
[倒れているラバンを前に逡巡するニーファイ]
モルモン書のニーファイ第一書4章に出てくるラバンの殺害は、やはり今日にあって弁護し難い場面であると思う。多くの末日聖徒は、初め当惑しながらも文脈を熟読し、あれは最後の手段であった、神が命じられたのだ、真鍮版が得られず将来多くの民が不信の暗闇に陥るより一人が滅びる方がましで次善の策であった、など説明を聞いて受け入れてきた。
しかし、私は最近別の考え方に接し、その方が理にかなっているのではないかと思うようになった。それは物語理論で言われている「信頼できない語り手」(unreliable narrator) の介在という説明で、物語を紡ぐ語り手の側に偏向性や知識の欠如があって、生じるとする。ニーファイによるラバンの殺害の場合、語り手(ニーファイかジョセフ・スミス)が旧約の律法に支配され、現代の読者が持っている倫理観を見越せないで生じたと考えられる。このことについて論文を書いた広島大学の教授はもっと粘り強い交渉をすべきではなかったか、と書いている。
もう一つは、上村静の言う聖書の倒錯に連なるケースではないか、という理解である。旧約聖書では元から住んでいた住民を全滅せよと命じる残虐な神が描かれている。ほかにも狡猾に見える人物が結局主流を占めて後世の民の先祖となっている例がある(エサウよりヤコブが選ばれる、兄たちを見下げるような夢を見るヨセフなど。偏愛する神)。これらの記述は今日の理屈から言えば擁護しかねる倒錯に当たるという。(倒錯は逸脱であり、聖書の記載とはいえ、現代の読者はそういった部分を擁護する必要も、それに拘束されることもない。)また、多くの記述は後世選民とされたイスラエルの視点から他民族の征圧を神の命による、と正当化して記述した経緯がある。
今日の社会で、神から命じられれば人の命を奪うことさえすると言えば、大きなリスクを負うことになる。例、次のような本が出ることになる。ジョン・クラカワー著、佐宗鈴夫訳「信仰が人を殺すとき - - 過激な宗教は何を生み出してきたのか」2005年。(これはモルモン教会を扱ったノンフィクションである)。ラバンの殺害について私はnarrative として読んで、この場合は自分に引き比べて読むことを控える。
注 旧約外典「ユディト記」13章に、ラバン殺害によく似た物語が記されている。アッシリアのネブカドネザルの司令官を、敬虔なやもめユディトが、相手が酔いつぶれているのに乗じて彼の短剣を抜いて首を取るのである。4-10節。参考となる並行資料である。M.D.Thomas, “Digging in Cumorah,” p. 66.
註2 ラバンはエルサレムの軍事司令官 a military governor of Jerusalem であったとH.ニブレーは述べている。ニブレーはリーハイとほぼ同時期に記されたラキシュ書簡に基づいて書いていて蓋然性が高い。いくつもBofMと類似点が見出されると言う。
Hugh Nibley, “Dark Days in Jerusalem: The Lachish Letters and the Book of Mormon (INephi)” in Noel B. Reynolds ed., “Book of Mormon Authorship” BYU宗教学センター、1982年、104-121。ラキシュ書簡もBofMの貴重な並行資料である。
参考
上村静「宗教の倒錯 ユダヤ教、イエス・キリスト教」(2008年)
標(しめぎ)康司「危険な質問 - - 末日聖徒における宗教としての危険性・異常性の要素に関する考察」モルモンフォーラム15号(1995年秋季)
吉中孝志「The Book of Mormon を文学的に読むとどうなるか」、広島大学「表現技術研究」5号(2009年3月)所収。
当ブログ
2008.09.18 「モルモニズム研究会、広島で開催される」
2014.10.26 「戦いを命じる旧約の神 - - どう受けとめればよいか」
あるいは、このままであれば、現代の読者としては、殺せというささやきには従わないということになります(私のような人の場合)。
