大きさのない世界
大きさとは何か
そう問われると、言葉に窮します。とらえどころがないのですね。
私は絵を描きますが、キャンバスには様々な大きさがあります。
手に乗るサイズから両手をひろげても届かないサイズまで、手がけた枚数は倉庫一杯分。
不思議なことがあります。
手のひらサイズに描いた富士山も、大作の富士の絵も、絵の大小に関係なく見る私たちのイメージは同じ富士を見ているのです。それは絵から実際の富士を思い浮かべるからに違いありません。
ではこんな絵↓があって、このマルの大きさは?と聞かれたらどう答えます?
具体的な富士なら、大きさのイメージが出来ますが、何にも属さない〇の大きさをどうすればイメージ出来るでしょうか。
大きい丸は小さなまるの100倍は大きいと言えても、二つのまるがどれだけ大きいのかどう考えても分かりません。
逆にこれが、太陽と地球と言えばはっきりと大きさのイメージが生まれませんか。
それは原子核と電子と言っても同じことです。そう思ってみれば瞬間この絵はミクロの世界の大きさになりますね。
もう一つ不思議なことがあります。自分の身体の大きさはどれだけと言えないのです。
身長何センチと言いますが、もし身長計がなかったら?
馬より小さいと言いますが、もし馬がいなかったら?
ようするに自分以外何もない空間にいたら、自分の姿は先に見た、まるの絵と同じように手掛かりが何もなく、自分の大きさを知ることが出来ないのです。
私たちが持っている大きさの感覚というものは、実は自分と他を比較して得た感覚の集合体なのですね。
ですから、もし自分以外に他が存在しなかったら、自分の大きさは分からないし、もっと言えば自分というものを認識することも出来ないのです。
(スケールの話しには、こんな記事もあります。スケ―ル面白体験談 参考にしてください。)
スケールの概念は、ここから導かれます。
そもそも私たちには大きさはない。
自分の身体の大きさが分からないというのは、とても奇異に聞こえるかもしれませんが、実感することが出来ます。
目を瞑ってみてください。とたんに私たちは自分の大きさを失いますね。瞑想して感覚とイメージの中にいる「私」の大きさは誰にも分かりません。どこまでが境界なのかさえ分かりませんよね。それは体感しているすべてが自分であって、そこには他が存在しないからなのです。
分かって頂けるでしょうか、瞑想して体感する感覚のすべては、どこまで行っても自分ですよね。たとえ他者を思い浮かべていても、その思いは他者ではなく「私」そのものです。正確に言えば自分の作りだした他者というべきでしょう。瞑想空間に他人の入り込む余地はどこにもありませんよね。
もし目を開いて自分の身体が見えていたとしても、まわりが宇宙のような何もない空間に漂っていたとしたら、自分と比較するものが何もないために、この感覚と同じことが、起こるのです。
そんな私たちに大きさを与えているのが「私」を取り巻く他人と物に他なりません。他と比較して自分の大きさを知るという意味です。つまり大きさというのは、絶対的なものではなく相対的な意識が作りだしているということなのです。
言葉のあやで誤解を避けるために言っておきますと、絶対的な大きさが存在しないと言っているのではありません。私たちの身体は物質的に絶対的な大きさを持っているかもしれません。しかし私たちの認識はその絶対的な存在をとらえきれないのです。つまり相対的に他と比較して認識するしかない。そのことを言っているのですね。
そうすると私たちは逆に、意識的に自分の大きさを変えて世界を見ることが出来るのです。地球の大きさになったり、素粒子の大きさになったりしてそこから見える風景を想像する能力を持っているということです。
辟易するほど理屈ばかり書いてしまいましたが、ガリバー旅行記やミクロの決死圏など、文芸の世界では普通に受け入れられている感覚を文字にしただけの話しです。最近の映画でも、小さくなった主人公がアリに追いかけられる映像を見たことがあります。
理屈なしに私たちはすでにスケールの概念を受け入れているのです。
ところで以下は先日真鹿子さんから頂いたコメントの抜粋です
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そこでは私には万物を構成している素粒子の一粒一粒、
それぞれが、この宇宙と同様、95%以上不明未知領域の宇宙空間、
素粒子宇宙と感じられます。
このような素粒子宇宙、
無限数の摩訶不思議素粒子宇宙で構成されている私は、
大きさという概念を超えてしまいそうな大きさの
真鹿子摩訶不思議素粒子宇宙となり、
極微極小ちいさなちいさな真鹿子であると同時に、
永遠円相摩訶不思議奇跡宇宙になっています。
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まさにこのように、私たちは極大の大きさから世界を見たり、極小の大きさになって素粒子宇宙を体験することが出来るのですね。真鹿子さんの詩は、五次元の世界観に詩情が加味された風景が見えるようです。
スケールの概念はこのように私たちの意識の中に自然に身に着けているもので、それは時間の概念と同じように、古くから持ち合わせているものだったのです。ただあまりにも当たり前で気付かない能力だと言えるのかもしれません。
五次元の柱であるスケールの概念は、このようにして成り立つのです。
世界を認識しているこの私たちのことを、認識主体と呼びます。
この認識主体という言葉を使って、時間軸とスケール軸の違いを表しておきますと、
時間軸では認識主体は絶対不変(大きさが変わらない)で、時間と共に変化する仮想世界をつくりだすのに対して、
スケール軸は認識主体が変動してスケールの中を自由に動きながら実在の世界を認識する。ということが出来ます。
スケールの概念を使うと、私たちは自分に対してとても柔軟になります。今ある自分のイメージにとらわれないで、自由に宇宙を飛び回れるようになるのです。
極小の世界から極大の世界まで意識がつながって、私たちはもはやこれ以上行けない宇宙の果てにまで意識をひろげていくことが出来るようになるのです。
もちろんこれはイメージの話しで、実際の身体が伸び縮みするわけではありません。
しかしこのイメージが宇宙を丸ごと認識する力となるのです。
何ごとも原点にかえって考えょとは申しますが、常識を覆すような考えは相手の土俵に立たぬとものをいえません。
論点が異なりますが、同じ長さの物も、 <――-―> と >――-―< では違って見える錯視みたいなものです。
拙宅では、いままでにそんな錯視を扱ってきました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/dfd15d8ae09a1992ab53978263ee9458
> 宇宙を知るというのも人間の認識で、・・・
宇宙の全体像は、見ることは不可能ですから専門家が示してくれたものを鵜呑みにしているだけです。
気持ちの中の宇宙は、人により千差万別です。
iinaの当該ブログ記事のアドレスをコメント上のURLに置きました。
錯視は私も大好きで、エッシャーの絵に一時期ハマったことがあります。ご紹介の最初の動画のように、エッシャーの水路を立体で見せている画像も見たことがあります。
本当に常識を覆すことは、ドキッとしてそして面白いですね。
>気持ちの中の宇宙は、人により千差万別です。
まったく同感です。
その上で、共通に語れる気持ちの宇宙をこれまでずっと探してきました。
気持の宇宙にも、誰にでも流れている通奏低音みたいなものは無いのでしょうか^ね^
夜が来たら闇が来る。
これぐらいは共通の宇宙観かなとも思えるのですが、待て待て、朝が来ても闇のひとにとって、夜が来たら闇になるなんて言うと一笑に付されますねぇ
心の宇宙難しい。
さりとて人間、心を通してしか宇宙を観れない。やっぱ数学か。
でも数学とて心・・・
ここが議論の分かれるところでしょう^か^