
父と娘
バックルパーは台所のテーブルにぼんやり座っていた。仕事がはかどらなくて、夕食の準備でもしようと台所に入ってみたが、何をする考えも浮かばないままテーブルに向かって頬杖をついたきり動けなくなっていたのだ。
喪が明けて学校に出るようになって、エミーはどうやら元の明るさを取り戻したようだ。友達がエミーを救ってくれた。バックルパーはホッとため息をついた。エミーの事は心配ないだろう。しかし、とバックルパーは考え込んだ。
俺には一体何があるのだ。ユングもヅウワンも逝ってしまった。桶を作って地べたにへばり付いている理由をどこにも見つけられなかった。海に出たい。バックルパーの塞がれた心が晴れるとすれば、それは海の上にしかないようにも思われた。しかし、今となってはそんな思いもやるせない空想に過ぎなかった。
「ただいま。」エミーが台所に入って来た。
「お帰り。早かったな。」
「うん、カルパコにここまで送ってもらったの。」
「仲がよくてうらやましいね。」
「まあっ、バックたら。」
「さあ、これからご飯を作るよ。」
「またヤクの干し肉でしょう。」
「あれはうまいんだ。それに栄養がある。」
「ねえ、バック今日は外で食べましょうよ。私のおごりよ。ほら、五百ルー。」
「どうしたんだ、そんな大金。」
「今日ね、広場で喉自慢大会があってね、私が優勝しちゃったのよ。」
「それはたいしたもんだ。エミーやるじゃないか。」
「私もびっくりしちゃったわ。でもほら、夢じゃないのよ。審査委員長はサンロットだったの。」
「ひいき目じゃないだろうな。」
「そんな、実力です。」
「そりゃそうだ、ヅウワンの子だからな。おめでとうエミー。」バックルパーは笑顔で応えたが、心は暗く沈んだままだった。
「ありがとうバック。でも、嬉しそうじゃないんだね。」エミーはそんなバックルパーの心を感じ取った。
「そんなことないさ、嬉しいよ、エミーが歌で優勝するなんてさ。」
「バック、私、自分の悲しみの事ばかり考えて、バックの悲しみを考えていなかったのね。ごめんなさい、バック。」エミーはバックルパーに抱きついた。
「考え過ぎだよ、エミー。」
「でも、バックが一番淋しいのに、私、自分の事ばかり言って、」
「いいんだよエミー。大人は自分で乗り越えて行くしかないんだよ。それよりご馳走してくれるんだろ。」
「ねえバック、母さんとの思い出の店があったら、そこに連れて行って。」
「分かった。じゃあ、用意をしよう。お前も着替えなさい。」
二人は新しい服を着込んで出掛けた。バックルパーは馬車を呼んでサンパスの港町にエミーを連れて行った。
エミーには初めての町だった。どことなく異国の雰囲気がする町だった。潮の匂いがかすかに漂って来て、エミーは日常とは違った新鮮な感覚に緊張気味だった。時々建物と建物の間から海が見えた。やがて小さな公園があって、そこから広々とした海が見渡せた。バックルパーはエミーを横に感じて、しばらくの間、青い海の広がりに心を遊ばせた。
「海っていいね。」エミーが言った。
「父さんはこの海で育ったようなものだ。小さな子供のころからヅウワンに巡り会うまで、ずっと船の上だった。」
「海は広いのでしょうね。」
「海の向こうにはいくつも大きな国がある。人間だっていろんな人種がいるんだ。言葉も町も数え切れないほどあるんだよ。」
「へーっ」
「そんないくつもの世界がこの海とつながっているんだよ。船があればどんなところだって自由に行くことが出来るんだ。」
「バックはたくさんの国を見て回ったんだね。」
「そうさ。」
「すごいね、エミーも行ってみたい。」
「いつか、父さんもそれを夢見ることがある。」バックルパーは遠く海を見つめながら言った。
「バックの夢か。」エミーは何か考えようとしたが、深い考えは浮かんで来なかった。
「さあ、行こうか。」バックルパーはそう言って歩き始めた。
しばらく歩いて、バックルパーは一軒の古そうな店に入った。ドアを開けると中央の右寄りに長いカウンターがあって、そのカウンターの奥にはたくさんのボトルが棚に並べられていた。よく肥えた店長がナプキンでグラスを拭いていた。
「いらっしゃい。」店長は無愛想に客を迎え入れた。
カウンターの前には二人づれの客が三組、等間隔に座ってグラスを傾けていた。カウンターを離れてテーブルがいくつも並んでいた。そこは主にランチやディナーメニューのために設けられたスペースのようだった。テーブルクロスが掛けられ、テーブルの中央には細長い花瓶に花が一輪いけられていた。バックルパーとエミーはそんな中の、小さめのテーブルを選んで座った。ほどなくウエイターが注文を取りに来て、バックルパーはメニューを見ながらディナーを注文した。二人はようやくテーブルに落ち着くことが出来た。
「この店は初めてヅウワンと出会った所だよ。中のものはかなり変わってしまったけれどね。でも、あのカウンターはそのままだ。それにカウンターの隣の奥に小さなステージがあるだろう。」
「ええ。」バックルパーが顎で示したその先に小さなサークルがあって、その横にパンコルが一台置かれていた。朱塗りの楽器で、細長い胴体にいくつもの鍵盤と空気袋がついている。空気袋を圧すと音色が変わるセブズーでは滅多に見られない外来の楽器だった。
「あのころあんなパンコルはなかったように思うが、ちょうどあの位置にやっぱりステージがあったんだ。」
「あそこで母さんは歌っていたの?」