この物語の本質は視点を預言者レーバンにもっていくのが妥当であって、神から預言者に選ばれた以上は、背教すれば滅ぼされても文句は言えないよぐらい意味があるととるべきでしょう。
つまり(ニーファイかジョセフスミスが)未熟で説明不足による読者の当惑を想像できずに、こんな風になってしまった。(これも一種の「信頼できない語り手」(unreliable narrator) の介在という説明で片付いてしまうと思われますけれども。)
また版をもう一つ作ってもらうことはできなかったのかといつも話してくれます。
何故、殺されなければなかったのか?現代人は不思議にと思うでしょう。
ニーファイは、できるだけ殺したくはなかったと言っていたはずです。
そこは神の御霊の導きで、ニーファイが殺さなければ、ラバンがニーファイを殺すということ御霊の声を受けたと解釈するべきかと。
自分の経験ですが、自分の家族のことで受けたことがあります。
「兄弟を家に連れて来てはいけない」という御霊の導きがありました。
しかし連れて来てしまいました。私の人生はボロボロとなりました。うつ病になり死にたい時期もありました。兄弟を殺そうと思ったのも何度もありました。教会にも行けないくらいの状態となりました。
だから分かるんです。ニーファイがもしもあの時に神様の御霊の導きに従っていなかったのなら、どうなっていたかを。
多分この経験をしていなかったなら、私も分からなかったでしょうね。
またニーファイがラバンを殺したことはみたまに促されて神の意志を実行したのだとしても、モルモン教義では(先日話題になった)自由意思と言う概念があり、人が神の命令を実行するかどうかは自ら選択するのが神の計画であるはず。人に強制的に善行をさせ一人残らず神のもとへ連れ来るというルシフェルの計画を天父は否定されたのではなかったか?あくまでも人は自らの意志で行動を選択するのがモルモン教義である。
であれば神のみたまに命じられ止む無くとニーファイが言い訳することはできない。彼は自分の自由意思で選択し、喜んで神の意志を実行、すなわちラバンを殺したのである。そもそもその前に天使が現れて「主はラバンをあなたの手に渡される」と告げているのだ。だからニーファイには自分がラバンを殺すことになる覚悟はあったのは明白ではないか。だからこそ、できるなら自分がラバンを殺すことにならなければよいが、という感情を抱いたのである。
また事後の行動にも注目されたい。ニーファイはラバン殺害の直後、彼の服を身にまとい、宝物蔵へ入っていった。これは主から命じられてはいない行為である。明らかに盗みでありモーセの律法に反する、またその後ラバンの家来に自分の身分を偽って返答したが、これも偽証でありやはり律法に反する行為であった。
このようにモルモン書をよく読むとニーファイがモーセの律法の強い影響下にあったとは全く言えない。そもそもニーファイはモーセの律法は来るべきキリストのひな型であって律法自体に何の意味もない、神が守れと命じているから守るのであると説明している。
ニーファイは神の命令を疑いもせず、忠実に実行するマシーンである。神の命令ならば喜んで人も殺すのである。しかし彼は何度も天使に会っているのである。ニーファイの行為を批判する人たちに尋ねたいのだけれども、あなたがたは何度も天使に会っていながら神の命令を実行することを躊躇するだろうか?
ニーファイの行動に疑問を持つ人たちはやはり心のどこかにモルモン書を事実だと思えない疑いの気持ちを持っているのだろうと私は思っています。なお私自身はモルモン書に対して疑いの気持ちは少しも無く、完全に作り話だと断言します。
そこには、人間の判断が入る余地が有りません。
ですので、神が「殺せ」と命令した時には、それに従うのが、正しい信仰者の姿勢です。
そんな事当り前じゃないですか!何をいまさら。
オウム事件が有った頃に、この話をしました、ほとんどの答えが「神は人殺しをするようには勧めない」と言うものでした。
しかし、モルモン書に限らず、旧約聖書にも、「神による殺人命令」が下されたとの記述が有ります。
人道的な教えだし、他人を愛し、争いを避けるキリスト教の教えと、「神の殺人命令」は、全く矛盾するもので、両方が「信仰」として成り立つことは無い、と考えるのが正しいと思います。
