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徹の青春 14

2015-04-15 03:01:16 | 創作欄
2012年3 月19日 (月曜日)
創作欄 
強姦罪の特徴は、被害者の告訴がなければ起訴することができないとされていることだ(親告罪)。
これは捜査や公判を通じて、犯行の様子や被害者のプライバシーに関する事柄が明らかにされることで、被害者により大きな心理的なダメージを与えかねないことからそのように定められている。
つまり被害者の心情が考慮されるのである。

ただし、加害者が複数の場合には、被害者の告訴がなくても起訴できるとされている。
3人によって強姦された君江は妊娠してしまった。
それは二重の悲劇であった。
娘の異変に気づいたのは、母親の江利子であった。
月経が止まっていた。
女性は妊娠することによって、ホルモンの分泌が大幅に変わる。
君江にも疲労や眠気、頻尿、便秘、おっぱいの張りなどがあった。
特に異様に眠くなったり、吐き気などのつわりの症状が出てきた。
そして体温が今までに経験したことがないほど高温域に達した。
妊娠10週ごろになると 赤ちゃんがお腹の中で活発に動き始める。
羊水の中で頻繁に体を動かしているようなのだ。
君江は固くなに妊娠を否定したが、母親は必死になって君江を説得し産婦人科へ連れて行こうとしていた。
「相手は誰かは聞かない。父さんには黙っているから、絶対に産婦人科に行かなければダメ!まだ15歳でしょ。中絶するのよ!いいわね!」
君江は布団にうつ伏せとなり、泣き続けるばかりであった。
徹が妹の妊娠の事実を知ったら、さらに怒り狂ったであろう。
そして、娘を溺愛していた父親の佐吉が、君江の妊娠を知ったらどうなるであろうか?
まだ15歳の中学生、想像もしていなかった娘の妊娠に、母親の江利子は頭が混乱してきた。
「相手は誰なのだろう」
病院の産婦人科の待合室で、娘の中絶手術を終わるのを待つ間、江利子は色々な想念を巡らせていた。

2012年3 月20日 (火曜日)
創作欄 徹の青春 15
母親の江利子は、ある新興宗教の信者である。
実は、8月5日の沼田の祇園祭の日は、実家の川場村に帰省していた。
目的は、兄嫁の貞江に宗教を勧めることであった。
うつ病であった江利子は、蘇ったように性格が明るくなり元気に活動するようになっていた。
兄嫁は別人のように見える江利子を目の前にして目を丸くした。
「江利子変わったわね」
「そうでしょ。私は蘇生したのよ。宇宙の法則に沿って生きているのよ」
「宇宙の法則?」
「例えば、ラジオを聴く時、周波数があるわね。それに合わせないと番組を聴くことができない。NHKにはNHKの周波数があるように、宇宙の法則は一つなの。自分の内に本来ある根本的なものと宇宙の法則に周波数を合わせるの」
「よくわからない」
貞江は多弁になった江利子に気押させた。
「私も初めは、何のことだかさっぱり分からなかった。でもうつ病が治るものなら、やってみようと思ったの。でも今は宇宙の法則があることを確信している。お姉さんも宗教を信じてやってみてね」
「私、考えておく」
貞江は腰が引けた。
夫の佐吉は、江利子の勧める宗教の話には聞く耳を持たなかった。
「信仰の自由だ。お前が信仰を持つことは許すが、俺は絶対にやらんぞ、2度と俺に向かって信仰など勧めるな。いいな」
息子の徹も同様であった。
娘の君江は、「私、考えてみる」と興味を示した。
君江が人工中絶をして病室のベットに横たわっていた。
両手で顔を覆って君江は泣いていた。
江利子はベットの脇に座り君江の髪を優しく撫でながら言った。
「君江、そろそろ信仰をしようね。人生には色々なことがあるけれど、君江は幸せなる権利があるのよ。信仰のことは直ぐにはわからない。でもね、どんな運命でも変えることができる宗教なのよ。いいわね?」
君江は布団で顔を覆い泣き続けた。
だが、「どんな運命でも変えることができる」と言った母親の言葉を胸に留めていた。

