モルモン教会でワードの聖餐会やステーク大会などで、開会の後集会の冒頭で会衆の支持を得たり、重要な発表事項があるときに「ビジネス」という言葉が使用されている。
これはもともとジョセフ・スミスの時代以来、大会(conference)の席で組織上の問題が扱われ処理されたのが今日に続くものである。そしてもちろん会衆に信仰鼓舞のため説教が行なわれた。このconference は confer つまり「協議する、相談する」ことを意味する。それを英語で business と呼んでいて、日本語にそのまま直訳(音訳)されて今日に至っている。
宗教の礼拝の席でビジネスと言われることに抵抗を覚える人もあるのではないかと思う。それで司会者によっては、ビジネスと言わないで「皆様のご協力をいただきたいと思います」「皆様の支持を得たいことがございます」など工夫をしている指導者がいる。うれしい機転である。
英語(confer, conference)からの訳語を考えてみてもまだしっくりしたものが思いうかばない。Business の訳語、候補:
1 取り上げるべき事柄 (少し冗長?)
2 提案事項 (提案では意味が一部分)
その他
3 審議用件 or 協議事項(審議・協議は大げさ?)
4 提示項目 (意味が一部)
結局上の「 」のような口上になるようである。何にしてもビジネスでなく工夫をして語る指導者がふえ、定着していくことを願っている。いずれにしても日本語では「ビジネス」を避けた方が自然である。「ビジネス」は日本語では商売や仕事という意味に受けとめられるからである。
ついでながら関連して言えば、若い独身成人の年齢別グループを英語のままヤングアダルトと称しているが、今日アダルトという言葉の響きが大変悪いことを米国の指導者は承知しているだろうか。アダルトという語はもっぱら未成年者に禁じられたポルノビデオを指すことを考えれば、これこそすぐに「若い(独身)成人」に変えるべきであろう。(これは幾人かの日本の指導者に話したところ同意見であると言ってくれた。)
| Trackback ( 0 )
|
が「そういう風に言われてみれば」と納得しています。 沼野さま、ありがとうございます♪!(^^)!
ここだけで言ってないで指導者層(地域会長会、東京管理本部翻訳課など)に伝えなければ意味があまりないのですけれどね。
なるほど。 そうですね。
受け止め方色々ありますからね。
重要視していなかったので、
そこまで考えつきませんでした。
わたしの地域の那覇ステーク会長を
通して、提案してもらうようにお願い
したいと思います。
これは、健全なつぶやき?・・つぶやきは健全?
映画の題名でも、今は、原題をそのままカタカナにしたのが多いですね。
配給もとの契約なんでしょうか?
モルモンでも、最近さらにカタカナが増えてますね。
「アウトリーチ(だったかな?)」「リソースクラス」・・・一体何なのかさっぱり分かりませんね。
これは、英語を理解する能力の問題ではなく、日本語を理解する能力が低下しているのだと思います。
産業や経済界でも、サムスン、ユニクロ等、企業全体が英語による会話を目指している所が増えました。
企業戦略として、世界の市場に打って出るには、英語力が欠かせないのでしょう。
しかし、宗教は、人の心の中について考えるのが本質です。その国の人の文化や言語を大事にしないと、人の心は理解できないものだと思います。
平気で、わけの分からないカタカナ英語を押し付けてくるのは、信者の心を理解しようと言う気持ちが無いからでしょうね。
ま、モルモンの指導者にとって教会運営は、「ビジネス」なんでしょう。
今更何をおっしゃる
という感じもしますけど
状況が良くなった試しがありません
聖典を学べば自ずと自分をわきまえるはずなのですが
ところで不正な裁判官のたとえはどう考えても
神を不正な裁判官にたとえていると読めますよね?
エジプトに居たイスラエルの民が、エジプトからカナンの地へ行きたいと望んで、神はその様にされましたが、これも状況が悪くなったんでしょうか?
該当箇所をどうぞ
_(_^_)_ 逆立ちしたら止まるかな。
失礼しました。
笑いをありがとうございます。(*^^)v
旧約聖書のその部分を引用する
ということはカルクちゃんも末日聖徒?
末日聖徒って変わり者が多いのですね。
わたしもそうかも・・・。苦笑
主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。
わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。
いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。
さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。
聖書を読んだ事がある人なら、何処に書いてあるかぐらいは知っているでしょう。
旧約聖書では、主は、たびたび民の声を聞き、よき導きを与えています。
旧約の神「主」はイエスキリスト御自身でしたので、人々に優しく、彼らの幸福の為によき導きを与えてくださいました。ジョセフ・スミスが、神に会うきっかけとなった聖句は御存知ですよね。
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
この成句を見ても分かるように、神は人々の言葉や願いを真剣に聞いてくださいます。そして、神は正しい判断をして、その願いを成就してくださいます。
それなら、民にとって悪い事になるわけが有りません。
さっきのマタイの福音書の聖句の前にはこう書いて有りますけど。
「 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。」
>わたしもそうかも・・・。苦笑
変人と、間違った認識を持っている人は違います。
単なる変人は、そんなに社会に害を及ぼす事は無いですが、間違った認識を押し付けようとする人は、社会に害を及ぼします。
ホントですね
ブタさんが証してくれてます
どこに
>カナンの地へ行きたいと望んで
いたと書かれているのでしょう?
カナンの地へ導いたのは民の望みではなく神の御心です
あなた方はこう祈りなさい
御心が天で行われるように、地でも行われますように
>いたと書かれているのでしょう?
もうね~ちゃんと聖書を読んで無いから、そんなことも分からないんだよね・・。ほんま、かなんな~・・。
創世記にはこう書いて有ります。
「テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。
テラの年は二百五歳であった。テラはハランで死んだ。」
つまりですね、イスラエルの始祖アブラハムが目指した地がカナンなんですからね、そして、神とアブラハムは契約を交わした。
「アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。
時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。」
アブラハムからモーセまでは聖書の年代で数百年経ってますけど、それでも、イスラエルの民は、アブラハムに神が約束された地カナンに行きたかったんです。
旧約聖書ってそう言う話なんです。
>イスラエルの歴史で民が望んだ事柄に神が応じた結果状況が良くなった試しがありません
あなたがそう思い込むのも理解できないわけじゃないです。それは、モルモンのレッスンの中で「つぶやく」とか言って、民が文句を言うのを強調して批判的に書いてある部分が多いから。
でもね、それは、教会の幹部が、「会員は幹部に文句を言うな!」って事の為に、その様な話を強調しているだけのことです。
旧約聖書での、神と人間の関係は、もっと対等に近いものです、ですから、神と人間の契約等と言うものが成り立つんです。
もし、神に文句の一つも言えないんだったら、「契約」ってこと自体が成立しない。
カルクさんも、もっと神を身近に感じて、神への信頼を深めれば、人間と神とがもっと近いものだと思えるようになるんじゃないかな?