心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
(本来)心にこだわりはない、
こだわりが無い故に恐怖がなく、一切の顚倒した夢想を遠ざけることが出来る
私のような凡人には量子力学で行われている数学的な論証は皆目わかりません。
なぜわからないのか。その理由は簡単です。数式が読めないからです。
ではもし、私がよく勉強して、相当に優秀な人間だったら量子力学でノーベル賞でも取れる人間になったでしょうか。
もちろん否と言うしかありません。
それはつまり、数式を理解するという問題とは全く別の要素、その人の持っているトータルな意識と直観力、宇宙を洞察する理解力が必要とされるからです。
量子力学の歴史を見るとそれがよく分かります。
量子力学は世界を変える様々な公式を生み出してきました。しかしそれはその数式そのものに実在性があるのではありません。それは実際の宇宙を説明し、その在り様を指し示すための言語でしかないのです。つまりそれを実証するためには、自然の振る舞いを観察することが理論の完成には不可欠なのです。
ところが、量子力学にあっては、この自然の振る舞いに悩まされ続けてきたのです。まるで自然の方が、完全な理論の枠に納められるのを嫌がっているようにさえ見えるのです。
一方不完全なままでも量子力学は実際に、自然に対してうまく適応しているのも事実です。最近では量子コンピューターがありますし、大戦中には原爆も生み出しました。
良くも悪くも、強大な力を自然の中から導き出している事実。それは何なのかと考えてみれば、科学者がミクロのスケールに気付き始めたということでしょう。人間の認識する世界では無に等しい素粒子の世界に、すべての本質が詰まっている。
ミクロの世界に目をやることで、科学は自然の摂理の底に達しているのかもしれません。
その本質、あるいは自然の摂理のどん底を見抜く力を最も必要としているのは、何よりも量子力学に他ならないのです。
量子力学でノーベル賞を取るためには、量子力学で必要な言語(数式)を理解し自由に使えるということだけでは足りないということです。
必要なのは宇宙に対する深い洞察力。そしてそれを発展させるイメージ力と創造でしょう。何より宇宙と直観でつながる意識が大切なのです。直観からやってくるものには科学を越えた「何か」があり、その「何か」が新たな自然の営みの理解につながって行く。そして何より、この「何か」が、やがて般若心経にもつながって行く可能性があるのです。そう思えることがこの記事を書きはじめた発端なのですが、これは次回に譲りたいと思います。
さてそう考えると、有名なアインシュタインとボーア論争の意味がいくらか凡人にも分かるようになります。
それは次のような理由なのです。
「神はサイコロを振らない」という有名な言葉を残したアインシュタインは、論理(言葉)によってすべての宇宙は言い表せるはずだという信念の人でした。厳密な科学思考を積み上げてきた理論に曖昧さがあってはならないというのです。
それに対してボーアは、宇宙は言葉で言い尽くせないと主張します。理解できない自然の現象があれば、まずそれを受け入れ、それに適合する新しい論理を考えるしかない。ということなのでしょう。
二人の論争は、宇宙に対する解釈の違いでした。古い解釈を守るのか、新しい解釈に進むのかという戦いです。
そこで私達が知りたいのは。この「解釈」とは何なのかということです。
辞書を調べると、解釈とは、㋑自然の営みを、 ㋺人間の立場から ㋩説明する という意味だと分かります。
ところで二人の論争は、量子の世界で起こりました。ミクロの世界のことです。そこで観る風景は、常識では理解できない世界だったのです。
たとえばこんな実験です。
①一個の光子を向かいのスクリーンに飛ばすと、感光して一つの点が現れます。何度試してもスクリーンには一つの点しか現れません。私達には分かりやすい常識です。
②今度は、その中間に、2本並んだスリット穴のある仕切り板を置いてみます。すると、驚いたことに、スクリーンに到達する光はスリットの数だけ、つまり二つの点が現れたのです。(光子はどこで分裂した!?)しかもその二つの点は実験を何度やっても一致することなく、てんでバラバラに記録されます。1つの光子は二つの穴を同時に通り抜け狂ったようにスクリーンに到達しているのです。いったいこれは何なのでしょうか。
③さらにこの観測を何百、何千回と続けますと、スクリーンを感光させる光の点は点描画のように見事な波模様を描くのです。予測不能の光の振る舞いですが、巨視的に観れば一つの目的(波)のために動いていると分かったのです。
①の場合は光の動きは完全に予測出来ますが、②の場合には、光がスリットを通るとスクリーンのどこを感光させるのか全く予想できません。しかし結果としてスクリーンには波の点描画が出来上がるのです。
この自然現象は常識の根本を揺るがしました。物質(光子)は波だと言わざるを得ないのです。
発射された光の粒はスクリーンのどこに行くのか。光の振る舞いは、ただ確率と言う曖昧さで理解する以外に方法が見つかりませんでした。
ボーアは、その自然の振る舞いを受け入れた。つまりその背景には科学万能主義からの撤退があった訳です。確率という曖昧さがあって初めて、自然は豊かな姿を見せてくれる。と考えたのでしょう。
アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言い張ったのは、まさに人間が初めてみるこの風景に対する、ボーアの立場に対してだったのです。
先の解釈の意味から考えると、
㋑常識では理解できない光の振る舞いに対して
㋺(ボ)人は自然を知り得ない ⇔ (ア)自然を完全に記述できる
㋩(ボ)確率で説明する ⇔(ア)隠された変数で説明できる。まだ見つかっていないだけ。
というように理解できます。
自然科学の歩んできた歴史は、ガリレオの宗教裁判に象徴されるように、心を扱う宗教との対極にありました。
心は曖昧模糊としており、ある人は赤と言っても、別の人は黒と言って成り立っている世界です。てんでバラバラの心象に求心力を与えて救済しようというのが宗教であった訳ですが、
科学はまさにそのあいまいな「心」を捨てて、見たままの自然を記述する方法で探求を進めてきました。そしてこの方法が自然を利用するために役立ちました。豊かな文明が生み出され、科学は大成功をおさめてきたのです。
教会もその成果を認めざるを得なくなりました。何世紀も経て教会はガリレオの無罪を言い渡しました。いったいどんな補償をしたのか知りませんが・・・。
もちろん、アインシュタインを教会と同じと言っているのではありません。次元の違う話です。
そんな科学が直面した事態が、人類がまだ見たことの無い世界の姿だったわけです。
心の現象を捨象することで進歩してきた科学ではありました。しかしその科学が直面した風景と言うのが、こともあろうか、不確かな「心」がかかわってくる世界だったのです。
実際に手に取ったり目で見ることの出来ないミクロの世界。
そこでは「観測」によってでしか実証できないのが量子力学の研究です。そしてその「観測」そのものが実は「心」であるということにようやく気付かされることになったのですね。
一粒の光が飛んでいる光景を観測するためには、観測するための光を照射して見るしかありません。
たとえばビリヤードの赤玉がサイドポケットに向かって転がっていると考えてみましょう。
私達のスケール(自分を1とする世界)では一目でそれを観測することが出来ます。それは観測に使う光を赤玉に照射しても赤玉に与える影響は無に等しいからです。
しかし量子力学のスケール(粒子を1とする世界)では、赤玉は一粒の光子と考えられます。するとこれを観測するために使う光子とは白玉に該当しますね。これを観測するためには白玉を赤玉に当てるしかない訳ですから事態は分かりますよね。
観測した瞬間、つまり白玉が赤玉に衝突した瞬間、その観測自体が赤玉の進路を変えてしまうのです。ありのままの自然を観測することは不可能だという驚きの世界に私達は直面したのです。
観測自体が自然を変えている。つまり知ろうとした(心の働きが実験を行い)そのことが、世界を変えてしまうのです。これが量子力学の行き着いた宇宙だったのです。
「サイコロ=心」
そう考えてみると、アインシュタインとボーアの論争の核心がさらによく分かります。ガリレオから続く科学の旗手アインシュタインに対して、心を科学に取り込みながら進もうとしたボーアの論争です。
これは自然に対する解釈の問題なのです、私達人間が自然に対する立場をどうとるのか。つまり自然は(可知)か(不可知か)の論争であり、それがいかに熱いものだったのかは、この直面した問題の大きさを思えば容易に想像できるのではないでしょうか。
対極にある宗教と科学という歴史は、たとえて言えば富士山を静岡県側と山梨県側から登るようなもので、互いに真摯に登りつめて行けばやがて山頂で一つの道になる。共に御来光を眺める日が来ると信じていいような気がするのです。
おそらく、「般若心経」はこの二つの道を繋ぐ重要なカギを持っているのです。
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
究竟涅槃・・・・
(以下参考記事)
(現在連載中 量子力学を考える)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)9 量子力学との合流1
(般若心経をどう理解するか)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)1
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)2
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)3
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)4
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)5
般若心経を読み解く? 五次元的解釈)6
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)7 一部加筆
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)8 追補
(以下は数回分をまとめた長文です)
しかしそのお考えが、
「仏教に媚を売っているようにしか見えません。」にどうつながるのかが難問ですね。
「人であればそれでいい」=「仏教に媚を売っている」?
