
柴田史子が「素顔のモルモン教」の書評で、「(著者によると)多くの問題を抱えた集団が信者を惹きつけ、・・存続し得たのはなぜなのか。求心力は何なのか」と書いている。
Facebookで出た意見と小生が自分の経験から思うところを、厳しい批判を覚悟の上で、メモとして書き留めておきたいと思う。この記事に寄せられたコメントからも補足させていただいた。(2016.07.02)。
1
改宗時には絶対的な神の宣言により認可された教会であるという安心感が求心力となった。(ITさんの妻)
16歳で改宗した私は、真理を知った(神の存在、JSによる回復のメッセージ、進歩・経験のため現世に来たという福音の計画、など)という高揚感(高価な真珠を見つけた少年)のような気持でいたのではないか、と思う。唯一真の教会に所属しているという思いが誇りとなって自分を支えていた。社会学が言う「差別化」(この場合、他の人は知らない、自分は知っている)の心境であった?!(沼野治郎)
[改宗時の印象] 多くの教会から異端視されているにもかかわらず、そこに集っているのは善人であり、外部の批判が必ずしも正しいとは限らないということを理解できた。(IT)
2
また、末日聖徒イエス・キリスト教会は一般のキリスト教会とは違って、進取の、勢いを感じさせる存在と映っていた。静かで敬虔な、というより、立志伝に富んだ、積極的な生き方を体現している共同体という印象を持ち、誇り・自信を感じていた。
それは「信仰が人を・・」の書評にある、「禁欲的なカルバン主義」とは軌を異にする、とか「原罪を償う必要がなく、人間の欲望(自然な人間性、とも言える)」にも寛容な、という点に起因するのではないか、と私は見ている。(沼野治郎)

[上段右の方、2つ目の段落に見える。冒頭の4行にも注意]
この2の点について、ITさんは「モルモンのよいところは、旧来の宗教にある『暗さ』がなく、むしろ明るく、前向きであるところである。洗練されており、生き生きしているところが、『成長している教会』というイメージを与えていた。」
「戦後’60, ’70, ‘80年代は若者の改宗も多く、勢いのある教会だったので、そのようなところに属することは安定した企業に入社したような安心感があった」と表現している。
3 [教会運営の在り方が与える印象]
家族のような相互扶助があり、よく管理されたプログラムがあり、活躍の場を提供してくれ、自分の知らない面を伸ばしてくれた。周囲の助けにより、活動を成し遂げることができると自信が持てるようになる。周囲との信頼関係が深まり、公私において更に助け合えるようになる。良い意味での相乗効果があった。
自分を必要としてくれることも多く、反対に自分が助けを必要とする時に応えてくれる友がいたことは大きな支えであった。信仰による一致や協力を実践できる組織であることが求心力のひとつとなっている。ただ、最近は教会も心の交わりが希薄になった気もする。求心力の衰えは活力と比例するのだろうか?(3もITさん)
4
ぶれない保守性は伝統を重んじる人にとっては魅力と信頼を感じるのはないか。昔の価値観がよかったと思う人は、古き良き時代を踏襲した組織に魅力を感じる(IT)。
5
神と人間の関係が、親子であるという教え。また、家族の絆が永遠であるという教えは多くの人をひきつけると思う(YK)。これに系図探求、死者のための儀式を行うことも日本人の心に訴えると考えられる(沼野)。
*改宗した信者の声を宗教社会学などの視点から分析・説明されると説得力を持つと感じる。私としてはいつかそれが整理できたらという思いがある。
問題は、教会が持つ様々な矛盾点(これまで認めてこなかった情報)が表に出た現在、それを知った教会員をどのように引き留められるかということ。なおも引き留められる求心力はどこにあるのか、という問題が問われる。同じことは布教活動についても言えて、改訂か、問われた時の対応マニュアルが必要となるのではないかと予測する。
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[コラム]
「キリスト教のリアル」*という新書を読み終えて思ったこと (2016/7/10, 鈴木壮一郎. Facebook より許可を得て転載)
モルモンって、決して他のキリスト教諸派に劣っていないし多くの可能性を持っている。
