医科歯科通信  (医療から政治・生活・文化まで発信)



40年余の取材歴を踏まえ情報を発信

取手の人々

2015-04-15 03:11:12 | 創作欄
2014年3 月27日 (木曜日)
創作欄 取手の人々
1年遅れであるが、人生の完全燃焼へ向かって、一歩を踏み出そうと徹は想った。
奇しくも茨城県取手市の住民となって20年余、愛着も湧いてきた。
あの頃、徹は大学の友人に相談を持ちかけいた。
「田中、嫁さんの実家が近いことが、そもそも問題だな」
徹の愚痴を聞いて友人の木島孝司は指摘した。
2人は酒を飲まないので、常に会えば喫茶店で懇談していた。
木島は紅茶で徹はソーダー水である。
子どもの頃から緑色が好きな徹は、緑色のジーパン姿である。
「緑のジーパンか」と木島は呆れた顔をした。
徹のバックも緑色であった。
「雇用促進住宅を田中に斡旋するよ」
「雇用促進住宅?」
「労働省の外郭団体の雇用促進事業団の住宅なんんだ」
「つまり、木島が勤務する労働省の傘下団体なんだね」
「そう。普通は容易に入居できない。倍率は30倍以上。家賃が安いんで入居希望者が殺到している」
「それで、その雇用促進住宅を木島が斡旋してくれるんだ。有難い」
「船橋と取手に空きがある。どちらにする」
「船橋がいいな」
徹は競馬好きなので船橋を選らんだ。
「船橋は築15年、古い。取手は築2年、まだ新しい。瞳さんに聞いてみたら」
木島は瞳の性格を知っていたので促した。
徹は頭が上がらない妻の瞳の意見も聞くことにした。
惚れた弱みを徹は引きずっていた。
「かかあ天下」になるなと木島が予測していたとおりに、妻の瞳が家庭の実権を握っていたのだ。
男4人兄弟の家庭の一人娘であった瞳は、3人姉妹の家庭の一人息子として育った徹より、性格が勝っていたのだ。
結局、瞳が選んだ取手市内の雇用促進住宅に入居したのは、徹が28歳、瞳が24歳の年であった。

投稿情報: 07:40 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年3 月24日 (月曜日)
創作欄 取手の人々
長男の忠則は何時ものように、足をバタバタ鳴らすように2階の部屋から階段を下りてきた。
次男の健児は忠則とは対照的で猫のように足音も立てず階段を下りる性質であった。
だから父親の信夫は長男を「バタバタ息子」次男「ネコ息子」と幼児のころから揶揄していた。 階段を勢いよく下ってきた忠則は玄関内に角刈りで眼光の鋭い男たちが立っているので度肝を抜かれた。
気が小さい性格であったので、友だちには小学生のころからいじめられてきた。
忠則は相手が暴力団の男たちだと思い、自分に何かトラブルはあったかを瞬時に頭を巡らせた。
一人の男が一歩前へ出て紙面て取り出し「浅生忠則だね。逮捕状が出ている。逮捕容疑は婦女暴行だ。逮捕す。被害者は2人。加害者は浅生忠則、長田健作、田辺次郎の3名。千葉県警松戸署に連行する」
忠則は被害者の名前を捜査員から聞かされて数か月前のことを思い出した。
「あれが婦女暴行なのか?!」
母親の早苗は覆面パトカーに息子が押し込めれる瞬間、母親の顔にすがりつくような視線を送る息子に「バカ」と叫びながら平手打ちを食らわせた。
早苗は夫が勤務する東京・日本橋本町の医薬品卸会社に電話をかけた。
「あんた、今日は早く帰ってきて、大きな声は出さないで聞いてね。いいわね」
夫の信夫は「何事なんだ」と声を潜めるように聞く。
電話を受けた三田慶子は怪訝な顔をしていた。
信夫の妻が会社に電話をかけてきたのは初めてであったので「何かがあったのだ」と思って聞き耳を立てていた。
実は信夫と慶子は不倫関係にあったのだ。
信夫は43歳、慶子は30歳であった。
「先ほどね。忠則が千葉の松戸警察に連れれていかれた。婦女暴行容疑だって・・・」
早苗は涙声になっていた。
「ええ!?」と信夫は声を発しながら思わず慶子の顔を見詰めた。
慶子は信夫の視線を避けるようにして書類に目を落とした。
この日の夜は金曜日、信夫は慶子と銀座に食事に行くことを約束していたのだ。
愛人関係にあるとは言え、家庭内のことは慶子には伝えらないと信夫は思った。
2人は社内ではプライベートのことは筆談を交わしていた。
「奥さんからの電話、妬けるわ」
「バカ、そんなこと書くな。今夜の約束、延期してくれ」
「理由は?」
「言えない。分かってくれ」
「仕方ないわね」 物分かりのいい女であるので、不倫関係は5年も続いていたのだ。