「般若心経」=「仏教」と考えられているのかな?
あるいは私の使っている「人」を一つの言葉のレベルだけで捉えられているのかな?
先のコメントで私の使った「人」という言葉は時に応じて違います。同じ言葉でも意味が違うのです。が、ZIP様の心に「人」の深い意味が再現されなかったのであれば、私の表現の未熟ですね。
コメント頂いた私の心の反応です。
いろいろ考えさせられま^す^
人なんていう人物は何処にもいません。
ある個人を社会から切り離して人として抽出すれば平均的・常識的な人以下な、人ではないものにしかなりません。
個人からその生活歴や関係性を取り除いて人以下なものとして描くわけではないはずです。
人と同じではないもの、人とは違うものを描くとはその様なことではないでしょうか。
平均的・常識的・一般的な人といった通念とは違う、画家というとおり一遍なものでも括れない、著しく具体的な北藪和として描くのではないでしょうか。
人であればそれでいい・・・
仏教に媚を売っているようにしか見えません。
失礼なのは私の方も同じです。
礼よりも、本質でいいのではないでしょうか。
互いに姿は見えません。文字だけの交流です。私の益があったように、ZIP様にも何らかの益があったことを願っております。
ありがとうございました。
仰るように、和尚様の薫陶以来私の重心はその、「人」に立ち帰るという意識が強まりました。
それが自分にとって本当の絵に出会う道なのだと理解したのです。
そして、「カップリングとしては最悪であり、不健全に思えます。」の御意見ですが、不健全についてはどう思っていただいていいのですが、お伝えしたいのは最悪のカップリングだからこそ探求の意味があるということを何度も文面に書いております。
つまり、ZIP様のお考え通り、物理学と般若心経は相いれません。しかしそのさらに奥に目をやってほしいのです。その奥には真逆の進み方をするベクトルが互いに重なる点がある。なぜならどちらも人がやっている事なんです。
真逆だからこそ、ミスマッチだからこそ、重なる点は論理的にただ一点しかない。すなわち、この命。人の本質がそこに浮き上がってくるということです。
最悪のカップリングでなければ見えてこないもの、それがまさに中動態の姿ではないのですか。ZIP様には分かって頂けると思ったのですが。
人の数だけ道がある。それをすべて集めて交わる一点を見極めると、芸術も科学も宗教も哲学も、人の業であるという本質があるのです。
私の絵は、この本質に迫る探求の風景画だと自分では思っています。
ZIP様の言われる具体とは何でしょう。
話はそれますが、私の絵の師匠は、具体と呼ばれた有名な芸術運動に参加した一人でした。
人のやったことのない道を進め。人の真似をするな。究極自分の真似もしてはいけない。そこに芸術があると教えてくれました。それが具体(具体美術)なのです。
人と同じことをやっていても、枠の中だけで考えていても、自分の本質は見えてこない。私が受けた具体の教えです。
同時に、和尚様の薫陶がその教えの意味の深さを知らしめる喝となった訳です。
おかしな方向に進んでいるという感想は私には嬉しいです。とりあえず進んでいるんだと。
ZIP様、
己を認めると、ミスマッチの思考方法が毛ほどの違いにも見えなくなるのです。自分の中の素粒子の一粒一粒がこれでいいと合唱しているような至福感の中に止まる時間が、わずか数分でも体験できるのです。言葉では味わえないのです。言葉を食べなければその味は分かりません。
人であればいいと。
あえて失礼なことを承知の上で言いました。
これ以上コメントはもうしません。
果たしてこれが画家として通らねばならない道なのかどうかが疑問に思えるわけです。
物理学は心を排除し、心のことなどお構いないしに、とことん徹底的にやるからこそ醍醐味があるわけです。
心が納得することを厳に慎まなければ続けることは出来ないはずです。
その一方で、般若心経は言葉によって言葉を排除し否定することで、心に起きる説明原理を示す為のものですから、心が如何に錯覚に陥りやすいかを説明しているわけです。
拡張検出器によってでしか把握されない対象であり、感覚を伴うものではないものに対して、
そこにわざわざあえて心をかませる必要などあるのでしょうか?
