東京のあるワードで大祭司グループの会に出た時、自己紹介の時間があった。私は聖典に詳しくないと得々と話す人がいて、少し驚いた。謙遜から場をほぐす気持ちであったとは思うが、残念に思われた。また、ある先輩の長老格の方から手紙をいただいた時、文面の一部に推理小説を読んで老後の時間を過ごしている、とあった。それぞれの趣味や時間の過ごし方は尊重すべきであるが、それでもちょっと惜しいと思った。
末日聖徒の読書は次のように道が分かれていくのだろうか。
読書が好きで聖典の研究に心がけていますか?→ No. いいえ、それほど。
↓
Yes
教会の書籍
を越えて読みますか? → No. 教会の書籍の範囲に留まっている。
↓
Yes. 私の場合、徐々に教会の著者が引用している書物から読み始めた。初めの頃、A. Edersheim, The Life and Times of Jesus the Messiah (Talmage がよく引いていた)
何を、どんな分野から読み(学び)始めたか。(以下、わたしの答え)。
1. 聖書の原語ヘブライ語、ギリシャ語の研究。教派に関係なく、透明・公明である。
2. 教会の著者が参照、註にあげる資料から始めた。
3. LDSの英文資料。Dialogue, Sunstone, Journal of Mormon Historyの記事, Signature の本
4. 一般の解説書、注解書。評価の高い、信頼度のある学術的資料。歴史的・批判的研究を含む。本文批評も教派に関係なく受け入れられる学問である。(4は日本語の書籍)。
5. インターネット上の資料閲覧(勢い英文が多い)。
↓
現在、啓発書、一般向けの書籍から最先端の聖書学、神学の成果を学ぶのが楽しみである。今、大貫隆「イエスという経験」を読み始めている。
日本と外国とを問わずキリスト教界において、聖書を書かれた通り受け入れる原理主義的な状態から抜け出して、聖書もキリスト教という宗教をも内省的に分析して、学ぼうとする人は例外的で少ないと言われる。(普通の信徒は自分には関係がない、研究者に任せておけばよい、という態度が内外において一般的である[大貫隆 2014]。LDSも聖書の読み方は原理主義的)。
同類の仲間や理解者が少なく寂しいが、学ぶことの楽しみと思想の点で自由な境地が得られているようでこれ以上望むことはない。(ただ、極めて限られた範囲で、しかも非専門的なレベルにあることは承知。)
[クレアモント大学モルモン学シンポジウムの一場面か。こんな仲間に加わりたい。]
[付記 1]
今日、聖書学、神学に通じていなければ(その方面の学位を取得していなければ)BYUの宗教学の教職につくことはできない。例、S.B.Sperry, Hugh Nibley, S.K.Brown, S.E.Robinson など。また、J. Welch(BYU法学大学院) , K. Barney (教職以外の民間人)など、聖書学、神学に通じたldsが数少なくない。
[付記2]
私が聖典関連の勉強に励んできた動機は、NTの句(神とキリストを知る, Jn 17:3)を追求しようとしたこと、タルメージが神学の研究を第一にすることを勧めていたことがあり、ヨハネに「真理は自由を得させる」(Jn 8:32)とあるように、広い意味で真理を知りたいという思いがあった。また、情報面において自立した境地を得ようという強い動機も私を突き動かしてきた。
末日聖徒の読書は次のように道が分かれていくのだろうか。
読書が好きで聖典の研究に心がけていますか?→ No. いいえ、それほど。
↓
Yes
教会の書籍
を越えて読みますか? → No. 教会の書籍の範囲に留まっている。
↓
Yes. 私の場合、徐々に教会の著者が引用している書物から読み始めた。初めの頃、A. Edersheim, The Life and Times of Jesus the Messiah (Talmage がよく引いていた)
何を、どんな分野から読み(学び)始めたか。(以下、わたしの答え)。
1. 聖書の原語ヘブライ語、ギリシャ語の研究。教派に関係なく、透明・公明である。
2. 教会の著者が参照、註にあげる資料から始めた。
3. LDSの英文資料。Dialogue, Sunstone, Journal of Mormon Historyの記事, Signature の本
4. 一般の解説書、注解書。評価の高い、信頼度のある学術的資料。歴史的・批判的研究を含む。本文批評も教派に関係なく受け入れられる学問である。(4は日本語の書籍)。
5. インターネット上の資料閲覧(勢い英文が多い)。
↓
現在、啓発書、一般向けの書籍から最先端の聖書学、神学の成果を学ぶのが楽しみである。今、大貫隆「イエスという経験」を読み始めている。