となると、どちらかを捨てなければいけない。
それか、理屈をつけて両立を図る。
モルモンの多くはたぶん、後者の方だと感じます。
と言う事はつまり、神の殺人命令を何かの理屈で、正当化している。
オウムは「ポア」と言う言葉を使った。
「ポア」は、平たく言うと、別の世に移ると言う様な意味らしい。
来世を重要視する宗教家には、この世で生きる事の意味合いはそんなに大きくない。「この世で神に背いて生きるより、神に従って死ぬ方が次の世で祝福を受ける」と言う思考が、自爆テロなどにつながっているのだと思う。
つまり、モルモンのように、「従順」を基礎に置く宗教は、「社会的にそれなりの危険性を持っている」と認識すべきだろう。
モルモンは、「神による殺人命令に従うのが正しい」と言う教義を持っている宗教だと認識することが重要だと思います。
今年の日曜学校で、ラバンの話が出てきたときに、「神に背いた悪人を殺すことのどこが問題なの?」と言う人も何人かいました。それが平均的なモルモンの見解なのかと思います。
Mami姉妹という方がこの記事を書いています。
新鮮な視点で感心しました。
以下抜粋
それは、歴史的説明以上のものであり、以下の性質を持った象徴を使う物語、寓話でもあります。
イエス・キリストを象徴するニーファイ
サタンを象徴するラバン
わたしたち一人一人を象徴するゾーラム
ラバンは真鍮版を持つほどの権威を認められていた指導者であったが、背教して死を身に受けた。
それよりも品々を持っていたニーファイらを貪欲になって、彼をを殺そうとした。(Ⅰニフ3:22-27)
「見よ、主は、義にかなった目的を果たすためには、悪人を殺される。一人の人が滅びるのは、一つの国民が不信仰に陥って滅びてしまうよりはよい。」(Ⅰニフ4:13)
教義と聖約98:31-32にはこのように書いてあります。
「しかしながら、あなたの敵はあなたの手の内にある。そこで、あなたが彼の行いに応じて彼に報いるならば、あなたは義とされる。もし彼があなたの命が彼によって危険にさらされるならば、あなたの敵はあなたの手の内にあり、あなたは義とされる。
見よ、これは、私の僕ニーファイと、あなたの先祖、ヨセフ、ヤコブ、イサク、およびアブラハム、ならびにわたしの昔の預言者たちと使徒たちすべてにわたしが与えた律法である」
教義と聖約98章を一通り読んで見てください。
そして次に第2ニーファイ29:3―7まで読んで見てください。
ここから、何かを学べるかと存じます。
いろんな意味でやっぱり末日聖徒だねー
あとRさんの発言を拝見して思ったけど、聖典のどこにも書かれていない物語のバックグラウンドを自分の創造で創り出して、それに納得しちゃうと言う・・・合理化、とでも言うのでしょうかこの心理的な働きは他の末日聖徒にもよく見受けられました。
いえ、決してそれを悪いとは言ってるんではないですよ、想像力は大切です。ただそれはあくまで仮説なので、そう受け止めるべきであると断言されましても、いや違うだろと言う反論がありますことは念頭に置いていただきたく思う次第であります。
さて、私も想像力を働かせて見ました。
金版を手に入れゾーラムを従えて荒野に待つ兄弟たちの所へ帰りついたニーファイ。それを見た兄弟たちは・・・
レムエル「おい、誰かが町の方からやって来るぞ、ニーファイなのかな?いや違う、二人いる」
レーマン「あの服は、ラバンだ!ラバンが手下を連れてやって来た!こりゃヤバいぞ!」
レムエル「どう言うことだよ?」
レーマン「だからニーファイがラバンに捕まって俺たちの居場所を白状したんだろうさ、見ろ剣を持ってる、俺たちを殺す気だ」
サム「いや違う、手を降ってる、あぁ良く見ろニーファイじゃないか」
ニーファイ「やぁ兄さんたち。今戻ったよ、ほら金版も手に入れた、この男はゾーラム、ラバンの部下だったが仲間になった」
レーマン「そうか無事で何よりだ、ところでその格好・・・どうしてラバンの服を着ている?」
ニーファイ「主がラバンを私の手に渡されたのだ」
レーマン「そ、それってお前、まさか!?」
レムエル「剣に血がついてる!」
ヽ(ヽ゜ロ゜)ヒイィィィ!
