私の若い頃の知人で、父親が亡くなったために、学校を中途で辞めて、跡を継いで農に専心した者がいた。いつも熱心に農を営んでいて、昔の篤農家というのは、彼のような人を言うのだろうと思っていた。
あるとき、家に立ち寄った際に、素朴で幼稚なことを訊ねてみた。日本の農業の稲の品種は南方系のものだと聞いている。でもどうして、新潟だとか秋田だとか寒い地域でいい米が獲れるのかということだ。
彼の答えは単純で明快だった。作物は、日日刻々と天候によって変化するもの。毎日のように、時刻ごとに観察し、その表情に対応して気配りすれば、いいお米ができる。とくに寒さが厳しい地域では、温暖な気候の土地とちがって、きちんと育てるために、小まめに観察し、注意深く手入れをして、対応を怠らないからだと、彼は答えた。
品種改良、地味、寒暖など、ほかにもたくさんの条件があるのだろうが、それらについては何も言わなかった。素人に言っても仕方がないと思ったのかもしれないが、私は流石に彼は篤農家だと感銘を受け、これに倣わんと思った。
(「陸ひぢき回想」P172-P173 『開店休業』 吉本隆明 2013年)
本書は、二〇〇七年から二〇一一年にかけて雑誌に掲載されているから、吉本さんの最晩年の文章ということになる。しかも、目が悪いなどにも関わらず自筆で書かれた文章である。吉本さんは、戦時中の勤労動員だったかで農作業を少しやったことがあるとどこかで語られていた。しかし、農に限らないが、農という日々具体性を伴う世界をよくわからないなりに、農を営む知人の、吉本さんの質問に答える言葉から彼の農の日々を吉本さんは想像を巡らせている。
吉本さんは、自分の専門とする文学の領域に限らず、あらゆる領域に入り込んでいく。マルクスと同じように吉本さんの場合も、あらゆる人間的なものは自分の関心の対象であると見なしていると言えそうだ。そして、自分の抱えている諸問題を具体像を含めて捉えよう、言いかえれば、実感を込めて捉えようというモチーフから様々な疑問や追究が伸びていく。必要ならば、他の領域にも越境していく。ここでの知人へ尋ねてみたことを単なる世間話程度のものと見なさないならば、そういう背景の下に吉本さんの言葉はある。
この場合の吉本さんのモチーフは、一方にこの列島を「南方系」の品種の稲を携えてある人々が移動し、列島の南から北まで現地の自然環境に適応させて稲を栽培してきたという疑いようのない歴史があり、「でもどうして、(引用者註.「南方系」の品種なのに)新潟だとか秋田だとか寒い地域でいい米が獲れるのか」という歴史の中の農の具体像のイメージを追い求めるところからきている。
ただ、この場合、この農の専門家に対する文章のように、その領域の内側で日々実践しているその道の専門家に対する礼節は尽くされている。また、マルクスに触れて何度か言われたことがある、それ以上突き進んだら危ないことになる、つまり真が揺らぐ、マルクスはそれを心得ていて、危ないことは言っていないと。そしてまた、吉本さんもそれを心掛けていたと思う。危ない言葉を言わないためには、ある領域の内側の言葉を、具体像として、実感として自分の言葉に繰り込んでいくことが重要である。
作物は、日々の天候によって変化するから、小まめな観察と対応や気配りが大切だ、そうしたらいいお米ができるという吉本さんの知人の農の実践家の言葉は、農の内側に少し入り込んで趣味的に農に携わっているにすぎないわたしにもわかる気がする。彼は学者ではなく農の実践家であるから、作物に関わる諸条件やそれらの関わり合いの構造などとは述べないのであろう。
たとえば、今回の台風の影響による久しぶりの少雨の日、雨が止んだ午後に今年初めて試みる「秋キュウリ」の苗を植え、水やりした。その後2日秋晴れのような日が続いたけど畑には出る余裕がなく、3日目の今日ちょっと心配だったので水やり用の水を携えて畑に出た。「秋キュウリ」の苗が少し萎びたり枯れたりしていた。このように、農の仕事は吉本さんの知人の言葉のような心がけと実行が大切である。他の作物より少し強いサツマイモでも苗を植えて晴天続きだったら枯れてしまうこともある。人間の小さい子どもの世話と同じで、作物も後はほったらかしで良いとしても最初は小まめに面倒をみなくてはならない。農の内側に居れば、このようなことは誰でも自然に身に付いてくるものである。
このようなことは、たぶんどんな分野の小世界でも同様であると思われる。そして、誰でもある小世界の内側に在りつつ、他の小世界に対しては外側に在るというようにこの社会に存在している。自分がその内側に居る小世界の有り様が他の小世界と同質の面もあれば、それぞれの小社会毎の特殊性もあるはずだ。したがって、自分がその内側に居る小世界の基準で他の小世界やその内側に生きる人々を論じると間違うこともあり得る。間違わないまでも、その小社会の内側に生きる人々の具体像や実感とは乖離しているということがあり得る。
つまり、わたしたちがある対象に意識を向けてその対象の像を獲得しようとする場合に、大切なのはある対象そのものの世界に降りたって、できるだけその対象の内側の具体像や実感を手にして対象像を形作っていくことが大切である。
付け加えれば、この文章はもちろん現下のネットのSNSや社会内に飛び交う不毛な言葉たちを意識して書かれている。
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