2012年3 月20日 (火曜日)
創作欄 徹の青春 16
徹の母親の江梨子は、肝っ玉の据わった女であった。
突然、息子の徹が高等学校を中退してしまった時もほとんど動じなかった。
「まだ、17歳でしょ。高校を中退しただけで、徹の人生が終わったわけではないの。私は徹を見守っているからね」
徹の心情を察するような眼差しを向けると包み込むように言った。
そして学校を辞めてから、毎日、沼田の街中を彷徨っているような息子を見守っていた。
一方、徹の義父の佐吉は、怒りが心頭に達して徹を何度も殴りつけた。
「家を出て行け!」
吐き捨てるように言った。
「いつまでも、ぶらぶらしているのか。目ざわりだ早く出て行け!」
顔を合わせる度に、苦情を言われた。
義父は酒を飲むと苦虫を噛みつぶしているよな顔が赤らみ、段々般若の面を想わせるように目も吊りあがっていった。
佐吉は囲炉裏ばたで、炭の火を見詰めながら煙草を吸っていた。
そして戦死した兄のことを思い浮かべていた。
佐吉は兄が戦死したことで、自分の人生行路が狂ってしまった。
佐吉は終戦を長野県の松代で迎えた。
いったん沼田に帰郷して、大学に復学する予定であった。
だが、父親の金蔵が「兄嫁と結婚して、家を継げ」と家長の権限で命令したのだ。
家長とは、一家の家督を継承して家族を統括し、その祭祀を主宰する者を指した。
当主と同義の言葉とされている。
家長は夫権や親権を通じた配偶者及び直系卑属に対する支配は勿論のこと、それ以外の親族に対しても道徳的な関係を有し、彼らに対する保護義務とともに家長の意向に反したものに対する者を義絶する権限を有していた。
そのようは封建社会の古い体質を金蔵は体現していた男だった。
戦死した徹の父の清太郎は、旧制沼田中学の優等生であった。
誰もが高等学校へ進学し、帝国大学へも行くものと期待をしていた。
旧制沼田中学で清太郎と成績を争っていた、清太郎の親友だった大野幸郎は一高から帝国大学へ進学し、後年は弁護士になっている。
だが、清太郎は父親の金蔵から、「農家を継ぐ者に学問はいらない」と高等学校の受験を反対された。
そして、清太郎が19歳の時、川場村から16歳の江梨子を嫁に迎え入れた。
すべての段取りを父親の金蔵が仕切っていた。
農協の組合長で村会議員をしていた金蔵は村の有力者であり、封建的時代の家長的体質が色濃い人間で、言動には人に有無を言わせない強引さがあった。
2012年3 月21日 (水曜日)
創作欄 徹の青春 17
徹の義父佐吉は、戦争に翻弄されたと思って生きてきた。
東京の杉並の阿佐ヶ谷に下宿をしていて、大学予科へ通っていたのであるが、学徒出陣の実施の流れに組み込まれた。
1943年(昭和18年)10月21日、東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が文部省主催、陸海軍省等の後援で実施された。
壮行会を終えた学生は徴兵検査を受け、1943年(昭和18年)12月に連隊(入営)か海兵団(入団)へ入隊した。
そして、徹の義父佐吉は長野県の松代象山地下壕で終戦を迎えた。
第2次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最後の拠点として極秘のうちに、大本営、政府各省等を松代に移すという計画の下に地下壕を構築した。
地下壕の着工は昭和19年11月11日から、翌20年8月15日の終戦の日まで、約9か月の間に当時の金で約2億円の巨費とおよそ延べ300万人の住民及び学徒・生徒、朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され1日3交代徹夜で工事が進められた。
食糧事情が悪く、工法も旧式な人海作戦を強いられ、多くの犠牲者を出したと言われている。
松代地下壕は、舞鶴山(現気象庁精密地震観測室)を中心に皆神山、象山の3か所に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は10キロメートル余に及んでいた。
全工程の75%の時点で終戦となり工事は中止された。
佐吉は、下宿先の娘と恋仲になっていた。
「戦争でお互い生き残ったら、将来結婚しよう」と約束していたのだ。
だが、いったん群馬県の沼田に戻ったことから、思わぬ挫折となった。
大学予科へ戻れなかったことに加え、恋に終止符が打たれた。
それは悔やんでも悔やみきれないことであった。
徹が高校を中退した時、佐吉は自分の過去を重ねて怒りが込み上げてきた。
佐吉は妻の江利子にも大学予科へ通って時代のことや、長野県の松代象山地下壕で苦役を強いられたことなどの過去には硬く口を閉ざしていた。
敗戦の年から、15年の歳月が流れていた。
「あの娘は、どなっているであろうか?」
一人酒を飲むと佐吉は想ってみた。


