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エマ・スミス

多妻の件を除いて夫ジョセフ・スミスをずっと支持し協力的であったエマ・スミスは、なぜ末日聖徒の主流と共に西部に向かわなかったか。教会員から質問があった。私も確認してきちんと答えようと少し調べてみた。

エマが1846年に始まる出ノーブーに加わらなかった理由は、まず一夫多妻に反対していたのでその制度が継続することを知って行動を共にしなかったことがあり、次に大管長の継承問題に距離を置いていたエマは5人の子供に夫ジョセフ・スミスの遺産を相続させることに腐心し、その過程で教会の管財人と見解の相違が生じ、対立状態に陥っていったことがあげられる。

同じく1844年カーセージ牢獄で殺害された、ジョセフの兄ハイラムの妻メアリー・フィールディング・スミスの場合と比較すると状況が浮き彫りになる。共に悲劇的な災難に遭い、未亡人になったのであるが、三つの大きな相違点があった。それはエマが頂点に立っていた「預言者」の妻であったこと、第二にエマの個人的及び財政的問題は教会と不可分に関わっていた点、第三はエマが一貫して多妻結婚に反対していたのに対し、メアリーは夫ハイラムが他の妻を娶るのを認め、間もなくヒーバー・C・キンボールの妻になろうとしていたのであった。

遺産についてジョセフ・スミスのどの所有物が受け継げる個人のものか、どれはエマや子供が受け継げない教会のものか区別するのは容易ではなかった。彼が使用していた机は?残した書類、書籍類、聖書は?愛馬は?それに資産は?消極財産(負債)は?これらについて管財人代行ウィリアム・クレイトンと交渉が継続されたが、初めは穏やかでも違う立場に立つ両者は利害が相違した。(ジョセフ・スミスは死亡時、約7万ドルの負債を負っていた。エマは生涯苦しめられるほどの負債を受け継いだことになる。)

8月6日にブリガム・ヤングはボストンから戻るのであるが、ヤングとエマは初めの12年間親しい間柄で敵意のようなものはなかった。しかし、ブリガム・ヤングが多妻を受け入れた頃から軋轢が感じられるようになっていた。ヤングはノーブーにもどって5週間後漸くエマを訪ねて教会の状況とジョセフの財産について説明したが、ジョセフ・スミスの財産に関するエマの動きを不快に思っていたふしがある。

結局、冒頭にあげた二つの理由と関連する複雑で入り組んだ利害関係がこじれて、エマと後続する教会の間に溝と不信感が生じたのであった。

参考文献 
Linda King Newell, Valeen Tippetts Avery, “Mormon Enigma: Emma Hale Smith - - Prophet’s wife, ‘Elect Lady,’ Polygamy’s foe” Doubleday, 1984.

Carol Cornwall Madsen, “Smith, Emma Hale” in Daniel H. Ludlow, ed., “Encyclopedia of Mormonism” Macmillan Publishing Company, 1992.



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コメント
 
 
 
エマ・スミス (モコポリ)
2013-09-28 20:16:58
私もちょっと疑問でしたが・・
勉強になりました。
エマ・スミスのその後も知りたい気がします。
 
 
 
そう言えば・・ (nj)
2013-09-28 21:30:20
訪ねていただきありがとうございます。そう言えば、その後についてもあまり知られていないですね。・・多分その後はlds教会側から悪い評価(評判)が多くて読み辛いかもしれません。あるいはその修正を求められるのかもしれません。
 
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