日本と外国とを問わずキリスト教界において、聖書を書かれた通り受け入れる原理主義的な状態から抜け出して、聖書もキリスト教という宗教をも内省的に分析して、学ぼうとする人は例外的で少ないと言われる。(普通の信徒は自分には関係がない、研究者に任せておけばよい、という態度が内外において一般的である[大貫隆 2014]。LDSも聖書の読み方は原理主義的)。
同類の仲間や理解者が少なく寂しいが、学ぶことの楽しみと思想の点で自由な境地が得られているようでこれ以上望むことはない。(ただ、極めて限られた範囲で、しかも非専門的なレベルにあることは承知。)

[付記 1]
今日、聖書学、神学に通じていなければ(その方面の学位を取得していなければ)BYUの宗教学の教職につくことはできない。例、S.B.Sperry, Hugh Nibley, S.K.Brown, S.E.Robinson など。また、J. Welch(BYU法学大学院) , K. Barney (教職以外の民間人)など、聖書学、神学に通じたldsが数少なくない。
[付記2]
私が聖典関連の勉強に励んできた動機は、NTの句(神とキリストを知る, Jn 17:3)を追求しようとしたこと、タルメージが神学の研究を第一にすることを勧めていたことがあり、ヨハネに「真理は自由を得させる」(Jn 8:32)とあるように、広い意味で真理を知りたいという思いがあった。また、情報面において自立した境地を得ようという強い動機も私を突き動かしてきた。
旧約には、イスラエルとユダ両国の名前が頻繁に出てきますが、バビロンの捕囚を挟み、時系列の流れが今でもよく分かっていません。LDSの教材で体系的に説明されているものがあるのか分からず、とりあえず一般市販されている書籍を、購入だけはしました。
神学を学ぶ、という表現をされていますが、もう少し具体的に、神学を学ぶとはどのような意味なのか教えていただけませんでしょうか。
もう1点教えていただきたいのですが、これまでの記事に、中国政府が教会の建物を破壊したと書かれています。最近、政府が十字架をかなりの数、破壊したという記事を読み、同時に中国国内に1千万人以上のキリスト教徒が「地下に存在している」という表現も目にしました。大変な宗教弾圧の中で、中国にそれだけのクリスチャンが存在することに驚きました。もう少し、中国国内のキリスト教徒の現状について知りたいのですが、ブログ内のどの記事がお薦めでしょうか。手抜きの質問で大変申し訳ないのですが、予備知識ゼロなものですからご容赦ください。
中国は、普通に生活するだけでも、様々な問題があるように思いますので、皆さんのお気持ちを察しつつ心を痛めています。
旧約聖書の年表でわかりやすいのは、インスティテュートのテキストの末尾に資料として入って居るものかと思います。
但し、私のは古いテキストで、今も同じようになっているのかわかりません。
教会の公式サイトでも、インスティテュートの旧約聖書のテキストだけ見当たりませんので。
簡易的な年表は、小冊子として出されてます。
見にくいですが、下記のサイトにPDF版が有ります。
(教会公式サイトの、資料PDF版から)
プリントして切ってつなげば見やすくなるかも。
買ってもそんなに高くないです。
https://www.lds.org/bc/content/shared/content/japanese/pdf/language-materials/09233_jpn.pdf?lang=jpn
昔から、本は買うのですが「積ん読」状態になってしまう傾向があり、電子書籍化された最近は、場所はとらないものの、ダウンロードしっぱなしでなかなか読めない「ダウンロー読」傾向は続いています。でも、いつでもどこでも読めるのは大変有難いと思っています。
聖書学は新約聖書がイエスの言葉そのままではないことを明らかにしましたが、それでも注意深く読めばイエスその人に肉薄できることを大貫隆は確信しているようです。
読み進めて幾つか新しい発見がありました。特にイエスは神の御名を使わずに、自らの責任で行動し発言したという指摘は、著者のキリスト教右派(末日聖徒も含まれると思う)に対するすぐれた批判だと思いました。
大貫隆のイエスは最後にその信仰が破綻するのですが、そこがクライマックスであり、現代人が抱え込んでいる絶望だと思いました。
「神学を学ぶとは」ですが、タルメージが「信仰箇条の研究」の初めの方で言っている、広い意味のキリスト教信仰(福音)の中心的な諸概念、聖書に関する研究を指して言う場合が一つです。
もう一つは、キリスト教の神学者が探究し、到達している研究(学問)としての体系があります。これは普通の信徒の信仰の立場からではなく、科学(science)の手法を厳密に適用して本当の所を明らかにしようとします。二つは連続しているものですが、私は後者の成果も尊重して学んでいきたいと思っています。
次に中国のキリスト教事情ですが、参考になると思われる記事などをあげてみます。
