3月24日(月曜日) 
綺麗な青空が広がっています。
外は、冷え込んでいますよ。
朝、8:10に歯医者の予約。
朝ごはん食べずに行ってきたよ
医院内、静かで受付の人もいない。
あれ、今日だったよね??
すると、20年来のアタクシ担当の衛生士さんが着替えて出てきた。
出勤と同じタイミングよ。
9時には、今日のやるべき仕事が終了しました
2月の日本行きのことを少々。
2月14日(金曜日)
『ばーちゃん(母)が入院した。状況は良くなく、ドクターから 「家族を呼んだ方がいい」と言われた』と日本から電話。
どうするどうする?
今すぐ帰る?
ここで悩んだのはなぜかというと、3月初めに10日間ほどの強行日本一時帰国
を計画していたから。
会社からもらえる 忌引きが5日間。
もともと日本行きで使おうと思っていた有給。
どう組み合わせえばいい??
とりあえず、次の連絡を持ちながらいろいろなパターンを考えてみたよ。
週末だから、旅行会社とも連絡がうまく取れない。
いや、連絡はとれるのですが、緊急時(飛行機が飛ばなかったとかの緊急事案)しか受け付けていなく、
単純に チケットの問い合わせなどは有料(1件につき$25)になるという。
アタシにとっては緊急事案ですが、旅行会社からしたら、ただのチケットの問い合わせ。
ある程度、考えを煮詰めてからじゃないと、電話すらできない
お父さんと相談の結果、とりあえず帰ろう。
3月帰ろうと思っていた日程を前倒しし、帰ろう。
で、チケットの日程変更をしてもらい日本へ向かったのが 2月17日(月曜日)。
間に合うかな・・・
18日(火曜日)日本へ到着。
この時点で、病院の面会は、24時間、誰でもOK という特別待遇になっていた。
夜8時、病院へ行くことが出来ました。
母は、いろんな管につながれ寝ていました。
顔は見れた。
とりあえず、間に合った。
翌・水曜日 ありがたいことに会社から車が借りられることになったので、一旦会社に車を借りに行き、真逆の病院へまた戻り、お見舞い。
認知症が進み3年くらい前から、もう、アタシのことも、みきっちのことも認識は出来なくなっていました。
あくまでも、「お客さんが来た」という雰囲気のまま、少し言葉を交わします。
病状は、いつ急変するかわかならいままではありましたが 安定はしていました。
一旦、みきっち宅へ向かいます。
土曜日、また病院へ。
みきっちとふーちゃんと共に。
少し安定していたこともあり、この時 面会は2人のみ15分。
時間は2~4時。
あたしとみきっちで会いに行きました。
声は出てなかったけど、ちゃんと口を開けて、意思表示をします。
喉が渇いていたようで、みきっちが綿棒?に少し水を含ませて口に入れてあげていました。
ちょっと、感心した。
何もできないアタシ。
その横で、ちゃんと患者さんに接している娘。
彼女の仕事ぶりを垣間見たような気がしました。
冷静に対応してくれる娘がいてくれて 助かった
お葬式まで覚悟して戻った日本でしたが・・・
まだ、しばらく生きるんじゃない??
毎日、携帯の音にビクビクしながらも、連絡はない。
となると、気になるのは、アタシたちが米国に戻る日にちが迫ってくる、という事。
アタシだけ残る、という方法もあったのですが、米国に戻る日にちが問題で、場合によっては
すんなり入国できなくなるかもしれない、状況もありまして、んんんん・・・・・
戻る前、もう一度病院へ行き、母と会い、お別れしてきました。
最初は 声にならない会話もできちょっと安心。
その後、眠ってしまったので、その顔を自分の記憶に焼き付け、お別れしてきました
後悔はありません。
というか、生きているうちに会えて良かった。
父の時は コロナ以降会えないままだったので。
予定通りOHIOに戻りました。
続くストレスと体調不良でボロボロだった
家に戻り10日ほど経った 3月13日 母は亡くなりました。
危篤の連絡を受けてから1か月。
よく頑張ったと思います。
若い頃は、ママさんバレーやってアキレス腱切ったり
町内会の運動会で走って、足首折ったり
オイオイ
年取ってからは 大病もしました。
もういいよ。
ゆっくり休んでね。
お父ちゃんと、喧嘩しないでね
バイバイ、お母ちゃん
長くなりました。
日本での話でした。
<昨日の夕飯>

寒くてゴルフにも行けず、家で、ダラダラ日曜日。
おなかもそんなにすかないし、作る気力もない。
適当に作った料理は こんな感じ。
サーモンは、炙りにしたよ。

お孫ちゃん成長記 
夏??

