新約聖書使徒言行録に、パウロが道で「知られざる神に」と書かれた祭壇を見て、「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」と言っている(新共同訳17:22, 23)。ここでパウロは異教に対して寛容な姿勢で臨んでいる。また旧約においても「敬虔なる神に喜ばれる異教徒」という概念がある。
このような考え方に基づいてカール・ラーナーは、キリストに対する信仰を持っていなくても実際の生き方において神に喜ばれると思われる人を、「無名のキリスト者」と呼んでいる。ラーナーはドイツ人のイエズス会司祭であるが、この考え方はこんにち世界的にひろまりつつある。この立場について古屋安雄は、「多くの諸宗教が現存しているという事実は、ただ否定さるべきものではなくて、むしろ積極的に再考さるべきものである」と述べ、次のように説明を加えている。
「これまで他宗教は全く異なった文化環境に存在する遠いものであったのに今日では文字通りに隣にいるものになってしまった。従って多数の宗教があるということは多数の文化があるということと同じく自明のこととなり、そのうちどの宗教を受け入れるかは各人が自分で問い、各人が決めるべきものとなってきている。」
このラーナーの立場をピーター・L・バーガーは「包括主義」と呼んでいる。近代化の強い力、都市化、人口移動などがもたらした宗教の多様性に対する一つの考え方である。
私はこの考え方に同感を覚え注目している。例えば、中国のキリスト教徒が礼拝しているのを見るとき、またイスラムの子供たちがコーランを中心に学んでいるのを見るとき、西側のキリスト教に接することなくまして改宗することなくそのまま暮らしていっても、彼らも幸せになり神の恵みを得られるにちがいない、と思うからである。
参考
古屋安雄「宗教の神学 その形成と課題」1986年
ピーター・L・バーガー「現代人はキリスト教を信じられるか 懐疑と信仰のはざまで」2009年
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サマリア人はユダヤ人から見れば異教徒と混血し、異教とユダヤ教を混合した信仰をもつとされ、差別されていました。
しかし、イエスは人種や宗教の違いを問題としませんでした。むしろ神の民のなかで最も聖い祭司やレビ人を罪ありとされました。
人としてみればどの宗派もどんぐりの背比べで、またどの宗教にも尊敬すべき立派な霊的な指導者がいます。イエスは既に道を指し示してくれていたと思います。
研究と信仰の視点を今後も培ってゆきたいと思います。
NJさんが所属する、モルモンはそうは考えていないようです。
モルモンでは、モルモンの会員に成り、モルモンしか持てない神権の権能により、モルモンの儀式を受け、モルモンの定めた戒めを守り、死ぬまでモルモンとして暮らすか、死後にモルモンに改宗するかしないと、昇栄出来ない。(幸福になれない)。
と教えています。
成長・発展してきたlds教会には、多様な教徒を寛容にも包含する幅が出てきたと思います。現にHHさんもNJもその恩恵(?)を受けているのでは?
多少の批判意見を持つ人を除外しないのは、モルモンが寛容で有るからとは思えません。
現に、ZOOさんは親族、教会指導者から圧力を加えられていますし、トゥゲザーさんも、ネットサイトで書いた内容について、地域の指導者に呼び出されて、削除するように圧力を受けました。
モルモンでは、教会に不都合な批判に関しては、組織的に排除しようとする傾向は今でもなくなって居ません。
NJさんが生き残っているのも、長年の経験で、越えてはいけない一線を越えないようにしているからじゃないですか。
それと、排除されないもう一つの原因は、地域の指導者の知識不足ですね。
教会にとって、何が問題なのかを、認識できていないだけです。
さらにもう一つは、年々減少する会員数を維持する為に、地域ユニットでは、出来るだけトラブルを避けたいので、微妙な問題には踏み込まない。
「会員数を維持できて、什分の一が入るのだから、ほっておいたほうがいい。」と言う思惑が有ると思いますけどね。
よく見てください。無名のキリスト教徒も「幸せになり、神の恵みを得られる」に違いないと表現しました。この文言に目くじらたてて反対するldsの神学者や指導者はいないでしょう。
lds教会に寛容な側面があるかないかは、人によってまた事柄によって感触が異なると思います。例えば進化論がBYU内において意外にも寛容な扱いを受けていること、同性愛についてハンツマン元駐中大使が教会から排除されていない、などの面もあります。
私が生き延びているのは余命幾ばくもないから!??もう静かにしている。(排除されないもうひとつの理由 [笑])。
それは、寛容なんじゃなくて、「いい加減」だからじゃないですか?
つまり、教義が定まっていない。
預言者や指導者の都合でどうにでもなる、からだと思いますけどね・・・。
そもそも、モルモンの教義やモルモン神学に造詣のある人は預言者には成らない・・・。
結構、しんどいプレッシャーを感じました。
NJさん、豚さんの暖かい励ましで、なんとかやっております。
ただ、真実を語っている、というのは限りない力を持っていると思います。
なぜならちょっと回りをみると助けを必要としている人がたくさんいて、教会の召しでも受けようものなら、隣人に奉仕する機会を失うことになってしまうからです。
「日曜日に助けを必要としている人が、いるのに見過ごして教会に行くどころじゃないと思うのですが」とステーク会長に言ったことが、ありますが
「いくら隣人に奉仕しても、あなたは神権を使っていない」
と、いわれました。
それでも、私は自分の良心に従いたいと思います。
できるはずなのに内向きになっているように思えてなりません。(大きな災害にはよい働きが見えますが各ローカルのユニットにおいて内向き一辺倒のようです。中国では社会に役立たねばと常に説教が聞こえています。それは教会の役割のひとつだと思います。)