
(のしてんてん「彼方へ」 F30号)
随分前の作品ですが、ちょっとした思い入れがあります。
心の奥の奥を求めて、描き続けていました。鉛筆の闇は、私の心を受け入れてくれる深さがあると感じて、突き進んでいた時代です。
しかしある時期から限界が見えてきました。描いても描いても、その深さに達しない。そのもどかしさが引き金でした。
実際、鉛筆の闇と言っても、キャンバスに鉛筆を埋め尽くせば、それ以上はないわけで、鉛筆に頼ればおのずと限界はくるものです。
その奥に行きたい。
そんな思いが高じてある日、仕上げた作品の奥を求めてキャンバスを切り裂きました。
けっしてヒステリックではありませんでしたが、自分の制御ができないまま、考えたことを実行にうつしたというのが一番真実に近いと思います。
その時私は、キャンバスを切っている自分の姿を見下ろしているような感覚の中にいました。まるで他人事のようにそれを見ていたような気がします。
しばらく傲然としたまま、私は作品と向かい合っていました。
これは作品なのか、放棄したごみなのか。そんな考えも頭の隅にありましたが、何より自分のしでかした意外さに驚いていたのでしょう。
やがて興奮が冷めると、これはフォンタナの真似ごとだと思い至り、結局お蔵入りにしたものです。
長いあいだ忘れていました。
それが最近になって、「たまごを立てる」という一連の記事を書いている最中に私の目に飛び込んできたのです。
フォンタナの真似ごとと考えて忘れていた自分の作品ですが、再び目にしてこれはたまごを立てることではないのかと思えたのです。
真実を求めて、キャンバスの上に絵を描きます。しかし描いても描いても、けっして真実に至ることはありません。どこまで行ってもそれはキャンバスの上に描いた絵なのですから。
では真実はどこに?
キャンバスを切ることで、絵という真実に似せかけたトリックが破られます。結局それを見破ることが真実なのですね。
たまごを立てるということは、キャンバスを切ることと同じだったのです。
それはフォンタナの真似ではないという思いにもつながりました。
キャンバスを切るということは、絵はつくられた幻想だという気付きなのです。
それはつまり私たちが自分自身と思っている意識と繋がります。苦悩や心配事の一切は、頭脳が描き出した幻想、キャンバスと同じなのです。幻想を切り裂いたら、その向こうに自立したたまごが現われる。
私の正体は、幻想を切り裂いた風景を見ている目ということになります。
日々の生活をおくっている自分がいる。
このとき真実は、自分ドラマの主人公を演じている自分を見つめている目の存在です。
たとえ主人公を演じている自分が真実だとしても、それを見つめる目がなければ自分は永遠に闇の中なのです。
それは5次元の考え方でいえば、空間であり、意識=神 ということになります。
イメージしてください。
主人公を演じている自分に意識を据える場合と、
その主人公を見ている目に意識を据える場合の違いを。
一方は自我の視点であり、
他方はそれを見ている目の持ち主、神という実在です。
その目に意識を寄せると、その背後に私たちは神の存在を意識することが出来ます。
自我を見つめているもの、それこそ真実であり、宇宙の1なる存在としてある、(空間=意識=神)と言えるのではないでしょうか。
ふぅ~む、よく分かりませんが、のしてんてんさんはそのように思ったのですね。
> 自我を見つめているもの、それこそ真実であり、宇宙の1なる存在としてある、(空間=意識=神)と言えるのではないでしょうか。
これも、iinaには難しすぎて、よく分かりません。
「神は存在するか❔」の末尾に、WEBでひろった算式を載せています。次の通りです。こちらも分かった気にさせますが、結局はよく分かりません。
我
─── = 空
神
神を基盤にした我など空しい。
我は神なりとすることは空しい。
自然
─── = 無
神
とても真摯な気持ちが伝わってきて嬉しいです。
「たまごを立てるということは、キャンバスを切ることと同じだったのです。」
はっきり言って、この飛躍を分かるはずはありませんよ^ね^
でも芸術家は発信し続ける。これが性というものなのでしょうか。もしこれがiina
様を悩ましているのなら申し訳ないことです。
紹介して頂いた数式は私にも分かりません。iina様が私の表現を分からないという同じ体験をしているのだと、ちょっと笑ってしまいまし^た^
「分からない」でいいのではないでしょうか。分からないもので覆われている私達人間ですから、結局最後に自分が納得できる何かに出逢えるのではないかと、私などは悠長に構えておりま^す^