ

2017年01月03日 | 吉本さんのおくりもの

 他者の言葉がわかるということには、日常での人付き合いということも含まれる。互いに違った家族や環境で育った者同士が理解し合うというのも、誰もが実感するように難しいものがある。ここでは、文学作品や思想に表れた他者の言葉の理解ということに限定して考えてみたい。

 吉本さんの『遠い自註(連作詩篇)』(猫々堂)の最後の詩に「『さよなら』の椅子」(連作詩篇「野生時代」1984年3月号掲載)という詩があり、その中に次のような詩句がある。



さっきから黙ったまま
「さよなら」は 影絵みたいに
ひっそりと 主客の席にひかえてる
詩は 書くことがいっぱいあるから
書くんじゃない。
書くこと 感じること
なんにもないからこそ書くんだ

 (「『さよなら』の椅子」『遠い自註(連作詩篇)』、『吉本隆明資料集57』猫々堂)



 この部分の一連は、後にまとめられた『記号の森の伝説歌』の最終章「演歌」の末尾近くでは次のようになっている。行頭をそろえて示すと、


さっきから黙ったまま
「さよなら」は 影絵みたいに
ひっそりと 主賓の席にひかえてる
詩は 書くことがいっぱいあるから
書くんじゃない。
書くこと 感じること
なんにもないからこそ書くんさ




 2つを比較すると、わたしがその意味を調べてみた「主客」が「主賓」となり、「書くんだ」が「演歌」という題を意識してか「書くんさ」となっている。これは、詩作品の中の詩というものを捉えた言葉であるが、吉本さんの詩に対する捉え方と見なしていいのではないだろうか。この言葉もまたよくわからないままにわたしの中に保留されてきた吉本さんの言葉である。この言葉に初めて出会ったとき、わたしにはよく分からないなあという感じが残った。もちろん、以下に述べるようなことは頭の隅に置いた上ではあるが。


 まず、ある人が詩を書くことでいえば、次のような過程(段階)が考えられる。

1.読み味わう詩人の詩の影響もあり、ある言葉の蓄積とそこからの水圧のようなものの促しにより自然発生的に詩の言葉のようなものを書き付け始める。

2.詩を書くということを持続し、いろんなことを思い付いて、進んで(楽しんで)詩を書く。

3.何をどう書いたら良いかなど混迷して、詩を書くのが苦しくなったりしてくるが、それでも詩を書き続ける。

4.今までも自分のどこかに潜在していたとしても、本格的に問われることがなかったが、なぜ詩を書くのかという内省的な、詩への入口を再び反芻するような、還りがけの視線を内包しつつ、詩を書く。

 吉本さんの上の詩句は、この4.の段階から放たれた言葉だと思われる。吉本さんは若い頃毎日のように持続的に詩を書いていた時期がある。「日時計篇」として膨大な詩篇が残されている。批評や思想に持続的な力を注いで、途中詩を書くことが間遠になったりする時期もあるが、この時期は再び持続的な詩の活動期に当たっている。雑誌「 野性時代」1975年10月号の詩「幻と鳥」から1984年3月号の詩「『さよなら』の椅子」にいたるまで、若い頃のように毎日のように詩を書くということではないとしても、持続的に連載された。それがこの『遠い自註(連作詩篇)』の詩であり、それらの連作詩篇をもとに作り上げられたのが、『記号の森の伝説歌』(1986年12月)である。吉本さんが批評や思想の表現に力を入れて詩を書いていない時期は、たぶん〈詩〉はそれらの批評や思想の言葉の奥深くに潜在しているか、あるいはそれらの表現された言葉と言葉のすき間に微かに散布されたように存在していたのではないかと思う。

 この4つの段階のそれぞれに詩を書く者がいたとして、それは同一人物でも別人でもかまわない。1.の段階に居る者が、4.の段階に居る者からいくらていねいに説明してもらっても、実感として4.の段階のことは分からないと思う。このことは、段階の違いがある相互の間では言えることだと思う。
 
 わたしは中断していた詩を再開しいくらか書き込んできたが、現在のわたしは、先の詩に関する吉本さんの詩句がなんとなくわかるようになってきた感じを持っている。この問題を比喩を用いてさらに以下に説明してみる。


 わたしたちの日常的な生活実感に添うような比喩を使ってみる。

 A:はじめての山登りの登り始め
 B:はじめての山登りの中ほど
 C:はじめての山登りの頂上到着
 D:はじめての山登りの帰りがけ
 B':何回もこの山に登った者の、山登りの中ほど