ニーファイ「主が、ラバンを、私の手に、渡された、のだ」
兄たち「・・・・・!!」
((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル
ニーファイ「さぁ兄さんたち旅を続けよう、約束の地を目指して」
兄たち「そ、そうだな、あは、あはははは」
ここに有る「現代の読者が持っている倫理観を見越せないで生じた」と言うのが、どうもピンとこない・・。
後世の読者の倫理観を当時の作者がどうやって知ることが出来るのか?見越せないのは当たり前です。
それを持って、この文章の内容を正当化するのはかなり無理が有ります。
モルモン書の「ラバンの話」の根本的な問題を理解しないで、正当化しようとしているだけではないのかと思う。
「ラバンの話」を考えるとき、問題にすべきは、「聖典に書いてある事柄」と、それを読む信仰者の「信仰」の問題です。
つまり、聖典に書いてある内容やメッセージを、「すべて神の御心として受け入れるのか?」それとも、「自分の知識や両親によって選択するのか?」と言うのが、この問題の焦点です。
神の命令で有れば、人を殺しても善と思うのか?
否、神の命令で有っても、自分の良心や社会の通念に従って殺すべきではない、考えるのか?
それこそ、自由意思による選択です。
問われているのは、今の私たちモルモンが、どちらを選ぶか?どちらを選ぶことが神に良しとされるのか?と言う事です。
翻訳した人とか作者の責任ではなく、あくまで読む側の責任です。
私ははっきりと、「昔はそのような解釈でもよかったかもしれないが、今はそのような解釈をしてはいけない」と言う立場を取ります。
その一つの根拠としては、「私たちに、それが本当に神の命令なのかが分からない」と言う事です。
神の御心を知るほどの信仰を私は持っていない。だから、無条件で聖典の記述を神のみ言葉だとして受け入れることはしない。
最も危険なのは、「自分には強い信仰が有る」と誤解する事です。
「からし種ほどの信仰が有れば、山を動かすことが出来る」と言います。山を動かすことが出来ない私には、からし種ほどの信仰も無いと言う事です。
P15
• ニーファイの場合のように,主がすでに命じておられることと逆のことを行うよう主の御霊から促されたと感じる人がいるが,これは誤りである。
今日わたしたちは,現在の戒めと逆行することを行うよう主から促されるのではないかと心配する必要はない。ハロルド・B・リー大管長(1899 -1973
年)は,主がそのような促しをお与えになる相手についてこのように教えた。
「主がすでにわたしたちに語られたことと異なるようなことが起きた場合,主は御自分の預言者にそれを啓示され,それ以外の人に示されることはありません。」(Stand Ye in Holy Places〔1974 年〕,159)
ⅠNi4:11には、レーバンが主からの命令を聞いたのに、従わなかったと記述されている。
おまけに、過ちを犯しても、預言者として崇拝している。
ま、ダビデもそうですけどね・・・。
当時の社会的な環境に影響を受けているのです。
・・・って言うことで良いんでしたよね?
あと、何でしたっけ、ああ、そうだ
いずれも古い資料であり、最近では教会員のあいだで使われる機会は少なくなっている、だったかな?
冷やかされ、茶化されている。
ラバンの行が事実であれば、ニーファイが21世紀の読者の倫理観を考慮して、殺すか否かを判断することは無いのでしょうが、この決断の部分はジョセフが生きた19世紀の価値観に沿った記述かなと感じます。
もしジョセフがモルモン書を現す際に、自らの思いをもとに加筆した部分があるのなら、当時のものの考えで表現されることがありうると考えます。
ジョセフの時代のアメリカでは、Slave codesなるものがあり、ヴァージニアなど南部では奴隷が主人に逆らった時、奴隷を殺しても主人は罪に問われなかったし、日本でも町民が武士に無礼な態度を取っただけで切り捨て御免の時代です。
神の命を受けマスターとなった者は、隷属するものをどのように扱っても良いという当時の南部教会的思考から影響されたと考えられないでしょうか?
旧約の時代もジョセフの時代も、手順はあるものの、<神が敵を渡されたという命を受けた>と宣言をすれば正当性が生じた時代だと感じます。
すみません。独り言です・・・・
06 まことに、主の啓示を否定し、主はもはや啓示や預言、賜物、異言、癒し、聖霊の力によって業を行われることはないと言う者は、災いである。
07 またその日、利益を得るために、イエス・キリストによって行われる奇跡などないと言う者は、災いである。・・・(第3ニーファイ29)
救いの計画という基本教義が変わらない限り、ひとつの聖句で3つの説があってもかまわないのでは?
