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聖餐会でよいお話をするために

2014-07-26 21:55:04 | モルモン教関連
[写真はある教会における説教の場面]

先日監督会から渡された紙に次のようにあった。これに私も続いて少し添えてみた。

よいお話をするために。まず、神様のみ心を話せるように準備の前に熱心に祈る、に始まって、話したいことを書き出してみる、それをもとに全文原稿を準備し、声に出して読んでみるよう提案している。全文を書けない場合も、始まりの部分と終わりの言葉を決めておくとよい、と具体的な手ほどきを記し、本番では大きな声で、早口にならないように、御霊の導きに従って話すよう求めている。そして、日曜日に聖餐会でよいお話を聞くと、一週間が楽しくすごせます、と結んでいる。

話の準備について全く指導がなされてこなかったこの教会で、大変歓迎すべき試みである。与えられたテーマに関して、早めに思いつくことを書き出していくというのは私も心がけているので、同意見である。上の助言に加えて次のような項目を加えてみたい。

通常、lds教会ではテーマと関連聖句が与えられて、話の責任(しばしば英語のままアサイメントと呼ばれる)が与えられる。私の場合、その聖句に加えて自分でも気づいた聖句を書き出して、その中から核となる聖句を二三確認し、それについてよく学ぶようにしている。(釈義面の準備)。そして、話の骨子を書き出すに際し、最近自分が経験したことを織り込むようにする(聴衆にとって鮮度のよい内容がよい)。そして、聴衆の顔を思い浮かべながら用意する。結果として会衆を励まし、慰め、気付かせるメッセージとなれば有難いと思っている。

以下、外部から得たもので補充すると、説教には二つのタイプがあるという。それは「信仰からの語り」と「信仰への語り」で、前者は信仰的な物の考え方を前提にしたもの、俗に言う「上から」の説教で、後者は「どうしてそう考えられるようになったかを」話す、「下から」の説教である(大貫隆、「隙間だらけの聖書」)。これは人が紆余曲折や葛藤をへて信仰を持つようになった、自分自身について語ることを含み、この種の説教は尊重されてよく「証言」(証し)と見なせるという。多くの末日聖徒の説教は素人の域を出るものではないにしても、この「下からの説教」に属するものではないかと思う。
 なお、大貫は釈義(聖書の解釈)について、聖典の言葉から現代へのメッセージが読み取られ、提示されるのであれば、問題はないという。(ただ、話す時釈義に深入りしてはならないし、変容する現代に対して、釈義は硬直した不動のものであってはならない、と筆者は読んだ。p. 34)。

なお、説教についてはその不可欠な要素やコツについて数多く書かれている。その中からなるほどと思われるものをいくつかこの機会に取り上げてみた。一つは聴衆の正直な感想に基づくもので、説教に不可欠な要素を三つあげている。まず、よい説教は明快で伝わりやすく、聞き手が引き込まれて終わりまで聞き、感動するものでなければならない。よく構成され、象徴や物語、その他の工夫を用いている。聖典に基づいているだけではなく、TV, ネット、映画など今日の媒体に慣れた聞き手に「聞かせる」ような準備が必要である。次に、そうは言ってもよい説教の最も重要な要素は、聖書に根付いたもので、聖句(本文)について教えるものでなければならないということである。説教者の意見ではなく、聖書の権威が大事である。第三の要素は、人を変える力である。よい説教は神に対するより深い恭順を迫り、狭い自分を広げさせ、神に近づけ信仰を深めさせる。より良い、愛に富んだ人に変える力を持つ。ただ、それを受けるには、礼拝する者もその日曜日にどんな神の言葉を聞けるか膝を乗り出して聞くほど、積極的に説教に参加するようでなければならない。

次に、米国の説教者ふたりが経験をもとにコツをまとめたものから紹介したい。1本題に入る前に聴衆の心をつかむ。導入部で会衆の信頼を得る。聴衆を味方につけるとその後話しやすくなる。2実践・応用に関して時間を割いて準備する。聴衆を知り、愛するように努めると感性が研ぎ澄まされて実践・応用の面でよい話が思い浮かぶ。3会衆のひとりのように、自然な自分の姿で話す。借り物であったり、誇張したりしても人はすぐに気付いて心が離れてしまう。誠実が鍵。4大事な点(佳境)にさしかかると、心をこめて話す。熱意。物語を引用するときは自分の言葉で語る。そのほか、話を聞いた人から助言や意見、批判を求めて改善をはかる、説教とは練習して経験を積み上達するもの、などよい提案が多数見つかる。



参考
大貫隆「隙間だらけの聖書:愛と想像力のことば」教文館、1993年
Aaron Damiani, "15 Preaching Best Practices." 08/19/13
ジョン・ヒルトンIII, ミンディ・レイ・フリードマン [青少年]「聖餐会でお話をしますか」2011年lds.org
Duane Kedarman, "What Makes a Sermon a Good Sermon?" Spring 2002
Christian Classics Ethereal Library
Jeramie Rinne, “7 tips for my younger preacher self.” Jul. 18, 2013

当ブログ記事
2010/05/21 私が知るlds(日本)の弁舌に優れた説教家
2010/07/24 聖餐会も退屈?