カップリングとしては最悪であり、不健全に思えます。
具体からは大きく外れていると思います。
設定不良は正しいですが
設定不良でない言葉はあるのですか?
大事なのは言外にある気付きではありませんか?
はっきり言って設定不良です。
やめた方がいいです。
余計なことは承知でコメントしてます。
私が対象にしているのはネクローシス的なことではなく
アポトーシス的なことです。
人々が、自分も含めてですがなぜ死だけが特別に取り上げられるのか、それは死を苦ととらえるからです。
明日死ぬと思ったら、ZIP様は未来のために努力しますか?
今よりさらに良く生きても何にもならない。意味ない、もう死ぬんだ。
そう思うのが一般の傾向で、それが死に対する苦というものでしょう。
自分が死なないのではなく、死ぬ自分はいないのだということです。
再度お聞きします。
マクスウェルの悪魔についてのZIP様の理解をお聞きしたいのです。
よろしくお願いします。
だれも成長しようとは思わないでしょう。
もし自分が死なないとしたら
今より更に、より良く生きようとは思わないでしょう。
「心だけでも本能だけでも上手くいかないことはありますよ。」
この真意も分かりません。「なに」がうまくいく・いかないの話をされているのか、つかめません。
内容が見えないのです。
ただ観測する観測者が混乱の渦中に居ることに気付かずに観測するわけですから、心というより本能といった方がいいと思ったまでのことです。
光の二重スリットの話しの他にもマクスウェルの悪魔も例えとしては悪くはないでしょう。
心だけでも本能だけでも上手くいかないことはありますよ。
「死」がどのようにあなたを突き動かしているのか、議論をする上では説明不足ですね。理解できるように話をして頂きたいのです。
「何故「囚われた心」としてのしてんてんさんに認識されるのかがさっぱりわかりません。」
というより、なぜ伝わらないのかと考えるのが私達の会話の命ですよ。
あなたは相手に多大な期待をされているのでしょうか。すべて分かってもらえると思っていては、対話の技術は上がりません。
これが自分を成長させる機運とならなければ意味はないでしょう。
「私にとって死は忌み嫌うものではありません。」
当然私は一度もそんなことを感じたことはありません。ZIP様は命を大切にしておられるし、人を思いやる心もお持ちだと感じております。死に対する偏見も私には感じらせません。
ですが、
「私はこの宇宙と生命の運動を心とのつながりで理解したいと思うからですが、ZIP様を突き動かしているものは何なのでしょうか。」
という私の質問に対して、
「死です。」という唐突なたった一言のお返事は衝撃的でした。
これを説明不足と申し上げているのです。
ご自分の頭の中では完全に整合性がとれていると思っても、凡人の私にはとてもそれを見ぬく力はありません。
怒らないでくださいよ。私はZIP様を非難しているのではありません。出来るだけ理解し合いたいだけのです。
ついでに言えば、ZIP様は私の問いかけに正面から答えてくれません。それは棚上げにして新しい言葉を投げかけてくれるのです。どうかこの討論を読み返して、その部分を見てください。
たとえば、本能ということから心に切り替わったと思える私の疑問に対しては、私は相変わらず疑問のままです。
対話というのは、そう言った互いの齟齬を少しずつ解いて行くのが大事ではないでしょうか。
私はこうして会話して頂けることに感謝しております。ZIP様にはたくさんの言葉を頂きました。中でも中道態という言葉は私を大きく成長させてくれました。
だからZIP様には、さらなる深みに進んでいただきたいと願うばかりなのです。
私にとって死は忌み嫌うものではありません。
この世に心以外のことが分かるものはいないでしょう。
ここにきて、私はこの一連のお話が始まったZIP様の第一声を取り上げたいです。
「心というよりむしろ「本能」ではないでしょうか。」
ZIP様の、心を避けた提言から始まったのですよ。
本能ととらえれば、必然宇宙の原理に行き着くでしょう。しかしそれでは心の複雑な動きや感情などがとらえにくくなります。宇宙の原理の上に心はあるのですから。
故に私は、どこにZIP様に「本能」と言わせる考え方があるのか興味を持ったわけです。
どの時点で、本能から心に思いが移られたのですか。私はそこが知りたいのです。
私にとっては、嬉しい変化ですが、しかしこのままではZIP様の迷走にしか見えません。
とはいえ、心を意識して語るならば、死は心がつくり出した幻想だということが分かりますよね。幻想は死だけではありません。生もそうです。般若心経の・不生不滅・不垢不浄・不増不減は、これらが幻想だと言っているのは有名な話ですね。