カトリックはさすがで洗練されていてかつ自由で非常に魅力的に思えた。座談会に参加していた神父がとにかく仕事を愉しんでいる。非常に中央集権的な部分を持ちながらも地域や個人の裁量に任されている範囲が広いと感じた。
それに対してプロテスタントの牧師は使命感に溢れているけれどなんだか苦行僧のようだし教会自体が疲れてしまっているように見えた。年々なり手が減っているというらしいが、牧師を大切にしないとさらに衰退するのではないかと思う。
モルモンは確かに素人集団だけれども、PBO(管理監督会)という実務を引き受ける官僚的な組織があるし、さらに牧師職に相当するビショップ(監督)を皆で支えようという意識も高いと思う。それはこの職がある程度持ち回りで他人事ではないからだと思う。
それからモルモンはたしかに人間の欲望に対して寛容だと思う。清貧という美徳はあまり意識されず、より良い生活を目指して邁進することに疑問を抱かない。物質的な繁栄は神の祝福であると考える。牧師が信徒の目を気にしてあえて中古の軽自動車に乗る、ということはモルモンではあまり聞いたことがない。
*「キリスト教のリアル」松谷信司著、ポプラ社、2016年。著者はキリスト新聞社取締役、季刊「Ministry(ミニストリー)」編集長。1976年生まれ。牧師・神父の現状を書いた、「キリスト教の今」を知るための一冊。
**記事との関連で言えば、3と2に関係してくる見方である。
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預言者は神が召されました。 それゆえに彼らは完璧であり(特にジョセフスミスとブリガムヤング)の発言にはみじんも誤りがない。 と主張する方々にはつらい時期に入ってきたということでしょう。
布教活動については、問われた時の大人の対応マニュアルが必要になってくると思われます。
>(特にジョセフスミスとブリガムヤング)の発言にはみじん
>も誤りがない。 と主張する方々にはつらい時期に入って
>きたということでしょう。
おっしゃるとおりです。まさに我が意を得たりの発言です。ここに来てやっとRさんと全面的に合意できることを喜んでいます。
そもそもモルモン書では「主は,黒人も白人も・・・主のもとに来る者を決して拒まれない。」と教えていました。ところがヤングが勝手に黒人は呪われた種族と決め付け、教会内に蔓延する都市伝説が、モルモン書の素晴らしい教えをないがしろにしてしまった。
実は、知恵の言葉もこれと全く同じ構造なのです。聖典には知恵の言葉は『戒めではない』と明確に書いてあります。しかしヤングが勝手に戒め扱いにしてしまい、教会内の都市伝説がコーラはいいのか、悪いのか、日本茶はいいのか、悪いのかと聖徒たちを混乱させています。
こんなとき分別のある末日聖徒はどうすべきでしょうか?公式の宣言2が出される以前に、黒人は決して呪われた種族ではないし、差別などしないと勇気を持った末日聖徒がいました。現在、教会の同性愛者への扱いが間違っていると勇気を持って主張する末日聖徒がいます。私は彼らに倣って知恵の言葉を戒め扱いしません、もちろん同性愛者への差別もしません。それが神の御心だからです。
未だに知恵の言葉は戒めだなどと言ってる人は、Rさんの仰るようにつらい時期に入っていくかもしれませんね。
私も昨日その映画の解説をラジオで聞きました。
あいにく、浜村淳じゃなかったので、見に行かないとわからないんですけど(笑)
人間の判断基準って、客観的じゃないんですよね。
このスレッドの1書いてある時代のNJさんに指導を受けたのが、私の人生の曲がり角だったんですかね?(笑)
「ペテロの葬列」って言う小説に出て来る人の様に、はからずしも片棒を担いでしまった事なんでしょうね。
でも、認識していなくても、人間は自分の言動の責任を負わなければならないんですよね。
信仰薄き者よ、立ち去るがよい!
神の預言者の言葉が成就されないと思うのか。
その様な者は、神を侮るもので、滅びの道に至るものである。
神はチリから人間を作った、月面にアーミッシュなど眉一つ動かすまでも無く作り出せる。
火星にAKB48を歌って踊らせることも可能なのだ!!
神の真の預言者の言葉を侮る者よ、そなたは、自分が神より偉いとでも思っているのか?