「そうさ。」
「きれいだった?」
「ああ、とってもきれいだった。ヅウワンのファンがたくさんいてね、ヅウワンがステージに上がる日には、ステージの前のテーブルによそ者が座れるような場所はなかった。」
「バックはその時、どうしてここに来たの。」
「大きな商船に乗っていてね、この港に着いた日だった。陸に上がって、酒を飲もうとやって来た訳さ。俺達はあんな感じでカウンターに座って、ユングと二人でウオッカーをチビリチビやってたんだ。」バックルパーは顎を使ってカウンターに座っている客を差し示して言った。
「そこに母さんが来たのね。」
「そういう訳だ。ヅウワンの歌は素晴らしかった。長い海の上の生活に父さんの心はすさんでいたのかもしれない。まるでカラカラに乾いた土にたっぷりと水を掛けられたように心地よかった。歌なんていえば、船乗りの荒っぽい怒鳴り声ぐらいだったからね。ステージを見ると、お前のような、とびきりの美人だ。」
「なによバック。」エミーは気まずい笑いを漏らした。
「いや、本当だったんだ。俺は一瞬でヅウワンが好きになった。一目ぼれというやつだな。」
「それで言葉を交わしたの?」
「いや、とても近寄れる状態じゃなかった。俺とユングはただ自分を忘れてヅウワンに見とれ、歌に聞き入ったんだよ。」
「じゃあ、いつ?どうやって?」
「船は一月程港に停泊していたのでね、俺とユングはそれから毎日のように、この店にやって来た。」
「それで?」エミーはすっかりバックルパーの話に引き込まれていた。
「何日か、ただ端っこの方でヅウワンを見ているだけの日が続いたんだが、ある日、ちょっとした事件が起こったんだ。」
「事件?」
「そう、金持ちの嫌みなやつだったが、そいつが金をちらつかせてヅウワンに交際を迫っていたんだ。そいつはその日何人かの子分を引き連れてやって来て、座っている客を無理やり立たせて自分達は中央の一番前のテーブルを占領したんだ。そいつはこの町の有力者の息子で、だれも何も言わなかった。それをいいことに、ステージに立っているヅウワンに露骨に交際を迫った。ヅウワンが拒むと暴力的になって、それでも、周りの者は見て見ぬ振りをしていた。」
「それでバックが、」
「そう。こちらはユングと二人、向こうは五人、店の中は大乱闘になって、ユングは二人俺は三人倒してやったんだ。俺達もかなり怪我をした。」
「バックらしいわ。」
「ヅウワンは俺達二人を家に連れて行って、傷の手当をしてくれたんだ。その時初めてヅウワンと口をきいた。傷の痛さなんか吹っ飛んでいたよ。」
「そんなことがあったんだ。」エミーはため息をついた。
「さあ、冷めないうちに食べようぜ。」
バックルパーの長い話の間に、ディナーはテーブルにそろっていた。久しぶりのご馳走だった。テーブルの上にはサンパス独特のシーフードが並んでいた。中でも赤いごつごつした甲良を立ち割ったセミエビの姿焼きがバックルパーの好物だった。そんな懐かしい料理を前にして、バックルパーは少し心が軽くなったように思った。おいしそうに食べているエミーの姿を見て、バックルパーはヅウワンの面影と重ね合わせるようにその頃の感覚を思い起こしていた。
ヅウワンと二人で、仕事の間合いにこうしてよく食事をした。サンパスは山の幸も豊富だったが、バックルパーは山菜がどうしても馴染めなかった。食事が終わると必ずバックルパーの皿には山菜が残されていた。
ヅウワンはどんな料理でもおいしそうに食べていた。どうして食べないのというヅウワンに、どうしてそんな芸当が出来るのだとバックルパーが聞くと、食事も歌と同じなのとほほ笑みながら言った。どんなものでも味わいがあるからこの世に生まれて来ているのよ。ヅウワンは確かにそう言ったのだ。今から思えばたわいないヅウワンの冗談だったのかもしれない。しかしそのとき、バックルパーは激しい感動を覚えた。それは無骨な船乗りの自分に対するヅウワンの心そのもののように思えたのだ。バックルパーは息を止めて皿に残った山菜を口に入れた。繊維質の青臭い山菜が、噛むたびに味を変えてバックルパーに何かを語りかけて来るように思えた。そんなバックルパーを見て、ヅウワンは朗らかに笑ったのだ。その時バックルパーは陸に上がる決心をした。
ヅウワンが資産家の息子を袖にしたために、ヅウワンの父親はたいした理由もないのに資産家の職場から追放され職を失っていた。父親は資産家の馬車の御者として働いていたのだ。父親は次の働き口を見つけることが出来なかった。
バックルパーは自分の樽作りの技術を生かして生計を立て、ヅウワンの家を助けようと思い立ったのだ。
ヅウワンの父親は最後まで反対したが、やがてバックルパーの心根を受け入れた。思えばあの頃が一番幸せだったのかもしれない。バックルパーは一人、物思いにふけっていた。
「やっぱり、ヤクの干し肉よりいいわね。」エミーが言った。
「そうだな。エミーのお陰だよ。」
「いい食事だったわ。時々来たいわね。」
「そうしよう。俺も助かる。」
「それと、これからは料理は私が作るから。」
「本当かエミー。」
「もちろんよ。味は保証出来ないけど。」
「いやー、助かるよ。」
バックルパーは本当に喜んでいた。エミーはバックルパーのそんな姿を見て、なぜかヅウワンの心を感じていた。
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