心を語るなら、なおさら「死」だけを意識にとらえるのは囚われだと思われませんか。
自己意識について語っているのです。
心のことです。
昨日は暑さを楽しみ過ぎて、PCに向かうのをお休みしておりました。
深いお話をありがとうございます。
前半は概ね同感ですね。あなたの理解されている世界と、私の想いにどれだけの隔たりがあるのかは永遠に分かりませんが、感覚でそれは伝わると思っております。
互いの認識はその感覚を通して宇宙のカオスに通じていますから。
(認識が宇宙と繋がっているのを知りたかったら、たとえばコップという認識から考えられる知識を引き算していけば分かります。これ以上引きようのない知に行き着いたら、最後に意識だけが残ります)
確かに死は「原理として無くてはならない基礎的な条件または要素」というのは分かります。ただもう一歩掘り下げて考えてみてください。
宇宙の原理はそれだけでは動かないということです。原理を考えるなら、すべての要素を見て、その要素がどのように縁を結びながら一つになっているのかを理解しなければなりません。見るべきはその一なるもの=自分(これ以外知り得ない)なのですね。
つまり一条件・要素だけに目を奪われて思考を組み立てたら、私だったら、それはどんな場合でも囚われと自戒します。
生きているのです。
この原理は意識、無意識、前意識を統合しつつ外部環境からの情報を処理することが可能であると同時に、常に感覚を伴いながら自らをも拘束するというわけです。
囚われるという言い方より、原理として無くてはならない基礎的な条件または要素ではないかと思いますが。
死に意識を向けているというのは、心の囚われです。
(改めて追記いたしました。)
なぜこの会話が成立しているのでしょう?
私はこの宇宙と生命の運動を心とのつながりで理解したいと思うからですが、ZIP様を突き動かしているものは何なのでしょうか。
私はそれが知りたいです^ね^
生命は宇宙でなければ存在できません。
そのカオスにおいて合成された条件によって、私とのしてんてんさんが138億年かけてやっとこうして話しができるわけです。
このやりとりは言葉の問題なので、ひとつ一つ咀嚼する必要があるのですが、「死ぬのはあくまで個体です。」に私は否と反応しました。
死ぬのは個体ではなく、個体を引き付ける「縁」ではないでしょうか。縁の生成消滅が不増不減と整合性が取れるためには、「波」以外に答えは無いように思えるのです。
縁は科学的に言えば4つの力。
個体が死ぬと考えるのは、般若心経でも量子力学でもあり得ないと思いますね。
生死という秩序によって生命が保たれているわけです。
死ぬのはあくまで個体です。
これはとてもいい勉強になりました。ありがとうございます。
俗なことわざで申し訳ありませんが、灯台下暗しですね。それが認識の構造そのものですから、当然の結果ですね。
知りえないものを意識する。
己を知るということの究極がここに在ると思うのです。
知る対象(客体)ではなく、認識主体そのものの話しなのですから。
そんな者に語る資格はないと言われればそれまでですが、
量子力学進んでいる道は、アトミズムではありません。
そして般若心経もまた同じだと思います。
つまりどちらも、アトミズムには拘っていないというのが、私の理解です。
それがアモルファス的なのかは私には分かりません。
良かったら、それは何なのかを教えて頂けないでしょうか。
検索では無結晶という言葉がひっかかってきましたが、うまく理解できないのです。
よろしくお願いします。
「身体」は望みもしなければ知らないうちに苦もくっついてくるものです。
死よりもはるかに絶対的優先性の中に身を置いている人間の規定の根拠それ自体は知る対象にはならないわけです。
説明原理的に言ってアトミズムというよりアモルファス的な方向性が望ましいと思います。
ZIP様の「知らないからではなく知る必要がないということです。」
は二つの要素がくっついていて私にはよく分かりません。
「知らないから」というのは説明原理の働く根本にあって、すでに知の欲が生まれた結果、心に生まれる認識です。
「知る必要はない」はそれに対する答え、あるいは救いであって、つまり上の言葉は入り口と出口をくっ付けただけだと私には思えるのです。
正しいとは思いますが、問題はそのトンネルの中なのです。
赤ん坊を思い描いてください。
嬰児の本能がある日、自分を知るんです。自分と他分を知る。知る必要が無いのに「知る」。
望みもしないのに知る。知らないうちに「何?」という問いかけが生まれて「知」の欲に動かされる。
これは本能ですか?妄想ですか?