1 王再興「現代中国におけるキリスト教 」一神教学際研究 8, pp.16-27, 同志社大学, 2012
http://www.cismor.jp/uploads-images/sites/2/2014/01/JISMOR83.pdf
2 拙著「現代中国語訳の聖書」2014年(中国キリスト教事情を含む)
3 当ブログ「増大する家庭教会の存在感と期待される役割」2015.05.01
4 当ブログ「中国のプロテスタント、全人口の1.8%に」2010.09.06・・中国の官が実施した調査に基づく
5 当ブログ「中国でキリスト教会が発展する理由」2012.05.08
結局私は大貫の「イエスという経験」を購入して、初めの方を読み始めています。仰るように読みにくいとは感じません。私にとっても馴染みのある事柄が扱われているからだと思います。
田川の「イエスという男」に行かれましたか。また、先を行かれましたね。両人とも読む価値のある、今日日本を代表する神学者であると思っています。ときどきネット上に報告してください。
中国におけるキリスト教の現状については、まったく無知なのですが、関心を持つようになりました。参考資料のリストを有難うございます。少しずつ目を通してみたいと思います。
聖書の成り立ちや、書かれていることの語源を研究するのなら、聖書学。
イスラエル民族の成り立ちを研究するのなら、歴史学、あるいは考古学。
宗教の教義に関しては、各宗派で違いますので、それを研究するのは無意味でしょう。
まして、神の事を人間が研究できるわけがない。
私は、神学者と言うのは、預言者と同類だと思ってます。
大貫氏はよく分かりませんが、田川氏は、著書を読む限り、神学者ではなく、語学者だと思います。
そもそも田川氏は、神の存在を信じていないのではないかと思います。
信仰者は、時に、無神論者の著書でも、自分の信仰につなげてしまう事が有ります。
信仰者って言うのは、自分に都合の良い事が書かれてあると、つい、つまみ食いをしてしまって、自己満足に陥る。
信仰者は、信仰を持つがゆえに、客観的な思考が出来ない。だから、神学などと言う学問は存在しえない。
それはただの思い込みであって、客観的検証が出来る事象の研究ではないからだ。
もし、その人が、客観的な検証の末に、「神は存在しない」との結論が出てしまった時に、それを受け入れられるのなら、私はその人を「神学者」と認める。
検証できない、論証できない、実証できない、超自然的で人智を超えた要素がなければ、宗教の存在意義はないのではないかと思っています。単に生き方を説くのであれば、人格者の道徳家でもその役割は、かなり果たせるのではないかと思います。
さはさりながら、もう少し勉強し、神学とは何かを自分なりに考えたいと思っています。
仕事の延長線上で、一般の方に宗教を肯定的に考えるよう勧めるつもりですが、異なる宗派、無神論者など様々な方が対象となりますので、なぜ「宗教心」が必要か、さらには宗教を選ぶ際の基本的な考え方について、述べていこうと思っています。もちろん決して簡単なことだとは思っていません。
ときどき立ち寄らせていただきますので、またいろいろ教えていただければ大変有難く思います。
聖文を読んで、聖句の意味を、教会が主張する内容あるいは指導者が解釈した内容で覚えるのが、モルモンで言う「聖文の研究」です。
でも、これは研究じゃなくて、勉強ですね。
テキストに書いてあることをそのまま記憶するのですから。セミナリーもインスティテュートも、日曜学校も神権会、補助組織のレッスンも、すべて同じです。
研究と言うのは、そうじゃなくて、もっといろいろな方面の資料を精査して、聖句の解釈を行う事です。
NJさんのように、モルモンの歴史的な資料や、聖書学者の研究資料、語学的な解釈、等、多角的に調査して事実を突き止める。或は、資料に基づいて考察をする。
ところが、ここで一つの問題が出てきます。
それは、信仰と研究結果の不一致です。
例えば、「ジョセフスミスの見神」聖典合本に書いてあることは、一つですが、資料としては、同じ「ジョセフスミスの見神」の話が複数ある。
マタイの福音書は、マタイが書いた物だと思っていたが、研究すると、そうじゃないかもしれない。
キリストが話したって事に成ってるけど、いろんな人の脚色が入ってるらしい...等々
自分が認めたくない事実がいくつも出て来るかもしれない。
最後には、自分の研究結果と、自分の信仰の整合性を無理やりとらなければいけない。
気が付けば、自分で自分を騙している。
だから、人生の終末の時期には、聖文を研究するより、推理小説でも読んでいる方が、よほど幸福に暮らせると思う。
リタイヤして、少々の時間と金銭の余裕が出来たら、教会と一定の距離を置いて、有意義な老後を過ごしたいと豚は思う。
少なくとも、残り少なくなった人生を、聖典の研究などと言う、無意味な事には使いたくない。