世の知識に惑わされ、神の摂理を信じぬ者よ、悔い改めよ!!!
>負わなければならないんですよね。
この考え方はモルモン教義からは、ちょっと外れるんですよねぇ。
教会の公式サイトで教会幹部は以下のように説明しています。
『罪とは,神の戒めを故意に破ることであり,実際に自分自身や他の人を傷つける行為につながるものを指します。』
http://www.ldschurch.jp/2014-apr-03
あらかじめ申し上げておきますがモルモン教会では、たとえ公式サイトや総大会で幹部や予言者が述べたことであっても、「個人的見解」であり「公式なものではない」との言い訳がまかり通る宗教ですから(笑)、こうした引用にどれほどの意味があるかは不明ですが。
とにかく「神の戒め」と「故意に」がキーワードです。ですから、たとえば私が豚さんに命令して強制的に風俗店に行かせた場合、それは罪ではないんですね。え?命令して欲しい?いや、それは聞かなかったことにしますね。
ただし例外があって、たとえ強制であっても、女性がレイプされた場合などは、「なぜそんな場所にいたのか?」「なぜ舌を噛み切って死ななかったのか?」と襲われた女性側の責任が問われることになり、想像を絶する悔い改めをしない限り、女性は罪に定められます。この辺はキンボール大管長の著書『赦しの奇跡』に詳しく書かれていますね。
一方世の中では、強制された状況や止むを得ない状況であっても自分が行なった行為には自分が責任を持たねばならないという考え方をする人が多くいます。知らなかったという事で許される場合と、知らなかったでも許されない場合があるようですね。
>負わなければならないんですよね。
法的には問題は無いけど・・でも、都知事を辞めさせられました。
自分のとった言動は、結局は自分の身に降りかかってくるって話。
例え、教義の内容をほとんど教えられないままバプテスマを受けても、「自己責任」だって言われるんですよね。
ま、確かに自分に分別が無かったとも言えますけどね。
「カルトの営利主義のインチキ教会だって、見ればわかりそうなもんだ!」
モルモン教会の話ではないですよ念のため。
>バプテスマを受けても、「自己責任」だって言われるんですよね。
へぇぇ!そんなこと言う教会があるんですかぁぁ!
まるでカルト宗教じゃないですかぁぁ!
あるいは詐欺師でしょうか!?
恐ろしい・・・・
まさかモルモン教会はそんなこと無いんでしょう、ね、ね?(笑)
法王 同性愛 謝罪
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E6%B3%95%E7%8E%8B%20%E8%AC%9D%E7%BD%AA%20%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B
モルモンの一会員の予言によるとLDS教会も、まぁ、何らかの政治的圧力を受けてか、同性愛を受け入れ容認・公認していくんだということです。
そのように公認の方向になってるんでは??
他には教会歴史とかでの情報がインターネットを通じ、教会から離れる会員が多いと。あとは新しい星が出現なんだそうな。
私はこうしたローマ法王の判断を、勇気ある行動だと思うのです。このような言動は内外から批判を受け、評判を落とすかも知れません。けれども誰かが矢面にたち、泥を被ることによって、多くの関係が修復され、多くの人が癒され、社会が改善されるのならと、その役目をローマ法王は引き受けたんじゃないかと思うわけです。まぁ勝手な創造ではありますが。
ところで末日聖徒のなかには「ローマ法王、また謝罪したそうですね(^^)」と妙に嬉しそうに話題にする人がいるんですよね、いったいどういう神経してるんだろうか?と思うわけですが。
またモルモンをキリスト教に加えないのは排斥だ、けしからんとお怒りの末日聖徒もいます。その方には良く良く考えていただきたいのですが、ローマ法王は「われわれキリスト教徒には、謝らねばならないことがたくさんある」と語っているんですね、これがキリスト教なんですよ。あなたはそんなローマ法王と気持ちを共有できますか?
モルモン教会って、やれ当時の社会はどうだった、やれ他のキリスト教でもこうだった、法的に問題はなかった・・・そんな言い訳ばかりで謝罪なんてしないじゃないですか。それじゃやっぱりモルモンはキリスト教徒の中には入れませんよねぇ。