「証し」はリベラルや理屈っぽい人物が苦手である。
縁遠く、価値を感じない他者の「証し」は、煩わしい「垂れ流し」
とうつる。
「証し」は日本の文化に馴染みがないようだ。
ネットで検索するとほとんどがクリスチャンの発言。
「証し」はキリスト者が神の実在、イエスがキリストであること、
また信仰経験を仲間に分かち合うことを指す。
「証し」は極めて個人的なもの、霊感による感動はその人しか理解
できない。
新約聖書は証しをするように奨励し、lds教会も勧めている。
「証し」に似たものに「保証の言葉」(testimonial)がある。
それは素晴らしい、人にも薦められると言葉を寄せること。
「証し」は日常生活にも広義で行き渡っている。
信仰上の証しは宗教的な個人の精神的発露、TPOを心得る限り尊
重すべきもの。
--- --- ---
Testimonial = 先に知った人の推奨意見。広告、マーケティング
の面で活用されている。短い書評などもその役割を果たす。
TPO = Time, Place and Occasion. 時、所、場面。
縁遠く、価値を感じない他者の「証し」は、煩わしい「垂れ流し」
とうつる。
「証し」は日本の文化に馴染みがないようだ。
ネットで検索するとほとんどがクリスチャンの発言。
「証し」はキリスト者が神の実在、イエスがキリストであること、
また信仰経験を仲間に分かち合うことを指す。
「証し」は極めて個人的なもの、霊感による感動はその人しか理解
できない。
新約聖書は証しをするように奨励し、lds教会も勧めている。
「証し」に似たものに「保証の言葉」(testimonial)がある。
それは素晴らしい、人にも薦められると言葉を寄せること。
「証し」は日常生活にも広義で行き渡っている。
信仰上の証しは宗教的な個人の精神的発露、TPOを心得る限り尊
重すべきもの。
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Testimonial = 先に知った人の推奨意見。広告、マーケティング
の面で活用されている。短い書評などもその役割を果たす。
TPO = Time, Place and Occasion. 時、所、場面。
しかし、その「証」によって困らされる事が良く有ります。嫌な事って表現の方が近いかも?
それは、「自分は証が有るので正しい」と言う態度です。証と言う鎧で実を固めて、真実の矢をはねつけるのです。
つまり、「証を持つ」=「聞く耳を持たない」です。
そして、もっと性質が悪いのは、その「証」が個人の宗教的経験から来るものではなく、宗教組織によって心理的に形成される事です。
つまり、集団真理の操作に「証」と言う言葉を利用する事です。
先日もステークの評議員に質問をすると「私には証が有るので・・・」ってお言葉でした。
つまり、ここで話が終わってしまいます。
モルモンでの「証」とは、全ての客観的思考を排除する事に他ならない。
旅立ちの前に、又堅い話に成りましたが、こんな重い荷物は持って行かないように(笑)
ですが、それは相手の信条や持っている概念を変えようと迫った(挑戦した)場面ではなかったですか。
平行線をたどるようなときは、その時点で相手の信条・立場を尊重して、穏やかにそれぞれの立ち位置にもどれるようにしたいと私は考えています。
私はldsがしばしば言う「霊感による証し」も尊重すべきもの、と受け止められるようになりました。
私が証に関して物を言うのは、個人の思いであるはずの「証」に対して、教会指導者が「この様な証を持て」と迫るからです。
「指導者が提唱する証を持てないのなら、出て行け!!」っていつも言われますのでね。
>ですが、それは相手の信条や持っている概念を変えようと迫った(挑戦した)場面ではなかったですか。
私は、自分の考えを素直にそのまま言っただけです。
NJさん自身が、素直に思いを語れない教会での自分の存在にお気づきなのに、素直に自分の思った事を相手に伝える事が「挑戦」と見えるんですね。
私がもし「挑戦」しているとしたら、素直に自分の思うことも語れない、教会の雰囲気に対する「挑戦」ですね。
日曜学校や神権会のレッスンでも、「教師の質問には、こう答えるのが正しい」と言う教会内の雰囲気に気がつかないNJさんではないでしょ?