投稿情報: 07:07 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年3 月20日 (木曜日)
創作欄 取手の人々
大田修の従弟の浅生忠則が婦女暴行の容疑で逮捕されたことが新聞の片隅に載った。
いわゆる1段記事の小さな扱いであった。
狭い取手市内のことであるから、近隣の噂となり世間が知ることとなった。
幸い叔母の息子であり、浅生姓であった。
大田姓であったら兄が経営する「大田歯科」にも多少は影響が及んだであろう。
忠則は大学生で19歳、小学校時代の仲良し3人組みで18歳の少女2人をホテルに連れ込み婦女暴行した容疑で逮捕されたのだ。
新聞を読んで、大田修はこの事件に疑念を抱いた。
3人は午前1時ころ伝言ダイヤルで少女2人を呼び出し、車に引きずる込み込み犯行に及んだ。
伝言ダイヤルでは自分は1人だと浅田忠則が偽り、2人を安心させた。
だが、車内には土木作業員の長田健作、無職の田辺次郎(いずれも19歳)が待機していて2人を威嚇しながらホテルへ連れ込んだとされる。
犯行が行われたのは取手市内ではなく、松戸市内のホテルであるので浅生忠則ら3人は松戸警察署に逮捕されていた。
母性本能の強い叔母の早苗は、逮捕された息子を不憫に思い目を泣く腫らしていた。
「あの子に限って、婦女暴行なんかするわけないの。とても優しい子だから」
早苗は甥の大田修にすがり着くように訴えた。
修は忠則が幼児のころこら弟のように可愛がっていたのだ。
「叔母さん、気持ちは分かるよ。忠則が婦女暴行などするわけだない。何かの間違いだよ」
修は叔母を慰めた。
叔母は「時々、家の周囲に車が停まっていて、何だろう」と想っていたそうだ。
それまで警察が珍重に内偵していたようだ。
そして5月の末に6人の捜査員が突然、自宅にやってきた。
母親の早苗は暴力団がやってきたと思い驚愕して玄関の扉を開けたのだった。
「お母さんだね。忠則さん、家に居るよね。呼んで!」威圧するような口調だった。
「何か?」早苗は言葉を飲み込み後ずさりした。
外から半開きのドアを1人の男が強引に引き開けた。
「息子、居るんだろ。早く呼んで」
角刈りの体格のよい男が素早く玄関内に足を踏み入れる。
「忠則、忠則、直ぐに下りて来て!」
早苗は2階へ向かって悲鳴に近い声を放った。
早苗は息子が暴力団と何らかのトラブルを起こしたものと思い込み、恐怖心から気が動転した。
その時、忠則は2階でエロビデオを観ていた。





投稿情報: 09:34 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年3 月18日 (火曜日)
創作欄 取手の人々
人生をどうのうに捉えるのか?
肯定か否定か、確信か不信かで自ずと結果は大きく分かれるはずだ、と大田は気付いたのだ。
大田の高校時代の友人の倉持勉が、26歳で網膜色素変性症のため失明した。
倉持は調理師になっていたが、失明してから水戸の盲学校へ入学し、3年後、「あん摩マッサージ指圧」の国家試験に合格し、取手市内に治療院を開いていた。
大田はその年の冬の大雪の雪かきで腰を痛め、倉持の治療院に通った。
「大田、お前の腰の治療をするとは思わなかったな。まあ、俺に任してくれ」倉持の声は確信に満ちていた。
「俺も、倉持の治療を受けるとはな。人生色々あるな」大田はどこか引け目を感じていた。
「俺は、目が見えなくなって、人の声に敏感になった。大田元気がないな、どうしたんだ?悩みでもあるのか?そうなら話してくれ。胸の内を明かすことで気持ちは楽になるもんだよ」
倉持は治療の手を止めた。
「最近、ツキに見放されてな。競馬で15連敗もしている」大田は自嘲気味に言った。
「競馬か、俺も調理師時代は取手競輪に通ったが、競輪は難しいな」倉持の指に力がこもった。
大田は取手に在住していたが、競輪場へ足を踏み入れたことはなかった。
「賭け事にのめり込むのは業のようなものだと、俺は失明して思った」
「業か、そうに違いない」大田は苦笑を浮かべた。
「大田、俺は思うんだが人生はどう生きるか、それで決まる。俺は失明したことは悪くなかったと今は思えるんだ」
倉持の言葉は確信に満ちているように力強かった。
「大田、何かに挑戦することに意味がある。そう思わないか?」
大田は沈黙して聞いていた。
治療の効果で腰の痛みが和らいでいた。
「倉持、なかなかの腕前ではないか。ありがとう。だいぶ腰が楽になった」
大田は心から率直に感謝して治療院を出た。
そして中山競馬場へ向かった。
新松戸から武蔵野線に乗り換えると車内はかなり込んでいた。
競馬人口の多さは競輪ファンの比ではなかった。
大田は船橋法典駅から競馬場へ続く長い通路の中で、気持ちが何時もと違うような高揚感を覚えていた。