今日の
ぐれちゃんショット
ご機嫌ね。
尻尾ピーーーン!


綺麗な青空が広がっています。
外は、冷え込んでいますよ。
朝、8:10に歯医者の予約。
朝ごはん食べずに行ってきたよ

医院内、静かで受付の人もいない。
あれ、今日だったよね??
すると、20年来のアタクシ担当の衛生士さんが着替えて出てきた。
出勤と同じタイミングよ。
9時には、今日のやるべき仕事が終了しました

2月の日本行きのことを少々。
2月14日(金曜日)
『ばーちゃん(母)が入院した。状況は良くなく、ドクターから 「家族を呼んだ方がいい」と言われた』と日本から電話。
どうするどうする?
今すぐ帰る?
ここで悩んだのはなぜかというと、3月初めに10日間ほどの強行日本一時帰国

会社からもらえる 忌引きが5日間。
もともと日本行きで使おうと思っていた有給。
どう組み合わせえばいい??
とりあえず、次の連絡を持ちながらいろいろなパターンを考えてみたよ。
週末だから、旅行会社とも連絡がうまく取れない。
いや、連絡はとれるのですが、緊急時(飛行機が飛ばなかったとかの緊急事案)しか受け付けていなく、
単純に チケットの問い合わせなどは有料(1件につき$25)になるという。
アタシにとっては緊急事案ですが、旅行会社からしたら、ただのチケットの問い合わせ。
ある程度、考えを煮詰めてからじゃないと、電話すらできない

お父さんと相談の結果、とりあえず帰ろう。
3月帰ろうと思っていた日程を前倒しし、帰ろう。
で、チケットの日程変更をしてもらい日本へ向かったのが 2月17日(月曜日)。
間に合うかな・・・
18日(火曜日)日本へ到着。
この時点で、病院の面会は、24時間、誰でもOK という特別待遇になっていた。
夜8時、病院へ行くことが出来ました。
母は、いろんな管につながれ寝ていました。
顔は見れた。
とりあえず、間に合った。
翌・水曜日 ありがたいことに会社から車が借りられることになったので、一旦会社に車を借りに行き、真逆の病院へまた戻り、お見舞い。
認知症が進み3年くらい前から、もう、アタシのことも、みきっちのことも認識は出来なくなっていました。
あくまでも、「お客さんが来た」という雰囲気のまま、少し言葉を交わします。
病状は、いつ急変するかわかならいままではありましたが 安定はしていました。
一旦、みきっち宅へ向かいます。
土曜日、また病院へ。
みきっちとふーちゃんと共に。
少し安定していたこともあり、この時 面会は2人のみ15分。
時間は2~4時。
あたしとみきっちで会いに行きました。
声は出てなかったけど、ちゃんと口を開けて、意思表示をします。
喉が渇いていたようで、みきっちが綿棒?に少し水を含ませて口に入れてあげていました。
ちょっと、感心した。
何もできないアタシ。
その横で、ちゃんと患者さんに接している娘。
彼女の仕事ぶりを垣間見たような気がしました。
冷静に対応してくれる娘がいてくれて 助かった

お葬式まで覚悟して戻った日本でしたが・・・
まだ、しばらく生きるんじゃない??
毎日、携帯の音にビクビクしながらも、連絡はない。
となると、気になるのは、アタシたちが米国に戻る日にちが迫ってくる、という事。
アタシだけ残る、という方法もあったのですが、米国に戻る日にちが問題で、場合によっては
すんなり入国できなくなるかもしれない、状況もありまして、んんんん・・・・・
戻る前、もう一度病院へ行き、母と会い、お別れしてきました。
最初は 声にならない会話もできちょっと安心。
その後、眠ってしまったので、その顔を自分の記憶に焼き付け、お別れしてきました

後悔はありません。
というか、生きているうちに会えて良かった。
父の時は コロナ以降会えないままだったので。
予定通りOHIOに戻りました。
続くストレスと体調不良でボロボロだった

家に戻り10日ほど経った 3月13日 母は亡くなりました。
危篤の連絡を受けてから1か月。
よく頑張ったと思います。
若い頃は、ママさんバレーやってアキレス腱切ったり

町内会の運動会で走って、足首折ったり


年取ってからは 大病もしました。
もういいよ。
ゆっくり休んでね。
お父ちゃんと、喧嘩しないでね

バイバイ、お母ちゃん

長くなりました。
日本での話でした。
<昨日の夕飯>

寒くてゴルフにも行けず、家で、ダラダラ日曜日。
おなかもそんなにすかないし、作る気力もない。
適当に作った料理は こんな感じ。
サーモンは、炙りにしたよ。



夏??

今日の


ご機嫌ね。
尻尾ピーーーン!