モルモン教会って、NJさんがこれから行かれる国と同じなんでしょうか?
私は、個々の信仰者が持つ「証」について批判的なのではないです。
「証」と言う言葉一つで、思考停止してしまうように成っている事に対する批判です。
自分は具合が悪くなると「証」と言う盾の中に閉じこもってわが身を守り、そして、その盾の中から攻撃をしてくる。
だったら、その盾を突き崩すしか無いじゃ無いですか。
彼らはいつもこう言うでしょ。
「私は証を持ってる、だからあなたは間違ってる。」
証と言うのは、彼らの盾であると同時に「槍」なんですよ。
いつもその槍で突きまくられてるのはこっちの方です。それに向こうの方が圧倒的に多勢です(笑)
「悔い改めよ!!」
「地獄に落ちる!!!」
「神の怒りが・・・・!!!」
って、攻め立てるのは、いつも信仰者の方なんですよ。一般の人は、それに対して身を守ってるだけじゃ無いですか。
長い事宗教研究者として生きてきて、どうしてそれに気が付かないのですか?
ちょっと重たくても、この荷物しっかり持て行ってください。
中国のキリスト教会に出席したときは静かな訪問者として、中国で長期滞在するときは招聘者の立場を尊重して、きまりを遵守して言動をとる、など。
モルモン教会の集会やレッスンに出るときも同様で私は最近、以前より自由に振舞えるようになったと感じています。共通項の入った引き出しから取り出すようにして、その時間を過ごしています。
月の第一日曜日の礼拝で行われる「証会」は大好きな集会のひとつです。
また場を乱さない程度に自分なりの「証」も積極的にするようにしています。
話者が生活で体験した神秘的な経験を話すことは
聞く者と共にその経験を追体験するようなものであり
この殺伐とした「精神の砂漠化した都会」に住むものにとっては生きる力を与えてくれます。
確かにモルモンの「証」はモルモン的な見方によって意味づけられてしまい勝ちですが
私は私なりの理解で再解釈しています。(笑)
>「地獄に落ちる!!!」
>「神の怒りが・・・・!!!」
多分わたしたちリベラルなモルモンにできることは
一般の信者に「あなたの経験の意味は本等はこうではないのか」と再解釈を提示することではないでしょうか?
なんて偉そうなことを言ってしまいました。
我家の子供には不自然に映るようです。
なぜ誰も彼も同じことを言うので質問されました。
たぶん豚さんが教会で嫌に感じていることのひとつではないでしょうか。
私も最近の「知っている」と証するようにとの指導には拒否感があります。
とくに子供たちにそのように言わせているのが嫌です。
いかにモルモン的に修正されていようと
私たちの教会はその「証」によって存続しているのですから・・・。
モルモンは神秘主義的な側面を強く持つ
言ってみれば昔の、福音回復運動期のキリスト教の特色を多く保存した宗教ではないでしょうか。
勝手な印象で語っているので間違っているかもしれません。
が、モルモンが世に問うことができるのは
結局のところこの「証」(あるいはモルモン書)しかないのでは。
つまりモルモンに明日があるとすれば
聖書やモルモン書を批判的に読みながら(つまりリベラルなキリスト教的な信仰)この「証」(神秘主義的な信仰)を併せもつことではないでしょうか。
Bushmanの著など幾つかの書籍もそう記しています。
> モルモンに明日があるとすれば聖書やモルモン書を批判的に読みながら(つまりリベラルなキリスト教的な信仰)この「証」(神秘主義的な信仰)を併せもつことではないでしょうか
的を射ています。
仏教に証がないなんてとんでもない。
世迷ごとを簡単に証ってことにしないだけ