①レーバンの殺害は人類にとって最善の策だった従来説
②レーバンは背教の預言者だったから文句は言えない説
③ジョセフスミスが19世紀の風潮を織り込んだ説
ややこしいのは、信ずる、信仰の世界ということで、共通のオーバーラップの面があるのが当然、みんな一緒くたにすべきという感じになっちゃぁ、面白くなくなっちゃうんだと・・・そのへん、適度に注意し、常に複眼、立体視みたいな・・・
次に、ラバンが背教した預言者であったとしてニーファイが彼を殺して良い理由は何ですか?ニーファイが、と言う点に注目ね。←ここ重要
殺人は律法で禁じられています、と言うか禁じられているからではなく、人間としてダメでしょ、悪いヤツだから殺されて当然だとか言っちゃ。日本に仇なす国はぶっ殺せ、とか言ってた昔の恐い時代に通じるものを感じます。
いや、それより、背教したから殺されたのは当然なんて発言を見ると、ああ、やっぱりモルモンにはダナイト団が実際にあっただろうし、そう言う存在を容認する末日聖徒の思考を垣間見た気がします。
ジョセフ・スミスが19世紀の考えに影響された創作なのか?いや、無い無い。19世紀でも酔っ払った人物の首を切り落とすなんて歴とした殺人ですわー、たとえ相手が悪人でもね。こんな説じゃ世の中の普通の人を納得させられませんで、あんさん。
H.Nibley, “Dark Days in Jerusalem: The Lachish Letters and the Book of Mormon (INephi)” in Noel B. Reynolds ed., “Book of Mormon Authorship” BYU宗教学センター、1982年、104-121。
とすれば、ラバンは50人に命じることも50人を殺すこともできると言うモルモン書の記述にも合致しますし、真鍮版を譲ってもらいに行くことが極めて困難だったとより強く感じますね。ラバンが酔っ払っていながらも帯刀していたことの合理的な説明にもなります。
さすがはニブレー氏。拍手を送りたい!
もっとも私は別の理由でモルモン書は創作だと確信していますが、それはまたいずれ・・・
帯刀しているからと言って宗教指導者ではないというわけでもないでしょう。
単なる司令長官が主の命令を聞いたり、リーハイでさえ持てないような聖典を持ってると書かれて方が私には不自然に思われます。
ヨシュア記には、「そのとき、ヨシュア(彼は祭司ですね)は引き返して、ハツォルを攻め取り、その王を剣で打ち殺した。」と記述されていますし、ペテロも帯刀しておりました。(それはイエスが持てと言ったからですが、ペテロはすぐにここに刀が2本ありますと示しました。)
あんまり人のことを言えませんが、ニブレーの見解は偏向していないでしょうか。 一次資料のラキシュ書簡にラバンの名前が出てきたり、酔って何者かに寝首をかかれた司令長官の話題が出てきたなら偉大な大発見ですが、そもそもラキシュ書簡は21個の陶片に刻まれた軍事成果のレポートであって、軍人ばかり登場している記録だそうです。
時代は確かにそこそこ合っているのだけど、個人をほぼ同定できる決め手があるんかいな。あったら英訳でも良いので確かめたい気分です。
彼のものの見方が偏向しているのでは?と私が疑う一番の理由は、古いほうのインストのテキストで、ラバンに関するニブレーの見解が載っており、レーバンは短気で乱暴者で大酒飲みで、彼個人の力では到達できるわけがないから、親の地位と財産を引き継いで現在の地位に立っている。 のようなあまりにも見てきたような談話を平気で述べているからです。
まぁ歴史的には当時のユダヤに鋼なんてあるわけ無いのですが。そんな良い武器持ってるならバビロニアに負けないだろうと。
ところで、見てきたような談話を平気で述べるって、これまさに末日聖徒ですね。末日聖典やらモルモン教義の不整合を指摘されると、必ずと言ってほどこれをします。で、それを根拠に彼らは勝手な自説をどんどん展開していくのでね、まぁまともな話にならないですわ。
さてラバンを殺したニーファイには、何の権利があって殺人が許されたのか?誰か答えて欲しいものです。
それはそうと、その一次資料のラキシュ書簡を英語か何かで客観的に確かめることで、その司令長官がレーバンであると同定までできるものかどうか、各人が末日聖徒としての残念度、もしくは質の高い教育を受けてきたことを再認識ができる絶好の機会になると思いますがいかがでしょうか。
ラバンは司令長官だった説が追加されてもかまわないとは思いますよ。
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%A9%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%A5%20%E9%99%B6%E7%89%87
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=Lachish%20letters%20%20laban
結局、何かについて情報が少ない時、読者の側にそれを埋めようとする傾向があり、また、人はこれまでに受けた説明や情報に基づいて概念を形成するので、人によって相違が生じるのだと思います。なお、私はラバン像がいつごろから変化し始めたか確かめたいと思っています。Rさん、もし覚えておられましたら教えてください。
ところで、モルモン書にでてくる真鍮は欽定訳の影響で誤って翻訳された可能性が高いのでしょう。
現代の訳ではほとんど「青銅」を表すものに変えられています。
実は欽定訳ではよく鍛えられた青銅を「鋼」と訳出されていたようです。
その影響を受けて、モルモン書に「鋼」が登場したとの説があります。
サムエル下
22:35わたしの手を戦いに慣らされたので、
わたしの腕は青銅の弓を引くことができる。
KJV
22:35 He teacheth my hands to war;
so that a bow of steel is broken by mine arms.