説明原理はなぜ、こうも自然に生まれてくるのか。当然苦もひっついてくる。
このトンネルの中を照らそうとしているのが般若心経だと私は思っています。
知らないからではなく知る必要がないということです。
4時に目覚めまして、外は見事に透明な空でした。半月と☆がきれいでした。もう白み始めましたが。
月は半分に見えますが、見えない部分も存在している。
全体を知っているから、説明原理は動きません。安心して半分の月を鑑賞してその美しさを安心して喜べるのですね。
改めてそんなことを考えました。
「自然は何か大きなことを成し遂げるための目的因などは持たないはずです。」
これもまた説明原理の働きですね。なぜなら、私達はそれを知らないからです。「知らない」→「何故・何?」と動いて行く。説明原理はここに在ると私は思うのですが、ZIP様はどう思われますか。
この思考の流れは自然に起こります。得体の知れないものを前にして、何も思わないで観ていられるのは赤ん坊の時代だけですよね。
「自然は目的因を持たない」のはその目的が必要ないからだとも考えられますね。
自然は何か大きなことを成し遂げるための目的因などは持たないはずです。
不思議ですが、説明原理は確かに存在します。これを否定することは出来ませんね。
では、安定同位体素粒子が、説明原理を生み出しているのかもしれませんね。そう考えてもいいかもしれない。
これを本能という言葉で片付けても解決しないのであれば。
もしかしたら、心(説明原理)は無駄なものではないのかもしれない。
それは素粒子の属性とは考えられないでしょうか。
生きているというこの感覚自体が、我という意識を生む。一見無駄と思える振る舞いが、実は何か大きなものを成し遂げるための、素粒子の必然的な振る舞いだと考えたら、どうでしょう。
光の実験で、部分を見たらデタラメな観察結果にもかかわらず、結果として波の振る舞いをしていたように。
この考えはいかがですか。
このお考えには、私もまったく同感です。
言葉としては、「創る」とは無いものから在るものをつくりだす(因果)という意味があり、「在る」とは因果なく存在しているもの。と大きな違いますが、
その言葉自体が、説明原理によって動いているものですからね。誤差なしの思いがあります。なんだか距離が近づいた気がしま^す^
般若心経もまた説明原理ですよね。
ではこの説明原理とは何だと思われますか?
人間が本能として創出するものと言われますが、それは何だと思われますか。
中動態で動かなければいいのに、なぜ本能はこんな無駄なものを生み出すのでしょう。
ZIP様のお考えにとても興味を持ってしまいます。
良かったらお付き合いください。
事物の側に在ると思って自分が創りだしている特性が即ち説明原理というわけですから。
だから科学と相性がいいのだと思うのですがいかがですか。
なぜ「Hypotheses non fingo」が
創ることになるのでしょうか。
「創る」と「有る」では大きな違いがあるようにも思われますが、ZIP様はどうお考えですか。
説明原理は人が本能として創出するものです。
創ることは「Hypotheses non fingo」というわけです。
それよりZIP様、
私はZIP様の言われる「本能」について知りたいです。
たとえば、
本能とは宇宙の摂理そのものなのか
あるいは人間固有の本質なのか。
心とは本能が生み出す妄想なのか
あるいは宇宙の波動そのものなのか。
私達に必要なのは、言葉に潜む意味なので、そしてその意味こそがZIP様そのものですから、お話頂ければ嬉しいです。