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19 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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指導されます^^; (オムナイ)
2014-07-28 12:49:43
>話の準備について全く指導がなされてこなかったこの教会で

そうですか?昔からかなり細かく指導されてた思いがありますが。
NJさんには必要ないと思われてきたのでしょう。

聴衆(兄弟姉妹)への挨拶と感謝
導入
テーマに関する自分自身の経験
聖典の引用

などに心がけています。

公式ページでの指導の例

https://www.lds.org/youth/article/speaking-in-sacrament-meeting?lang=jpn
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そうでしたか (NJ)
2014-07-28 22:25:10
オムナイさん、

>昔からかなり細かく指導されてた思いがあります

そうでしたか、ご自身の経験を書いていただきありがとうございます。多分、あちこちで指導の努力がさまざまになされてきたものと思われます。ただ、ステークやワードが(あるいはさらに上部組織が)時間を割いて丁寧に指導したという記憶が私にはありません。(また、数年おきに行うといった念入りな配慮もありませんでした。)

また、本文にあげた2010/07/24の記事の例では、改宗17年になる米会員が一度も訓練されるのを見たことがない、と述べています。

公式ページに見られる聖餐の話の仕方について指導の例があるのをあげていただきました。ありがとうございます。気が付いていませんでした。教会は前進している?!

よく書かれていると思います。ブログ本文の参考に加えたいと思います。ただ、一般会員向けでないため、青少年しか見ない可能性があります。また、英文のサイトを見ると2011年末になって掲載されたように見受けられます。これは3,4年前という比較的最近になって掲載されたものと思われますね。
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Or 2007. (NJ)
2014-07-28 22:42:21
そして、公式ページの指導の文中、ホランド長老の言葉は2007年となっています。
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なるほど。 (オムナイ)
2014-07-29 07:18:36
地方部の片田舎の教会がスタートだったせいでしょうか。

思えば昔の聖餐会のお話はすごかった。
10分ずっと泣きっぱなしで無言、背教宣言、地底世界に十氏族はいる等のトンデモ論、暗記したモルモン書の朗読etc

西欧だと「スピーチ」の文化が定着しているせいでしょうか。
うまい人が多いですね。

そういえば昔の説教は原稿を用意せず「御霊の導くまま」が良しとされ、出来不出来が大きかったとか。
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そう言えば (NJ)
2014-07-29 17:10:25
すごい!オムナイさんの郷里(九州南部)、そして昔の話。そういえば、大阪も案外地方なのです。
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話の準備・・・ (地方の教会員)
2014-07-29 19:42:46
私は、早朝から仕事に出かけるとき車の中で、他の宗教のラジヲ番組を聴くのですが、心に響く話もあればそうでないときもあるので
公共放送でこれなんだから素人が話すモルモンでは、完成度のバラツキがおおいにあって結構なことだと思っています。
ただヤッパリ公共のラジヲ放送で放送される内容は、よいものが多くておおむね80点以上の点数をつけられるのではないのでしょうか?

聖餐会の話の内容を向上させようとする人は、監督会(B-SHOP)から指導を受ければうれしいのですが、そうでない人も教会にいらっしゃるので、まだまだ課題が残ります。

私が、某ラジヲ番組を聴いて、その中の説教を時々引用しているのをモルモンの教会員は誰も知らないと思います。多分 こころのともしびとか誰も聴いていないよね・・・
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なるほどそんな風にして (NJ)
2014-07-29 21:11:27
素晴らしい!地方の教会員さん。心の寛い人。

私もたまにラジオやテレビの宗教番組を聞くことがあります。やはり聞いてよかったと思う時と、それほど感銘を受けない時があります。
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つかみ ()
2014-07-30 09:53:12
 最近交代しましたが、私の地域の前の伝道部長は、何月何日と安息日を指定して、その日に目標を定めて、求道者や会員の友達を教会に招く、と言う取り組みをしていました。

 ところが、熱心な会員の中にも、聖餐会に知人友人を招くことに抵抗感を持つ人が少なからずいます。
 それは、初めて教会に来た人が、聖餐会に出席してどのような感想を持つか?と言う心配です。
 と言うもの、聖餐会の内容が充実していないと言う現状が有るからです。

 古い会員にとっては、何百回も経験済の聖餐会ですが、初めての人は、「モルモン教会ってどんなところ?」と言う興味や期待が有ってくる事でしょう。
 今の聖餐会がその期待に応えられる内容か?と言えば、疑問ですね。
 
 私はいつも寝てるので、話を聞いたことはほとんどないですけど。
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私は時々 (NJ)
2014-07-30 18:50:08
本当は寝ているふりをしている豚なんでしょう?!(知ってます。)

確かに期待を裏切るのでは?と思う懸念はよく分かりますが、よい話、よい雰囲気もあります。それで、私は時々他の宗派の聖職者や信徒、あるいはメディアの人が来ないかなぁと思うことがあります。(充実した特別な集会など。)

そんなことがあったら、(定例の集会でも)彼らは彼らで新鮮な目で見て、否定的ばかりではない印象を持つのではないかと思ったりします。年に1,2回他の宗派の集会に出る私が言うのですから、本気で真面目に言っているのです。

日本のキリスト教界では、宗派間の交流が少ないのでは、と残念に思っています。(我らが特別なので来てくれない、あるいは我らが他宗派に手を差し伸べないためかもしれませんが。私は個人的に垣根を越えるのに抵抗を感じません。)

ついでながら、プロテスタントやカトリックで礼拝の途中、会衆者の間で行われている「平和の挨拶」は素晴らしいと常々思っています。前後・左右の人と一斉に笑顔で会釈したり、言葉で挨拶を交わしたり、握手をしたりします。文化によっては hug になりますね。
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Unknown (教会員)
2014-08-01 12:01:59
>それは、初めて教会に来た人が、聖餐会に出席してどのような感想を持つか?と言う心配です。と言うもの、聖餐会の内容が充実していないと言う現状が有るからです。

確かに牧師のようなプロの話者ではないので、トンデモ論の展開をする会員や精神的にスピリチャルな展開になることだってありますよ。 でも総合評価として充実してないことはないと思います。

私が友人を連れて行った時にはアタリばかりでしたよ。賭けの要素が否定できないにせよ、その辺を全部ひっくるめて信仰なんじゃないですか。
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