写真など・・・https://ojs.lib.byu.edu/spc/index.php/JBMRS/article/viewFile/20095/18655
所有者誰か不明だろうし、他に発掘されてなければねぇぇ・・・
しかし、アメリカでは鋼は、皆無というのは何故ぇぇ???
世界最古の鋼(BC22c)は、2008年トルコの遺跡で、日本人学者さんが発見。
鋼 最古 赤沼 http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E9%8B%BC%20%E6%9C%80%E5%8F%A4%20%E8%B5%A4%E6%B2%BC
アメリカでは隕鉄は使われてたと・・・ http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E9%9A%95%E9%89%84
1938年の研究書では、著者は、予言者にあたる語に関し、目を開けられた者、SEER(聖書の聖見者)、ヴィジョナリ(visionary ‘幻を見る人’レーマン/サライアのリーハイに対しての言葉 1ne2:11, 1ne5:2 )という語で注釈した模様。
ネブカドネザル王は、エレミヤの働きを聞き知っていたわけで・・・・ゼデキヤ王の目をえぐり・・・・その残酷な刑の執行には意味があったのかどうか・・・
19世紀と違って、今日の預言者は背教などするはずがないし、最悪でも前例からしてどうせ破門がせいぜいなので、会員側は余計な心配がないというセーフティーロックとなっていますね。
②納得感とは別に、ラバンが司令長官だった説でも良いのですが、そうなってくれば広島大の先生がぶち当たったように、なぜ殺してやると脅し、強盗を働いた一般人が、神の命令で殺されるべきだったのかという問いから→粘り強く説得すべきだった、という結論になりますよね。
これは聖典の書き手の水準が信頼できないので、この聖典には従わないように注意喚起が必要という論に突入するのは当然の流れでしょう。
そこは私も分かっておりますがなNJさん。
それはそうとラキッシュ書簡の英翻訳を少し見つけました
■https://en.wikipedia.org/wiki/Lachish_letters
わずか8片ほどですが、私がみとところ、読みこぼしがあるかも知れませんが、これと言ってぱっとしない文章に思われます。(sarvant,dog? 奴隷ー犬? って何ですかね) 残りの13片はどっかにアップされてればいいんですけどね。
たまWEBさん。 地球上のあらゆる鉄という鉄はすべて員鉄や隕石由来らしいですよ。 だからヒッタイトでなくても大量生産は無理としても鋼の刃物の一本や二本くらいなら員鉄から生産していた可能性はある。
真鍮についてはどうなんでしょ。 青銅もしくは、現代の真鍮とは異なる銅の合金ってことはないんですかね。
『破門』とは神のもとから完全に断ち切られることで神の子供としてのあらゆる権利、バプテスマの効力も無くなり、霊の死、日の栄えに救われない、家族と永遠に共に住めない事を意味します。破門を『せいぜい』と表現する人には、ああ、この人福音をきちんと理解してないなぁーと思いますね。そう言う人にとってモルモン信仰って何なのかなぁ、と。
まぁ私ら若い頃から本気で福音に命掛けてたからねぇ。神のもとから断ち切られるよりは、命失うほうが良いんです、神殿でそう誓約したから。
ノアの洪水は神の愛である、教会幹部はそう言ってました。人々がこれ以上罪を犯し続けることがないように天に取り上げたのだ、とね。この世が過ぎても永遠に続く神の計画を信じていましたので、たいへん納得しましたなぁ。
そんなわけで、『せいぜい破門』とか、『殺されることはない』とか仰るかたには、はぁその程度?とか思っちゃうんですね。
そう言う人はまず若いときに伝道に出てないですね。次に、簡単に『教会が嫌なら出ていけ』と言いますね。それと、『自分にあった宗教を選べば良い』とか一見寛容で世間受けの良さそうなことをしれっと口にしますが、福音とズレていることを指摘すると怒り出すんですねぇ。
回復された福音を信じているんじゃなくて、モルモン教義の中から気に入ったところだけピックアップしてるような感じかな。
なので、ラバンのそれも希少ではあっても鉄の剣である可能性はあります。
もし、そうであればインドのダマスカスの剣がイスラエルにも伝わっていたのかもしれません。柄が黄金というのもうなずけます。
鉄ではなく青銅ではないのですか?