  ※ 個々人の固有性を退けた上での一般化として考えるから、A、B、C、D、B'は、すべて同一人物と見なしても、それぞれが別人と見なしても、いずれでもかまわない。





 個々人の固有性を退けた上で一般化した場合、ほとんど山登りの経験のない者が、ある山にはじめて登ったとする。山に登る過程のA、B、C、D、それぞれの位置での人に湧き上がってくる感受や考えは違うはずである。しかしそれは、AからDの山の頂上に登る道程がひとつのまとまったものとして、ある波打つリズムのような曲線を描きながらたどる一連のものと見なせると思う。したがって、この場合の登る道程におけるA、B、C、D、という位置の違いによる感受や考えの違いは、心身の経験の量の違いではあるが、同一の経験の地平上での違いと見なせる。

 次に、はじめてのこの山登りのBと何度もこの山に登っているB'の間の感受や考えの違いも明確にあるはずである。これもまた、BとB'の間には心身の経験の量の違いが明確にある。この場合は、B'はBと比べて一連の道程を何度も繰り返してきているから、B'には何層もの経験が積み重なっているということであり、心身の経験の量の違いが質的な違いとなっているはずである。したがって、BとB'は同一の風景をいっしょに眺めていたとしても、感受や考えの言葉の地平が位相の違ったものとしてBとB'には現象しているはずである。そのことを表すために、上の図ではB'は、同じ山であるが、右にずらした位置の表示をしている。このような相違は、おそらくそんなに事細かに説明しなくても日常に経験するものとして実感的ではないかと思う。

 日常の経験でも、職人的な技でも、芸術の世界でも、同一人物であれ別人であれ、相互に違った段階にあるときは、そこから湧き上がって来る問題を風通しの良いものとして相互にわかり合うことは難しい。つまり、どんなに言葉を尽くしても互いがわかり合うことは難しい。ただ、未だ先の段階としてそれを経験していない者は、黙々と日々経験して先の段階に到達して、先の段階を経験している者のような実感を手にするほか互いがわかり合うことはできないように見える。この場合、両者は時間的に遅れて出会うことになる。親と子の関係もそれと同様なものとしてある。

 因みに、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』の「序」や『心的現象論序説』の「はしがき」や「あとがき」がある。これらは対象との取り組みをなんどもなんども繰り返されたB'の位置からの言葉であり、その道の初心者がその言葉に対して何が語られているのかわからないとか不審に思ったり違うんじゃないかなどと思うのは、上で述べたBとB'の関係からどうしようもないものである。もし、Bの位置にある者が言葉というものや人間の心や精神現象について根本から理解しようと願うなら、黙々と登攀(とうはん)を続けるほかないのである。そうして、いつか少しずつ靄(もや)が晴れ上がっていくのを目にすることになる。ただし、この場合、吉本さんの成した優れて深い考察が手助けやおくりもののように前にあるからずいぶんと軽減された登攀ということになる。

 以上、日常生活世界では当たり前の実感について少し大袈裟に言葉を費やしてしまったが、人は日常生活世界の具体性の世界を抜け出して、文学や思想というある抽象性の世界に入り込むと日常世界の身体性や具体的なものにまつわる実感が消失してしまうことがある。そういうわけで、わたしの場合のわからなさということの自己確認の意味も込めて、言わずもがなのことを書き記してみた。

 また、以上述べてきたことを覆したり大きく揺さぶるように見えるかもしれないが、最後にもうひとつ付け加えておきたい。人が対象に対し対象の有り様を捉える眼差しには、上に述べたように当然経験の差ということがある。しかし、日常わたしたちが経験するように、会社の管理職や学校の校長などが深い洞察力と見識を持っているとは限らない、ということも確かなことである。あるいはまた、研究する対象世界に長く触れ続けている学者でもエコノミストでも、それって根本から間違っていないか、という印象を持つ場合が多い。何が問題なのだろうか。

 まず、上に述べてきたことは、確かなこととして言えることだと思う。しかし、その場合は、厳密にいえば、人が対象とする世界に対して自己の言葉を局所的に位置付けたり、イデオロギーを導入したりなどをしていないことを条件としている。つまり、人が対象とする世界に対して自己の言葉をできるだけ開ききるということを前提としている。現実には、そういう自己を世界に対して開いていない言葉が多いから、問題は複雑系になる。つまり、初心者でも年季の入った研究者に対する批判ということが「自己が世界に対して開かれた言葉」という人間的な地平において可能であるように思う。


 付記 (上の最後の部分に関連して)

 例えば、わたしは10年位前に、「専門的な修練を積んだまなざしからの言葉である。けれど、記憶を含めてあらゆる人間的な事象に素人も専門家も共通でありうるという地平も確かに存在するように思われる。そうした地平から言葉を繰り出してみるならば」として、精神科医の中井久夫の『徴候・記憶・外傷』の記憶というものの捉え方に少し異を唱えている。

 記憶の初源から (過去の文章から、2008年)
 http://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/c5f9ec165f9fd10efbeeaad9ed6f8fa6