創作欄 取手の人々
大田修は広告代理店の営業や印刷会社の営業などをしてきた。
あるいは小さな出版社の営業もしてきた。
上司から編集の仕事を打診されたこともあったが、文章を読むことや書くことが苦手なので断った。
ただ、世の中には自費でも本を出したい人が以外に多く、大田は依頼者の相談に乗りながら、ゴーストライターと顧客の間を繋げてきた。
ゴーストライターの一人である木嶋孝介とは同じ競馬好きであることから、意気投合して土日には競馬場へ通ったものだ。
木嶋は元経済雑誌の記者であったが、株のインサイダー取引に関与したことで解雇された過去を持つ。
重要事実の公表直前の売買、売り要因の重要事実を知っての買付け、買い要因の重要事実を知っての売付け、あるいはスクープ記事・憶測記事などで株価に多少の影響を与えたこともあった。
木嶋は酒を飲まされ、知人などに情報を流していたのだ。
自分にはまとまった金がないので、株で儲けた人間からおこぼれを貰ってきた。
木嶋は東京・中野に住んでいたので、大田は終電を逃すと木嶋のアパートに度々泊めて貰っていた。
上野発取手行きの最終電車は24時20分であり、新宿で飲むことが多かったので木嶋のお世話になっていた。
二人はいわゆるサラ金に手を出してまで競馬をしていた。
初めは10万円を借りて儲けて、直ぐに返済したこともあったが、そうとばかりは限らない。
大田は借金が200万円に膨らん時には、どうにもならなくなり母親の千代に泣きついたのだ。
「利子ばかり、毎月払っているんだね。バカバカしい。一括で返済するんだね。これはお前のために積んだ郵便貯金だよ。大事にしな」と通帳とハンコを出した。
太田は通帳を見て目を見張った。
500万円も積まれていたのだ。
結局、親バカであることが裏目に出た。
懲りない大田のことであるが、今度は300万円の借金をしていた。
また、母親に泣きついたのである。
今度は300万円を抱えた母親が街の金融機関に同行し、「2度と息子に金を貸さないようにしてくださいね」と頭を下げた。
2年後に母親が急性心筋梗塞で亡くなった。
60歳の若さであった。
大田は「親不孝」だったと葬儀の場では反省したが、さらに3年後、500万円の借金をしていた。
大田は結婚もせず32歳になっていた。
兄の勇治は歯科大学の附属病院に勤務していたが、取手駅近くのビル1階で矯正専門医として開業していた。
勇治の妻智子は同期生であり、小児と一般歯科をやっていた。
父親も息子の修に甘かったのである。
「競馬で金儲けなど考えるな。俺の不動産業を手伝わんか。これはお前に渡す最後の金だ」 銀行の通帳と印鑑をよこす。
そこには1500万円が積まれていた。
大田は初めて父親に謝罪し「2度と競馬はしません」と念書まで自ら書いたのだ。
兄の勇治が以前「親父、おふくろさんも修に甘い。何時までも修は頼り切るだろう。金は老後のために取っておけよ。修の借金の尻拭いはよしたらどうか」と諌めたことが大田の脳裏に浮かんだ。

2014年3 月14日 (金曜日)
創作欄 取手の人々
昨年4月以降、新しい方向へ踏み出そうと大田修は想っていた。
だが、不本意な条件で仕事を継続することとなった。
相手は大田にとって恩義ある人であった。
「人間の道として忘恩の人間にだけはなるまい」と決意してこれまで生きてきた。
当然、育てもらった親に対する恩もある。
大田は借金を重ねて、度々親の援助を受けてきた。
兄の勇治は「親父、おふくろさんも修に甘い。何時までも修は頼り切るだろう。金は老後のために取っておけよ。修の借金の尻拭いはよしたらどうか」と諌めた。
「お前は私立の歯科大学を出た。それなりに金をかけた。修は高卒でそれほど金をかけなかったから、300万円、500万円の借金は仕方ない」不動産業の父親は修をかばう。
「修の借金は競輪や競馬だろう。ドブに金を捨てるようなもんだ。親父もそろそろ修を突き放せよ。あいつはそうしないと一人前の人間になれない」
勇治はそろそろ開業を考えていたので、開業資金の一部を当てにしていた。
「親父、どせなら生きた金を使うべきだ」と自分の思惑に誘導する。
父の豪は茨城県取手市の農家の3男に生まれたが、農業高校を卒業すると東京に働きに出た。
だが、昭和40年代になって、取手市も大きく変わっていく。
多くの田圃や畑が公団住宅や市営住宅、民間住宅に変わっていく。
豪の実家の農地も宅地造成に組み込まれ、長男は土地成金になっていた。
豪は東京の町工場の工員に見切りをつけ不動産業に転身した。
豪は地縁などを生かして不動産業で成功を修めた。


コメントを投稿