2012年3 月22日 (木曜日)
創作欄 徹の青春 18
徹の母親の江梨子がうつ病になったのは、3年前のことである。
原因は、夫の佐吉の浮気問題であった。
狭い沼田の街のことであり、江梨子はお花の稽古仲間の一人から聞いた。
「言おうか、言うまえか迷っていたのだけれど、私、見てしまったの」
お花の稽古仲間は7人いたが、その人とは格別親しかったわけではないので、江梨子は相手を訝って見詰めた。
4月の中旬で沼田城址公園の桜が5分咲きであったのに、昨夜降った雪が開花した桜の花びらと蕾を包み込むように積もっていた。
2人は立ち止まってそれを見た。
「雪が降り積もって桜が、かわいそうね」と江梨子は言った。
相手はまだ言い淀んでいる様子であった。
「あなた、何を言いたいの」江梨子は促した。
「あなたの旦那さんが、女の人と寄り添って歩いているところを、見てしまったの」
相手は気まずそうに俯いて言う。
「あなたは、私の夫を知っているの?」
江梨子は改めて相手の横顔を凝視した。
「実は、あなたの旦那さんとは尋常小学校の同級生だった。田代幸恵と言えば佐吉さんは覚えているはずよ」
田代幸恵は親しげに笑みを浮かべた。
「そうなの。世間は狭いのね」
だが江梨子は微笑むことができなかった。
城掘川に江梨子は目を転じた。
「私の家は、横塚町の菊屋商店の裏にあるの。遊びに来てね」
田代幸恵は、夫の佐吉について詳しく話すことなく立ち去って行った。
その夜から江梨子は不眠症になった。
「本当に夫の佐吉が浮気をしているの?」
浮気をすることなど江梨子には、とても信じ難いことであった。
江梨子は夫が戦死して、夫の弟の佐吉と再婚していた。
家長制度の名残りであり、兄嫁と義弟の関係からして如何にも日本的な結びつきであった。
一方では、明治時代の貞操観念から夫を亡くした妻は「2夫に交えず」(操正しき女は未亡人になっても、再婚しない)という教えもあったのである。
沼田祇園祭の8月5日、君江が強姦された日に佐吉は農協の旅行だと言っていたが、ある女の人と2人で新潟県の湯沢温泉に行っていた。
1956年(昭和31年)、経済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びで「もはや戦後ではない」と記述、この言葉は流行語になった。
君江の強姦事件は、それから4年後(1960年)に起きた。
「徹、おぎょん(祇園祭の別称)には君江1人では行かせるな。何かあると困るからな。兄貴のお前が確りと面倒を見るんだ。いいいな。分かったか」
佐吉は旅行で家を出る前の夜、徹に釘を刺すように言った。
例年なら父親の佐吉が、沼田祇園祭に娘を連れて行っていた。
結果として、父親佐吉の浮気旅行が裏目に出たのだ。
浮気相手は、いわゆる戦争未亡人であり、妻の江梨子と同じ立場の人で会った。
18歳で結婚し、20歳で夫を戦争で失っていた。
江梨子の夫と同じ高崎陸軍歩兵第十五連隊で、昭和16年から始まった太平洋戦争の激化により、十五連隊は南方パラオ諸島に派遣され、ペリリュー島の攻防をめぐってアメリカ軍と激戦を交え、2個大隊分(約2000人)が全滅し、昭和21年(1946)、日本に帰還できたのは1個大隊分の人たちだけであった。

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