ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

タスマニア行:ホバートの礎ハンター通り

2024年09月06日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア3日目


州都はホバート港を囲むよう
に建設され、地の果てのよう
なタスマニアでの植民地建設
において、外の世界との玄関
口の重要性がしのばれます。



クルーズターミナルに続くプ
ロムナードはハンター通りと
いわれ、まさにホバート植民
地建設の礎となったエリア。
(※奥に見えるのがクルーズ船
建物がどんなに小さいことか)

往時の豪勢を今に伝えます。


1813年に港での交易が認可さ
れると、植民地への物資供給
を商機と見た船主や船長たち
が続々とここに集まり、流刑
囚たちを使いこぞって石造り
の瀟洒な倉庫を建てました。


ハンター通りの名は荒海に漕
ぎ出す鯨漁師を指したそうで
1850年頃までは沖合で漁がで
きたものの、その後は外洋へ

(※2艘による沖合捕鯨1849年)


ハンター通りの位置。目の前
が船着き場になっていて、荷
揚げや荷積みに最適な立地。



船着き場からのハンター通り

小さな貨物船がひしめいて、
活況を呈したことでしょう。


同じ場所でも今は静かなもの



すべてに事欠く新植民地での
物資の輸入は、すぐに輸出と
の双方向の交易となり、羊毛
や皮革、小麦、鯨油、木材等
のタスマニア産品がオランダ
領インドネシア、中国、イン
ド、英国へと運ばれました。


船隊を組んで貿易業に携わり
事業を拡大していった彼らは
ハンター通りの商人と呼ばれ
ベニスの商人(The Merchant
of Venice)よろしく、マーチ
ャント(商人)として海運で財
と名を成し、いずれは当地の
権力も掌握していきました。