青銅なら少ないながらあったと言うことなら知っています。
こことかですかね。
一般には融点の問題で銅や金の方が扱いやすいので早く発達したと思われていますが、材料としては鉄の方が得やすいのでそれほど年代の差はないとい主張する研究者もいるようです。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=Tutankhamun%20%20dagger%20meteorite
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3%20%E7%9F%AD%E5%89%A3
まぁ、鉄の腐食速度は1ミリメートル/100年・・・鉄器は貴重で持ち去られてるでしょうし、文明破壊で、ノウハウも失われた・・・・
改良エジプト文字で書かれたニーファイの小版。
そしてエジプトのツタンカーメンに鋼の短剣。
やはりラバンの剣は「鋼」?
昨年、憧れの大英博物館に行った際、あるとばかり思い込んでいた「黄金のマスク」今はカイロに戻っていた。。
そういえば、日本で好評を博した「ツタンカーメン展」で大阪では「ツタンラーメン」とダジャレ即席麺を出しこれまた好評だったとか。
関西人のお笑いセンスに馴染めない私オムナイもちょっとワロタのが悔しかった。
http://www.shimabun.co.jp/iron_story/iron_story03.shtml
鉄の歴史 “浸炭法”
http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/5400820.html
シリアはウガリト出土の斧(BC1350~)は、柄は青銅に金装飾、刃には炭素が入れられてる(地は銑鉄もしくは隕鉄)と・・・鉄鉱石より隕鉄はもっと少ないんだよね・・・
ホメロスの作品で、古代ギリシアの競技の賞には、金、女性、鉄が与えられたと・・・
ヒッタイト王ハットゥシリ2世のアッシリア王シャルマヌセル1世への手紙に(BC1250)、鉄の生産が落ちて発送できないおわびに鉄の短剣を送るとあるという・・・ヒッタイト文書では隕鉄を‘天よりの黒鉄’、鉄鉱石から製錬した銑鉄を‘大地の鉄’と呼んだって。
http://yubarimelon.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?name=2009-08-05
https://www.youtube.com/watch?v=LLobZL_i3rc
ニーファイのケースだんべがなや・・・
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000150675.html
世界史の常識が覆るかもしれない発見です。紀元前に鉄器を用いたとされるヒッタイト帝国の遺跡で日本の調査団が人工的に作られた鉄の塊を発見しました。
アナトリア考古学研究所・大村幸弘所長:「鉄というのは3200年前から3300年前にあるというのが一般的だった。
それから1000年古い層から鉄が見つかりだしてきて、それが人工のものだというので、これは今までの歴史とは違うなというのが出てきた。
そういう意味ですごく価値がある」
トルコ中部にある遺跡でおととし、日本の調査団が紀元前2200年から2300年の地層から世界でも最も古い部類に入る人工の鉄の塊を発掘しました。
これまで定説では、紀元前1200年から1300年にこの地域で栄えたヒッタイト帝国が鉄の製造を始めて技術を独占し、周囲を征服したとされています。
しかし、今回、見つかった鉄の塊はそれよりも約1000年前のもので、
成分もこの地域の鉄鉱石とは違うことが分析で明らかになりました。
鉄の塊が見つかった地層では古代中近東の様式とは違う木造建築物の遺構も見つかっていて、調査団は、これまで考えられていたよりも前にヒッタイトとは違う民族が鉄の製造を伝えた可能性もあるとみて注目しています。