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次回3/3の日曜学校成人のクラス(大阪、高槻)は9課「唯一まことの生ける教会」である。情報に通じた教会員にとっては扱いにくいテーマである。これについて考えていて、ふとリアホナ2月号にオークス長老の「真理と寛容のバランスを取る」という記事が目に入った。この課に大変関連のある重要な記事である。オークス長老は現代社会にあって、互いに寛容を示し、相互尊重と忍耐の姿勢が求められると述べている。

ダリン・H・オークス長老は2011年9月、教会教育部関係者を対象に語った講演「真理と寛容のバランスを取る」で、今日の末日聖徒にとって重要なメッセージを語りかけている。それは彼が暫く前から警告してきたことであるが、道徳の相対主義に対して末日聖徒を含むキリスト教徒はあくまで絶対的な倫理道徳の規準を保持しなければならない、と説いている。ここで道徳の相対主義というのは、世間一般が受容し実践し始めているからといって、規準がその大勢の方向に移動(緩和)している、従ってそのように考え行っても問題はないという考え方を指している。例として長老は話の中で男女が結婚しないで同棲する傾向に言及し、それは絶対的な基準からすれば受け入れられるものではない、と語っている(リアホナ2013/02 32, 33頁)。当然今日マスコミに取り上げられる不倫、浮気の類いが時代の趨勢、人の性(さが)として受容され始めてよいわけはない。道徳律が緩和されているかのような昨今の世情は相対主義の表れである。(この二文は筆者)。

オークス長老の文で「真理」という言葉は、信仰者が持つ神への信仰と伝統的にユダヤ・キリスト教で伝えられてきた倫理・道徳の規準を指している。「唯一真」の真の教会(LDSを含め特定の宗派)を意味しているのではない。

信仰深い人は、末日聖徒はもちろん、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒を問わず、受け継いできた絶対的な真理(倫理・道徳律)を断言し、擁護しなければならない。そして長老の第二のテーマは「寛容」であり、この講演でこの後半のテーマに多くの紙幅がさかれている。

交通・運輸、通信手段が格段に発達した現代、多様な文化、価値観、考え方に接する機会が増えている。しかし、それにより生活は豊かになり、交流によって人々は高められている。そこで、なじみのない、異なる慣習の人々と近く接するようになって寛容であることがますます必要になっている。オークス長老はヒンクレー大管長の「[様々な教派に属する]わたしたちは・・意見を異にしているかもしれないが、皆大きな人類家族の一員であり、教義・信条のいかんにかかわらず、互いに寛容を示し、相互尊重と忍耐の姿勢を構築しなければならない」という言葉を引いている。そして「他の人々とその信条に、寛容と尊敬を示すからといって、わたしたちが理解している真理と交わした聖約に対する決意を放棄するということにはならない」と述べている。これは重要な点である。

オークス長老の洞察の特徴は法学者としての行き届いた視点である。それは、相対主義の時代にあって信教や道徳律の維持は周囲の人々から許容してもらって可能になる構図になるので、憲法の基本的条項を維持し、それを損なおうとする法律が制定されるのを防がなければならない、と警告する。そのためには他の教派の人々と共に歩まなければならない、と提案する。「唯一真」を固執するのではなく、それを超越する時代が到来しているように感じられる。


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コメント
 
 
 
豚に真珠 ()
2013-02-27 10:26:14
少し古いですが、2007年7月10日にバチカンは「カソリックは唯一真の教会である」との声明を発表したと言うことです。

http://library666.seesaa.net/article/47938195.html

こっちはギリシャ正教

http://www.mesogeia.net/orthodox/onlytruechurch.html

ま、本家○○屋、元祖xx屋と似たような話で、こんな事を、日曜学校で勉強する必要は無いと思いますけどね。

それと、NJさんが言語学者である事は考慮しても、英語で発言されて事を、ギリシャ語にさかのぼる事の意味が理解できません。
ジョセフ・スミスがギリシャ語に意味を理解していたとも思えないですね。

それより、「いける教会」ってどんな意味が有るんですかね?

「唯一まことの」は理解できますが「いける教会」と言うのは理解不能です。
「いけてる教会」?「いってしまってる教会」?

この言い方は、れいによって、最近変わってますよね。その辺のところを聞きたいものです。

 
 
 
分かりにくくなった翻訳 ()
2013-02-27 11:05:07
「唯一まことの生ける教会」と言うのは


全地の面に唯一まことの生ける教会をもたらす​

と言う、教義と聖約 1:30の聖句から来ていると思うが、以前の教義と聖約では同じ箇所が、こうなってました。

​全地の面に於ける唯一の真にして生命あり而も主なるわれの悦ぶこの教会を明るみに出す権力を与えらるるを得。

この文章でも、同じようなものですが、どちらかと言えば、古い方が理解しやすいかと思います。

ただ、どちらにしても「生ける教会」「生命ある・・教会」と言う言葉の意味が、理解しにくい。

教会と言う組織に、生命があるのでしょうか?生きている教会とか、死んでしまった教会とかが有るのでしょうか?

「唯一まことの生ける神の教会」「唯一まことの生けるキリストの教会」ならば、まだ意味も分かるのですが??

「生ける教会」の「生ける」とはどういう意味合いで使われているのでしょうか?

御教授いただきたい。
 
 
 
暫し (NJ)
2013-02-27 18:04:30
少し時間をください。調べてみたいと思います。(質問が鋭く、深いものですから。)

そう言えば、西宮市に「生ける一麦イエスキリスト教会」と単に「一麦イエスキリスト教会」と言う名前の教会があって、後者の牧師さんがうちは「死せる」教会なのか、と冗談で言っていたのを思いだします。
 
 
 
比喩的ということ (NJ)
2013-02-27 21:47:41
少し考えたり、コンコーダンスを開いてみたりしましたが、結局、無生物名詞にも比喩的に用いられる例ということですむのではないでしょうか。

「生ける水」Jn4:10, 「生きたパン」6:51, 「生きた供え物」Rm12:1, 「生ける石」IPet2:4, 「命の水の泉」黙示7:17 などの例があります。

人が構成する組織も、現代であれば、「死に体」、人であれば「力を持たない者(lame duck)」(任期を消化するだけの指導者)などと言います。教会も生き生きした教会もあれば、活力(いのち)が感じられないところもあります。死んだようなところもあるでしょう。(欧州の教会全般?!)。話が変わりますが、中国の共産党一党独裁も深刻な矛盾と腐敗、機能不全が深く進行しつつあるようです。人間に譬えれば寿命があと長くない、と見る向きもあります。
 
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